どうしてこうなってしまったんだろうか。
 どちらのものかも分からない湿った吐息がオレの肌を撫ぜ、触れた手が離れていくように、

数秒間だけ重なり合った唇が、いともあっけなく離れていった。

それをあっけないと感じてしまうのがおかしいのか、異常としかいえない関係では判断することができない。

いや、そんな類のことを論じる段階は過ぎてしまった。もう、手遅れなんだ。だって、二人して暗い部屋の中で唇を重ね合わせている。

こうなってしまったという現実しかないのだから。
そして、この現実しかないからこそ、薄暗い部屋の中で大の大人が二人して頭を垂れあって、

声に出さずにお互いの様子を探るように、額をつき合わせているんだろう。

だけど、どれだけ考えたって、打破するべきものも打破できるようなものもない。
重々しくも救いようのないこの現状の向こうになにがあるのかというと、別に何か特別なものがあるわけでもなく、

ただ単純に顔の一部である皮膚と皮膚が触れ合ってそれで終わりだ。
例えば手と手が触れて、肩と肩が触れて、皮膚と皮膚が触れ合って離れていくように、唇と唇が触れ合って離れていく。

本当に、ただそれだけのことでしかない。その裏に、邪推するような意味も胸が焦がれるような情動もないらしい。
じゃあやっぱり、どうしてこんなことになったんだ。
どんな事象にも原因があって結果がある。そして、原因があるのならばそうなってしまった理由があるはずなのだ。

なら、オレと目の前の男がこんなふうに、一般的な男同士の交流という規範から外れた行為を繰り返している理由も原因も、

どこかに埋もれているはずだ。なのに、どれだけ考えてみても、この結論に帰結するような原因も理由も思い浮かべることができない。
薄暗い室内の闇を映した翡翠色の瞳を問いただせば、オレは答えを得ることができるんだろうか。

手がかりを掴むように、目の前の男の名前を呼ぼうとしたとき、それを咎めるようにいままでオレに触れていた唇がオレの名前を形作った。
行き場を失い言葉になりきれなかった残滓を飲み込みワンテンポ遅れて返事をすると、まるでいままでの破りがたい静寂などなかったかのような気安さで、

もう寝ようかと首を傾げてみせた。
「眠いのか」
 小さく瞬いた翡翠の瞳が何もなかったかのように振舞うというのなら、オレも何もなかったかのように振舞うしかない。

そうやって、口に出すことなく遠まわしに選ぶべき道を塞がれてきたのだから。

だから、今回もこうして、この男が望むように、今までと変わらないオレとレイヴンの関係を模したようなごっこ遊びを続けるしかないのだ。
「べつに、あんたほどやわじゃない。あんたこそ、歳なんだろ。無理しないでゆっくりしたらどうだ?」
「ちょ、聞き捨てならないわね。ただ、ユーリが眠いんじゃないかなあって、気を遣ってあげただけじゃないの」
「いやいや、自分がそう感じるから、他人に対してもそういった気遣いをするんだろ」
 白々しい。
なんて白々しいと思いながらも、いつも通りに振舞うことしかできない。分かっているからだろうか、この先に何もないということを。

いま子供みたいに駄々をこねてみたって、これ以上の変化をえることができないということを。
だけど、求めるものって、変化ってなんだ。だいたいが、真にオレがそれを求めているかってことも、わからないんだ。

いまこの中途半端な状況を打破してみて、手に入るものが予想もつかないものだったらどうしてくれる。
 悔しいことではあるが、この男との関係を心地いいとは思えど、苦痛と感じてはいないのだから。
「不毛だな」
 口から滑りでた言葉に、レイヴンが翡翠色の瞳を瞬かせた。薄闇のなかで、翡翠色の奥に宿っている感情がどんなものか読み取ることができない。
「そうねえ。この時間に男二人で向かい合っててもね」
 女と一緒ならいいのかよといいかけて、声に出すことなく言葉を飲み込んだ。それこそ不毛だ。

