守ってあげたい、この世の災難の全てから遠ざけて、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたい。
たしかに、昔の恋でそういう想いをいだいた相手もいた。だが、いまレイヴンが懸想しているのは、そんなことを願うような相手ではなかった。
いくらいとしいと、そして、そばにいて欲しいと思えど、彼ほどに守ってあげたいという言葉が似合わない人間はいないだろう。
剣を握り魔物を蹴散らし、恐ろしいまでの強引さで運命だかなんだか分からないものをねじ伏せていく姿は、
庇護欲をそそるというよりも、男として嫉妬するほどの強さがあった。
だからもしも、レイヴンが彼に対して、守ってやりたいんだなんて言葉にしたとしたら、彼はわけがわからないと首を傾げた後に、
気持ち悪いこと言うんじゃねえよと、一応の恋人(この表現さえも寒いといわれそうだ)に言うにしては冷たく空しい台詞を投げつけてくれることだろう。
それくらいに、彼が愛する人は強く逞しく庇護の対象からはかけ離れた人物だった。
「まあ、好きになっちゃったものはしかたないんだけどね」
寝転がっていたベッドの上で寝返りをうったレイヴンは、ぼんやりと闇の中に浮かぶ意中の相手を見つめる。視界を占めるのは夜の闇。
だが、目を凝らしてみれば闇よりも黒い色をした、彼の艶やかな髪がぼんやりと見えるような気がした。気がするだけなのかもしれないが。
今夜は曇り空なのか、月の光さえも届かない。そんな暗闇の中では、本当に見えているのかレイヴンの目の錯覚なのかは定かではない。
だけれど、ずっと一点だけを見つめいていると闇の向こうにあるもが見えてくるような気がしてくるから不思議だ。
闇の向こうにある男の影は、穏やかな寝息に呼応するように不規則に肩を揺らしている。
その姿は紛れもなくレイヴンと同じ性をもつもので、どうしてこんなにも慕情を含んだ執着をいだいてしまうのか。
どれだけ論議しても意味も結論もないことではあるが、こうして本能に逆らってまでも目の前にいる男をいとしいと思ってしまう自分に違和を感じない時点で、
自分の敗北は決まったようなものなのだろうと、レイヴンは独りごちた。
守ってあげたいとか、この手の中に閉じ込めたいとかそんなものじゃなく、本当にどうしてだか分からないくらいに、いとおしくて仕方がない。
レイヴンにとって彼と出会えたことが始まりであり、そして彼とつながれたことがいまある自分のしあわせの足掛かりだった。
浮ついた、子供のような恋なのかもしれない。ただ隣にいて、ただ心を通わせることだけで、自分には勿体無いほどの幸福なんじゃないかと思えるくらいに。
それは、体を繋げることで性欲を満たすことだってある。
しかし、そこに欲求の解消以外の意味を持たせることができるというのなら、負担ばかりが先立つ行為に苦痛さえ伴わないというのなら、
相手が彼であるということに性交渉よりも更に先にある何かを感じることができたのかもしれない。
その一連のやり取りを思い浮かべるだけで、レイヴンの胸には甘い沈痛が走った。
小さく吐き出した息は、まるで体の中で処理し切れなかった熱を帯びているように生温かい。
体の中で目覚めそうになるものを誤魔化すかのように、隣のベッドで眠っている男の名を小さく呼ぶと、
そのレイヴンの声に応えるように寝返りを打つような音が聞こえた。
もしかして、起こしてしまったのだろうかとレイヴンの肩が揺れる。
驚きなのか、後ろめたさなのか。妙な高揚がレイヴンの疼きに拍車をかけた。
目が室内の暗さになれたせいで、ユーリの肌の白さがぼんやりと暗い中に浮かび上がっている。
微かに聞こえてくる寝息は穏やかなもので、レイヴンの声に反応して起きたわけではないということが知れた。
気づいてもらえなかったことが残念なような、そうでもないような。
レイヴンはどんどんとざわめいていく胸のうちを押さえ込むように、瞼を閉じて視界を遮断する。
だがそうすることで、さらに強く、隣のベッドで寝こけているユーリの気配を感じた。密やかに告げるように、レイヴンは小さく口を開く。
