幼いころ、初恋の人は仲のいい男の子だった。そのときは、微塵も自分をおかしいと思わなかった。大好きだった子の手を引いて、母さんの目の前でこの子と結婚したいといったときには、母さんは困ったように笑って孝介は仕方ないわねぇと言っただけだった。周りにいたお母さん達も、俺と手を繋いでいた子も、そのお母さんもみんなみんな笑っていた。当たり前のようにそれが受け入れられ、祝福され、決して俺は世界からはみ出したものではなかった。なぜかといえば、俺を取り巻く世界は未完成であることが許された成長過程で、男の子にも女の子にもそういった、同性に対して結婚したいとか好きという言葉適応する子がたくさんいたからだ。まだ未成熟な心と体と語彙を持たない頭では、結婚と好きは自分の一番の友達を表すための言葉だった。ただずっと友達でいようということをあらわすための言葉だった。だから、たった一人自分だけが周りとまったく違った意味でその言葉を使っているということに気づくことなく、愚かしくも周りと同じような顔をしながら、自分にとっての一番の友達ではなく、一番恋愛として大好きな人に好きだ結婚したいと他と同調しているようなつもりになっていたのだ。なっていただけだったのだ。
 だが、友人や知り合いが同性の手をとって愛だ恋だ結婚したいと言わなくなったときも、俺はただひとり周りから取り残されたみたいに、自分と同じ性を持った人に気持ちを寄せていた。女の子が男の子を意識して男の子が女の子を意識するようになってからも、好きな女の子の話をする男の子に胸が苦しくなるような恋心を抱いていた。どんどんとずれていく自分と自分以外の存在に、まるで真っ暗な森の中で迷子になってしまったようだった。遠くに明かりが見えるはずなのに、俺の回りだけは暗いまま森の出口が見つからないのだ。その森の中を這いずり回ってさ迷って、疲れ果てて座り込んでしまったときに、ああと、思ったのだ。ああ、自分は違うのだと。
 自分で言うのはおかしいのかもしれないが、それなりに聡く賢い子供だったから、自分がおかしいと、性趣向に関しては周りとは違うグループに属しているのだと気づいたのははやかった。もちろん、それを自分以外の誰かに話してはいけないと自覚するのも。たぶん、初恋のときのように母さんは困った笑顔を返してくれないのだろうとも、俺が手をとった好きな人がその手を振り払うことはあれ握り返してくれることはないのだろうとも、周りが祝福するように笑顔を見せてくれることはないのだろうとも、気づくことが出来たのははやかった。自分の性的趣向に対して恥じているわけではなかったし、どうあがいたって自分と同じ性を持った人しか愛せないのだろうということはなんとなく悟っていた。いままで好きになった人がそうだったからだろう。もしかしたらこの世の何処かにいるかもしれない自分を受け入れてくれる人が現れるまでは、ただただ好きになった人への気持ちに蓋をしていくしかないのだろうと思っていた。自分が好きになった人が好きになった女の子の話を聞きながら、笑顔で頷いて話をあわせて、俺はおまえが好きなんだよって言ってしまいそうになるのを飲み込み続けるしかなかったのだ。胃よりも深く腹の奥底の何処かにある淀んだドロドロとした場所まで。
 だって、あんなにキラキラした目をしながら好きな人の話をする友人という名の好きな人を、友人でしかなくまた同じ男でしかない自分が誘惑して、その気持ちを受け入れてもらえるわけがないのだから。それは、自分が親しくしている女の子に迫られても決して気持ちを傾けてあげられないという事実を思えば、覆しようもないことだった。自らが出来ないことを、人に強要できるわけがない。そして、自分が実行できるわけがなかった。
 いつだって、はじまる前から終わることが分かりきっていた。つまらない喜劇でしかなかった。でもそれでも、自分が好きになった人を嫌いになれるわけもなく、また浅ましくももしかしたら報われるのかもしれないと淡い期待を積み重ねながら、友人だと笑いあう笑顔の裏でその実どうしようもない性衝動をその友人で発散するという手ひどい裏切りを続ける毎日の繰り返しだった。
