しぶりに全力疾走している気がする。
ただひたすらに前へと進むために足を動かしているはずなのに、自分の前を走る紫色の背中になかなか追いつくことが出来ない。
そればかりか、少しずつ息が上がってきている。旅をしていたときならこれくらいの距離で辛くなるなんてことなかったのに、
両手両足の指で数えても足りないくらいの日数を、栄えあるザーフィアス城の地下牢で過ごさせていただいたおかげでこのざまだ。
オレももう若くないってことなのかね。でも、そう考えると、呼吸を乱すことなくオレの目の前を走っている十四歳年上のおっさんに、
若さで負けたことにならねぇか。自分で考えてみて悔しくなってきたので、せめても負けないようにスピードアップをはかるも、
脳内では走る速度を上げたはずなのに上手く足が動かなくて足がもつれそうになる。

「青年、大丈夫?」
少しだけ走る速度を落としたレイヴンが振り向きざまに声をかけてきた。
が、その視線はオレではなくて、さらに奥、照明が落とされ薄暗くなった廊下へと向けられている。

「おっさんこそ無理するな。あした筋肉痛になってもしらねぇからな」
白々しいまでに日常を絵に描いたような会話が、薄暗い中でも磨きぬかれた美しさが分かるような壁に反響して消えた。
それとは逆に、むだに光沢を放つ大理石の床を蹴り上げる音だけは消えることなく断続的に続いていく。
その後ろから、金属のぶつかり合う、心地よいとはいえない音が追いかけてくる。まだ追いつかれてはいないが、
見回りの兵か何かだろう。いくらザル警備とはいえ、侵入者もとい脱獄犯がいることはばれてしまったらしい。
死刑囚であるオレが逃げたということが知れ渡ったかどうかは分からないが、追いかけてくる兵士の数から連想するにまだ大丈夫だとは思う。
だけど、間違っても会話の中でお互いの名前は呼ばない。無駄な抵抗だとは思うけれど、せめてもの予防線は張っておくべきだ。

足がもつれたことで乱れてしまったペースを取り戻してレイヴンの隣へと並ぶと、おっさんは小さく頷いてスピードを上げた。
あまり悠長に走っていると追いつかれてしまう。
なんたって脱獄犯と脱獄幇助の凶悪コンビだ、これを逃せば次の機会はいつになるかは分からない。
そこまできて、逃げ切ることを前提にしている自分にはたと気づいて、呆れてしまう。フレンにはもう罪を償うと決めたと啖呵をきったはずなのに、
いま必死で追っている背中はそれとは逆の方向へとオレを導いているのだ。

「どこから逃げるんだ。正面からなんて言うなよ」
「まさか。正々堂々真正面からなんて、おっさんの繊細な心臓が止まっちゃうわよ。もちろんそれ相応の場所から脱出させていただきますよ」
できるだけ警備の厳しい正門入り口付近や要人の私室がある二階へと続く道を避けながら、碁盤の目状になった城内を駆けていく。
いちおう一度は脱獄を経験した身であるから、城内の見取り図はなんとなく想像することができた。
追手を撹乱できるようにと、警備の厳しいところを避けて通っているせいもあって、少し方向感覚が狂ってきてはいるが記憶が正しければ、
オレたちが向かう先にはエステルと一緒に脱出したときに使った隠し通路へと出るはずだ。

「女神像の下ってか」
「ご名答」
おっさんは走りながら器用にウインクすると、見張りがいないのを確認して最奥の部屋まで突っ切っていく。オレもそれに続いていくと、
薄暗い中にメイドの汗と涙のおかげで白い肌を保ち続けている女神像が、いつもとかわらぬ柔らかい微笑を浮かべていた。
ここまで全力疾走だったせいで荒くなる呼吸を何とか落ち着けるために女神像へと寄りかかるが、休んでいる暇なんてないようだ。
少し前までは微かに聞こえる程度だった足音が、どんどんと近くなってくる。

「もうすこしがんばってちょーだい」
「おっさんに言われるまでもない」
少し呼吸の乱れているレイヴンにせかされる様にして、入り口を開くために女神像へ全体重をかけるが、まだ疲れを引きずっている体では、
うまく力を入れることは出来ない。こうしてもたもたしている間にも追手が迫ってきている。
厄介なことに、足音の数からして最初よりも人数が増えているようだ。
足音だけでなく、微かな声まで聞こえてくる。
力を入れても動いてくれない女神像から体を起こし、いつもの癖で剣を抜く動作をしてしまいそうになるが、武器は没収されて帯刀していないし、
護身用の短刀も持ち合わせていない。もともと逃げることを前提には考えていなかったわけだから、仕方ないだろう。

