たまに、本当にたまにではあるけど、殴ってやりたくなることがあった。

形にしてしまえば一方的で、酷く暴力的な衝動だ。気持ち悪いぐらいに晴れわたっている空には不似合いなその衝動を、オレは否定することはできない。
 それくらい真摯に、そしてまるで自分の中にある三大欲求と肩を並べるくらい当然に、

オレとは遠くはなれたところで短刀を振るっている男を殴り飛ばしてやりたくなった。
「こんなときに、なに考えてるのかしら」
 咎めるというよりは、面白がっているという方があっている声が、オレの思考を遮った。たしかに、

いまおかれている状況を考えれば悠長に考え事なんておかしいことだろう。

だけど、まったく呼吸が乱れてもいないジュディの声色にも、空恐ろしいものを感じてしまう。

落ち着いた口調とは正反対に荒々しく槍を振り上げるジュディを振り返ると、

いつもと同じような大人びた笑みとは不釣合いな狩人のような瞳で魔物との戦いを楽しんでいるようだった。
「いや、この状態からどうやって攻めていこうかと思ってね」
 殴ってやりたいやつがいるんだよなんて、馬鹿正直に吐き出すわけにもいかず、当たり障りのない言葉で誤魔化して、

ジュディと同じように、目の前の戦場へと意識を集中させていく。
魔物に四方八方を囲まれているこの状況から考えれば、嘘とは言い切れないオレの言い訳を聞いたジュディは、納得しているんだかいないんだか、

こういう追い込まれた状態も燃えるわねと、淑女にしては少々過激な台詞をはいて、やはり淑女というよりは肉食獣のような凶暴な笑みを見せた。
「そうだな、簡単にいくよりは、難しいほうがやりがいもあるってもんだ!」
 口にしている重いとは裏腹に、魔物に対する攻撃的な衝動よりも、オレの視界から外れた場所にいる男への衝動が高まっていく。
本人には冗談交じりでしか伝えられないであろう衝動を剣の柄を握っている手のひらにこめて、目の前にいた魔物を一刀両断する。

オレの剣を拒絶するかのように、硬い魔物の筋肉が刃の進入を阻む。

さらに自重をかけてぐっと刃を進めると、肉と骨を断つ嫌な音と魔物の絶叫が鼓膜を揺らした。
 瀕死の傷を負った魔物は、しかしそれに屈することなくオレに向かって鋭利な爪を振り上げた。

いくら痛手を負って力ない攻撃とはいえ、まともにくらってはオレも唯ではすまない。
バックステップで魔物の攻撃範囲から脱して、逃げたオレを追う様に向かってきた魔物の攻撃を受けるために、汗で滑りそうになる柄を握りなおした。

目の前に迫る爪の軌道を予測して、剣を振り上げる。だが、それよりも早く、遠くから戦いのさなかには不似合いな凛とした詠唱が聞こえてきた。

エステルの詠唱にあわせて、魔物の血の臭いや殺気で満たされていた空気が少しずつ清浄なものへと変わっていくような気がする。

たぶん、彼女が操る術が光の属性を持ったものだからだろう。
「ユーリ」
詠唱の合間に、合図のように呼ばれたオレの名前に、こちらに向かって術を放つのだろうと分かった。

何度も戦いを共にしてきたから、理屈とかではなくて感覚で、次の行動を推測してしまう。
 エステルの詠唱が完了するまでの時間稼ぎのように迫ってきた爪を受け止めて跳ね返し、がら空きになった胸元へと切り込んでいく。

魔物の肩越しにはオレと同じように切り込んでいくジュディと、弓を構えているレイヴンの姿を確認できた。
「くっ」
 斬撃の痛みに身を揺らした魔物の爪が左腕をかすり、微かな痛みを感じる。感覚的に深くは切れていないことがわかる。

だが、少しくらいは出血しているかもしれない。まるで八つ当たりのように、もう一度剣を振り上げようとしたときに、聞き慣れた詠唱が耳元に飛び込んできた。
「聖なる槍よ、敵を貫け! ホーリィランス!」
 術が完成すると同時に魔物の足元に幾筋もの光が現れ、まるで芸術作品にほどこされているかのような緻密な円陣が広がっていく。