 稲羽に来る前もその繰り返しだった。
 唯一つ、俺が好きだった人が彼が思いを寄せていた女の子と付き合うことになったことをのぞけば。それを知ったのは、ちょうど両親の海外転勤が決まったのと同時期だった。急な転勤だからと両親は申し訳なさそうにしていたが、ちょうどよかったなとショックを受けながらも頭の何処かにいた冷静な自分はぼんやりと考えていた。恋愛に終わりはあるが、友情に突然の終わりはない。彼に彼女が出来それを俺に毎日嬉しそうに報告しに来るからといって、俺はあいつを突き放すことはできなかったし、俺のことを友人だと言って、日々満たされていることが分かる笑顔で、かわいらしく淑やかな彼女のことを語って聞かせるあいつが、彼女ができたからといって俺との関係を終わらせるわけがなかった。
 だって、どうしようもないくらいに健全な友情だったから、そこに恋愛などが水を差したとしても何の問題もなかったのだ。できることといえば、友達を取られたみたいでつまらないと、控えめに拗ねてみせるくらいのことだ。そんな俺をかわいいやつだなあといってふざけて肩を抱いてみせるあいつは、その腕の力強さに俺の目頭が熱くなったことも、鼻の奥がつんとしたことも、胸の奥に何かが詰まったようでいっそ吐き出してしまいたいと思ったことも、知りはしないのだ。それを不実と詰りたくなる自分勝手な俺のことも。三年にも及ぶ悲劇になりきれなかった恋心のことも。だから、ちょうどよかったと思った。終わろうと思えないのなら、距離をおくことができてよかったと、そう思った。そればかりが俺のすべてではないけれども、三年にもわたる恋に一方的な最後通牒を突きつけられた俺は、その突然の転校にさえもすがりたくなるほどには衝撃を受け、また出口のない衝動に心の中をぐちゃぐちゃを踏み荒らされていたのだ。だからまさに、申し訳なさそうにしている両親とは裏腹に、渡りに船とばかりの好機だった。
 稲羽にきてからはそれなりに上々だったと思う。新しい学校やペルソナやシャドウ猟奇殺人事件のこと。等しく二十四時間しか与えられていない時間は、無駄なことがないくらいにたくさんのことが詰め込まれて、転校する前のこと傷心に浸るみたいなヒロイックな自分は、寒天のごとく思考の外側へと押し出されてしまっていた。新しい環境で、もしも誰かのことを好きになってしまったらと僅かにおびえていた自分もいたが、俺を受け入れてくれた友人達は愛とか恋とかそういった熱病に罹患したように追い求めるよりももっとたしかに、大切なものとして自分の中に収められたのか、なんの後ろ暗いところもなく付き合っていくことができてほっと肩を撫で下ろした。
 いままで両親にも友人にも秘密を持って生きてきた自分が、初めて誰に恥じることも後ろ暗いところもなく過ごせる時間は困難や苦悩が待ち受けているのだとしても、晴れ晴れとしさた爽やかささえ感じることができた。
 誰もいない家に帰ることが普通だったのに、迎えてくれる人がいる場所へと帰ることが当たり前になったことも、俺の気持ちが暗いほうへいくことを防いでくれたのかもしれない。そして、毎日俺にお帰りといってくれる幼く澄んだ声がお兄ちゃんと俺の名前を呼んだ。本当の兄なわけではないけれども、お兄ちゃんと呼ばれるそれはとても心地よかった。食べ終わった食器を洗うためにスポンジを握っていた手を水ですすいで振り返ると、興奮したように頬を赤くした菜々子がもう一度お兄ちゃんと俺を呼んでこちらに突進してきた。何事かと驚いて受け止めるために振り返ると、走ってくる菜々子のお父さんが帰ってきたよという声と、堂島さんのただいまという言葉が鼓膜を揺らしたのはほぼ同時だった。