普段は静かな城内が、どこか浮き足立っていた。
朝、身支度を手伝いにきてくれたメイドから、廊下ですれ違う兵士まで、すまし顔で普段通りを装いながらも、
隠しきれない戸惑いや焦りが身にまとう雰囲気から溢れていた。
大理石の床を蹴る足音は、規則があるんじゃないかと思えるくらい、いつも一定のリズムを刻んでいるのに、
今日のリズムは乱れ気味で小走りだったりゆっくりだったり、新しい音楽を奏でている。

でも、混乱を見せているのはザーフィアス城内だけで、窓から見える仕切られた空は晴れわたり、小枝を揺らす心地よさそうな風が吹いていた。
もうすぐ空の真上にきそうな太陽に、そろそろお昼が近づいてきていることを知る。
朝から机に向かって集中していたせいで、時間を忘れてしまっていた。集中しだすと周りが見えなくなるのは、私の悪い癖かもしれない。
それとは別に、いろんなことに目移りして目標を定めきれずにいた私を、しかってくれた人がいたなと思うと、胸の奥がきしんだ。
彼はいま同じ建物の中にいるのに、手が届かないほど遠くにいるのだ。

ちょうど切りいいところまで書き上げた童話にピリオドを付けて、白紙が続く本を閉じた。
万年筆とインクを引き出しにしまい込み、机の上にあるブックエンドの間に差し込む。
その代わりに、まだ読みかけだった本を取り出ししおりを挟んだページを開いたところで、背後のドアがノックされる音が室内に響いた。
手を止めて時計を確認しても昼食にはまだ早く、今日の予定を思い浮かべてみても面会の約束は思い当たらない。
椅子から腰を上げてドアの前までいくと、もう一度静かなノックがドアを揺らし、その後から聞きなれた声が聞こえてきた。

「エステリーゼ様、フレンです」
フレンは少し前まで騎士団の任務で遠征していたので、彼の声を聞いたのは久しぶりだった。
用心のためにとかけるように言われていた鍵を外して、すぐにドアを開けると、見慣れたフレンの姿がそこにあった。

「すみません、まさかフレンだとは思わなくて」
「いえ、私のほうこそ、急にすみません。少しお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
私が首をたてに振ると、フレンは少しだけ周りを気にしながら部屋の中に足を踏み入れた。
お茶もお菓子もすぐに出せるものが用意できていないので、メイドに頼んで持ってきてもらおうと思ったけど、フレンに止められてしまう。
仕方がないので、来客用の椅子を勧めて、私もフレンの隣に腰をおろした。

「何かありましたか?今日は少しだけ城内が騒がしい気がします」
中々口を開かないフレンに問いかけると、青い瞳が宙をにらみ少しだけ躊躇するような表情を見せた。
フレンの髪は窓から差し込む光を受けて、金糸みたいにキラキラと輝いている。黒く艶やかな髪も綺麗だったけど、光を受けて輝く金色も綺麗だ。
どちらも他の色に負けることなく、確固たる自分を持っていて少しだけ羨ましかった。
物思いにふけっていると、急にフレンに名前を呼ばれて、条件反射みたいに返事をして姿勢を正してしまう。
真っ直ぐに私を見つめる瞳は揺れていて、フレンも今日の騒がしさに飲み込まれている一人なのかもしれないと思った。

「ユーリが、姿を消しました」
思いもよらなかった名前に、声が出なくなる。それは今、私が頭の片隅で思い浮かべていた人の名前だ。
何かを言おうとしたのにヒュッと喉が鳴っただけで、フレンの次の言葉を待つことしか出来なかった。

「昨夜までは地下牢にいたらしいのですが、今朝には誰もいなくなっていました。それとあわせて、昨夜城内に不審者が出たそうです。
対応に当たった兵士はみな、女神像付近の廊下で倒れていました。不審者の姿を見たものも声を聞いたものもいません」

「女神像、ですか」
頭の中が一杯になって、いろんなことを考えているのに、どれも繋ぎとめて形にすることは出来なかった。
ただひとつ確かなのは、女神像というキーワードは私とユーリが共通で知っている抜け道への手がかりだと言うことだ。
ほかにこのことを知っている人は、ユーリの口ぶりからしてレイヴンだけだろう。
そこまで考えて、いまギルドと騎士団の橋渡しとしてレイヴンが帝都に派遣されていることを思い出す。

