目の前に広がる色は、どこまでも続く青。
まるで眩暈でも起こしてしまいそうなそうなその色の果てに、世界の脅威が潜んでいるんだという。

そんなこと、誰が信じることができようか。誰もが恐れていた災厄は、驚くほど近くに身を潜め、俺たちを嘲笑っていたのだ。
どれだけ見つめたとしてもかわらない風景から視界を移し、自分の眼下に広がる世界を見た。

また違う意味で、気が遠くなりそうな眩暈が、恐怖とともに襲ってくる。足元から崩れ落ちてしまいそうな、言いようのない浮遊感。

自分の足元、何メートル下かわからないそこには、いつも足をつけ踏みしめている大地が広がっているのだ。

それを意識するだけで、いま自分が立っている場所が簡単に崩れ去ってしまうような気さえした。
クリティア族が隠れ住むミョルゾ。
そこは地上しか知らぬ人間の、想像を絶する場所に存在していた。

たぶん、多くの人間たちは、自分の頭の上にある青空にこんな街が存在していることなんて、知りもしないのだろう。

長生きしていると、思いもしない経験ができるもんだ。
 地上に広がる街とは違い、人の気配はあるのに喧騒を感じさせない。

白を基調とした石畳の道に石造りの家々、どちらかといえば神殿に近い雰囲気と空気を感じさせる。

その静けさが、俺たちが置かれている絶望的な状況を際立たせている気がした。神聖な空気とは対照的な、ひんやりとした冷たさと気味の悪さ。

進退窮まった凛々の明星には、隠者ばかりが集うこの街の空気から纏わりつくような絶望の片鱗のようなものを感じ取ってしまった。
 この街が悪いわけではない。どうにも暗くなってしまう俺たちの考え方の方が悪いのだろう。

だけど、ここまでくればチェックメイトは目前だ。もちろん、クイーンを取られるのは俺たちの方。
 気安く、そして無責任に、大丈夫だといって、己の身に宿された宿命の重さに押しつぶされそうになる少女の肩を抱いてやることなら、誰だってできる。
でも、そんなもの安っぽくて意味のない仮初でしかない。

本当の意味で、彼女を暗闇の中から救い上げることのできる打開策を持ったものは、いまこの場所には誰一人として存在してはいないのだ。

泣いたって、笑ったって、怒ったって、その感情を受け止めることはできても、誰も彼女を助けることができない。

ただいまは、悲観にくれるその背中を、安っぽい同情で慰めるくらいのもんだ。
 だが、俺が彼女に与えることができるのは、そんな優しいものではない。たぶん、悪魔の囁きだ。

そうだと分かっていても、俺は自分に与えられた役目を果たすために、頼りない桃色の背中を探してミョルゾをさ迷っていく。
 この神聖な雰囲気を気味悪いと感じてしまうのは、これから自分が行うことに、僅かばかりの罪悪感に似たものを感じているからなのだろうか。
だとしたら笑える話だ。
場所や時期がどう変化したとしても、最初から終着点のシナリオにかわりはなく、俺に与えられていた道化の役目は分かりきっていたものだったのに。

なにを今更ながらに、躊躇ったふりをしているのだろうか。
肌を刺す冷えた空気に、いつの間にか着慣れてしまった羽織の前をかきあわせる。

家が立ち並ぶ申し訳ない程度の街並みからはなれ、人影も少ない外界との繋がりを持つ広場へと進んでいく。

外界との繋がりを持つといっても、もう転送魔導器からは魔核が抜き取られていて、役目を放棄した魔導器たちが放置されている物置のような場所でしかない。
見通しのよい広場の様子をうかがうように歩みを進め、目的の少女を探す。

彼女一人ではこの街から離れることも、遠くに行くこともできないのだ。だから、残る場所はここしかない。
ゆっくりとした歩調で開けた場所を見回し、いまにも足を踏み外してしまいそうな危うさでどこか遠くを見つめている背中を、視界の端に発見する。
もしかしたら、このまま足を踏み外して、地面へと落下してしまった方が、彼女の為なんだろうか。

