ほろ酔い気分というには飲みすぎたかもしれない。
久しぶりに酒場へとよったせいもあって、あの独特で猥雑な雰囲気に呑まれ、普段の自分のペースを崩してしまった。ふわふわする体を夜風で冷やしながら、街の中を歩いていく。自分では真っ直ぐに歩いているつもりではいるけど、はたからみたらよろよろとした千鳥足かもしれないと思うと、少しだけ笑えてきた。ユーリたちに見られたら、また呆れられそうだ。何度か通った宿屋への道をたどり、今日の寝床へと向かう。あまりいい宿とはいえないが、素泊まりの俺たちが泊まると思えば上等なものだ。使い古され、艶をなくしたドアをノックすると、少しの間があって人の気配と鍵が開く音がした。ドアを開けると中の照明は最低に限まで抑えられていて、廊下よりも暖かな空気が流れ出してくる。
するりと身を滑り込ませると、鍵を開けてくれたユーリが呆れたように腕を組み俺を見つめていた。
「ただいま戻りましたよーっと」
ふざけてユーリに抱きつこうとするが、受け止められるわけもなくひらりとかわされた。危うく床に突っ込みそうになる。意識はフワフワとしているはずなのに、体の動きは鈍っている。確実に酔っている。これで、明日二日酔いにでもなったら、怒られそうだ。
「ずいぶん遅くまでお楽しみだったみたいだな。酒臭い」
「たまには息抜きも必要でしょ」
無駄に高揚している意識のままに投げ出すと、いつもよりもはしゃいだような声色が響いた。
ユーリが背後を振り返ったことで、肩の向こうにある布団の塊が見えた。あれは三人部屋の中で唯一眠りに落ちているカロルだろう。だから、部屋の明かりも最低限まで落としているのだ。自分の場違いな声量に、起こしてしまったかと思ったが、寝返りをうっただけみたいだ。ユーリも俺も安堵の息を吐いた。
「いちおう、未成年も多いんだから、あんまりは目外しすぎるなよ」
良くも悪くも純粋培養なお姫様に、研究一筋の少女、まだ幼いギルドのボス。胸の中で指折り数えてみれば、確かに自分と一回りも違う連中ばかりだ。まあ、あんまり情操教育にはよくないわな。
「大丈夫、大丈夫。間違っても部屋に女の子連れ込んだりはしないから。ユーリくんだってたまには息抜きしないと、疲れちゃうでしょ」
薄暗い部屋の中、丁度影にいるせいでユーリの表情は見えない。でも、ため息をつく音が聞こえたから、どんな顔をしているかは易々と脳裏に描くことが出来た。それが分かってしまうくらいの付き合いになりつつある。答え合わせのためじゃないけれど、ユーリの表情が見えるくらいの位置まで近づいてみると、思ったとおりの呆れ顔だった。なんだかそんなことに気分が良くなって、ずいと顔を寄せると、酒臭いという小言が聞こえた。未成年メンバーの兄貴分というよりは、母親みたいだ。自分で考えてみて、あまりにもその立場がぴったりすぎておかしい。
「なんなら、おっさんが遊び相手してあげようか」
ああ、本当に酔っているなと思った。全体的にストッパーが外れている気がする。普段の自分なら、悪ふざけまではしても、こういった類の冗談は言わない。
ふざけついでにすぐ目の前にあったユーリの艶やかな髪に指を絡めると、嫌そうに手を払われるだろうという俺の予想とは逆に髪に触れている手をそのままに、ユーリから距離を縮めてきた。もともとそんなに離れていなかった俺たちの距離はすぐに縮まり、ユーリの顔がアップになる。
「それ、本気で言ってるのか」
薄暗い中に浮かぶユーリの表情からは呆れの色は消えていて、真っ黒な黒曜石の瞳は微かな室内灯の明かりを受けて静かな光を宿していた。しんと静まった闇の中に浮かぶそれは妙に艶やかで、見慣れた瞳のはずなのに、油断すれば魅入られてしまう気がして、ユーリの言葉にすぐ返事を返すことが出来ない。
