【 靴の話 / 彼は素直じゃない 】
靴がなくなった。何故か片方だけ。お気に入りというわけではないが気分がいいわけでもない。二酸化炭素を吐き出すように退屈を吐露する我が家のコンサルティング探偵に推理をお願いしたところ、君が食べたに違いないと皮肉げに笑われた。もったいぶるように立ち上がった彼は一言、買い物に行こうかと方眉を上げた。そして、君が食べてしまった靴も、買い物から帰ってくれば見つかるはずさと続けた。素直なんだか、素直じゃないんだか。とりあえず、彼から買い物を提案するなんて、多分明日は雪が降る。
【 視線の話 / 秘めごとみたいに 】
ひたりと、冷たいものが背をたどるような視線。さらりとした冷水ではない。粘着質な液体のように、背骨のあたりを伝っていく。片づけても片づけても、それこそ無限地獄のように散らかり続ける室内で視線を感じる理由は一つしかない。しかし、その発信源はわかれども、原因が分からなかった。気のせいかとも思ったが、こういった類の鋭さは、嫌というほどに戦場で鍛えられたのだ。己の感覚には経験に裏打ちされた、一幅の信頼を寄せていた。それは、同居人が自らの推理力を疑わぬのと同じように、だ。
はあと、どろりとしたものに悟られぬようにわずかに呼気をもらす。気づいていることに、気づかれたくない。無味無臭無音なのに、重々しくもまとわりつくそれは、正体不明のなにかに、端的に言うのなら肉食獣の前でハンティングのときを待ち続ける草食動物のように落ち着かない。いやむしろ、この僕をじっと凝視することになにか意味はあるのだろうか。
じりじりと追いつめられるような妙な緊迫感に乾いた唇を舐め唾液を嚥下する。はじまったばかりの夜に踊らされるような室内に、喉がなる音が必要以上に響いた気がした。
彼お得意の観察か?
いや、すでに朝から顔をつき合わせて推理も観察もないだろう。どれだけ観察したって、ここにいるのはしがない中年のパートタイムで働く医者だ。読んでいるつもりになっていたペーパーバックは、すでに手持ち無沙汰を誤魔化すための玩具とかし、背中にしいているユニオンジャックのクッションは、彼の視線に気づいてしまったときから声高に違和感を主張しだした。心地いいどころか、ごわごわとした不快感が先に立つ。一つのことがかみ合わなくなれば、なにもかもの歯車が狂い出す。油を切らした発条仕掛のように、ギリギリと不協和音の前兆が鼓膜の奥の奥を揺らした。
フラットメイトが転寝していたはずのソファが軽い軋みをあげる。それは、何よりも声高に彼自身の存在を主張していた。小さく十数えて振り返るべきか。いや、それ以上にどうしてこんなにも彼の視線を意識せねばならないのか。十代の少女のように自意識過剰すぎる己が空前絶後の愚か者のようで、自意識ばかりの詰まった呼気を吐き出しながら、瞼を閉じた。一人がけのソファに背中を預けて、妙に緊張している体から力を抜く。水を打ったようにしんとしている室内に、お互いの呼吸音だけが浮き足立っていた。まとわりつく視線に、どうせなら呼んでくれと思う。そうすれば僕は、本当に仕方のないやつだと眉をしかめて肩をすくめ、その緑色を覗き込むというのに。そばにいるのに、捩れの位置のように伸ばしても届かないような追いかけっこをするのは不毛だ。
ひんやりとした空気を吸って、言葉を探す。瞼の裏には室内灯の残り火みたいなフラッシュが飛び交っていた。等間隔で瞬き続けるそれを追いながら、音を表すアルファベットを意味にするために組み立てていく。だが、そのどれもが空々しくて、すでに見破られることを待ちわびている嘘みたいだ。
だから結局、誰かが隣に来てくれることを期待しているくせに、素直になれない子供みたいにおさなっぽい視線に白旗を揚げるように、呼びなれた名前を舌に乗せて音にした。
【 ガールフレンドの話 / 不毛な天秤 】
必死になって考える。自分のどこが悪いのかを。目の前で僕を睨みつけている女性に対して、自分の持ちうる限りの誠意を見せてきたつもりだったし、デートのときには彼女の気に入るデートプランを練ってきた。それこそ無意識に邪魔をしてくるフラットメイトの、魔の手にも負けないで。それなのに、通算何度目の戦力外通知だ。指折り数えるのも嫌になる。スナップのきいた平手打ちは、彼女との今までのデートの中で一番スリリングかつ印象的だ。僕よりも小さく淑やかそうに見えるのに、どこにその力を隠していたのか。恋愛というバトルフィールドでも、僕は負傷してばかりだ。