身構えてはいたものの、思ったよりも勢いよく飛び込んできた菜々子を受け止めた衝撃で、腰をしたたかに流し台に打ち付け眉根を寄せてしまう。それを見ていた堂島さんが苦笑いを浮かべながらワインレッドのネクタイを緩めて、荷物をソファの上に置いた。上着を荷物と同じようにソファの背中にかけた堂島さんを嗜めるように視線を送ると、肩をすくめてハンガーにかけなおし一時しのぎのようにカーテンレールに引っ掛ける。理想を言えばクローゼットに戻して欲しかったけれど、またあとから移動させればいいかと、確認するようにこちらをみた堂島さんにこくりと頷いた。時計を確認すると、いつも堂島さんが帰ってくる時間よりも随分はやい。最近忙しそうに仕事場に詰めていることが多かったから、今日ははやめに上がってもいいといわれたのだろうか。
「はやかったですね」
「ああ。偶然な」
 食卓の上に取り置いてあった晩御飯を覗き込んだ堂島さんは、これ食べてもいいのかとこちらを見た。もちろん他の誰でもない堂島さんのために残しておいたものなので、一も二もなく肯定の返事をする。
「菜々子、孝介が痛がってるぞ」
 相変わらず俺の腰にへばりついたままになっている菜々子の頭をぽんと撫でた堂島さんは、出しっぱなしにしていた水で手を洗うと、箸と茶碗を食器乾燥機から取り出す。痛がっているという言葉に過敏に反応した菜々子はばっと体をはなし、心配そうに俺の顔をしたから覗き込んできた。もちろん、痛いとはいってものた打ち回るようなものでもないし、痛みも引いていたので大丈夫だよと笑ってその頭を撫でる。
「菜々子、堂島さんのご飯よそってあげて」
「うん!」
 小さな肩を押してあげるとそれをスタートの合図にしたように、満面の笑みで茶碗を手にしている堂島さんの方へと向かっていった。
「お、じゃあ頼めるか?」
「まかせてね! いっぱいよそってあげる!」
 堂島さんから仕事を任されたのが嬉しいのか、大きな栗色の目を見開いて元気のよい返事をした菜々子は茶碗を受け取ると、一大ミッションにでも向かうかのような面持ちで炊飯器と向かい合った。その気合の入りように、堂島さんと顔を見合わせて笑ってしまう。もちろん、しゃもじを片手に果敢に炊飯器と戦っている小さな勇者には分からないようにだ。
「ついでに、洗い物しちゃうんで、菜々子が準備してくれている間に、お弁当箱出してもらってもいいですか?」
「ああ、悪い。これ、今日もありがとうな」
 ソファに投げ出してあった空の弁当箱を受け取って流し台に漬け込むと、隣の並んだ堂島さんが美味しかったよと笑う。最初はお世辞なんだろうなと思っていたその言葉も、こうやって毎日続けば邪推もしなくなってしまった。ただ単純に嬉しくて、頬が自然と緩む。褒められるために食事を作っているわけではないけれども、やっぱり食べてくれる人にこうやって美味しいといってもらえることは何よりも嬉しかった。こういう反応が見られるから、次もがんばろうと思えるのだ。堂島さんは迫力のある外見を裏切るようにこうやって自然とありがとうとか美味しいという言葉をくれて、俺を喜ばすのがうまい。
 だからというわけじゃないけれども、こうやって堂島さんの隣にいて、褒められることも、話したりすることも好きだった。最初は警察官という職業やがっしりとした体躯、迫力のある灰色の目や年齢差などにとっつきにくさを感じたこともあったが、慣れてしまえばとても気のいい人だということも、不器用だけれども人のことを思いやったり気を遣ったりしてくれる優しい人だということもよくわかった。そういうこと一つ一つに気づいていくと、この人の隣がとても心地よくてたまらなかった。陽介たちといるときの楽しくて仕方ないのとは違う安心感が、とても好きだった。
 あれと、そう思った。いま自分は、何を考えたのかと。隣にいる堂島さんを盗み見ていったい何を考えたのかと。だが、一人問答のように自分と向かい合う俺のことを感知しないで、堂島さんは弁当箱を洗っている俺に感慨深げな視線を向けてくる。無心になりたいはずだったのに、その視線が気になって仕方がない。駄目だ、落ち着け。この人は駄目だ。
