穏やかな笑みを浮かべた女が、いってらっしゃいとレイヴンの背中を送り出す。
毎日当たり前のように繰り返される挨拶に、ついに自分もここまできてしまったのかとこそばゆい気持ちを隠しきれなくなる。
レイヴン自身が、こういった家庭と呼ばれるものを持つ日が来るとは思ってなかったからなのだろうか。
酷く不似合いで、違和感を覚えてしまう。何かを確認するかのように後ろを振り返ると、見慣れた女の顔は逆光で隠れ、
真っ黒な髪だけがふわふわと風に揺られていた。

レイヴンは、ふとした切っ掛けで何かを思い出しそうになる胸のうちに蓋をして、いってくるよと手を振った。
体のどこかがジンとした痺れを感じたのは、たぶん彼の気のせいだと言い聞かせて。






 
お土産忘れないでね、という女の声にユーリはああと頷いたことを思い出した。
そうだ、家で待つ女のために、なにか土産を買って行かなければならないのだ。
仕事で遠出するといったときに、当たり前のように言いつけられた。
忘れずにいたなんて上出来じゃないかと自分を褒めて、夕暮れの露天を冷やかしついでに覗いて回っていく。
まさか、自分がこうやって法律上定められているような形で、家族を持つとは思っていなかったし、
そのことに対してユーリ自身がいまだに信じ切れないような不思議な気持ちをいだいていた。
愛や恋というよりは、仲間だとか友情といったものが、ユーリの中の割合を占めていたからなのかもしれない。
そんな思考にひかれるように、離れて久しい旅をともにした仲間のことが脳裏に蘇り、
最後に一番年長の悪友のようだった男のことを思い出して、打ち消すようにかぶりを振った。
ちがう、土産ものを選ばなければいけないのだ。ユーリは自分に言い聞かせて装飾品を売る露天へと目を向ける。
指輪にネックレスにピアス、女性が喜びそうな商品がたくさん並んでいる。
このあたりで見当をつけるかとユーリが視線をさ迷わせたとき、無骨な翡翠のブローチが視界に飛び込んできた。
翡翠色、ただそれだけで、ユーリが打ち消したものが、蘇りそうになる。
じわりと忍び寄ってくる誰かの影を振り払うかのように、一番遠い位置にあったシルバーリングを引っつかんで、店主へと投げ渡した。
 






ざあっと、視界を遮るように雨が降り出した。誰も予測していなかった夕立に、露天街は騒然とする。
店主たちは急いで商品が濡れないように店じまいをし、通行人は屋根のある場所へと足早にかけていく。
その波に流されるようにユーリも宿屋へと急いだ。が、ドンという衝撃の後に、何かにぶつかって倒れこんでしまう。
混雑する中、買ったばかりの指輪もユーリの手を離れてしまった。倒れているのはユーリだけだ。
ぶつかった犯人は謝りもしないでどこかへと消えてしまったらしい。

雨宿りできる場所を捜し求めている人々は、ユーリを一瞥すると手を伸ばすことなく避けて行く。
最悪だと呟いて、もう急ぐ必要もなさそうなくらい濡れてしまった体を起こした。

「お兄さん」
誰かが、ユーリの肩を叩いた。びくりと濡れた肩が揺れる。間違っても寒さのせいじゃないことは、彼自身がよくわかっていた。
じゃあどうしてだと自問自答。でも、ユーリの脳裏には答えなんかをと通り越して、無骨な翡翠のブローチがフラッシュバックしていた。

ユーリが返事をしないことを訝しがってか、声の主がもう一度肩を叩いた。
「指輪、落としましたよ」
体を走る緊張感を押し殺して、深く呼吸をする。
ユーリは心の奥で、オレは大丈夫だと祈りにも似た暗示をかけて自分の手のひらをぎゅっと握り締めた。
なにに対してこんなに緊張して、なにに対してこんなにも期待にも似た浮ついた気持ちが体を駆け巡っていくのか。
ユーリはまるですべての絵の具をぶちまけてしまったかのように、ぐちゃぐちゃな思考を手繰り寄せようとしたが、諦めてしまった。
終わったことだと捨て去っていたはずの感情が小さな音を立てて忍び寄ってくる。
ユーリは少しずつ少しずつ欲をいだきそうになる自分を誤魔化すように小さく返事をして、くるりと振り返った。

雨のカーテンの向こう、翡翠色の、瞳。もう随分と見ていなかったそれには、雨に降られたユーリの姿が映っていた。
そしてたぶん、ユーリの真っ黒な瞳には、目の前の男の間抜け面が映っていたことだろう。
周りが逃げ惑う中で、二人だけが時間が止まってしまったかのように動きをなくした。
そして必死に自分たちのなかの時間を巻き戻そうと、声もなく互いの視線だけが絡み合う。

かちゃん、という金属音を立てて、シルバーリングが地面を転がっていく。
静寂が姿を変えて、そこにあったのはバケツをひっくり返したかのような豪雨の露天街だった。
ユーリは妙にクリアに聞こえるその音を耳で追って、早く拾わなければと自分を急かしたのに、口から出たのはまったく違う言葉だった。

「宿が近いんだけど、雨宿りしてくか?」
ユーリの記憶の中ではいつも軽薄な物言いをしていた男は、まるで彼じゃないみたいに言葉少なげにああと返事をしただけだった。
お互いの声が掠れていたのは気のせいだろうか。ユーリの中を占めるのは、驚きと懐かしさと、雨の冷たさと、痺れるような感覚。
この男の顔を見るのはいったい何年ぶりだろうかと考えて、すぐにやめた。

