痛い。正座している足が、すごくすごく痛い。

フローリングの上で押しつぶされている足の甲が悲鳴を上げている。これ、絶対に立ち上がれない。

立ち上がろうとしても、足が痺れてそのままフローリングに顔面からダイビングすることになりそうだ。


正直なところ、そろそろ足を崩していいですかと提案したいけど、そんなこと言える雰囲気じゃない。

いまでも、このリビングだけは絶対零度氷点下なんじゃないかと思えるのに、俺が口を開いて余分なことを言ったとしたら、

人類がいまだかつて到達したこともないような氷の世界を体感できそうだ。


「なにか、申し開きはあるか」

俺にとっていやと言うほど聞きなれた声のはずなのに、そこに含まれている、刺すような鋭さに背筋を嫌な汗が流れ落ちていく。

フローリングの木目を眼で追いながら、なにがあっても大丈夫だと自分に言い聞かせて、ゆっくりと視線を上げる。


見慣れた長い足に、男とは思えない細い腰。そして、流れるような艶やかな黒髪が風もないのに揺れていた。

俺を一心に見つめているであろうその表情が、まるで天使のような微笑であればいいのにと考えて、なんだか泣きたくなった。

だって、現実はそんなに甘くないんだから。


なにが待ち受けていても大丈夫、だって相手も同じ人間だ。

すぐに怖気づきそうになる自分を慰めつつ、あまり見たことのないユーリの優しい笑みを心の中に思い描いていると、

もう覆しようのない現実を突きつけるようにドンという音がした。

苛立ちを隠しきれないユーリの右足が、フローリングの床を蹴りつけている。やめて、床が抜けそうだから。あと、ご近所さんにも迷惑だから。

いや、まあ、いつまでも逃げているわけにはいかない。詰めていた息をゆっくり吐いて、思い切って顔を上げた。そして、すぐに後悔した。

何も映さないまっくろな瞳が、俺を睨みつけていた。あれは絶対に人を殺してる目だよ! なんであんなに迫力あるの!?

むしろ、俺のほうが十四歳年上のはずなのに、なんだか迫力負けしてるんですけど!!


「なにか申し開きはあるかってきてるんだよ」

もう一度、ユーリが床を蹴りつけた。あまりの迫力にびくりと肩が揺れる。このまま目線を合わせていたら、それだけで心臓が止まってしまいそうなので、

ユーリを見つめているようなふりをして、ユーリの鼻辺りに視線を合わせた。


「えっと、あの、うんと」

「なにかあるなら、早く言え。言い訳くらいは聞いてやる」

そんな、最初から言い訳だなんて決め付けないでくれよ。おっさん泣いちゃうよ。いや、もう既に泣きそうなんですけどね。

口には出せないのに、心の中でのみ饒舌になっていく自分を殴ってやりたくなる。

この場を乗り切る名案は思いつかないというのに、なんの足しにもならないどうでもいいことばっかり浮かんでは消えていく。


いやまず、どうしてこんな首が薄皮一枚で繋がってるような、危機的状況に追い込まれているんだっけ。

だっておかしいだろ、昨日まではなんだかんだでいい感じの雰囲気だった。

ユーリなんて、頼んでもいないのに、甘いものが嫌いな俺のために、クレープを作って俺の帰りをまってくれていたりしたじゃないか。

そんな蜜月みたいなときもあったっていうのに、二十四時間もたたないうちにこの様だよ。もう勘弁してください。


いったい誰なんだ、俺を生命の危機に追いやるような不穏な話をユーリの耳に入れたやつは。

どれが駄目だったんだろう。この間のお昼休みに、誘われるままに女の子四人とランチを食べに行ったこと?

それとも先月の飲み会で、望んだわけじゃないのに危うく送り狼になりそうになったこと?