声を出すつもりなんてなかった。ただ、彼の名をなぞりたかっただけだった。なのに。
「ユーリ」
低くかすれたレイヴンの声が、室内の静寂を破った。
自分の耳に自分の声が届いたときに、ああ声に出してしまったのかと彼自身が驚いてしまったほどだ。
「んっ……」
寝息ではない、たしかなユーリの声色がレイヴンの鼓膜を揺らした。
かすれたその声は妙に艶っぽくて、不謹慎とかいえない場面を連想してしまう。
「ユーリ」
もう一度だけ。レイヴンは心の中で誰かに言い訳するように呟いて、彼の名前を呼んだ。
「……っんだよ」
はっきりとは聞こえないそれが、寝言ではなくて意味を持った言葉になる。気づいてくれたのだろうかと、レイヴンは息を殺して体を緊張させた。
どうしてこんなにも体を硬くしているのか、レイヴンにもよく分からなかった。
だた、ユーリが起きてしまったのか、自分に気づいてくれたのだろうかと、まるで母に相手をして欲しくてしょうがない子供のような幼さで、
ユーリのことを待ちわびていた。その事実が、酷くレイヴンを動揺させる。
「うっせえぞ、レイヴン」
「あ、ごめん」
気持ちよく寝ているところを邪魔されたせいか、ユーリの声色は不機嫌なものだったので、レイヴンは咄嗟に謝ってしまう。
その声でぼんやりと夢うつつだったユーリが徐々に夢から覚醒しだしたのだろう、緩慢な動きで上体を起こして窓の外を見た。
だが、窓の外も室内も大差ない闇色だった。
「まだ夜じゃねえか」
時間を把握したユーリは、起こしていた体をばたりとベッドに逆戻りさせて、暗闇の中では灰色に見えるシーツへと体を沈めた。
ぼすりとユーリの体が沈みこむ音を追って、随分と長いため息が聞こえる。
「なんかあったのか?」
「え、いや」
「いやって、用があったから寝てるところ起こしたんだろ」
特別何かがあって声をかけたわけではないレイヴンは、都合のいい言い訳を考え付くことができずにもごもごと口を動かすだけだ。
その様は、まるで悪いことをした子供のような雰囲気で、気だるそうに体を沈めていたユーリは、
少し前まで不機嫌そうな素振りを何処かに置き忘れたかのような変化を見せた。
「なんだよ、その歳で夜泣きか」
答えを渋るレイヴンを茶化すように、ユーリが意地悪な笑い声をたてた。
暗いせいで彼の表情を確認することはできないが、レイヴンには悪戯っこのような笑顔を浮かべているユーリの姿が見えるような気がした。
間違いなく意地悪な顔をしているに違いない。
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、添い寝希望?」
レイヴンが否定することさえも愉快らしく、悪乗りしたユーリの追撃は続いていく。
彼のどこまでが冗談かわからないような言葉と一緒に、バサリと掛け布団が持ち上げられる音がした。そいて、シーツの上を叩くような音も。
こちらにこいと言われているのだろうかと気づいたときに、レイヴンは頭を抱えたくなった。
「遠慮しておくわ」
「いいのかー、こんなチャンスなかなかないぞー」
面白がってどんどんと追い込むようなことばかりを言ってくるユーリは、守ってやりたいというよりも殴ってやりたいかなとレイヴンは肩を落とした。
自分の中の暴力的な衝動を抑えて、まだ言い募る彼に視線を向けた。
流れるままにしている黒髪は、寝乱れていているのかと思えばそうでもなく、綺麗な弧を描くようにシーツの上に広がっていた。
そして、一人分空けられたスペースに本当に入っていってもユーリは俺のことを放り出したりはしないんだろうなと、
どうしてだか浮き足立つような気持ちがレイヴンの中を占めていく。
「なによ。青年の方が寂しいんじゃないの?」
ふわふわとした自分を押さえ込むように、わざとらしく茶化すような声色を意識すると、
布団を持ち上げていたユーリの手がぱたりと落ちて、詰まらなさそうなため息が返ってきた。
その振る舞いに、もしかして期待されていたのだろうかと翡翠色の瞳でユーリの様子を窺う。
だが、ため息のあとを追ったのは、ユーリの愚痴でも詰まらなさそうな駄目だしでもなくて、ベッドの上から起き上がる衣擦れとスプリングが軋む音だった。