向かい合っていることよりも、唇を重ね合わせることなんかよりも、まるで拗ねたような素振りを見せるほうが寒々しい。
「明日、だっけ?」
「何が?」
 聞かれていることが分からずに首を傾げてみせると、近くにあったレイヴンの上体が離れていって、二人して座り込んでいたベッドの隣にある窓の外を見た。
 曇り空が常で太陽が覗くことの少ないダングレストの空は、夕焼けよりも濃い茜色を宿していた。

街自体が暗いせいもあってか、道を照らしている街灯だけでは、外の様子を知るには頼りない。

なのに、そこにあるのは寂しげな雰囲気ではなくて、猥雑さをあわせもった活発さだから不思議である。

これも、ギルドという自由を掲げて生きる集団が中心となっている街だからなのだろうか。
 まだ人通りの絶えない繁華街を睨みつけながら、隣にいる男がなにを考えているかなんて、想像することもできない。

妙な沈黙が居心地悪く明日明日と考えをめぐらせていると、はたと思いつくことがあってああとう声が滑り落ちた。
 それに反応するように、レイヴンがこちらを振り向いた。影になっているせいで、その表情を確認することは出来ない。
「明日っていうから何のことかと思っただろ。仕事の話か?」
「そうよ。出発、明日って聞いた気がするんだけど」
「ボケるのはまだ早いぞ。明日じゃなくて明後日だ。明日はカロル先生と道具の調達と打ち合わせだ。

いちおう、準備だけはしっかりしといた方がいいだろう。少し時間のかかる仕事になりそうだからな」
「そっか、明後日か」
 ぽつりと呟いたレイヴンは、明後日ね明後日と口の中で復唱して、薄い唇を指先で撫ぜた。
「護衛の依頼だっけ?」
「ああ」
 依頼が立て込んでいたこともあって、前回の依頼が終わってから少し休みを挟むつもりでいたのだが、いつの間にか新しい依頼を受けてしまっていた。

なので、準備期間が十分とはいえないけど、明後日から新しい依頼に取り掛かることになった。

依頼人が指定した出発地点はダングレスト。

滞在期間も短いし、知り合いのよしみということもあって、押しかけ同然におっさんの家に泊めさせてもらうことになったのだ。
「護衛か……。面倒だな。距離はどこからどこまでなんだ?」
「ダングレストからハルルまで」
 世界の仕組みを変えるために戦って、世界は変わって、でもオレたちは世界が変わる以前と変わることなく生きていくために、

変わることを強要された世界で毎日を過ごしている。
そして、生きていくためには金が必要で、金を得るためには労働を強いられるわけだ。

いくら贅沢を望まなくたって、最低限のものを得なければ、人間らしい生活を営むことさえもままならないわけだからな。

どうしても必要で、どうしても避けられなくて働くなら、自分のしていきたいことをして、賃金を得るほうが気持ちいいに決まっている。
だからオレは、あいも変わらずカロル先生と組んで、たまにジュディやリタを加えて凛々の明星としてギルドの仕事に精を出しているわけだ。

これでもなかなか上手くいっている方らしく、オレの知らないところで流れているギルドの噂は上々なものだそうだ。
客筋だって悪くないし、仕事を選り好みしていられるほどではないが、仕事を切らしたことはない。

掃いて捨てるほどギルドがあるなかでは、中々のものだろう。




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これ以上は仕事をしない。
もう無理だ、今日は十分働いたはずだ。

これ以上目の前にある書類仕事や、形にはされていないけど処理されることを待ち望んでいる仕事たちを片付けてしまったら、

俺だけ仕事の進みが速すぎて、周りが困ってしまうことだろう。
「いやあ、今日もよくがんばったね、俺様」
 誰もいないことをいいことに、自画自賛して帰りの支度をしていると、それに水を差すようにユニオン本部内にある俺の私室のドアをノックする不届き者が現れた。

これじゃあまるで、残っている仕事をそのままにして帰らせるものかと宣言しているようなタイミングじゃないか。
 帰り支度をしていた手を急がせてもう帰る準備は万端というところまできてから、開いているわよとドアに向かって呼びかけた。