「すぐに、レイヴンに会うことは出来ませんか?いま客室の方に滞在していると聞いています」
いままでなんだかんだと理由付けされて、私とレイヴンが会うことは許されなかった。たぶん、私と彼がユーリの共通の知り合いだからだろう。
それと同じようにして、ユーリに面会することも、だ。だた、ユーリが姿を消したと言うのなら、レイヴンが関わっている可能性を否定は出来ないし、
もしも私に力になれることがあるなら、すぐにでも彼を助けたい。
でも、私の思いに反して、フレンは首を縦には振ってくれなかった。
「それはできません」
「どうしてですか!」
「レイヴン殿も姿を消したからです。ユーリが脱獄したことですぐに城内が調べられ、少人数ではありますが捜索隊も編成されました。
ユーリと面識があったということで、すぐにレイヴン殿の所在を確認したのですが、既にあてがわれた部屋にはその姿はなく、
武器その他身の回りの必要最低限のものもなくなっていました。朝から城門前に立っていた兵士から城内の警備を担当したものまで、
彼の姿を見たものはいません」

フレンも口から告げられた事実に、喜べばいいのか悲しめばいいのか分からなかった。
与えられた情報は、あまりにも衝撃的すぎて、それを自分の頭の中で統合するだけていっぱいいっぱいになってしまう。

「そうですか」
「私はレイヴン殿が手引きして、ユーリを逃がした、もしくは一緒に逃亡しているのではないかと考えています」
「それは、騎士団の統一見解なのですか?」
「そうではないかと疑っているものもいますが、全てではありません」
ユーリが指名手配され、その罪状と賞金を知ったときには驚いて声をなくし、彼が自首してきたと聞いたときには目の前が真っ暗になった。
どこかで、彼ならば捕まることなく逃げ続けることが出来るんじゃないかなんていう、冒険小説の主人公みたいなことを考えていたのに、
その予想があっけなく崩れ去ってしまったからだろう。旅路をともにしたみんなは、私と同じように驚き言葉を失っていた。
でも、おかしな話だけど、誰もが同じように、刑が執行される前に彼の手を取って、脱獄の手引きをしようと考えていたのだ。
私もリタもジュディもカロルもフレンもラピードも、そしてレイヴンも。みんながみんな同じことを考えていた。
しっかりと言葉にした人もいれば、そうじゃなかった人もいたけれど、胸にしていた思いは同じような色合いをしていたのだろう。

誰が実行したって迎えた結果は同じだった。でも、少しだけ残念に思っている自分がいる。どうせなら、私が彼の手を取りたかった。
いろんなことを学ぶ切っ掛けをくれて、いろんな場所で私を助けてくれて、私の人生を変えてくれた人だから、せめて手助けになることをしたかった。
でも、私なんかが助けに行ったら彼は苦笑いをするだけで、むしろ私が助けられることになりそうだ。
そう思うと、普段は絵に描いたような軽薄な振る舞いなのに、いざというときには信じられないくらいのしたたかさと判断力をみせるレイヴンが、
その手を引いていったとは、良かったことなのだと思う。

良かったことなのだ、これで良かったことなのだけれど、一方で彼は間違いなく犯罪者だった。
法を遵守するというのなら、こうやって私が胸のうちで画策していたことも許されないことであり、そしてまた彼自身も脱獄という罪を重ねてしまった。
もっと機械的に良いことと悪いことを判断できればいいのに、人間である限り心がそれを許してはくれない。
ユーリがしたことは正しいことで、でも間違いでもあった。彼がしたことで、たくさんの人が救われた。
でも、それは彼が犯した罪の上に成り立った救済なのだ。
何が正しくて何が間違っているのか、為政者に限りなく近い立場にいる私は間違えてはいけないことなのに、答えのないこの問いに
相応しい解答を用意することさえ出来ない。

「このことをエステリーゼとしてどうとらえるべきなのかはわかりませんが、エステルとしてはこの上なく喜ばしいことだと考えています。」
「エステリーゼ様」
フレンは真っ直ぐに私を見ると、小さく笑った。それは自分も同じ気持ちだと言われているような気がして、私も自然と頬が緩む。
自分の立場には相応しくない、不謹慎な想いだと思う。
でも、黒髪の彼が、あの薄暗い檻の中ではなくて明るく美しい日の光の下を歩いているのだと思うと、胸の中が安らぎで満たされていくような気がした。



08・11・26