逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。
そんなことわかってる、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃいけないのに、なのに足がうまく進まない。
雨上がりのぬかるんだ獣道に足をとられて、刻々と追い詰められていく。護身用のナイフなんて、とおの昔に落としてしまった。
振り向いたらそれを見つけることできるかもしれないけど、迫り来るものを確認することが怖くて、振り向くことはできない。

なんで、一人できてしまったんだろうか。街の外に出るのは危険だと、親にも友達にも言われていたのに。
近くまでだと思って油断していた。いや、そんなことはどうでもいい、どこかどこかへと逃げなきゃ。

鳴き声というには禍々しい咆哮が空気を揺らして、恐怖を煽る。
逃げているはずなのに、モンスターとの距離は縮まるばかりで、あいつらの吐く息の生臭さがここまで伝わってくる。

助けて、誰か。
叫ぼうとして、声がかすれる。走り続けているせいで、喉の奥がつぶれてしまったみたいに、ヒュッヒュッとへんな音を立てただけだった。

「たす、」
ぬかるみに足を取られてつんのめる。ああ、もう駄目かもしれないと、妙に冷静になっていく自分がいる。
走馬灯は駆け巡る。嘘じゃない。だって、いままで思い出しもしなかった幼い頃の思い出が、脳裏を過ぎっていくのだから。

「だれか、たすけて!」
「おっさん、そいつのこと見とけよ!」
地面に倒れこんだままだったのを無理やり抱き起こされて、押しのけられる。
迫っていたはずの鋭い爪ではなくて、人間の白い手だ。なにが起こっているのかわからない。声を上げることもできずにまた地面へと叩きつけられた。

「ちょ、青年ったら乱暴なんだから」
禍々しい鳴き声ではなくて、低い人間の声。覗き込んできた男の人は、泥に汚れてしまった私の手をとるとゆっくりと起き上がらせて、背中を擦ってくれた。
「大丈夫かい」
「大丈夫、です」
やっと理解できる言葉と、助かったんだという思いに、ふっと体の力が抜けてそのまま見知らぬ人の胸に体を預けてしまう。
男の人と触れ合った場所からつたわってくる体温に泣きそうになった。いや、もしかしたら泣いているのかもしれない。
がくがくと震えるからだと、ぐちゃぐちゃの頭では自分の状況を理解するだけで精一杯で何を話しているのかも分からない。

「そんなに震えなくても、もう大丈夫」
男の人はにっこりと人好きのする笑みを浮かべると、泥で汚れるのも構わずに私の背中を抱き寄せてポンポンと叩いてくれた。
真っ黒な髪が頬に当たって少しだけくすぐったい。

「おっさん、オレが見てないからってへんなことすんじゃねえぞ!」
「へんなことってなに。だいたい、ちゃんと前見て戦ってくれよ」
伏せたままにしていた顔を上げて声がしたほうを見ると、私がいた場所に立って、逃げることなくモンスターに向かっていった人は、
曲芸みたいにくるくると剣を回しながら切りかかっていく。
今までに見たことない剣術に、走馬灯で過ぎったサーカスに行った記憶が重なった。

肩まで伸びた髪をひとくくりにした男の人は、私が死を覚悟したモンスターをなんてことないみたいな表情を浮かべ翻弄していく。
ドス黒い血を流したモンスターは背筋が寒くなるような咆哮を上げると、一度だけもんどりを打って地面へと倒れこんだ。

「ほら、言った通り、大丈夫だっただろ」
私の背に回していた手を離して、傍についていてくれた人が笑った。剣を手にして戦っていた男の人も、刃に付いた血を払ってこっちへと近づいてくる。
「さっきは、突き飛ばして悪かったな。怪我はないか」
そう聞かれて、足が酷く痛むことに気づいたが、それくらいの怪我ですんだのが奇跡みたいだから、こんなの怪我のうちには入らない。
軽い捻挫だろうから、家に帰って処置すればすぐ治るはずだ。
家に、帰れるんだ。
それだけが何にも変えがたいことのように思えて、ただ首を縦に振ることしかできない。

