「なんていうかさあ、ふこーへーじゃない?」
誰にだって、たった一つのものだとか、たった一人の人間だとかに、
訳が分からないくらいに強く惹かれたり、強い憧れを持ったりすることがあるはずだ。
「いつもいつもカロルくんばっかりずるいと思うんだ」
それがいつどこで開花する感情かは分からないが、がつんと殴られるような衝撃だったり、
はっと目の覚めるような感覚たったり、いろいろあるだろう。
「今日こそ、俺様は女の子たちと同じ部屋がいいです!」
そして、オレにもそれと同じような経験があった。それはもう否定できないくらいに間違いなく、
あのときのオレは信じられないくらいの吸引力に逆らうこともできず、たった一人に強い憧憬と焦がれるような思いをいだいていた。
いま思えばいい思い出なのか、若さゆえの過ちなのか。
でも確かに、いまでのあの人の面影は、自分の心の中の奥底に強く刻まれているんだと思う。
彼との唯一の共通点であり、出会いの場であった騎士団を去った今でもだ。
「ねえ、青年!聞いてるの!?」
だがそんな、ある意味でオレの青春の甘酸っぱい思い出というかなんというか、
まあ恥ずかしいながらも美しい思い出は、たった一人の人間によって見事に打ち砕かれようとしている。
それはもう、修復不可能なくらい粉々に。昔のオレだったら、あまりのことに泣いていたかもしれない。
これが、大人になると言うことなのだろうか……。
「ユーリってば!」
誰の手によってかだって?
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ!」
「え?」
それはもちろん、この目の前にいる、胡散臭くて女のこととセクハラのことしか頭の中になさそうなおっさんによってだ。
「未来永劫、ジュディたちと同室になれる日は来ないって、何度言えばわかるんだ!
おっさんはオレと二人部屋だ。いい歳して、訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ!」
オレの憧れと言うものを、芸術的なくらい見事に打ち砕いてくれた男こと、
レイヴンの腕を引っつかんで女性陣とカロルたちが泊まる部屋とは、反対方向へと無理やり引っ張ってやると、
痛いとか許してとかいう、子どもみたいな非難の声が聞こえてきた。
本当に三十五歳なのかと、何度問いただしたくなったことか。
両手の指で足りなくなったところで、数えることを放棄したオレには正確な回数を把握することはできない。
「じゃあ、また明日。おじさまもお休みなさい」
「ああ、食堂集合な。それじゃあ、お休み」
「ジュディスちゃん、また明日ねー」
ジュディたちに挨拶をして、自分たちの部屋へと向かう彼女らの背中を見送る。
いつまでも名残惜しそうに手を振っているレイヴンを引きずって二階へと続く階段へと向かった。
「ねえユーリ、ちゃんと歩くから腕はなしてよ。
あんまり、ぐいぐい引っ張るもんだから、かなり痛いんだけど」
「うっさい、あんたの阿呆みたいな駄々のせいで、無駄な力を使って疲れてんだよ」
簡素な木製のドアが並ぶ中から、ナンバープレートと渡された鍵に刻印してある部屋番号を照らし合わせて、振り分けられた部屋を探し出す。
防犯の役にはたたなさそうな鍵を開けて中に入ると、真っ暗な部屋の中を窓から差し込む街灯が照らしていた。
レイヴンの腕を放して部屋の中へと押し込み、窓側のベッドに道具袋を投げ捨て、
ベッドの隣に今日も一日世話になった剣を立てかけた。
「青年、強く引っ張りすぎでしょー。痕になったらどうしてくれるのよ」
「うっさい知るか。男前があがっていいじゃねえの?喜んで欲しいくらいだ」
隣のベッドに陣取ったレイヴンが、無駄に痛い痛いと騒ぎながら恨めしそうな視線を向けて来る。
仕方なしにベッドのから立ち上がり、痛いという割には無造作に投げ出していた腕を掴んで検分してやったが、痣どころか手の痕さえ残っていない。
「異常なし。どうしても痛いなら歳からくる筋肉痛を疑った方がいいぜ」