「コンビニとか出来合いの飯が多かったのに、最近になって毎日弁当を持ってくるようになったから、ついには若い女でも囲ってるんじゃないかって疑われたくらいだ」
 あまり子供に聞かせて喜ぶような類の冗談でもないので、菜々子には聞こえることのないようにわざわざ潜められたそれは、ふざけていると分かるような声音だった。だが、嘘でそんなことを言う人ではないと分かるから、本当に周りにそういったことを言われたのだろうと瞠目してしまう。その間にも、あんなに忙しいのにそんな暇があるわけないってすぐにわかるだろとか、弁当を持ってきているおまえを見ているからすぐに分かるはずだよなと続いていたはずの言葉が、右から左へと流れていってしまった。それでも思考を投げ出しかけていた思考回路は、最後の砦を守るようにいつもと同じように普段の俺としておかしくないような返答を考え出してくれる。堂島さんはそんな俺に対してなんの違和感も持っていないのか、楽しそうに笑っていた。
「お父さん! ごはん!」
「ありがとうな」
 過剰なんじゃないかというくらいよそわれた大盛りのご飯に若干頬を引きつらせた堂島さんは、それでもにっこりと微笑んで小さな菜々子の手から茶碗を受け取った。
堂島さんが揶揄された若い女というのはつまり俺ということだろう。いつもと同じような思考を働かせようとするのに、さっきまでのなんでもない冗談にとらわれそうになってしまう自分を振り払うように、食卓の上の皿からラップを外して、箸置きの上に堂島さんがいつも使っている箸を揃えて、すぐにでも食べられるように準備する。
 俺の背後では相変わらず絵に描いたような家族の会話がなされていて、不器用ながら二人が家族としての繋がりを取り戻そうとしているのが分かった。そして、その家族の中に俺も含まれているのだと、堂島さんがいってくれた。そう、俺のことをただ部屋を間借りしに来た親戚ではなくて、もっと近く強く繋がる家族として受け入れようとしてくれている。それは自意識過剰なわけじゃなくて、堂島さんがそして菜々子がそういってくれたのだ。そして俺もそれを喜んで受け入れたのだ。駄目だと、思った。一瞬自分が考えそうになったことが、そしてそれに誘発されるように俺の心の中をめぐるように満たしていきそうになった気持ちが。いけないことだと、思った。だから、手の届かぬところへと押し込めるように、寸前のところで堪えようと唾液を嚥下する。そうして初めて、とても喉が渇いていることに気づいた。どうしようもないくらいに。
「どうかしたのか?」
 いつの間にか椅子に座って箸を手に取ろうとしていた堂島さんが訝しげに俺を覗き込んでいた。菜々子とは違う灰色がかった瞳には心配そうな光が浮かんでいた。大丈夫ですと、言おうとしたはずなのにうまく声が出なくて、ひっと変な呼吸をしてしまう。これじゃあおかしいですと声を大にしていっているのと同じじゃないか。
細められた灰色の瞳。節くれだった指先が、俺の頬に伸びてくる。疲れているのかって、そんなの目の下にクマができている堂島さんのほうが疲れているはずだ。なのに、おまえはがんばりすぎなんだとか、家のことをほとんどやらせちまってるからなとか、まったくもって見当違いなことをいいながら済まなさそうにしている堂島さんの指先が、躊躇うこともなく俺の頬に触れた。分厚い皮膚。かさかさした指先。瞬いた灰色の瞳に、俺だけが映り込む。それにどうしようもなく胸の奥が一杯になる。この人が俺のことを見てくれるのがすごく嬉しい。どうしようもないくらいに嬉しい。あ、駄目だ。これは、いけないと、そう思うのに。飲み込んだはずなのに。考えるなと思ったはずなのに。触れられた部分が熱い。駄目なのに、なのに、俺に触れていた指先を掴んでぎゅっと握り締めてしまう。
「孝介?」
「あっ、の。だいじょうぶ、です」
