いつかは返さねばならぬのだろうと、一人語りのように呟いた。
 もちろんそれは、何らかのいらえを期待したものではない。だから、何気なくだのに血を吐くような切実さを編みこんだゼロスのそれは、静寂を飼った部屋の中に溶け込むことなく彼の舌の上にまとわりつき、臓腑の奥にもやもやとした口舌しがたいものを残していった。
 彼の旅の連れがいたのなら、なにを黄昏ているのかとその肩を軽く叩いて混ぜっ返してくれたのかもしれないが、いまゼロスのアイスブルーの瞳に映るのは、がらんとした室内だけで、彼が腰掛けている向かいのベッドには、波打つシーツの上に簡素な旅支度を解いたものが投げ捨てられていた。
昔もっと多くの仲間と旅をしていたときには、自分が乱したものは自分で整えると、注意してくれる女性が存在していたが、男二人旅となればそんな繊細な神経などもうどこかに捨て置いてきてしまって久しい。
 ベッドの上を理想的な具合に汚していってくれたロイドは、大雑把そうな見かけに反して随分と細やかな細工物を生み出すが、彼が器用なのは指先だけで、それは整理整頓にまったくいかされていない。ゼロスにいたっては、メルトキオにいれば縦のものを横にする必要もなく、手を叩けば欲しいものがそろい、不必要なものを投げ捨てればその後からメイドが処分をしてくれるという、徹底した生活を送ってきたのだから、ロイドの脱ぎ捨てたものをたたんで、荷物をまとめるなどという甲斐性を見せるわけがなかった。いやそれでも、ずり落ちそうになっていたマントを拾い上げベッドの上に避難させた彼の成長に驚くべきなのかもしれない。
 西日が差し込む窓に眩しそうに目を細め、賑わいを見せている大通りを見遣る。表通りに面している窓からは、夜に向けて蠢く繁華街を一望することができたが、ゼロスの求めている待ち人の姿は欠片も見当たらなかった。
 エクスフィア回収のためにという大義名分を掲げている以上(ゼロスにとってはロイドの理想に追従し、彼の隣にあることが一番の理由であったが、それはゼロスだけの話で、ロイドには揺るぎない目標がある旅なのだ)なんの情報もなしに根無し草をしているわけにもいかず、街に着くたびにいろいろと情報収集に勤しんでいる。今回は、疲れた足が棒になったと騒ぎ立てるゼロスを置いて、ロイドが一人で街へと繰り出したのだった。
「遅いな」
 こんなことならついていけばよかったかと、駄々をこねた自らを棚に上げて舌打ちしそうなゼロス。もちろん、いくら盲目であるといっても、遅いからといってそんな心配して探し回らねばならぬほど子供ではないと分かっている。田舎者と馬鹿にしていたこともあったが、世界をめぐったことで大抵のことはそつなくこなせるようになったことも知っていた。しかし、それとこれとは別問題で、ゼロスにとってはロイドという人間を知れば知るほどに、そしてその存在がゼロスの内面に刻み込まれるほどに、手中の玉ではないけれども、いやそれと同等かそれ以上に大切にしなければならないものへと変化していた。だからこそ、結局最後は杞憂になると分かっていても、ほんの僅かのことで心配することが癖になっていた。
 信頼していないわけではない。もうこれは、ゼロスの理性的な判断を下す脳とは別の場所で、まるで安全装置か何かのように反射的に作動してしまうものなのだ。
 それを嫌になるほど自覚して、もうどうしようもない自分を慰めるように踏みならされ薄汚れた床に視線を落とし、楕円を描く木目をなぞっていく。その色にゼロスの脳裏に思い浮かんだのは、やはり先ほどから十分すぎるほどに脳内を占拠している男の鳶色の瞳と見た目よりも柔らかくさわり心地のいい髪で、もう来るところまできてしまったのかと、頭を抱えながら溜息をついた。
 これ以上はないと、いつだってゼロスは思う。なのに、驚くくらい簡単に、怖くなるくらい単純に、底なし沼にはまり込むように、深く深く落ちていくのだ。
 だからこそ、いつかは返さねばならぬのだろうと、誰に問うわけでもなく、誰でもない自分自身の中で繰り返す。それは自戒であり、自らが傷つかぬための自己暗示のようでもあった。
 一つのことに夢中になって、自らを簡単に犠牲にして、呼吸するように当たり前に世界のために生きられるロイドは、その純粋さを体現するようにまだ幼い部分をたくさん持っていた。だから、ゼロスは彼の隣に立ち続けることを許されているのだ。だがいつか、ゼロスが望む望まざるにかかわらず、ロイドも大人へと成長していく。肉体的にではなく情緒的に。そして知ることになる。欲することになる。いま自分の隣を我が物顔で占拠している不躾な人間を蹴落として、もっと愛すべき少女をそこに据えねばならぬと。
 もちろん、ロイドがいきなり縁を切ると言い出したり距離をとったりするような冷たい人間ではないと分かっていたが、彼が愛だとか恋だとかそういうった類のものに目覚めたのなら自然と距離が出来て、ゼロスが居座っている場所が自分と同じ立場で苦しみ続けていた少女に明け渡されるであろうことはなんとなく感じ取っていた。