エゴと現実味のない最低な笑い話でしかない考えを、真っ白な石畳の上に投げ捨てて、気配を殺していた体から力を抜いた。

まるでここに居ますよと自己主張するかのように、コツコツという足音を立てて、白亜の道を蹴り上げていく。
いまにも風に吹かれて落下してしまいそうな肩が、俺の足音に反応したのを確認して、小さく深呼吸をした。
さあ、ここからが本番だ。俺はこの瞬間のために、あいつらと行動をしていたのだから。
ごめんね嬢ちゃんと心の中で囁いて、そのしたたかさに笑いたくなった。こうやって、予防線をはっている。裏切るのは誰でもない俺だというのに。
 でも、俺っていうのは誰なんだ。
 だってそうだろ、シュヴァーン・オルトレインは任務を追行しただけだ。もともとこうなるように、稚拙なシナリオが描かれていた。

だからいままで、あんなぬるま湯みたいなお友達ごっこの中に身を置いてきたんだ。
 そうだ、そうに決まっている。何を迷う必要があるんだろうか。最初から決まっていたことは、覆しようがない。
「どうしたんですか?」
 いつもとはかわらない。いや、自分の価値観さえもかわってしまうような真実を知りながら、

荒れ狂う心の中を押し殺してまで気遣うような素振りを見せる掠れた少女の声。
 ここで彼女に駆け寄って、優しい猫撫で声で、彼女の心の隙間に漬け込んでしまえばいい。

そうやって、エステルの意思さえ関係なく、俺に与えられた任務を全うすればいいんだ。
 さあ、俺は何のためにここにいる。俺は、誰の所有物だ。俺は誰だ。そんなこと愚問だ。だって、俺は、俺は。






 入ってきた人影に深々と頭を下げる。顔を上げろという言葉に、声の主を見た。

もう惰性ともいえるような決まりきったやり取りだ。そして、目の前に居るのも嫌になるほど見慣れた相手。帝国騎士団団長アレクセイ・ディノイアその人だ。
普段彼を護衛している親衛隊の姿はいない。騎士団長ともなれば一人で出歩くことなどほとんどない、だがこれは、騎士団の見せられない部分、

つまるところある種の反乱に似た要素を兼ね備えた密会みたいなものだから、護衛さえつれてこなかったのだ。
「エステリーゼ様を無事連れ帰ってくれたか」
「はい。暴れてお怪我をされると大変ですので、薬で眠っていただいています」
「そうか。しかし、私の命令よりも一人多いようだが」
 部屋の隅で気を失っている少女の隣。そこには同じように気を失っている人間の姿があった。
「任務の途中で見つかってしまい、やむなく連れてきてしまいました」
「ユーリ・ローウェルか。手を噛まれることもあったが、なかなかよい働きをしてくれた駒だったな」
 そして、俺も現在進行形でいい働きをしている駒の一つでしかないのだろう。熱してもいなかった感情が、どんどんと冷めていく。

ただ相手が期待する返事を返し、相手が望む働きをするだけだった。目の前の相手に、失望と憎しみに似たものを感じたこともあった。

でもそれは、もう思い出せないほどの遠い昔だ。いまはただ、あるべきものがなくなってしまった胸に、空虚があるだけだ。
「だが、なかなかに邪魔をされたのも事実」
 値踏みするような視線で、ユーリの頭から足までを見たアレクセイは、口元を歪め、普段のカリスマ的指導者には似合わない笑みを浮かべる。

市井で語られる英雄のような騎士団長像からかけ離れた笑みは、しかし俺には馴染みがあるものだった。
 彼は変わってしまったのだ。自分の理想と現実の狭間で、どんどんと加速度的に。

彼がそのギャップに苦しめば苦しむほど、あの笑い方をする回数が増えていった。
「シュヴァーン」
「はい」
「エステリーゼ様は、仕官クラスの船室で休んでいただけ。

だが、ユーリ・ローウェルの方は不穏分子ということで、この部屋を一時牢として使用し、閉じ込めておく」
「わかりました。後ほど用意させます。私はこのまま通常任務に戻れば?」
「いや、このまま私とともにバクティオン神殿に来てもらうつもりだ。こちらの準備が整うまでは待機していてくれ」
 アレクセイの命令に頷くと、部屋の隅から呻き声が聞こえてきた。薬が切れたかと、様子をうかがうが、目覚める気配はない。