ふざけていたのは俺のはずなのに、肝が冷えるような気がした。一気に酔いがさめていく。でも、アルコールを過剰に摂取した頭はうっすらと靄がかかったように重く、正常な思考を展開することが出来ない。そのため、目の前の映像を処理しきれずに動きが止まってしまう。
俺の無言をなんと取ったのか、ユーリの顔が更に近づいてきた。いまだ真っ黒な髪に絡めたままだった手のひらを握り締められ、力のままに引き寄せられる。ユーリの目は暗い中で光を帯びているせいか、まるで瞳が潤んでいるように見えて、傍で聞こえる呼吸音とあわせて、何かを哀願されているような場違いな連想をしてしまう。
お互いの呼吸音だけが室内を支配し、二人して言葉を発することはなかった。名前を呼ぶことさえもためらうほどの静寂。秘め事の最中みたいだ。あまりの想像力のたくましさに、自分で自分を殴りたくなる。
少しの躊躇いの間のあと、真っ黒な瞳が俺を見た。近づく距離に、ああキスされると思った。思考停止状態の頭に浮かんだのは、嫌だとかそういった類のマイナスイメージではなくて、この男とのキスを焦がれるようなもどかしさだった。酔いのせいなのか、それ以外のせいなのか、判断が付かない。どうせなら俺からしてしまおうかと思ったとき、ガタンという大きな音が静寂を破った。
「んぅ、ユーリ…」
音のあとに聞こえてきたのはユーリの名を呼ぶかすれたカロルの声で、そのあとに何語なんだか分からない寝言が続いた。二人して緊張させていた体から力を抜いて、大きく息を吐いた。いままであんなに近かった距離は、いつの間にか離れていて、繋いでいた手のひらは無意識のうちに離してしまったらしい。未練たらしくももう一度だけユーリの手をとろうとしたら、自然な動作でかわされてしまった。それがまた、まるで気のない女性にていよくあしらわれているようで、これじゃあどっちが遊ばれているんだかわからない。どっと疲れて、自然とでそうになったため息を飲み込むと、手を握ろうとしたら逃げたくせに、普段はグローブの下に隠されている白い手が、俺の唇をなぞった。それが何を意味しているのか、俺には計り知れない。ユーリのしたいようにさせていると満足したらしくにっこりと笑う。
「心配しなくても、息抜きくらいはしてる」
そういって、俺の背後にあるドアへと向かっていった。ユーリの背中を追うと、俺の唇をなぞっていた手がひらひらと振られただけで、振り返ろうともしない。
「ただ、レイヴンが遊んでくれるってんなら、またこんどな」
その代わりに投げかけられた言葉は、幼子に言い聞かせるような優しさを伴っているようにも思えた。
どうせならキスしておけばよかった。暗い部屋の中にがきんちょと一緒に置きざりにされた俺の姿はひどく滑稽なものだろう。今ごろ夜の街へと繰り出しているであろうユーリが、どうして俺のおふざけに対してあんな反応をしたのかはわからない。まあ、それが分かるほど、長い付き合いではないってことだろう。せめて、振り返らなかった背中を、窓の外に見つけようとしたが、ガラスの向こうには夜空が広がっているだけだった。




あと少しだったなと考えて、いったいオレはあの男に何を求めているんだろうと思った。すきとかきらいとか、愛だとか恋だとか、そういった類のものを持て余しているのか。言い訳するなら、衝動みたいなものだった。キスしてみたいと思ったわけだ。これ以上分かりやすい説明なんてない。でも、理由付けするのなら、エステル目を輝かせるような感情をいだいているというのが、一番分かりやすい。
「翻弄してるつもりで、翻弄されてるのはオレの方なのか」
首をひねって呟いた言葉は、おっさんの黒髪みたいな色をした空に響いて消えた。







08・10・20