僅かに熱を持った頬を押さえて、馬鹿みたいに晴れた空の下をかけていく背中を見送る。勢いだけで中途半端に伸ばしたては、脳内で思い描いた予想図に反して彼女にさえ届かず、名前を呼ぶつもりだった声帯は、着地点を見いだせない不協和音を吐き出しただけだった。
天候が心情と連携するのは、美しく描かれた小説の中だけだ。豆粒程度になってしまった後ろ姿に、そういえば冷蔵庫の中には腐った豆しかなかったなと思い出す。いや、むしろ腐った豆しか入っていないのは幸福なんだと、肯定的に捉えるべきだ。首だとか足だとか、違う腐ったものが出てくることを思えば、豆しか入っていないなんて、冷蔵庫もその使命を全うできるというものだ。
どうせ帰ってもシャーロックの素晴らしい推理で傷を抉られるだけだ。しかも、やめてくれといったって止まらない暴走列車のような口調で。誇らしげな視線を向けられたとしても、彼の望む賞賛を与えられそうにはない。いいとこ、僕の心の痛みを伝えるために、同じだけの平手打ちを返すくらいだ。
携帯電話を取り出して、着信を確認する。もちろん彼女の名前など、ない。穏やかな景色の広がる公園を後目に、最後のチャンスみたいに彼女の番号へとコールしょうかと思ってやめた。遠くから聞こえる子供のはしゃぐ声に混じって、あなたはいっもシャーロックなのねと、罵倒する金切り声が再生される。ジョンと僕の名前を呼ぶ優しい声はどこへ行ってしまったのかと純粋に疑問に思ったが、正直に口にしてしまうと、もう既に如何ともしがたいくらいの危機的な状況が、人類未踏の段階くらいにまで酷くなりそうでやめた。素直が美徳というのも時と場合による。特に、女性の前では。
みんな、同じことをいうのだ。あなたはいつもシャーロックなのねと、まるで彼自身が恋敵か何かのように。その立ち位置がすでにおかしいんじゃないかと首を傾げたくなるが、それこそ魔法にかかったみたいにみんな彼の名前を出す。彼女たちはシャーロックを理由に僕の元を去るのに、僕は彼女たちを理由にシャーロックの元を去りはしない。それを責められこそすれ、ほめられたことなかった。別に、特別なわけではない。世の中の想像力たくましい人々の頭の中のように愛し合っているわけじゃない。それでも、いや。愛し合っているとかいないとかそんなことじゃなくて、だって考えてみろ。あの小さな背中を追って同居を解消することを告げるのか? それとも、彼との質素な食卓を、せめて戦場のレーションを越えられるようにするためにスーパーの精算機と戦うのか。どうすると、唇を噛んだときに、せかすように携帯電話がなる。まさかと思い、さわさわと揺れる丸裸の木々を遠目に見ながらメールを呼びだした。
牛乳がない。
牛乳……?
そう、牛乳。
へえ、牛乳か。
それどころか、食料がないということにはやく気づいてくれないだろうか。そして、こんなメールを送るまえに服を着替えて街に出て、僕の代わりに買い物を済ませてきてくれないだろうか。高望みではないはずだ。
二酸化炭素を多分にはきだした僕は、環境に優しくないため息を量産しながら、場違いなくらい穏やかな公園に背を向けた。彼からカードを借りたままだ。気晴らしに、牛乳だってチーズだってヨーグルトだって買ってやるよ!
まぁつまり、通算何度目かの敗退を積み重ねたというのに、僕の選択はそういうことなのだ。
【 探偵と助手の話 / 彼はずるい、僕は甘い 】
「携帯を持ってきてくれと言っただろ」
開口一番の言葉に頭を抱えたくなった。何故なら、ついさっきまで精算機との死闘を繰り広げ、やっとの思いで帰宅したばかりだからだ。僅かに息の上がった僕とは違い、落ち着いた呼吸が憎らしい。
「それはいつの話だ」
こちらを振り向きもしないで我が物顔で命令を下す王様になら、呆れの滲んだ声を漏らす。だが、僕の感情の機微などまったくもって歯牙にもかけていないであろうフラットメイトからは、すでに様式美となりつつある問いかけに、いらだち混じりの低めの声が返ってきた。
「一時間四十七分前」
タイマーをセットとして計ったような狭量さに、両手をふさいでいた荷物が一気に重みを増す。少しでも重荷を減らすために、テーブルに買い物袋を置いた。その背後ではまるで鈍間だと僕を急かさんばかりに頭を抱える同居人。その憎らしさをに暴力で訴えかける代わりに、嫌味のようにわかりやすい位置に鎮座していた携帯電話を握り締める。自分を落ち着けるためにゆっくりと呼吸を繰り返し、物臭の極みのフラットメイトに黒いそれを投げつけた。僕の手を離れるまでは深い黒の巻き毛に狙いを定めるていたが、最後の良心で軌道を逸らす。美しく放射を描いたそれは、偶然当たったら僕のせいじゃないよなという願いもむなしく、怠け者よろしくソファと同化していたシャーロックの手の中に収まった。