「青年?」
まさか怒らしてしまっただろうかとレイヴンが慌てて声をあげると、返ってきたのは怒りを微塵も感じさせないようなあっけらかんとした声色だった。
「寂しかったら入れてくれるんだろ?」
レイヴンが返事をするよりも早く、彼が寝転がっているベッドの端に右ひざを乗せたユーリが、翡翠色の瞳を覗き込んだ。
あんなにもはなれていた距離が一瞬で縮まる。暗い中でおぼろげだったユーリの表情が一気に色を持ったものへと姿をかえた。
「ちょっと、ユーリ」
「もう少し端に寄れよ、ただでさえシングルできついんだ。オレのこと蹴りだしたら承知しねえからな」
レイヴンはぐいぐいと体を押されて、無理矢理ベッドの端へと追いやられる。
このままではユーリを蹴りだす前に、レイヴン自身がベッドから落とされてしまいそうだ。
仕方なしに体を起こすと、自主的にベッドの端によって何とか人一人分が寝られるくらいのスペースを捻出する。
満足そうに頷いたユーリは、その隙間に潜り込んで、寝やすい位置を模索するように身を捩らせた。
「狭い」
「だって青年おっきいんだもん」
「もう少し寄れよ」
「ごめん、おっさんもギリギリなの」
ユーリもギリギリだが、レイヴンもギリギリだった。これ以上端に寄れないというのなら残る選択肢は一つだけだ。
自分に背を向けてごそごそと体の位置をかえているユーリを捕まえたレイヴンは、不満そうな声をあげるユーリを無視して自分の腕の中へと彼を抱きこんだ。
ぎゅっと力を入れて、二人の距離を縮めると、狭くはあるけれどもベッドから落ちる危険性は減ったようだった。
「おっさん、何してんだよ。オレは添い寝っていったはずだけど」
「誤解よ、すごく誤解! ベッドから落ちないように工夫してみただけです!」
「はあ。これはこれで寝苦しいんだけど」
「何よ、先にベッドに入ってきたのは青年の方でしょ。無理なら向こうに戻ればいいじゃない」
レイヴンの腕の中でぐちぐちと文句を言っていたユーリは、ため息交じりのレイヴンの声に自分に回されている腕にぎゅっと爪をたてた。
容赦ない力の入れように、レイヴンは小さく呻き声をあげた。
「青年! 痛いって!!」
「あんたが素直に添い寝して欲しいっていわねえから、オレからいってやったんだろ! ありがたく思え!!」
「えっ?」
「明日も早いからもう寝る。おやすみ!」
「ねー青年ってば」
「おやすみ!」
「ユーリってば」
がくがくとユーリの背中を揺すってみても返事はない。寝たふりなのか本当に寝てしまったのかは分からないが、レイヴンを無視することを決めたらしい。
本当に直情的で子供っぽい。だけど、ユーリはレイヴンの腕から逃れることはなく、体を預けたまま力を抜いてしまっている。
別に、こんなふうに一緒に寝て欲しいと思ったわけじゃなかった。ただ、ユーリに気づいて欲しいと思っただけだった。
「ありがとうね、ユーリ」
レイヴンは腕の中にある背中に額をくっつけて小さく吐き出す。触れている部分からは、酷く眠気を誘う温かい体温が伝わってきた。
そして、レイヴンの声に応えるように、ユーリの指先がレイヴンの腕に触れた。
少し前までは妙に目が冴えていたというのに、ただユーリがそばにいるだけでこんなにも簡単に眠気が襲ってくるなんて詐欺だと笑いたくなった。
それと同時に、ここはこんなにも安心できる場所なのかと、腕の中の温もりがいとしくてしかたのないもののように感じられた。
レイヴンにとって世界は遠く、そして色彩を失ってしまったものでしかなかったのに、たった一人の人間の手をとっただけでこんなにも色鮮やかになってしまう。
死と再生を繰り返しながら獲たものが、レイヴンという人間を新しく生みだしていく。
いとしくていとしくてどうしたらいいのかわからくて、レイヴンは、腕の中の温もりを抱きすくめた。
まるで、彼の逃げ道を塞いでいくかのように腕の中へと閉じ込めてしまう。
そんなことでこのユーリ・ローウェルを捕らえられるとは思ってもいない。
だが、守るとか、守られるとかじゃなくて、ただこの先も一緒に歩いていければいいのにと、まるで淡い夢のような祈りを誰かに投げた。
10・6・2