それともあれか、ユーリの友達らしき女子大生とメールアドレスの交換してたことか。

走馬灯のように駆け抜けていく、ユーリの怒りの原因と思わしきものたち。

でも、あれは全部、いわゆるところの正常な範囲内でのお付き合いであって、友達みたいな感じじゃないか。

だって、キスもしてないしセックスもしてない。ほんのちょっと楽しくおしゃべりしたくらいだ。浮気なわけがないじゃないか。

だって俺様、ユーリのことが一番好きなんだもん。


「だんまりか。言い訳さえする気がないってことだな」

俺がいろいろと思索に耽っているうちに、状況は更に悪化の一途を辿っていた。

このまま絶縁状なんて叩きつけられたら、俺はどうしたらいいんだろうか。でも、取り繕ったとしても信じてもらえない気がする。

このまま流れで押し倒して有耶無耶にしてしまおうかと考えて、そんなことをしたらどうなるかと身震いがした。

俺の優秀な頭が、鳩尾に強烈な一発をくらったうえでこの部屋からたたき出されるところまでを、全自動でシュミレーションしてしまったのでおとなしく却下する。

武術のたしなみがあるユーリの強さは半端じゃない。そして、俺はまだ死にたくない。


「ユーリくん、あのですね」

「なんだ、オレに伝えたいことがあるっていうなら、要点を三十文字以内にまとめてからにしろ」

「三十文字って、なにそれ」

「あと十八文字」

「ちょっと、もうカウントが始まってるの!?」

「あと一文字」

「ユ」

「いまので三十文字」

終わった。

俺に与えられたラストチャンスは儚く散っていった。人が夢見るから儚いんだよね。

この最悪の状態から奇跡的に持ち直して、ユーリと仲直りできたらいいな、なんていう望みは取り付くしまもなく、

あとは死刑宣告を待つばかりになってしまった。


「携帯だせ」

「携帯って、携帯電話?」

「あんた、それ以外に持ってるのか」

「いいえ、まさか。滅相もございません!」


これ以上、痛くもない腹を探られるのは勘弁して欲しいので、勢いよく首を縦に振って、ズボンのポケットに突っ込んであった携帯電話を取り出し、

ユーリへと差し出した。緊張のせいで手のひらが汗でぬれ、携帯電話をすべり落としそうになる。

ちょっと前に買い換えたばかりの新型だ。機能が多すぎて使いこなせてない。あと一年以上月賦払いが残っているから、無事にこの手に戻ってきて欲しい。


ユーリは慣れた手つきで携帯電話を開いて、なにやらボタンを押している。やっぱり、若いと機械の操作もお手の物なんだろうか。

俺なんて、その携帯電話の通話とメール機能を使うために、一晩かけてぶっとい取扱説明書を読み込んだのに。

ちなみに、ユーリの携帯電話を手渡されても、まともに操作することができない。


「こしゃくにもパスワードをかけてるのか」

「いや、説明書をみたら面白そうな機能があったからかけただけで、他意はないんです」

これから待ち受けるなにかに対して、自然と敬語になってしまう。

パスワードをかけたことに、特別な意味はない。見られて困ることがあるとか、ユーリに隠したいことがあるとかいうわけじゃなくて、

取り扱い説明書を読んでいて見つけた機能のなかで、試しに使ってみたうちの一つだった。なんか、パスワードって憧れるところがあるだろ。


「パスワードを教えろ」

「そんな急に言われても、いったいなにを見ようとしてるの」

一方的に突きつけられてばかりの要求に理不尽さを感じて少しだけ抵抗してみると、恐ろしいまでの無表情で俺を見下ろしていたユーリが、

開いている携帯電話を俺の前に掲げて見せた。


「折るぞ」

ぶれのない静かな声が、現実味を煽る。折りたたみ式の携帯電話はユーリの手の中で、短い一生を終えようとしていた。

やめて、それ以上力を入れると確実に真っ二つになるから。


「や、やめて! お願いします!!」

仁王立ちしているユーリは携帯電話に入れていた力を緩め、考えるように宙をにらんだ。さ迷わせた視線はもう一度、手の中にある携帯電話に戻る。

そして、何かを打ち込んだ。


「誕生日じゃないのか」

舌打ちとともに吐き出された言葉に、体が震えた。とりあえず、携帯電話は一命を取り留めたらしい。

「パスワードは?」

さっきよりも、幾分か声色が優しい。その少しの優しさにさえ縋りたくなるほど、俺はユーリに追い詰められていくことに疲れていた。

だって、このままじゃ最悪のシナリオしか思いつかないんだ。どうしたらこの状態から持ち直すことができるんだ。