治癒術のときにオレたちを包み込むのと同じような光がその円陣へと収束していくのに、

それはその柔らかさからは想像できないような破壊力を持って魔物を襲う。
 魔物の頭上には硝子細工のように美しい光の槍が現れ、一気に一点に降り注ぎ、目を焼き尽くすような光の爆発を起こす。
 眩しいほどの光の槍が消え去った後には、無残にも倒れている魔物がいるだけだった。

あれだけの力が凝縮されて、何も残さずに消えていってしまうのだと思うと不思議な気持ちになる。
「ユーリ! 後ろです!」
焦ったようなエステルの声に振り向くと、雲ひとつない空には不似合いな真っ黒い影が落ちていた。

なんの影かなんて考える必要もなく、新手の魔物がオレに向かって走ってくるところだった。

すぐに体勢を立て直して剣を構え、どのように迎え撃つかを頭の中で組み立てていく。

が、それを邪魔するかのように不失敬な声がオレに投げかけられた。
「せーねん、気抜きすぎなんじゃないの!」
「うるさい! おっさんは黙ってろ!」
 殴ってやりたいと思っていた本人からの茶々にイラついて、その不快感を剣戟へと向かわせる。

大振りな魔物の攻撃を避けて、がら空きの状態のところへと斬りかかり、その斬撃を足掛かりのようにして、

くるくると剣を回して相手に攻撃をする隙を与えずに切りかかっていく。

魔物の巨体が逃げようと身を引くことを許さずに、後退していく魔物を追って刃を振るう。

剣戟と回し蹴りを交互に放って、最後に地面めがけて血に濡れた巨体を叩きつけた。



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 生きていると、この胸の鼓動を強く意識したのはいつのことだろうか。

鼓動というにはお粗末な、紛い物ではあるけれど、今の俺にとってはなくてはならない生の象徴だった。
 一番最初は、自分が死んで、もう一度生き返ったとき。
 まるで、スイッチを切り替えるような、そんな目覚めだった。

たしかに死んだと思った。頭の中に手を突っ込まれてグチャグチャにかき回されたんじゃないかというくらいに乱暴な走馬灯が走り、

自分が危機的状況にあることを嫌というほどに実感させられた。

眠るように穏やかにというよりも、無理矢理に自分の中にある電源スイッチを切られるような乱暴な終わりだった。そして、それに相応しい急な目覚めだった。
 じゃあ、二度目はと問われれば、それはたぶん、いままで諦めきっていた自分というものをもう一度生きてみようかと決めたときだと思う。

あのときも、死んだときと同じように頭の中がグチャグチャだった。それは間違っても、死を意識して走馬灯が走ったとかいうわけじゃない。

そんな、可愛らしいものではなかった。もっとこう、自分を根底から揺さぶられるような、俺というものを乱暴に作り変えられてしまうような、そんな衝動。
 そう考えていけば、もしかしたらあれも、一種の死だったのかもしれない。いままでの自分とさようならするための、再生の前にある死。
 だから、気持ち悪い表現ではあるし、こんなことを青年の前でいったら死にそうなほど嫌な顔をされた後に鳩尾を全力で殴られそうだけど、

三度目の生を俺に与えたのは、違えようもなく、ぶっきらぼうで怖いくらいに優しい、あの青年だった。
 死ぬほど嫌な顔をされるとわかっていても、その嫌な顔を思い浮かべることさえ楽しいのだから、俺は少し浮かれているのかもしれない。

いままでの、どの生き方とも、始まりとも違うこの状況に。
 ぐらりと、揺れる。感覚的に。気持ちが、悪い。
 いままでまとまっていた思考が四散していき、ゆらゆらとした闇の中に落ちていきそうになる。