 いまはゼロスにとって、ご褒美みたいなものなのだ。それがあまりにもおいしくて心地よくて、夢見心地のままに泡沫に身をひたしている。貪欲なくせに与えられることになれず、ただただ求めることばかりに従順に生きてきたゼロスにとって、いま自分が掴んではなそうとしないものがどれだけ価値のある美しいものなのかよくわかっていた。だから、そんなマッチ売りの少女が小さな火の向こうに見た幻影が、こんな自分に与えられるわけがないだろうと冷静に判断することが出来たのだ。それを愚かという人間もいるかもしれないが、ゼロスにしてみれば有限であれ泡沫の夢であれ、こういった時間を過ごせることが何よりもしあわせだった。
 形あるものはいつか壊れ、人間の命もいつかは尽き果てる。そして、ロイドとともに歩める時間も終わりのあるものだとするのなら、そしていつかゼロスの手のひらからぬくもりも残さずにあの少女のもとへと去っていくというのなら、なおさらにいまというものがいとしくていとしくて仕方がなかった。
「ロイドにあいたいなあ」
 吐き出した自身の言葉に、無性にゼロスの体が疼く。性欲だとか情欲のともなったものではない、いとおしいものに突き動かされるような衝動だ。じんじんとしたそれをやり過ごすように手のひらを握りしめ、瞼を閉じる。瞼の奥で室内を占拠していた茜色がハーレーションをおこし、世界を染め上げていく。だがいつしかそれは鮮烈な赤へと変わり、小さくゼロスの名を呼ぶ声音を思い出させた。
 幻聴まで聞こえてきたかと笑い出したくなったが、次の瞬間に、乱暴なノックの音がゼロスを引き戻すように響いた。そしてすぐに勢いよくドアが開かれた。力加減をしらぬそれに、自然とゼロスの頬が緩む。
「おーい、もどったぞ!」
「だから、いつもいってるでしょハニー。ノックをしても、返事をする前にドア開けちゃったら意味ないって」
 揶揄するように笑うゼロス。そして彼の想像通り、アイスブルーの瞳には苦虫を噛み潰したようなロイドの表情が映っていた。もう何度も繰り返しているこのやり取り。しかし、せっかちなロイドは、ノックをしてから返事までの時間を待つことが出来ない。もう様式美のようなそのやり取りに、いつもならあほ神子だとかおまえは本当にどうしようもないと、遠慮なしの辛口コメントを吐き出すロイドもあまり強気にでることはない。礼儀として考えるならほめられたものではないと自覚あってのことだろう。そんなしおらしい反応が愉快で仕方ないゼロスは、不快なわけでもないのに何度も繰り返して注意してしまっている。
「わかってるよ。でも、どうせ居るのはゼロスだし、別にいいだろ」
 買い足してきた道具をまたベッドの上に放り投げたロイドは、自分もベッドの端に腰掛けて言い訳をするように視線を泳がせた。それに口角をあげたゼロスは、にやにやとだらしのない笑みを浮かべる。それが自分をばかにするものだと知っているロイドは、嫌そうに太股に肘をついて手のひらに顎を乗せてそっぽを向いてしまった。
「ロイドくんったらご機嫌ななめなの? 腹でも減った?」
 分かりやすく的を外しながら立ち上がり、ロイドの隣に座りなおしたゼロスに、射るような一瞥をくれた鳶色の瞳。外見よりも幼い一連のやり取りに、ゼロスはどうしようもないしあわせを感じてしまう。
 歪んでいるのだろうかとも思うが、いつか返さねばならぬのならどうかこのときくらいは、己の思うままに振るまい、自分がそうであるように、ロイドもゼロスを愛しているのだという夢を見たかった。幼い頃から欠落していたものを与えてくれるのが、ほかでもないロイドなのだと信じていたかった。何気ない日常に潜むやり取りは、そんなほの暗いゼロスの欲望を満たす至上のスパイスだ。
「ゼロス、性格悪いぞ」
「えー、世のハニーたちにはいつもゼロス様すてきーって言われてんだけどなあ」
 頬を膨らませたロイドの肩に腕を回して混ぜっ返すが、ロイドも負けじと口を開いて反撃する。
「それはおかしい。たぶん別のゼロス様だと思うから、勘違いだとわかって殴られる前に逃げてきたほうがいいぞ」
 眉根を寄せてこわいくらいに真面目な顔をしたロイドのあまりの言い草に、よよよと泣く真似をして心の中で本当に泣きそうになった。そのゼロス様とやらに騙されているのは世の女性たちではなくロイドのほうなのだ。そんなこと痛いくらい分かっていた。自覚している。
 ああでもと、ゼロスは思う。もう少し、あともう少しだけ。あと少しだけ待ってくれコレットちゃんと、いまこの場所にいない稲穂色の髪をした少女に願った。あともう少しだけこの場所にいさせてくださいと。
「ゼロス?」
 急に黙り込んでどうしたと、鳶色の瞳がゼロスを覗き込む。そこに映るのは、たしかにゼロス・ワイルダーその人で。でもいつか来る未来には誰か別の人間に移ろってしまうのだと思うとたまらなくなった。唇を噛み締めたって、柔らかな肉を食い破ったって、堪えることはできない。物分りのいい振りなど、いっそいさぎいいほど簡単に打ち捨て踏みにじることが出来た。だから、その幻影を塗り替えるようにロイドの体を抱き寄せて、お帰りハニーと、自分の居場所を主張する代わりに無駄な足掻きを吐き出した。




13・01・10
13・02・25