二〜三度ノックを無視したせいか少しばかり乱暴にドアが開けられて、夕方にした会議で顔を合わせたばかりのハリーが部屋に入ってきた。
「どうしたの、こんな時間に」
「その前に、いるなら早く返事をしろ」
「あー悪い悪い、帰りの準備で手を放せなくってな。見ての通り帰宅十秒前な訳だが、なにかあったのか?」
 デスクのまん前においてあるソファに腰を下したハリーはぐっと伸びをして、手に持っていた紙をひらひら振ってみせた。

なにやら文字がたくさん書いてあるそれは、間違いなく書類かその親戚あたりだろう。

だが、俺はもう今日は帰宅すると心に決めてしまったのだ。いまごろそんなものを渡されても困る。
「これ、会議のときに渡しそびれてたのを思い出したんだよ」
「なんていうタイミングで持ってくるのよ。どうせなら、そのまま思い出さなきゃよかったのに」
 俺の言葉なんて関係無しに、むしろ嬉しそうに書類を差し出してくるハリーが憎らしい。

いや、ハリー自身もユニオンでの仕事や、天を射る矢の建て直しで忙しいことは重々承知しているが、それとこれとは別問題だ。

だいたい、重要な書類なら渡し忘れるなんてことをするな。
脳内でいろいろと文句が飛び交ってはいくが、差しだされているものを受け取らないわけにはいかない。

手にした紙面に目を通して、この仕事をどこに組み込むべきなのか判断していく。
「急ぎではないから、明日以降でいい」
 ハリーとしては気を遣ったつもりなのかもしれないが、言われなくてもそのつもりだ。

なんのために、ノックを連発されるのを無視して帰り支度をしたと思っているんだ。
「言われなくても。じゃあまた、明日か明後日にでもまとめて報告書あげとくわ」
「悪いな」
 目的は達成したはずなのに。ハリーはソファから動こうとしない。それどころか、何か言いたげに俺の方を見つめている。

見つめ続けられるのも気持ちがいいものではないので軽く咳払いすると、ハリーはニヤリと笑い、肩をすくめた。
「そんなに急いで帰るなんて、家でかわいい子でも待ってるのか?」
「馬鹿いってんじゃないわよ。誰か待ってるとかじゃなくて、自分の家にはやく帰りたいのは普通のことでしょ。

おまえさんと違って今日も身を粉にして働いたから疲れてんのよ」
「あー、悪かったな。あんたがご執心の黒髪のかわい子ちゃんは、いまはダングレストにいないんだったか?」
「残念ながら、二十を超えた男をかわい子ちゃんなんて称する趣味は持ち合わせてないんでね。余分なこと言ってないで部屋に戻れ。仕事が残ってるんだろ」
 俺の返事を聞いたハリーはしてやったりという顔をしてこちらを見た。こういう顔をするときだけは、ドンに似ているんだから嫌になる。
「俺は、相手が男だなんていってないんだけどな。いったい誰を想像したんだ、レイヴン?」
 黙れこの確信犯。
 うかつな自分の発言を憎むよりも、悪戯が成功した子供のような表情を見せているハリーに腹が立つ。

その頬をひっぱたいてやろうかなんていう、俺らしくもな乱暴な考えが浮かんで消えたのは、たぶんいまあまり聞きたくもない人物の話を出されたせいだ。
「ちょっと時間のかかる依頼なんだろ。心配だって顔に書いてあるぜ」
 依頼の最中に連絡をよこしてくるほどの筆まめな男でないことは分かっている。あの二人と一匹で行くのなら大丈夫だろうと確信はしていた。

だけど、それとは別のところで、なにか起きてはいないだろうか、依頼の失敗に繋がるようなミスはしていないだろうかと心配している俺がいた。

自分でも信じられないくらいに、あいつのことばかりに気を回している。

考えたくないといいながら、ほんの少しの拍子にあの黒い髪だとか目だとか低く通った声だとかを思い出しているのは、誰でもない俺だった。