曖昧な空間の中でおいでおいでと手を招いているのは、暗闇とは対照的な真っ白い腕だ。

その手のひらが上下に揺れるたびに、俺の頭の中もグラグラと揺さぶられていく。
 気持ちが悪いのに、そのまま身を任せたくなるような。懐かしくも不思議な感覚に、その白い手の持ち主を夢想してしまう。

白い腕の先にあるのは、腕と同じように真っ白な肌と、女にしては高い身長。そして、真っ黒な髪。

腕だけしか見えないのに、思い浮かべる対象はブレもなく、どんどんと構築されていく。
 彼女は、黙っていればどこかの令嬢のように見えないこともないのに、口を開けば驚くくらい快活で、容赦がない。

周りにいる男とも対等に渡り合おうとするのだから、女というよりも女に近い男といった方がいい。

それが空回りして回りに呆れられるのかといえばそんな訳もなく、男ばかりの騎士団の中でも、男に引けをとることなく、むしろ驚くほどの功績を収めていた。

何にも臆することなく、自分に恥じることなく、前だけを見て己の望むままに進んでいく。

彼女の強さに引っ張られていたのは、俺の方だ。いや、いまもあの前だけを見つめている真っ黒な瞳にひきつけられて、腕を引かれている。

そうじゃなければ、諦めてばかりいた自分が、こんなふうに前に進むことを望むはずがなかった。

望むことを諦めて、諦めることばかりを望んで、諦めることに慣れすぎて、手を伸ばすことさえも倦んでいた俺が、

必死になってその背中を追おうとするはずがなかった。
 それくらいに、もう一度と、俺を奮い立たせた存在は、強烈で傲慢で優しくていとおしい。

無遠慮なまでの強引さで、もう誰も必要としないくらいに古びて錆びついてしまった過去しか詰まっていなかったうろの中を、簡単に満たしていった。
 そこまできて、あれと自分に首をかしげる。
 誰のことを考えているのだと。
 でもたしかに、聞き覚えのある声が俺の名を呼ぶ。
 また、ぐらりと揺れる。
 気持ちが、悪い。
 こんなにも、グラグラグラグラと揺れているのはどうしてなんだろうか、夢と現を繰り返すように、ゆらゆらとした優しい揺れではなくて、

本当に世界が揺れているような乱暴なもの。
 眠っている何かを呼び起こすかのような激しい揺れに、自分の身を守るために腕を上げる。

だが、その役目を果たす前に、まるで最後のとどめのような大きな衝撃が、俺自身を揺らした。
「さっさと目ぇ覚ましなさいよ!」
「う、わぁっ!」
 揺れの後に訪れた大声に、驚きで息がつまり悲鳴のような声がこぼれ出た。

いままで遮断されたように真っ暗だった空間が、急に眩いばかりの光に包まれて眩暈さえ起こしそうになる。
 いったい、自分がどこにいるのかがわからない。だが、あの激しい揺れだけは収まったみたいで、少しだけ気が楽になった。
「いつまで寝ぼけてんのよ。様子見にきたら、なんかうなされてるみたいだったから起こしてあげようと思ったのに全然起きようともしないし。

むしろ、何時間寝続けてると思ってるの。寝穢いにも程があるわ」
 耳元にすごい勢いで飛び込んでくる幼い少女の声に、いま自分がどんな状態にいるかは理解できなくても、

どんどんと足場が固まっていくように俺というものを取り戻していく。
「リタっち?」
 恐る恐る俺を揺すっていた犯人らしき人物に目を向けると、そこにいたのは嫌になるほど見慣れた、

小さな体には収まりきらぬような知識と探究心を持った魔導少女の姿があった。手探りのように名前を呼ぶと返事にしては冷たいため息が返ってきた。
「それ以外誰に見えるのよ。もしもあたしがあたし以外の誰かに見えるなら、急いで街医者を呼んでくるわ」
「いえ、まさか! 一応の確認のために呼んだだけだから気にしないで!」
 半眼の虚ろな目で俺を見つめてくる姿に、慌てて声を上げると、本気にしていないであろうあしらうような返事が聞こえてきた。