死は、雪のない冬に似ている。
 自分の死という、この世からゼロス・ワイルダーという存在が消えてしまうかもしれない事実を目の前にしても、心の中は凪いだように穏やかだった。

いままで感じたこともないようなこの穏やかさと、迫り来る逃れようもない死という感覚は、たしかに自分が嫌いで嫌いで仕方がなかった、冬に似ている。

あんなに苦手だったはずなのに、いま思えばそんなに悪いものではなかったのかもしれない。

そう思えるのは、あの偽善を偽善と思わぬ男が、俺に引導を渡してくれたからだろうか。
辺りはしんと静まり返っていて、その雰囲気だけでも凍えるような冷たさを感じさせた。

そして、そのひんやりとした空気が既に感覚が希薄になりつつある体から意識を剥離させるかのように、安らかなまどろみへと俺を引っ張っていく。
いままで荒かった息は落ち着いてきて、自分の置かれた状況に焦ることもなく、逆に冷静になっていく。

たぶん、こうなると予想し望んでいたからなのかもしれない。そうだとするなら、俺は俺が思っていた以上に陰険な性格に違いない。
 穏やかな気分とは正反対に、ドクドクという大きな音を立てて異様に熱を持っている胸の傷に触れると、

まだ乾ききっていないドス黒い血がべったりと手のひらを汚した。俺と剣を交え、この傷をつけたのはロイドだ。
 剣を向けたときの、驚きと絶望をごちゃ混ぜにしたような表情を忘れることはできない。

そして、この傷をつけ、俺の返り血を浴びたときの真っ青な泣きそうな顔も。

あの顔を見た瞬間に、俺を満たしてくれるのは、やっぱりロイドしかいなかったんだと、妙に納得してしまった。ほら、やっぱり俺は陰険だ。
 ロイドは俺を殺してしまったことを後悔しながら、ずうっとずうっと懺悔して心の中の傷が膿んで化膿してぐしゃぐしゃになってしまっても、

俺という存在に囚われ続けてくれるんだ。
 それはそれは、びっくりするくらいにやさしいロイドのことだから、そうに決まっている。

だとするなら、これはどんな恋よりも心躍り、どんな愛よりも甘美なことだ。
 痛みはない、その代わりに感覚がなくなっていく。ああついに、この体を捨てるときが来たのか。

体を捨てたらどうなるのか、そんなこと考えたこともなかった。たぶん、終わるだけだ。

どうせ終わるなら、間違っても次が始まらないようにして欲しい。これで最後にして欲しい。

この世の見納めにと辺りを見回すと、霞んだ視界に飛び込んでいたのは、センスがいいとは言いがたい救いの塔内部。

歴代の神子の死体が詰められている棺たち。俺はあんな棺には入らない。だとしたら俺は決定的に他の神子とは違う。それでいい。
だから、おやすみなさい。そして、さようなら。
ねえ、俺のことを忘れないでいてくれたとしたら、俺を選んでくれなかったんだとしても許してあげるよ、ハニー。
 
 
がくんと、体が揺れた。
 いままであやふやだったはずの意識が浮上して、一気に俺という固体を作り上げていく。

それを追うように、役目を放棄していたはずの感覚器官が、ゆっくりと再起動し始めた。
 ふわふわとした心許ない状態から、どんどんと現実味を帯びた鋭利な手触りのある音や温度、そして光を感じるようになった。

自分の呼吸音に交じって、それ以外の音がする。耳に神経を集中させると、それが何か意味のある言葉であることが分かった。
 自分以外の誰かがいると分かった瞬間に、反射的に逃げなければならないと思ったが、

俺の焦りに反して体に力が入らず、腕を持ち上げることさえままならない。
 低い男の声。聞き覚えのあるその声に、どうしてだか言いようのない苛立ちを覚えた。その原因を探ろうと、いまだぼんやりとしている頭をフル回転させる。

が、答えが出る前にワンテンポおいて、瞼の裏に淡い光が差した。
 その温かな光が体を包むと、ぼんやりとして力が入らなかった体のコントロールを少しずつ取り戻すことができた。

まわりを確かめるために瞼を開くと、俺の周りに淡い緑の光が円を描き、そこだけ空気が澄んでいた。これま見紛うことなき回復呪文だ。
 霞んでいたはずの視界は次第にはっきりしてきて、自分がどこにいるのかということが分かってくる。

それに起因するように、俺がどんな状況にいたのかも思い出してきた。
 今この状態で言えることがあるとするなら、ここが天国ではないということだろうか。天国と言うには随分とシケた場所だ。

無駄に広い空間に、センスがいいとは言えない内装。つまりは、先ほどまでいた救いの塔内部とまったくかわっていない。
 むしろ、ここは地獄なのだろうか。
だって、この男がいるのだ。
「起きたか、神子よ」
 目が霞んで、視界がはっきりとしなかったときには幻かもしれないと思えていたものも、視界も良好ないまとなっては幻と位置づけることは出来なくなってしまった。