「ひどーい」
しなを作ってのしかかってくるレイヴンを交して傷一つない腕を叩くと、また大げさな痛いという叫びが聞こえてきた。本当はそんなに痛くないくせに。
オレの診察が信じられないらしいレイヴンは、羽織の袖を捲り上げて、自分の浅黒い肌を何度も撫でてみせた。
普段はだらしなく着崩しているから分からないけど、衣服の下に隠された体は驚く程に鍛え上げられている。
さっき掴んだ腕も硬い筋肉に覆われていて、ちょっとやそっとの強さで掴んだくらいじゃ痕なんて残りそうもなかった。
オレの憧れだとかいったものはレイヴンによって粉々に打ち砕かれたわけだけど、こういうふとした瞬間に揺さぶられるみたいにして呼び起こされる。
たしかに胡散臭くて、だらしなくて、女好きのレイヴンなのに、それと同時にこの男は間違いなく、
オレが憧れて止まなかったシュヴァーン・オルトレインその人なのだと堪らなくなってしまうのだ。
「ユーリ、どうした?」
オレにもたれ掛かっていた体を起こして、レイヴンの翡翠色の瞳が覗き込んでくる。
昔は、この目がオレを映すたびにふわふわとした高揚感を感じていたんだ。
テーブルの上に置かれた蜀台の明かりと、外から差し込む街灯だけが光源となっているこの部屋の中にいても、
落ち着いた光を宿す翡翠色はオレをつかんではなさない。
あの頃と同じ引力をもってオレを引き寄せるのだ。
「なん、でもない」
「なんでもないって、急にぼうっとして疲れてるのか?」
オレを映す瞳を遮るようにレイヴンを遠くへと押しやったつもりなのに、それにも勝る力で引き寄せられてひんやりとした手のひらがオレの頬を撫ぜた。
そんなに親身に心配してくれなくてもいいのにという思いとは裏腹に、レイヴンとオレの距離は近づいていく。
少しだけ問いただすような、普段とは違う芯の通った低い声色。優しく、落ち着いた雰囲気。
打ち砕かれた憧れを一つ一つ修復していくような共通点を、これ以上オレに見せ付けないでくれ。
よくわからない焦りとともに心の中で叫んでみても、それが通じるわけがなかった。
「少し疲れただけだから」
「本当に?」
「本当だ。だから、風呂はいってくる!」
「ちょ、ユーリ!?」
レイヴンの腕を振り払い、隣のベッドに投げ出してあった道具袋を引っつかむと、そのまま部屋から飛び出した。
勢いを殺すことなくドアを閉めたせいで、誰もいない廊下にドンという大きな音が響く。
「オレ、なにやってるんだろう」
薄い木製のドアに体を預けてみても、その向こうにある気配を探ることはできなかった。
勢いよく出てきたのはいいが、あれでは絶対に変に思われただろうし、戻るに戻りにくい。
「ああ、やっぱオレ駄目かも」
たしかにオレは、あの人に憧れてたんだ。
だから、こうやって、自分が好きで好きでしょうがなかったあの人の仕草とか雰囲気とか、いろんなものを追いかけてしまってるんだ。
「――」
声を殺すように呼んだ名前は、ドアの向こうにいるレイヴンには聞こえなかっただろうか。
オレは当分、この名前から逃れることができそうになかった。


「あーあー、いっちゃった。ちょっと意地悪しすぎたかなあ」
勢いよく閉じられたドアは当分開きそうにもなかった。
最初はあんなにつれなかったのに、些細な切っ掛けで赤くなったり、
慌てたりするユーリを見るのが面白くて、少し遊びすぎたかも知れない。
「ユーリ・ローウェルも立派になったもんだねえ。昔はあんなに可愛かったのに」
ユーリは思い出したみたいに、俺を意識してくれるもんだから、
もしかしたら昔みたいに俺を慕ってくれているんだろうかと期待してしまうことがある。
だから、ああやって試すようなことをしてしまうのかもしれない。
「どうせなら、レイヴンのことも慕ってくれればいいのに」
本当は、こんなことに意味がないとわかっている。
でも、ごめんねユーリ、もう少しだけ俺の子どもみたいなわがままに付き合ってくれよ。



制作 09・06・23
掲載 09・12・12