家で待つ女のために買ったシルバーリングは、もうどこにも見当たらなかった。
 






間抜けな話だが、二人が久しぶりだなと言葉を交わしたのは、相変わらず風呂上りに髪を乾かさない男の部屋についてからで、
さらに一息ついて近況を報告しあったのは、冷えた体を温めるために交互に風呂に入った後だった。

「レイヴン」
名前を呼ばれて、彼に名前を呼ばれるのはどれくらいぶりだろうかと考えた。
レイヴンが思っていたよりも、幾分か低い声。逢わないうちに、レイヴンは自分の中にあった彼の記憶を少しずつゆがめていたらしい。
こうやって、再会することもなければ、目の前の男はいつか自分の中にその名前だけを残して、
まったくの作り変えられた人間として記憶されていったのだろうか。
逢えないうちに募るのは、妄想でしかないという言葉は、あながち嘘ではないのだろうとレイヴンは苦笑いを押し殺した。

「あんたもついに年貢の納め時ってやつか?」
「そういう青年だって、同じじゃないの」
どうせなら飲もうと渡されたアルコールを勢いよくあおった。
もう二十代も後半に差し掛かるはずの男の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいて、レイヴンは困ったように笑った。

お互いが家庭を持ったことは知っていた。人づてに聞いていた。でも、こうして二人が直接顔を合わせて話すのは初めてのことだった。
手探りのようないびつな会話。そして、いまさらに突きつけられる事実が、じわじわと自分の中を蝕んでいく気がする。
焦燥、嫌悪、後悔。レイヴンは適当に思いついた感情をあげ連ねてみせて、そのどれもが少しずつ違うなと心の中で一人ごちた。
だいたいが、何に対して、期待しているような追い詰められるような気持ちになっているのか。
レイヴンはもう逢わなくなって久しい昔なじみに、偶然逢っただけに過ぎないのだ。

ただ確かなことは、どちらともが示し合わせたかのように、昔と同じように振舞おうとしていた。
「まだ、甘い果実酒ばっかり飲んでるのかい?」
レイヴンが相変わらずだなと桃の絵が描かれたボトルを指差すと、ユーリが小さく頷いてグラスの中に僅かに残っていた酒をあおった。
この甘い物好きな青年の嗜好が変わっていないだけではなくて、どこかで見たことのあるボトルだと記憶を探りながら首をかしげる。
なかなか思い出せないレイヴンの代わりに、これあんたが昔くれた銘柄だぜとユーリが正解を提示して見せた。

「ああ、そういえば懐かしいわ。青年、美味しい美味しいっていって遊びに来るたびに俺にたかってたっけ」
「あんたに逢うたびにこれを買ってくるように強要してたみたいな言い草じゃねえか」
空になったグラスに琥珀色の果実酒を注いだユーリは、不満げに眉を顰めてみせた。
普段よりもペースが速いせいなのか、仕草がどことなく幼くて、レイヴンは釣られるように赤く染まった頬を撫でた。
アルコールがまわっている白い頬は不自然なくらいに熱い。触れてくるレイヴンの手のひらの冷たさが気持ちいいのか、
少しずつ理性の箍を外しつつある青年は小さく笑い声を上げると、猫みたいに顔を摺り寄せてきた。

昔も、こんなことがあった気がする。あの時はなんだったっけ。
レイヴンは自分が思い出すことのないように遠くに追いやっていた記憶に手を伸ばそうとして、いや違うそうじゃないと自分に言い聞かせた。

果実酒の、桃の甘い香りがして、二十代後半既に三十路にさしかかろうとしているはずなのに、不思議なくらい幼い仕草が似合う青年が、
レイヴンの名前を呼んで笑った。
赤い頬よりも熱を持った手が、どんどんと感化され温度を上昇させていく、節くれだったレイヴンの指に添えられる。

違う、と誰にともなく弁解をした。この黒い髪は、誰の物だ。家で、俺を待つのは、誰だ。
違う、皮膚の向こうの熱に感化されるたびに忍び寄る過去の残像を振り切るように、レイヴンは熱源から手を振り払おうとした。

「レイヴン」
が、それを許さぬ最後通告のように、記憶の中にあったものよりも少しだけ低い彼の声が、名前を呼んだ。
「レイヴン」
忍び寄るように、低いのに甘い声色がレイヴンの名を呼ぶ。
レイヴンが答えるべきなのか躊躇っていると、添えられたままだったユーリの手に力が込められ、ぐいと引き寄せられた。

あんたがわるい、と小さな声。なにがとレイヴンが問い返すまもなく、かさついた唇に温かいものが押し付けられる。
唇を割って入る舌は生暖かくて、甘い。

じわりじわりとゆっくりと音もなく影を落としていたはずの昔の記憶は、急にスピードを上げてレイヴンの心の中をかき乱していった。
混乱に乗じて背中を押されれば、あっけなく崩壊する。ユーリとレイヴンは息つく暇もなく唇を交し、お互いの口腔をおかした。
甘い味とアルコールの味と、それと久しぶりに感じる互いの体温。いったいどれに酔ったのか分からない。
最初は消極的だったレイヴンも、熱に飲み込まれるように目の前の男との口付けに夢中になっていく。
いつの間にか、レイヴンの膝の上に乗り上げていたユーリの瞳を下から覗き込んだ。
レイヴンの視線に気づいたユーリは本当に猫みたいに目を細めて、彼の首元に腕を回して、もう一度唇を重ねた。

レイヴンはどんどんと深くなっていく口付けに、今日はあの家には帰れそうにないなと、まるで他人事みたいに考えて、
目の前の熱を追い求めることだけに集中していった。










09・4・21