こんなふうに、リアルに喋って動く幻はいやだ。
「天国って言うのは、きれいなお姉さんたちがたくさんいる場所じゃなかったのか?」
「頭の方は相変わらず重症か」
「うるさい。どうしてあんたがここにいる。それに、俺は……」
 どうせなら、死ぬまで見たくなかった不景気な顔をしたクラトスは俺の話しを無視して、道具袋と思わしきものの中から青色のグミを取り出すと、

無理やり口の中に突っ込んできた。
 口腔ないはカラカラに乾いていて、物を上手く嚥下することができないせいで、思いっきりむせそうになる。

何とか飲み込むと、いままで嫌になるほどお世話になってきた、ミラクルな味としか表現しようのないものが口の中に広がっていく。

そして、少しずつ体が軽くなっていくのが分かった。
「俺は、死んだんじゃなかったのか?」
目の前にいる男を問い詰める。気がせいだことでつんのめるようになってしまい、軽く咳き込んだ。

空咳を繰り返すごとに、胸に受けた傷がジンジンと疼く。
自分の記憶が間違っていないことを確かめるように胸元に触れると、もうパックリと開いていた真っ赤な傷はなくなっていて、

引き攣ったような痕が残っているだけだった。だがその周りはぱりぱりと乾いて変色しだした血がこびりついていて、服も無残に切り裂かれている。
やっぱり、俺とロイドが剣を交えて戦ったことは間違いない。そして、俺が負けたことも。
じゃあどうしてこんなことになったと言うんだ。
致命傷ともいえる胸の傷だって酷かったし、それ以外にも大なり小なり傷を受けていた。出血量だって多く、素人目に見たって助かる余地はなかった。

なのに、いま俺は瞬きをして呼吸をし、目の前にいる男と会話をしているのだ。
「俺は、どうして生きている」
 まるで当然のことのように、口からすべりでた疑問。だっておかしい、俺はあのまま眠るようにこの世界から消えていくはずだったはずなのに。
「天使化のせいだ。あれは身体能力を最大限、いや限界を超えるほどに強化する。

だから、ロイドたち相手にあれほどまで戦うこともできたし、それと同時に瀕死の傷を負いながらも生きながらえることができたんだ」
「嘘、だろ」
 見えない何かを確かめるように、自分の手のひらを開いては握り、それを見つめた。
普通の人間となんら変わりのない手のひら。なのに、見えない体の奥底では、確実に体が作り変えられ、人間からは遠く離れた存在へと昇華されてしまった。
じゃあ、俺は一体なんなんだ。人間として死んでいくことさえ許されずに、生きながらえさせられてしまった俺は、一体……。
「嘘ではない、自分でよくわかっているはずだ。天使化することで治癒能力も格段に強化される。だから、なんとか命をつなぐことができたんだ」
 嘘だと言ってくれ。
こんなやつに頼りたい訳じゃないのに、すべてを否定してくれと言う願いを込めてクラトスを見た。

だが、あいつはいつもと変わらぬ能面みたいな表情で俺を真っ直ぐに見つめるだけだった。
認めたくはないが、親子だというだけあって、どことなくロイドの面影を感じる。

ロイドとよく似た色をした瞳は、ロイドとは正反対の何の感情も宿らぬ冷たさで、俺を映していた。
その冷たい眼差しを通して、何も言わぬロイドに責められているようにも感じる。
「だって、俺は」
 だって俺は、死んだはずだったのに。
 ロイドと剣を交えて戦い、あいつらに道を指し示すことを最後の役目として死んだはずだったのに。

こうすることで、俺は俺というものから解放されて、間違いを正すはずだったのに。
 そして、一番汚くて、一番たしかな方法で、ロイド・アーヴィングの中に、ゼロス・ワイルダーというものを刻み込むはずだったのに。

どうしてこんなことになったんだ。
「死ぬつもりだったと言うのか」
 いままで黙っていたクラトスが静かに口を開いた。
低く芯のある声が、人の気配のしない救いの塔の中に響いて反響する。それは静かに、でもたしかに俺のことを責めるような色を滲ませていた。
「ロイドは優しい。だが、信頼しないものをあんなにも受け入れたりはしない。あの優しさの裏には、おまえに対する絶対の信頼があったはずだ。

嫌というほどに傍にいたおまえなら、よくわかっているはずだろう」
「だって、あいつは俺じゃなくて、あんたを選んだんだ」
 自分が一番許せなくて、ある種の指標のようになっていたことを口にしてみると、それは弱弱しいもので、子供じみた言い訳でしかないように感じられた。
その隙を突くようにクラトスが言った。
「なぜ、信じることができなかった」
 迷いのない声が、見えない傷を抉っていく。
 もう胸の傷の痛みはない。ないはずなのに、ジンジンと疼くような、暴れだしたくなるような、もどかしいものが体の奥底から湧き上がってくる。
 なぜ、信じることができなかったのか、それを自分の中でリフレインする度にジンジンとした痛みが酷くなっていく。

低いクラトスの声に、まだ少年期の甘さを残したロイドの声が重なった。

裏切ったのはロイドの方が先だった。
でも、本当にそうだったのか?