「このおっさんにへんなことされなかったか」
「なに聞いてるの!?」
「あんたが、腕なんか回してるからだろ。若い女の前だからって、格好つけるのやめろよな。猥褻罪で憲兵に突き出されるぞ」
「わ、猥褻罪って酷い。この娘が震えてたから、元気付けてあげようと思っただけなのに」
「あ、あの」
ちょっと前まで命の危機にさらされていたはずなのに、それとはかけ離れた会話にどんどんと自分を取り戻していく。
私のことなんて眼中にないんじゃないかと思えるほど、ポンポンとテンポよく言葉のキャッチボールをしていく二人に、
小さく声をかけると二人とも首をかしげてこちらを見た。

「なんだ、やっぱりへんなことされたか?」
「痛いとこあるの?」
二人とも私のこと心配してくれているはずなのに、まったく方向性の違うことを真面目な顔をして聞いてくるから、
緊張していた体の力が抜けて、くすくすと笑ってしまう。

「大丈夫です。あの、助けてもらってありがとうございました。なにか、お礼を」
せめてお金でもと思って、もってきていた小さなバスケットを探したけど、そんなものどこにも見当たらなかった。
たぶん、モンスターと遭遇したときに取り落としてしまったんだろう。
何か渡せるものはないかと自分の持ち物を探してみても、今日に限ってはお金になりそうな装飾品の類は身につけてきていない。

「お礼なんていいんだよ。通りがかりにモンスターを倒すなんて、旅の途中では日常茶飯事なんだ。特別なことじゃない」
「でも」
「そうそう、お嬢さんみたいな美人を助けれただけで儲けもんってね」
泥で汚れた顔を拭って、翡翠色の瞳が私を見た。そこに宿っている光も、私の背中を撫でてくれた手の体温も、
ふざけたみたいにして気を楽にしてくれようとした声色も、すべてが優しくて、本当に助かったんだと実感した。

「じゃあ、お名前だけでも」
「名前ね、名前」
髪を結わえた男の人は、何かを確認するように名前、名前と連呼して、連れの男の人に視線をやった。
二人はほんの少しの間だけ視線を交わすと、それぞれ困ったような顔と悪戯を思いついた子どものような顔をした。

「ユー、いや、ユーリル・オルトレインだ。ユーリって呼んでくれればいい」
ユーリルと名乗った青年はにやりと笑うと、あんたも早く名乗れよと私の隣にいる男の人へと視線を向ける。
でも、彼の口から出たのは名前じゃなくて、勘弁してくれよという呟きだった。
その表情はびっくりしているようにも、呆れているようにも見えて、楽しそうに首をかしげているユーリさんとは対照的だ。

「ユーリルくんとは違って、名乗るほどの立派な名前は持ち合わせてないよ」
「そりゃあ、残念だ」
「本当に、ありがとうございました」
その誤魔化すような態度に、たぶん名乗りたくないってことなのだろうと推測して、せめてお礼だけでもと何度も何度も頭を下げると、
そんなに気にしなくていいのにといって止められてしまう。
感謝してもしきれないくらいだというのに、早く帰って休んだ方がいい、足引きずってるよと心配までしてもらってしまった。

「じゃあ、俺たちいくから。腕に覚えがないなら、一人で森の中に入ったら危ないよ」
「はい!」
いままではどうにかなると思っていたけど、身にしみて学んだ教訓に大きく頷くと、それだけ元気なら大丈夫っていうのも嘘じゃないみたいだなと、
ユーリさんが肩をすくめてにやりと笑った。

二人の背中を見えなくなるまで見送ると、本当の目的だった薬草採取なんてやめて、街へ戻るための道を足早に駆けていった。
たぶん、今日の出来事は一生忘れられそうにない。








09・05・01