宿屋に帰り着くともう受付に明かりがともっているくらいで薄暗くなっており、オレたち以外の宿泊客も眠りに落ちているのか物音一つなく、

二人分の足音だけがやけに大きく響く。羽織っていたマントを受付に返して部屋へと戻ると、オレたちの気配に気づいて目が覚めたらしラピードの欠伸に迎え入れられた。

他のやつらはみんな夢の中に旅立っているらしく、反応はない。

「残念なことに、風呂はもうかりられないってさ」

「じゃあ、砂まみれのまま就寝か」

「そうなるわな」

ちょうど隣同士に二つ空いているベッドの上にそれぞれ陣取ると、座り込んだ衝撃のせいで払いきれなかった砂埃が軽く舞い上がる。

次からマンタイクで夜の散歩に行くときはなにか羽織っていった方がいいということが、嫌というほどよく分かった。

隣のベッドで胡坐をかいているレイヴンも、紫色の上着を脱いで床の上で軽く砂を払っている。どうせならそういうことは外でやって欲しいんだけど、

ここまできて外に戻るのが面倒なのは理解できるから何も言わないでおく。

「あー、おっさん疲れたからもう寝るわ。明日も朝早いしね」

上着を叩き終えたらしいレイヴンは、今にも眠ってしまいそうなくらいの大欠伸をしてばたりと寝転がってしまう。

窓から見える空はもう真っ暗で、雲ひとつなく晴れ渡っている。そのせいか、いつも以上に星がよく見えるような気がした。

部屋の壁に掛けてある時計は暗いせいで文字盤が読めない。でも、確実にもうそろそろ眠らないと明日に響く。

「さすがにオレも、もう寝るよ」

手にはめたままだったグローブを外してサイドテーブルの上に放り投げると、寝転がっていたレイヴンが体を起こして寝るための身支度をしている姿が目に入った。

いつもは気にして見ることはなかったが、その手が結われた髪に差し掛かったときに目が離せなくなってしまった。

この目の前にいるレイヴンは、髪を下ろせば、間違いなく俺たちと対峙したシュヴァーン・オルトレインその人であるのかと。

本人が頑なにシュヴァーンという存在を拒否し続けるせいで、どこか現実味のないものに感じられるときがある。

まあ、あのお固そうなシュヴァーンが、軽薄を絵にかいたようなレイヴンと同一人物というだけで、驚きを隠せないところがあるわけだしな。

「おいおいユーリ、そんなに俺様のこと見つめてどうしたって言うのよ」

オレの考えてることを知ってか知らずか、真っ暗な中からいつも通りのふざけた声が聞こえてくる。

「いや、あんたも髪を下ろすんだなと思って」

「そりゃ、まあ、このままじゃ寝にくいからね」

それはそうだ。女性陣ならともかく男の寝る前の行動なんてつぶさに観察したことなかったから、こんなにも気になってしまうのかもしれない。

レイヴンは止めていた手を動かして、一つにまとめていた髪を解いた。結われていたときには癖毛のように見えていたのに、

解くと綺麗なストレートになるから本当に不思議だ。長時間結んでいたせいで付いた、うねるような癖だけを残して肩に流れる、無駄に艶やかで綺麗な黒髪は、

それだけでレイヴンの印象をがらっと変えてしまう。

「あれだよ、自分で言うのもなんだけどおっさん格好いいからね、あんま見てると惚れちゃうよ」

一瞬でも、もしかしたら格好いいのかもしれないと思った自分を抹殺したくなった。

やっぱり、オレたちの目の前に立ちはだかり、剣を交えたシュヴァーンとはやっぱり上手く結びつかない。

でも、胸埋め込まれた魔導器とレイヴンを囲む状況が同一人物だと証明していた。

ゆっくりと立ち上がり、隣のベッドの上に座り込んでいるレイヴンの横に腰をおろす。

出来るだけ音を立てないように気をつけたつもりでも、床やベッドが軋む音が小さく響き、連動するように誰かが寝返りを打つ音が聞こえた。

隣に座り込んだオレに手櫛で髪を梳いていた手が止まり、少しだけ驚いたような表情とぶつかった。

「なに、本当に惚れちゃった」

「なわけあるか」

驚きの色はすぐに消え、からかうような言葉が投げかけられる。オレががくりと肩を落とすと、逆に楽しそうにニヤニヤと笑いながら、

少しだけ低い位置にあるレイヴンの顔がオレを覗きこんできた。

「別に惚れちゃってもいいのよ」

しつこく言い募るレイヴンの額を無理やりに押し返すと、逆にその手を握りこまれ引き寄せられる。口調はふざけているのにそれとは裏腹に、

引き寄せる力は本気としか思えない強引さを感じさせた。

外にいたときと同じく冷えた手のひらは、オレの手を離すことなく少し寝乱れた胸の上へと導いていく。

そこは普通なら心臓がある場所で、でもレイヴンが持っているのは心臓なんかではなく、あのルビーのように真っ赤な魔核をもった魔導器なのだ。