 ロボットのようにぎこちない話し方。なんでもないふうを装うどころか、逆に心配してくださいといっているようなものだ。お兄ちゃんと菜々子の声まで聞こえて、とっさに俺は堂島さんの手を放した。
「なんでも、ないです」
 大丈夫ですと、聞かれてもいないのに繰り返す。不思議そうに首をかしげていた菜々子も、最後まで心配そうに俺を覗き込んでいた堂島さんが食事を始めると、テレビのほうに夢中になってしまった。
「孝介」
 食器を洗っていると、低い声に名前を呼ばれる。びくりと肩が揺れそうになるのを堪えて、水道水の冷たさに集中しながら、はいと返事をした。何を言われるのかと、自分を落ち着かせるように瞼を閉じる。大丈夫、変なことは言っていないはずだ。無駄に泡だった洗剤を手元で遊ばせながら次の言葉を待つようにゆっくり十数える。背後から聞こえる調子はずれなテレビの音が俺のことを笑っているようだ。
「やっぱり、おまえの作るもんはうまいな」
 そっけないのに、優しい。気づいてしまったから、余計に。駄目だ駄目だと念じてみても、結局のところ一度あけてしまった鍵は元には戻らないし、認識してしまったものをなかったことにはできない。こぼれた水を嘆いたって、どんどんと水があたりを侵食していくだけで、一滴も戻ってきやしないのだ。そんなこと自分が一番よくわかっていた。嬉しくて、どうしようもなくて、頬が緩む。顔が熱くなる。どうしてだか泣きたくなる。ありがとうございますと返したはずなのに、それは掠れてうまく言葉にならなかった。


 その次の日、稲羽にきて、この堂島さんの家に来て初めて自慰をした。夜遅く、自分以外が寝静まったと分かる時間に声を潜めて。躊躇いはあったけれども、一度下肢に手を伸ばしてしまえば、そんな逡巡などどこかに置き忘れてきたかのようにあっけなく精を吐き出すことだけを考えた。久しぶりの行為に簡単に体は興奮して、ベッドに頭を擦りつけながら、耐えるみたいに誰かの名前を呼んだ。いつもと違った。悲しいくらいに呼びなれていた、あいつの名前じゃなかった。その事実に泣きたくなるよりも先に、閉じた瞼の裏で光がハーレションを起こし、光に重なるように男らしい体躯を思い描く。するとまるでそうなることが決まっていたかのように、聞きなれた低い声に孝介と名前を呼ばれることを夢想した。鼻にかかったような甘える声が不実にも誰を求めているか、いやというほどに分かってしまった。吐精した自分の精液のにおいが鼻腔を満たしたときに、いままで押さえ込んできた澱が急に形を持ったように腹の奥から競りあがってきて、そのままトイレへと駆け込んだ。吐き出したそれは、俺の中身みたいにぐちゃぐちゃで、形も残っていない。そのくせに胃液交じりのそれらはひどい臭気をはなっていて、それらすべてのせいで更に吐き気が増す。えずくたびに苦しくて涙が出た。それでも、胃の中が空っぽになったんじゃないかと思ってもまだ足りないとばかりに、濁った胃液が喉を焼きながら便器の中へと吸い込まれていく。熱を吐き出したときの快楽などとうの昔に吐瀉物のなかに紛れ込んでしまった。荒い呼吸を落ち着けて涙を拭う。鼻のほうにまで吐き出したものが流れ込んで息苦しい。菜々子は言った、家族みたいで嬉しいと。俺が兄で菜々子は妹で、堂島さんがお父さんで、まるで家族みたいで嬉しいと。なのに、俺は何をしているのか。兄は父で自慰なんてしないし、それに興奮して気持ちよくなったりもしない。どうしようもない背徳感の裏には、気づかないようにひたかくしにしていた汚いものがのそりのそりとのたうっていた。耳の奥で、お兄ちゃんと俺のことを呼ぶ菜々子の声が反響して遠のいていく。勢いで飛び出してきたせいで拭いきれていなかった精液が便座を汚した。本来の働きを果たせなかったそれはただの汚物でしかなく、酷く惨めだ。便器の蓋に映った歪んだ俺はあまりにいびつで救いようもない怪物のようだった。



12・05・06
13・02・25