ミョルゾで昏倒していらい意識を取り戻していない二人は、こんなことになっているなんて知りもしないのだろう。
 二人が姿を消したまま帰ってこないならば、待機していた他のもの達もそろそろ気づいて行動を起こしているはずだ。

すぐにどこに消えたかが知れるようなミスはしていないし、正体がばれているような雰囲気もなかった。たぶん、ミョルゾで何か対策を練っている頃だろうか。
 じっと二人が居る方向を見つめていると、背後かが小さな笑い声が聞こえた。

この場には不似合いなその声に、笑いをかみ殺しているアレクセイを振り返ると、その笑いとは正反対の冷めた声色を投げかけられた。
「随分、彼らと行動を共にしたのだろう。情でも湧いたか」
「そういうわけでは」
「おまえの方はそうかもしれんが、あちらはなかなか懐いていたようじゃないか」
 顎で示してみせる先にいるのは、気を失ったユーリ。
まるで揶揄するような響きに不穏なものを感じる。試されている。たぶん、こうやって忠誠心をはかろうとしているんだ。
いったん納得してみせた振りをしてみせてはいるが、本当は俺にも情が移ったんだろうと、血の色よりも鮮やかな赤い瞳が笑っていた。
このあとどんな命令を下されるのかと、唇を噛みたい気持ちをグッと堪える。本当にそんなことをしたら、それこそ、何をさせられるか分からない。
俺を道具だと考えているのに、そして俺もその役目に徹しているのに、中途半端に求められる忠誠心が、

昔のままのシュヴァーンであれと強要されているようで好きではなかった。
「もしも暴れるようなら、これを試してやれ」
 手渡されたのは手のひらに収まるサイズのガラスの小瓶だった。瓶の半分くらいまでに、白乳色の液体が入っている。

二人を眠らせるために、アレクセイから支給されていた睡眠薬とは違うそれに眉をしかめると、毒というわけではないという呟きが落ちてきた。
「少し前に非合法の薬物を売買していた輩を捕まえたときに、回収したものだ」
 そういわれて、すぐに思い当たることがあった。たしか、この間、摘発された麻薬の密売組織があったはずだ。

そのときに回収したものだとしたら、毒ではないにしてもそれに准ずるようなものじゃないか。
 自分の手の中にあるものへの嫌悪感からそれをアレクセイに押し返そうとすると、それを遮るかのように、

毒じゃないといっているだろうと笑いを含んだ声がした。
「しかし、これは」
「依存性はない。ちょっとした興奮剤のようなものだ。どうやって使うかは言わなくても分かるだろう」
 今度こそ、相手には見えないように俯いて唇を噛んだ。手の中の小さな小瓶が、やけに重く感じられる。

興奮剤だというが、その手の店で媚薬と銘打たれているような、何が入っているか分からないものだろう。
「暴れたら、使えばいい」
 まるで忘れるなとでも言うかのように、ぐいっと肩をつかまれる。優しく囁かれた言葉を、額面通りそのままにとることはできない。

使えばいいということは、使えといわれているようなものだ。下世話で下種な命令だと思う。

だが、それに従順に従うであろう自分の姿を、簡単に頭の片隅に思い描くことができた。
「やはり、エステリーゼ様は私が連れて行こう。シュヴァーンはローウェルの処理を」
 ここで返事をしてしまえば、この手の中の小瓶を使うことを承諾したとされるんだろう。
まるで、俺がユーリのことを泣かせてみたいと、あの青年に対して暗い衝動を覚えていたことを見透かされたような命令。
青空で剣を振るい、酒場で不似合いなケーキを食べながら笑い、そして誰よりも仲間を大切にしていた姿を知っているからこそ、

与えられた命令がより生々しく重くのしかかる。
「シュヴァーン」
 名前を、呼ばれた。
 そう、シュヴァーン・オルトレインという名を。