危うい均衡の上に保たれている命の源。それに近づけば近づくほどに妙な緊張感かオレを支配し、必要以上に自分の心臓が鼓動が大きく聞こえる。

ためらいを示すように腕を自分の方へと引いてみても、それを拒否するような力で引き寄せられていく。

小さな攻防戦の末に触れた胸には、服の上からでも分かるように魔導器が装着されていて、いつもよりも近くにいるせいでまるで鼓動のような稼動音も聞き取ることが出来たし、

触れている手のひらからもそれを感じ取ることできた。

「おまえが俺に惚れたって、嫌ったって、いいんだ。ここもどこもかしこも含めた俺というものはね、もうユーリのものなんだから」

いつの間にか抱き込まれる形になっていたせいで真上から降ってきた言葉は、オレの想像の範疇を超えていて、理解するまでに少しのタイムラグがあった。

いったいこのおっさんは何を言い出すのか。さっきまでふざけいていたのが嘘みたいに、真剣な声に返す言葉に困ってしまう。

こんな口説くみたいなことは、いまからでも遅くないから酒場で綺麗な女相手にやってきてくれ。

「なにいってるんだ」

「ユーリがいったんだろ。生きるも死ぬもおまえさん達しだい、この命は凛々の明星がもらったってね」

「だとしても、あんたの命はあんたのもんだろ」

すぐにヘラクレスでのことを言っているのだと思い当たったが、オレはレイヴンという人間を所持するというつもりで言ったわけではなかった。

むしろそうすることで、あんたを自由に生きるということに向かわせるつもりだったのだ。抵抗のつもりで言い返すと、変わりに返ってきたのは小さな笑い声だった。

ふざけているのか真剣なのか分からなくなって、レイヴンの胸にもたれかかっていた体を起こしその顔をみると、真っ直ぐな視線がオレへと向けられていた。

その目の色に、いつもはちぐはぐなはずのレイヴンとシュヴァーンという人物が、オレの中で小さな音を立てて重なり合っていく。この目は確かに、

逸らされることなくオレを見つめていた瞳と同じ色を宿してるじゃないか。

「深い地の底から俺を掬い上げたのは、おまえだよ」

レイヴンはまだ握り込んだままだったオレの手を持ち上げると、エステルが語りそうな夢物語の一場面のように、手の甲にキスをした。

かかる吐息は手の冷たさが嘘のような熱をはらんでいて、なんだかこの行為が生々しいもののように感じられた。

「だから、ユーリのものなんだよ」

「オレ相手に気でも狂ったのか」

「ムードがないわねえ」

顔を上げてオレの手を離したレイヴンはいままでのことが嘘のように、いじけたように笑いながら乱れた服の胸元を直した。

ムードがないなんて、急に道化の仮面を外したかのように豹変してしまうあんたには言われたくないと思ったが、そんなこと言ったって、

笑って誤魔化すだけだろうから言うだけ無駄だろう。

手の甲にまだ感触が残るっているような気がして触れてみると、微かに熱を持ってるように思えた。この熱さえもオレのものだというのなら悪くない、そう感じる自分もいる。

でも、オレはあんたを道具として扱われていた事実から開放してやりたいと、自分から安易に選択できる死を捨てて生きることを選んで欲しかったというのに。

「そんなんじゃ、意味ねぇのに」

小さく呟くと、レイヴンは本当に容赦ないねえと困ったように笑いながら、上半身をベッドの上に倒した。勢いよく倒れ込んだせいで、隣に座っていたオレの体も軽く揺れる。

「もう寝るのか」

「若くないから、夜更かしは体に毒なの」

なんだか寝てしまうのが勿体無いような気もしたが、暗闇の中目を凝らしてみると読めなかった文字盤の数字が読めた気になるから不思議だ。

それによれば、もう当の昔に日付は変わっている。オレも寝るかどうか考えていると、寝転がっていたレイヴンが両手を伸ばして腰に抱きついてきた。

「若いもんはまだ寝ないのかい。それとも、寂しがり屋のおっさんのために添い寝してくれるとか」

勝手に妄想をしているおっさんの頭に鉄拳制裁を加えると、大げさな痛がりようでベッドの上をゴロゴロと転がりだした。

「あんたに付き合ってて疲れたからもう寝る。おやすみ」

「おやすみ」

ベッドの上に沈んでいた頭をもう一度だけ軽くはたいて立ち上がる。小さな非難の声が聞こえたが、それは気にしないことにした。

隣の自分のベッドに戻り寝転がると、隣からも布団をかぶっているような音が聞こえてきたから、本当に寝るつもりらしい。別に声をかけたっていいのに、

それをすると切がないことのような気がするので、今日は大人しく寝ることにする。

疲れているのだって嘘じゃない。布団にもぐりこんで瞼を閉じると、ゆっくりとまどろみの中へと落ちていった。













08・09・21