オレが無い武器を振ろうとしていた間に通路への入り口を開いたレイヴンは、オレを無理やりに引き寄せ通路の方に行くように指示すると、
隠し持っていた弓に矢を番え明かりが漏れるだけの通路の方に狙いを定めた。
オレが見たのはそこまでで、一転して視界は薄暗くなる。
レイヴンに無理やり押し込まれた隠し通路の中は、清潔感を保っていた城内とは正反対で、埃っぽさと鼻に付くような匂いが充満していた。
正方形に空いた入り口からはほのかな明かりが差し込んでいて、そこから追手の兵士の怒号と、続いて大理石の床に人が倒れる音が聞こえた。

上から聞こえる音はやみ、追手の気配も消えた。状況を確認する暇もなく、上からレイヴンが降りてきた。
冷たい石作りの地下道に、乾いた着地音が反響する。

「これで当分は大丈夫だと思う。けど朝になったら大騒ぎだろうから、今のうちに身を隠すなりなんなりしないと」
「ラピードつれてく暇なんてなさそうだな」
「まあ一刻も早く、帝都を離れた方がいいっぽいかもね。潜伏できる場所なんて用意してないし」
小さく頷いたレイヴンは、少しだけ躊躇ってざんばらに切りそろえられたオレの黒髪を撫でた。
口では何も言わないのに、その目はどこか名残惜しそうで、男が髪をきったくらいでうだうだ言うなよと言いたくなった。
少しでも手配書に書かれている特徴を目立たないようにしていかなければ、すぐに牢屋に逆戻りになってしまう可能性が高くなるのだから、
仕方ないだろう。

「じゃあ、ありがとな、ここまででいい。これ以上一緒にいて共犯なんて思われたらたまったもんじゃねぇだろ。
その代わり、武器が手に入るまでのつなぎとして、あんたの短刀を貸してくれ。また、落ち着いたら、どうにかして連絡は取るから」

まだ名残惜しそうに黒髪を手櫛で梳いていたレイヴンをの手を払いのけ、壁に預けていた体を起こして、
この暗い抜け道を一人で行く覚悟を決める。貴族街に繋がる出口から、どう抜け出すかは出てから考えるしかないだろう。
レイヴンは仕事で帝都に来ているといっていたから、姿を見られる前に追手を始末したというなら、
何事もなかったかのように用意されている部屋に戻れば、問題ないだろう。オレと知り合いという時点で疑われそうな気がするが、
何とか自力で乗り切ってくれというしかない。

だが、返事はなくて、代わりに呆れたようなため息が返ってくる。短刀を受け取るために差し出していた手のひらに乗せられたのは、
目的のものではなくて節くれだったレイヴンの手だった。オレと同じように城内を走り回った所為か、常に冷たかったはずの手は温かい。

「ここまで来てなに言ってんの。短刀どころかおっさんごと貸してあげますよ」
「はあ、一緒に来るって、天を射る矢の方はどうすんだよ」
「そっちは、今回の仕事の報告書と一緒に、当分は有給とらせてくださいって送っといたから」
「それで大丈夫なのか」
レイヴンが急に暇なんてだしたら、その穴を埋めるのに面倒なことになりそうなのに、当の本人はもうおっさんも現役は引退だかんね、
などと嘯いている。書類を受け取ったハリーの表情を想像して、自然とため息が出てしまう。
ルブラン達も、せっかく敬愛する隊長と仕事をともにできると喜んでいただろうに、かわいそうなことだ。

「しかも、オレと行くって事は、追われる身の犯罪者に仲間入りだぜ」
「いいも悪いも、決めちゃったんだからしかたないでしょ。どこかの誰かさんがオレが決めた道だって強情に言い張ったのを
無理やり曲げさせたんだ、嫌だといわれても最後まで付いてくさ。なんならこの先、一緒に行きますって誓うために、
傅いて恭しくキスとかした方がいい」

かわいこぶって首を傾げるさまに、なんだか力が抜けてしまう。自分の歳を考えて欲しいものだ。
だいたい、こんなドブ臭いところで、騎士の真似事みたいに忠誠を誓うなんて間抜けな構図だ。どう考えても喜劇的な要素しか見当たらない。

「考えとく」
でも、一番おかしいのは考えとくなんていって、答えを出すのを先延ばしにしている自分なのかもしれない。
覚悟を決めた道だった、オレに提示されて償いは死というものだった、なのにいまオレの手をとっているのは正反対の場所へと誘うものだ。
迷いも捨ててこの手をとることに戸惑いさえ感じていない。

「まあ、ゆっくり考えてよ、先は長いんだからさ」
オレの言葉と煮え切らない思考への二重の言葉にも思えたが、思考が読み取れるわけでもないから前者へのものだろう。
レイヴンはオレの返事を聞くことなく急ぎましょと呟いて、薄暗い中を躊躇いもなく歩き出した。
オレもいつの間にか落ち着いた呼吸でかび臭い空気を吸い込むと、少しだけの気だるさを残した体を動かして、紫色の背中を追った。





ロイヤリティー=忠誠心もしくは誠実さ
08・11・12