ここで頭の一つにでもぶつかればいいと願ってみたのだが、やはり人生なかなかうまくはいかないらしい。しかも、あまり誉められたものではない思考を読みとったように(この男の場合はそれが冗談でも比喩表現でもないから洒落にならない)無駄に透き通ったエメラルドグリーンが僕を映した。
「何だよ」
瞬く緑色。
ショーウィンドウの向こう側に飾られる、一等の翡翠を思い起こさせる。たぶん、ジュエリーショップに並んでいたとしても僕になんかは手の伸ばせないような、魅力的な桁数の値札が添えられているに違いない。貴婦人を歓喜させるようなそれは研ぎ澄まされ磨き抜かれ、人間的な暖かみとは対局のひんやりとした艶を帯びていた。
「いや、軌道を間違えているとアドバイスするべきか迷っているところだ」
「何が」
「僕の頭ときみの投球のフォームについて」
「ナイスコントロールといってくれ」
「投げる寸前に手を止めて、視線をずらしただろ」
翡翠色の瞳を細めてなんでもないことのように言い切ったシャーロックは、寝心地のいい場所を探すように身じろぎをしてから、一時間五十分の時を経てようやく自分の手のひらに舞い戻ってきた携帯電話へと視線を向けた。長くしなやかな指先は迷うことなく携帯電話のキーをタイピングしていく。傍から見れば、プロのピアニストが超絶技巧で鍵盤を弾きながら音を奏でていくのに似ている。シャーロックは僕のタイピングが遅いというけれども、僕から言わせてもらえば彼が異常なくらい速すぎるだけだ。
こちらに興味を失ったように、手元の玩具に夢中の小さな子供を放っておいて、現実を見据える僕は買出しの成果を冷蔵庫へとしまい込むことにする。少し怠けたって冷蔵庫の中身が悲劇的なことにならないように、缶詰もたくさん買ってきたから今回は食べるものが何もないという人間としての尊厳を問われる結末にはならないだろう。
何が入っているかわからない吃驚箱のごとき冷蔵庫の前で一呼吸置いてから、扉を開ける。漏れ出す冷気が頬をなで、そこに不穏なものが何も入っていなかったという事実が、僕の機嫌を少しだけ向上させてくれる。こんな当たり前のことで自分の気持ちをポジティブに持っていけるなんて、現金なのか普段の生活がスリリングなのか、その結論は先送りにしたかった。
「デリでいますぐ食べられるものも買ってきたけど、どうする?」
「食べる」
むくりと起き上がったシャーロックは、さっきまでのナマケモノのような姿が嘘みたいな機敏さで食卓について、僕が投げた携帯電話をいじっていた。これは、はやく食事の用意をしろという無言の圧力なのか。とりあえず、食べ物を摂取するということは、事件関係ではないようだ。
いつの間にか一方的に分担された家事を主婦のようにこなしながら、慣れたいわけでもないのに慣れてしまった手つきでデリの料理を皿に盛り直す。この間に飲み物の用意をしてくれてもいいのに、シャーロックはこちらを振り向きもしない。
「きみ、そんなに非協力的じゃあ、誰も一緒に生活してくれないぞ」
ちょっと意地が悪いかと思いながらもため息を吐き出す代わりにあてこするようなことを言うと、さすがのシャーロックも思うところがあるのかこちらを振り返った。そっちに気を取られていたせいで、皿に移し変えていたチキンがころりと転がる。床にダイビングする直前に、悲劇を食い止めて皿の上に紛れ込ませた。シンクの上だからセーフだ。
「べつにそんなことはたいした問題じゃない」
「強がりはよせよ」
感情を読み取らせない瞳でまた携帯電話の画面に夢中になってしまったシャーロックを鼻で笑う。しかし、相手は軽く肩をすくめただけで相手をする気はないようだ。それどころかくだらないとでも言いたげなため息をついて口を開いた。
「きみがいるんだから、必要ないだろ。他の同居人なんて」
なあ、ジョンと呼びかけられて、今度こそ、手元がくるってチキンが空中浮遊し重力に従い落下した。ぽとっと間抜けな音を立てて。たぶん僕は、馬鹿じゃないのかとか、論点を摩り替えるなとか、そういった当たり障りのない僕らしいことを何とか搾り出したんだと思う。
本当に、シャーロックはどうしようもない男だ。だが、一番どうしようもないのは、彼の言葉にちょっとだけ、ほんの僅かに、小指の先ぐらいのささいな喜びをみいだし、チキンを無駄死にさせてしまったこの僕自身だろう。
12・04・24
13・02・25