微かに匂う獣臭さになれたのはいつのことなのか。
近くに匂いの主はいないのに、もう部屋の中に染み付いて、その存在を主張している。

「ラピード」
小さく名前を呼ぶと、どこにいたのか大きな体をのそりのそりと動かして、濃紺の毛皮が近寄ってきた。
クウンという鳴き声に、カロルと名前を呼ばれた気がした。季節が二巡りする程度一緒に暮らしただけで、
ラピードに名前を呼ばれたような気になるんだ、彼の飼い主が犬の言葉を理解したみたいに振舞っていたのも、あながち嘘でもないのかもしれない。

一人と一匹しかいない部屋の中は静かなもので、朝から降りだした雨音までよく聞こえてくる。
こんなに静かだと、ついこないだのようにも、遠い昔のことのようにも思える、六人と一匹で旅をしていたときの記憶が懐かしかった。

自分が最年少だったはずなのに、それよりも子どもっぽい言動や言い合いをする大人たちのせいで毎日毎日うるさくって、気苦労が絶えなかったのもいい思い出だ。
幼さを多分に含んだあの大人たちの言動を、そのままに受け取ってしまうくらいには子どもだったボクも、彼らはそのスタンス以上に大人であって、
子どもの振りが上手かっただけだったのだと分かるくらいには大人になった。

成長期真っ只中、小さかった身長も伸びて、少しずつではあるが体つきも大人へのステップを踏み出した。
まだ昔を懐かしむほどの歳でもないのに、ふとした切っ掛けで昔を思い出して記憶を手繰り寄せてしまうのは、
良くも悪くもたくさんの事が変わってしまったからなのかもしれない。
そして、たぶん、あの頃が二度と帰ってこないことを、ボク自身が理解しつつあるからだと思う。
ラピードがボクの隣にいることも、そういった変化の中の一端だ。

「便りがないのは元気な証拠なのかな」
ボクの足元に身を寄せて丸くなっていたラピードに問いかけてみても、ガラス玉みたいに丸い目が見つめてくるだけで返事はない。
もちろん明確な答えを期待していたわけじゃなかったけど、誰よりも近くで彼のことを見ていたその瞳は、
誰よりも饒舌に彼が元気でいると主張しているように思えた。

たぶん無事なんだろうと頭では理解していても、風の噂くらいは聞かせて欲しいものなのに、それらしき情報はボクを含めて誰の元にも届いてこなかった。
彼に最後に会ったのは一体いつのことなのか、帝国軍に捕まったと分かったときも面会することはできなかったし、
それ以降なんて姿も形も、声さえ聴いたことがない。

ただ一度だけ、彼らが姿を消してから少したったある日、ポストを覗くと消印も署名もない手紙が入っていたことがあった。
開けてみると、真っ白な飾りっけのない便箋に「ラピードをよろしく頼む。あと、クレープ製造機も借りてくから。じゃあまた」なんてそっけない走り書きと、
真っ黒な髪が一房添えてあった。走り書きはお世辞にも丁寧な字とは言えなかったけど、ボクにとっては嫌になるほど見慣れた字だった。
味も素っ気もないたった一文だけを何度も何度も読み返して、添えられた一房の髪を馬鹿みたいに見つめていた。
クレープ製造機ってなんだよとか、急に姿を消してこれだけってふざけてるのかって怒りたくもなった。
でも、切羽詰った状態にいるはずなのに、この気の抜けるような感じが彼らしいのかと妙に納得してしまったから現金なものだ。
ちなみに、クレープ製造機っていうのがなんだったかは、後日彼らが連れ立って姿を消したということを知って解決した。
確証もない、掠めるような接触だった。だけど、時間がたつにつれて、二人とも無事だったんだという実感に、泣きだしたいような、
笑いだしたいような気持ちが溢れてきて、その日一日はなにも手につかなかったのを覚えている。

そしてまた、手紙が来た。今回は宛名も消印もある、流れるような筆跡で書かれた字はそれだけで美しくて、気品がある。
クリーム色の封筒をシーリングしているワックスに刻まれているのは、これまた嫌というほどに見覚えのある紋で、
この紋が刻まれた手紙がボクの元に届くことがあるなんてことのほうが不思議で仕方なかった。
今では落ち着いたけど、配達人から手紙を受け取ったときには、何か悪いことでもしただろうかなんて、必死に考えちゃったくらいだ。

このボクとラピード宛に送られてきたエステルからの手紙を開けてみれば、悪いことなんかではなくて、
むしろ真逆の慶事としか言えない知らせがしたためられていて、違う意味でびっくりしてしまった。
ボクだけではなくてジュディスやリタにも連絡がいっているはずだから、久しぶりに連絡を取り合ってみるのもいいかもしれない。

旅が終わってバラバラになっても時間は止まらないし、彼ら二人がいなくなったとしても日々は積み重ねられていく。
こうやっていろんなことがかわって、否応もなくボクも成長していくんだ。
積み重ねられていく先に何があるのか、ボクたちがどうなっていくかなんて分からないけど唯一つ言えることがあるとするなら、
彼らは約束を違えるような人たちじゃないから、じゃあまたと手紙に書いたということは、いつかまた会える日が来るということだと思う。
それはボクからなのか彼らからなのかは分からないけれど。
そうだとするなら、ボクはそれに相応しいときがくるまで、またあの子どもっぽい大人たちに胃を痛くしながら、信じて待つしかないのだろう。





09・05・08