これ以上メールかなにかを見られたら、それはそれで誤解が加速していきそうだし、パスワードを教えなかったら教えなかったで、

明日の朝一で携帯ショップに行くことになりそうだ。


言うか言わないか、究極の選択だと思う。正直に白状したら引かれるんじゃないか。

だって、まさかユーリに教える日が来るとは思わなかったし。関係ないんだけど、ユーリって俺の誕生日を知ってたんだ、俺様ちょっと感動だよ。


「言うのか、言わないのか」

「言っても引かない?」


「はあ? 引くわけないだろ。早くしろ」


覚悟を決めるように深呼吸をして、メールボックスにかけてある四桁のパスワードを口にした。

それを聞いたユーリは手早く携帯電話に打ち込んで、一瞬動きを止めた。


「あれ、それって」


画面を一心に見つめていたユーリが目を泳がせながら口ごもる。そんなふうにされると、俺まで恥ずかしくなってくるじゃないか。

ちょ、やっぱり駄目、言うんじゃなかった。


「おっさん、あんた」

「うん、ごめん。年甲斐もなく恥ずかしいことしたかなと思ってる」

「あー、別に責めてるわけじゃねえんだけど」

「うん」

「それ、オレの誕生日じゃないか……?」

「うん、まあそうなんだけどね」

二人して視線を合わせないように上を向いたり下を向いたりしながら、ああだこうだと言い訳を重ねる。

なんだか、俺の恥ずかしさと引き換えに、ユーリの怒りの頂点は過ぎ去ったようだ。

パスワードを半笑いで決めたときの俺、よくやった。おまえは俺の命の恩人だよ。それにしても、ユーリって、あんがい不意打ちに弱いんだ。


現状を打破するならいましかない。膝の腕においていた手のひらを握り締め、微かに頬を染めているユーリへと声をかけた。

「ユーリ」

「なんだよ」

「ごめんね。俺が悪かったです。もうユーリを不安にさせるようなことはしません、だから許して」

いったいなにについて怒られているのかは分からない。だがこういうときは素直に謝っておくのが吉だ。

無駄に積み重ねてきた人生の中で学んだ法則は、俺を裏切ることはないだろう。

本当は、立ち上がってユーリと視線を合わせ、抱きしめたりしながらの方が効果的なんだろうけど、長時間の正座のせいで足が痺れて立てそうもない。


「べつに、もういい。なんかあんたの交友関係にいちいち目くじら立ててるのが、阿呆らしくなってきた」

「ねえユーリ、そんなこと言わないでよ。俺、ユーリだけだから」

「う、うるさい。わかった、わかったから」

ユーリは俺から顔を隠すようにそっぽを向くと、手にしていた携帯電話を乱暴に閉じて、投げ返してきた。

けっこうな勢いがあったせいで、あやうくフローリングの床に落ちるところだった。


まだ、許しが出たのかはわからないので、正座したまま大人しくしていると、あんたいつまで座ってるんだよという妙に早口なユーリの声が聞こえた。

これは暗に、もうお説教は終わりだというメッセージのはずだ。


緊張させていた体から力を抜いて、すぐ後ろにあるソファに背中を預けた。正座していた足を解くとジンジンとした痺れが襲ってくる。

両手で足の裏をマッサージしながら回復を待っていると、隣にユーリが腰掛けた。勢いよく腰を下ろしたせいで、安物のソファがドンと揺れる。

振動が俺の体にまで伝わり、痺れた足に効く。もう当分正座はしたくない。


「おっさん、夕飯さばみそでいいか?」

つっけんどんなしゃべり方なのに、どこか優しい。地味に視線を逸らしているのは、恥ずかしさからなのだろうか。

しかも、今日の食事は俺が作るようにと厳命を受けていたのに、ここまでユーリの機嫌がよくなるなんて奇跡みたいだ。


「嫌なのか?」

ぐいっと後ろで結い上げた髪をつかまれたせいで、後頭部が痛い。

「嫌じゃない。じゃあ、俺は今日一緒に寝てもいい?」

探るようにユーリの顔を見上げてねだってみせると、まっくろな瞳をまんまるに見開いて俺を睨みつけてきた。

さっきは人を殺せそうな迫力をもっていたのに、心に余裕のあるいまになってみればなんだか可愛い。


「駄目?」

駄目押しとばかりに首を傾げて問いかけた。すぐには返事が返ってこない。

表情を隠すように手のひらで口元を覆ったユーリは、背もたれに上体を預けてため息をついた。

ねえと急かすように言うと、俺に視線をやることなく勝手にしろと呟いた。消え入りそうなその声が、恥ずかしさを押し殺しているようで自然と頬が緩む。


ねえユーリ、やっぱりおまえのことが好きだよ。





09・9・1