肩にのしかかる重みが息苦しい。自分で歩くと豪語していたはずの堂島さんは、いつの間にか自らに足があることを忘れてしまったかのように、僕の方に自重を預けきっていた。ずり落ちそうになる彼の体を支え直して、ついでにちゃんと生きているかどうかを確認するために声をかけてみると、途切れ途切れのアルコール臭に塗れたうわごとが返ってきた。
「どーじまさん、もうすぐ家ですから、しゃきっとしてくださいよ。だから飲みすぎだっていったじゃないですか」
 零れ落ちそうになるため息を飲み込んでアスファルトを踏みしめ、もう一度不安定な彼の体を抱えなおした。すると、いままで夢か現かもわからない状態だったくせに、僕の家という言葉に反応して、菜々子かえったぞーとか孝介またせたなーと、いまどきテレビの中でしか見かけそうにもないような酔っ払いの模範を示してくれた。
「まだ家じゃありませんって、落ち着いてください」
「わーってるよ、れんしゅうだ」
 呂律の回っていない堂島さんは、いまにもとろけてしまいそうなほどに頼りない足取りだ。クラゲかところてんか、とりあえず軟体生物を想像させるそのさまは、どうがんばってみても一家の大黒柱には見えない。というより、これじゃあお父さん近寄らないでといわれてしまっても文句は言えそうにない。
「なにわけわからないこと言ってるんですか。そんな酔っ払いの状態で帰ったら、菜々子ちゃんに軽蔑されますよ」
「うるせー。まだ酔ってねーぞ!」
「あーはいはい、分かってますから」
 耳元に響く怒鳴り声にいなすように頷いて、やっと見えてきた堂島家の玄関へと急ぐ。すでに、酔っ払ってないという主張を声高にする時点でこれ以上ないくらいの酔っ払いだ。普段の堂島さんなら、現在の自分のような状態の人物を捕まえて、近所迷惑になるようなことをするなと、一喝するくらいはしそうなのに、正常時の理性的な側面は既にアルコールの波に飲まれてしまっているようだ。
「鍵、出してください。到着ですよ」
 自力で前には進まないくせに、ふらふらと常時安定しない堂島さんをゆすって目の前にある自宅の玄関とご対面させる。すると、それが日常的に刷り込まれた習慣なのか、やけにしっかりとした動作でポケットの中から鍵を出して、鍵穴へと差し込んだ。だが、体に刷り込まれた習慣も力の入らない手には勝てなかったらしい。鍵穴を引っ掛けるようにして、金属のこすれあう不快な音を奏でただけだった。頭の中では酔っ払っていない設定になっているせいなのか、堂島さんはいらだったように舌打ちをしてこのまま行くとドアに体当たりをかまして扉を開けようとしそうな勢いだ。仕方なしに、老人のように頼りない指先から鍵を奪い取って、強引に鍵穴に突っ込んだ。
「もう、しっかりしてくださいよー。これ明日やばいんじゃないですか? 二日酔いで苦しんでも知りませんからね」
 聞いているのかいないのか、管を巻いている堂島さんを引きずってふらつきながらも、勝手知ったるなんとやらで最後の力を振り絞って玄関の引き戸を勢いよく開けた。
 玄関の外の明かりはともっていたが、時間が時間だからもう菜々子ちゃんも居候である彼の甥も眠っているだろうと思っていた。しかし、その予想を裏切るように薄暗い廊下にはリビングのほうから光が漏れていた。
「おーい! かえったぞー!」
「うわっ、堂島さん急に大きな声出さないでくださいよぉ!」
 いままでの軟体動物のような状態はどこへやら。ふらふらと頼りない足取りで上がり框に倒れこむように座り込んだ堂島さんは、暴君も真っ青の乱暴さで靴を脱ぎ捨てて、大声で二度目の帰宅の挨拶を叫んでいた。一歩間違えたらご近所さんから苦情でもきそうなこの暴挙に、リビングのほうから足音が聞こえてきた。もちろん、この時間に菜々子ちゃんが起きているわけがない。その足音の主が誰なのかは三文推理小説の犯人よりも簡単に導き出すことが出来た。
「おかえりなさい、堂島さん。足立さんもありがとうございました」
 荒々しい堂島さんの声とは対照的に、薄闇によく似合う凪いだような声色だった。その落ち着いた声は歳不相応で、どこか背伸びしているような印象さえ感じる。気持ちが悪いと、思わざるをえなかった。どこか能面のように、大人であろうと取り繕っているようで、生意気で気に入らない。だが、そんな僕の内心とは裏腹に、アルコールが骨の髄まで回りきった堂島さんは、ご機嫌そうなニコニコとした表情で柔和な笑みを浮かべている自らの甥に軽く手を上げた。
「おお、孝介。出迎えご苦労だな」
「堂島さんも、お仕事御疲れ様です」
 労わるように、堂島さんが脱ごうとしていた背広を預かった彼は、その胸ポケットに押し込まれていたネクタイを取り出して手早く綺麗にたたみ直す。迷いのないその動作をなんとなく目で追っていると、白銀色の髪を軽く揺らした彼が、僕のことを覗き込んできた。問答無用でこちらを労わるようなその表情に、何故だか胃の奥がむかむかしてくる。少しでも油断してしまえば零れ落ちそうになるそれをアルコールで熱を持った臓腑の奥に飲み込んで、誰しもが足立透らしいという道化師のような仮面を被って見せた。
「すみませんでした。ここまで大変じゃなかったですか?」
 なぜ、きみに謝られなければいけないんだいと、棘のある言葉を吐き出してしまいたくなる。だからその代わりに、さえない笑みを浮かべて軽く肩をすくめた。
「いやー、堂島さんったらいつもこんな感じだから、気にしなくていいよ。きみこそ、夜遅くまでたいへんだねぇ。明日学校で寝ちゃいそうじゃない?」
