甘い匂いがする。

砂糖や生クリームのようなふんわりとした、とろけるような甘さではなくて、鼻に付くような人工的な香り。

鼻の奥がツンとして、少しだけ胸やけがするような甘さ。

この不快さを伴う香りは、甘いというより、甘ったるいといった方がお似合いだ、とユーリは一人ごちた。

が、その香りの発信源であるレイヴンは、ユーリが顔をしかめたのも知らずに、のんきにただいまと口にしただけだった。



もう眠ってしまっているカロルを気遣って、部屋の明かりを最小限まで落としているため、

室内はなんとかお互いの表情を確認できるぐらいの薄暗さで心もとない。

それ以上に、置いてある荷物や人の影が、真っ暗な闇をまとって室内を覆っているせいで、視界が良好とはいえなかった。

静かな部屋の中に体をもぐりこませて、部屋の中にいるはずのユーリを凝視してみても、ちらりとレイヴンを見ただけで返事はない。

もしかして聞こえていなかったのかと思い、もう一度だけただいまと口にしたが、ユーリは小さく手を上げただけだった。

三つ並んだベッドの真ん中で眠っているカロルを起こさないようにと、できるだけ足音を殺してユーリが陣取っている窓際のベッドまで足を運ぶ。

手入れが終 わった剣を投げ出して、ベッドの上に座り込んでいたユーリは、近づいてきたレイヴンを一瞥すると、

ベッドメイキングされた面影もなく乱れている真っ白な シーツを叩いた。

そのジェスチャーを受けて、レイヴンは小さく頷くと、ユーリに指定された場所に腰を下ろした。

窓からもれる街灯の光を受けたユーリの黒髪は、微かに光を帯びていて薄暗い部屋の中でも目を奪われるような存在感がる。

レイヴンは自分とまったく同じ色をしたユーリの髪が、こんなにも美しく見えることが不思議でしょうがなかった。

「遅かったな」

囁くような声が、静寂を揺らす。

「一人で飲んでたら顔見知りにあって、引き止められちゃったんでね」

レイヴンもつられるようにヴォリュームを下げて話す。

囁くような声は聞き取りにくく、お互いに聞き取りやすいようにと自然と距離が近づいて、肩が触れた。

「甘い」

「え?」

レイヴンは何を言われているか分からずに首をかしげると、思ったよりも近くにあったユーリの真っ黒な瞳が、

射抜くようにレイヴンの翡翠色の瞳を見つめていた。

「甘ったるい匂いがする」

あんたから、とユーリは言葉少なげに言うと、レイヴンの顔を覗き込んだ。

レイヴンが自分の羽織を引き寄せて匂いを嗅ぐと、確かに甘い香りがした。まとわり付くような、不自然なまでに甘い匂い。

酒場で隣にいた女性客が付けていた香水の移り香だろうと納得してユーリを見ると、逆に納得いかない顔をしたユーリの瞳とぶつかった。

「どこ、いってたんだ?」

まったく後ろめたいことがないはずなのに、ユーリの静かに問い詰めるような口調に、焦りを禁じえなくなってしまう。

「どこって、飲みに行ってただけなんだけど」

「ふーん、飲みにね」

鼻が触れ合うんじゃないかというくらいに距離を縮めてきたユーリの顔には、誤魔化すことない疑いの表情が色濃くでており、

レイヴンは自分の中の焦りが加速していくような気がした。

信じられていない自分を嘆くべきなのか、嫉妬に近い感情をいだかれている自分を喜ぶべきなのかよくわからない。

「本当に、飲んできただけだって。これは隣に座ってた女の子の移り香であってだね、俺様には直接関係ないんだから」

重ねて言い聞かせるほどに言い訳のようになってしまい、自分の立場を悪くしていくことは理解できるが、これ以上に言いようがないのだから仕方ない。

だがここまできて、レイヴンははたと首をかしげた。こんなふうに詰め寄られて入るが、自分たちは色恋を交わした間柄だったのかと。

仄かに差し込んでくる街灯の明かりに照らされているユーリの唇が、思いの外柔らかいことは知っている。

でも、その黒い服の下に隠された肌の感触を知っているわけではない。

世間一般で言えば、唇にキスすればそれなりの関係といっていいのかもしれないが、いかんせんユーリとレイヴンの間には、

それこそこの移り香のような甘い言葉はなかった。

気紛れのように唇を交わして、中途半端としか言いようのない距離感にお互いの存在を感じていた。

だが、その相手の気配を追っているという事実が何よりも饒舌に、その奥に隠されていた気持ちを表していたのかもしれない。

レイヴンにとっては付かず離れずなユーリとの距離がいとおしく、また確かに好きだといえるものだった。

でも、そこにユーリとの気持ちを確認する言葉はなかった。だから、甘んじて行為を受け入れるだけで、確かめるなんてことをしたことがなかったのだ。

だって、怖かったんだから仕方ないじゃないと、レイヴンは誰にでもなく言い訳をする。

本当にいとおしいと思ってしまったんだから、一度間違えただけで手のひらから滑り落ちてしまうのが怖かったのだ。

「浮気はよくないよな」

言い聞かせるようなユーリの言葉に、レイヴンはぐだぐだと言い訳を重ねる自分をかなぐり捨てて、傍にあったユーリの体を抱き寄せて首元に顔をうずめた。

艶々とした黒髪からは、風呂に備え付けられていた安物のシャンプーの香りがする。

「浮気は、よくないよね。間違っても浮気じゃないけど、それでも浮気はよくないよね」

「はぁ、あんたついに頭がくさったのか?」

「くさってません。失礼なこと言わないでちょうだい」

レイヴンは背中に回した腕にぐいっと力を入れて、小さく名前を呼んだ。

ユーリはため息を返事の代わりにすると、いいわけあるかとレイヴンの耳元で囁いて、投げ出したままだった両手をレイヴンの腰へと回した。

二人の距離はゼロに近くなる。

吐き出された言葉は乱暴なのに、ユーリの声色は存外に優しく、レイヴンはそれだけで満足できるような気がした。











09・06・06