「いえ、ちょうど菜々子を寝かしつけて、リビングで本を読んでいたところなんで、平気です。いつもこれくらいの時間までは起きてますから」
 不良だねえと笑ってみせると、彼は困ったように眉根を寄せて、堂島さんの上着を抱えなおした。その作ったように綺麗な笑い方が気に入らない。まるで絵に描いた優等生のような反応。どうせこいつだって、内心でどんなことを考えているのかわからないくせに、自分だけがお綺麗ですと高いところから人を見下ろしているようで癪に障る。一つ気に入らなければ、連鎖的にあれもそれもと不快なものが増えていく。彼の、こいつの、ありとあらゆることが僕の中の何かを刺激した。
僕が返事をしないことをいぶかしんだのか、こちらを覗き込むようにして彼が僕の名前を呼んだときに、いままで静かだった堂島さんが孝介と、彼の名前を口にした。酔っている割にはしっかりと芯のあるそれに、びくりと肩が揺れる。まるで、腹のうちに抱え込んだ澱を見透かされてしまったような気がしたからだ。しかし、僕と彼を映した堂島さんのブラウンの瞳は、夢現どころか既に夢に両足を突っ込んでいる状態で、現状を理解している様子は感じられない。
「足立、孝介を苛めるなよ」
 沈黙の間に落ちたのは、小学生の喧嘩に割り込む親のような台詞。想像していなかったそれに、僕も彼も一瞬時が止まってしまう。しかし、不思議な魔法を使うこともなく時間を止めた堂島さんは、我関せずとアルコールに身を任せて彼のほうへと倒れこんでしまっていた。
「あちゃぁ、これはもう駄目だな」
「ですね。完全に酔っ払いです」
 彼は自分に倒れこんできている堂島さんの様子を伺うように軽くその肩をゆするが、もちろん堂島さんからは宇宙的言語としか思えないような酔っ払いの戯言が漏れるだけだ。これはもう、朝まで目覚めることはないだろう。
「あの、すみませんけど、」
 そんな堂島さんの様子に苦笑した彼は、申し訳なさそうに途中で言葉を切って僕を見た。何を言いたいかわからないほど愚鈍ではないが、こんなときにまで粗相なくうまく立ち回ろうとする彼。いつだって仲良しごっこをしている友達からは頼りにされ、即席の家族ごっこの中では必要とされ、いつの間にか町のいたるところでそれ相応の関係性を築いているようだった。こんな田舎に来て一体何をと酷くさめた気持ちでそれを眺めていたが、いつだって誰かの中心にたっているその姿に、その大人びた言動をどこかに取り落として泣き喚いて助けを請う姿を見てみたいという薄暗い欲求を沸いてくる。涙に濡れる白銀の瞳と、笑顔の仮面を取り去った間の抜けた苦悶の表情。そして、僕の足元にすがり付いてみせる、彼の肢体。少しだけ想像してみたその姿は酷く愉快なもので、思わず口角が緩みそうになる。何とかそれを仮面の裏側に押さえ込んで、加虐ではなく同情の笑みを浮かべながら堂島さんの腕を取った。
「男二人なら、楽勝で運べるでしょ」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げた彼は、堂島さんから預かった上着がこれ以上皺になることのないようにと、少し待っていてくださいといって一旦リビングのほうへともどり、荷物を置いてきたようだった。
 右側を僕が、左側を彼が支えて、堂島さんを上がり框の上に持ち上げる。意識のない男の体は重いので、運ぶというよりも引きずるようにしながらリビングのソファに堂島さんを横たえて、二人で一息ついた。
「きみさぁ」
「はい」
 何もいっていないのに、冷えたお茶を出してくれた彼を呼ぶと、警戒など微塵もしていない気の抜けるような返事が返ってきた。瞬いた白銀に映っているのは、いつもサボっている間抜けな足立刑事なのだろうか。それとも、猟奇殺人事件の情報をたやすく漏らしてくれる愚かな刑事だろうか。だが、そのどちらでもよかった。もしも彼が、ほんの僅かでも僕に気を許しているのだとしたら、それはこのつまらない世界に少しだけ彩を与えるチャンスなのだ。
「別に他意はないんだけど、いいお嫁さんになりそうだよね。堂島さんの弁当とか見てるとそう思うなあ」
 思考と言動を切り離すのは得意だ。軽薄な笑みを浮かべながら親しみの持てる足立透を演じてみせる。彼らが憎んで止まない殺人事件の犯人とやらの僕自身をどこかに押さえ込みながら。だがそれは、この滑稽な状況に今にも高笑いをあげそうだ。
 言葉を吟味するように視線をさ迷わせた彼は、難題を前にした学者のように腕組みをして重々しいため息を吐き出した。
「それ、よく言われるんです。なにが原因なんでしょうか」
 こんどこそ、ほんとうに、わらいたくなった。それこそ最高傑作の喜劇を前にしたように。堪えきれない衝動が、いつも退屈に膿んでいる内面から湧き上がってくる。
「それは、あいされてるからじゃないのかなぁ」
 白銀色を瞠目させた彼。そう、あいされているからじゃないのかなあ。なんて陳腐なその言葉。ばかみたいなごっこ遊びの中で、ばかみたいに必死になっている彼をみていると、そのごっこ遊びを叩き壊して、不快なくらいに楽しい楽しいあいすべき現実をその眼前に刻み付けてやりたくなる。そのときの、彼の、こいつの表情を想像してみたら、それこそまさに退屈でうんざりするようなくだらない世界を少しは笑えるものにしてくれそうで、思わず頬が緩みかけた。



12・09・01
13・02・25