父さんが母さんがとか、姉が妹がとか、兄が弟がとか、家族の話を聞くことは多々あったが、それに対して同じような話を返すことは少なかった。いや、むしろ皆無だった。なぜなら、話すようなネタも、家族の面白おかしい話も、気に入らないところもなかったからだ。こう言ってしまうと、不満がないなんて羨ましいとか、おまえの母さん綺麗そうだもんなとか、俺の感知しないところで作り出された妄想のようなものでリアクションを返されてしまうのだった。
 羨ましくなんてない。いつだって、帰り着いた家の明かりは消えていて、俺がベッドに入ったころに誰かが帰ってくるような音がした。休みは一人で時間をつぶすだけで、一人遊びばかりが上手くなっていくような子供だった。誰かと一緒に遊ぶことはあったけれど、家に帰ってからの長い時間をどうやって過ごすかが、小さな俺にとっての難題だった。
 だから、いまとは正反対なんだと思う。家に帰ると明かりがともっていて、小さな菜々子がお帰りなさいと俺を迎え入れてくれる。今日だって、玄関のドアを開けた瞬間に、尻尾か何かのようにはねたツインテールを揺らしながら、満面の笑みを浮かべた彼女が俺を待っていてくれた。季節の変わり目のせいか、僅かに体調を崩し喉と鼻からくる風邪で、咳こみ声が上手く出ない俺を、小さな鳶色の瞳が心配そうに見上げていた。お兄ちゃん大丈夫と、しゅんとしてしまったその声色に、菜々子のほうが病気にかかってしまったんじゃないかと不安になってしまうくらいだった。まだ小さい彼女に余計な心配をかけないようにと、視線を合わせるようにしゃがんで、大丈夫なんともないよと小さな頭を撫ぜてあげる。すると、安心したようにほっとため息をついて、風邪気味だから鞄持っていってあげるねと俺が持ったままだった鞄を、ひったくるようにして持っていってしまった。今日は和英と古語辞典があるから重いんじゃないかと止めようとしたのだが、止める前に菜々子の小さな体が勢いを殺しきれずに、鞄を引きずって転びそうになる。慌てて彼女の肩を掴んで顔面から倒れこむのを回避させると、今度は俺が脛を上がり框にしたたかに打ち付けてそのままその痛みに苦しむことになってしまった。あまりに強く打ったものだから、口舌しがたい痛みが俺を襲う。恥ずかしいことに、すこし涙目になったのを菜々子にみられてしまい、今度こそ救急箱を持って包帯でぐるぐる巻きにされるところだった。
 そんな菜々子をなんとかなだめてご飯を食べさせお風呂に入れて、布団に寝かしつけたのはちょっと前のこと。一息ついて自室に戻ると、カーテンの向こう側は真っ暗で、藍色の空にはキラキラと光る星が浮かんでいた。都会に住んでいたときに見えなかったそれは、今では当たり前のものになってしまった。はじめてこの街に来たときに、随分と空が広いんだなあと思ったのが、昔のことのように思える。だが、こんな時間になっても、この家の大黒柱である堂島さんが帰ってくる気配はない。寝る少し前に、菜々子が電話していたようだったけれど、今日も遅くなるのという会話が漏れ聞こえただけだった。堂島さんが担当し、そして俺自身も花村や千枝たちと一緒に渦中へと飛び込んでいった猟奇殺人事件は、解決の糸口をみせるどころか謎が深まって行くばかりだった。だから、仕事はたまる一方で帰宅時間は不規則。休みもままならないようだった。菜々子は俺の風邪を心配してくれているけれども、俺のことなんかよりも堂島さんがいつか過労で倒れてしまうんじゃないかと、踏み込みすぎかもしれないけれど少しは休んでくださいといってしまいたくなるくらいだった。
 テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話を引き寄せて、メールや着信を確認する。特に急ぎの用事はないようだった。花村の雑談みたいなメールに仕方ないやつだなあと笑いを漏らして、同じくらいにくだらないメールを返して携帯電話を閉じる。既にお風呂にも入って歯磨きも済ませたので、少しでも早く風邪を治すために早めにベッドに入ることにする。寝る前に、もう一度だけ戸締りを確認するために一階へと降りていったが、玄関の向こう側には誰かが帰ってくるような気配もなく、リビングのテーブルの上には堂島さんの分の食事がぽつんと置いてあるだけだった。




 孝介と、名前を呼ばれた気がした。小さく息を漏らして寝返りを打つと、今度は肩をゆすられる。ぐらぐらと揺れているのは地面じゃなくて俺のほうだったのだ。ぼんやりと目を開くと、電気を消したはずの室内に灯りがともっていて、枕元に誰かが立っているような気配があった。誰かと問おうとしたのに、ヒュッと息を吸う音にしかならない。
「おい、大丈夫か。顔が赤いな」
「ど、じまさん」
 誰かなんて問う必要もなく、鼓膜を揺らすその声に安堵した。ああ、今日は帰ってこれたのかとまだ寝ぼけている頭でお帰りなさいと言葉にしようとした。だが、上手く言葉にはならない。寝覚めで上手く出ない声は、自分のものとは思えないくらいにかすれていた。呼吸を繰り返すたびに、咳が出るのと声の掠れがひどいことから、喉の腫れが酷くなったのだろうなと検討を付ける。喉の辺りに触れると、そこが熱を持っているようなきさえした。
「菜々子から、おまえが風邪を引いたって連絡をもらったときは吃驚したが、これは結構本格的だな」
 ワインレッドのよれたネクタイを緩めて、ベッド脇に座り込んだ堂島さんは、俺の額に手を伸ばして熱を測る。大きな手のひらはひんやりとしていて心地よかった。二、三度比べるように自分の額と俺の額に交互に触れる。
「飯食ったか?」
「は、い」
「じゃあ薬だけでも飲んでおけ」
 堂島さんは起き上がろうとする僕の背中に腕を添えて、手助けをしてくれる。時計で時間を確認するとちょうど日付が変わるくらい。こんな時間に薬局なんてやっているわけがないから、もしかしたら仕事を抜け出して買ってきてくれたのかもしれない。そう思うと、忙しいばかりの彼の手を煩わせてしまったようで申し訳なかった。差し出された錠剤とミネラルウォーターを受け取って、咳に紛れ込ませるように迷惑をかけてごめんなさいと呟くと、まるで苦虫を噛み潰したかのような堂島さんと視線がぶつかる。
「おまえな、子どもがそんなこと気にするな。いいから、薬を飲め。謝る暇があったら早く治して、俺と菜々子を安心させてくれ」
 やさしく無骨な手のひらが、頭を撫ぜる代わりに背中を優しく叩いてくれる。呆れられたのかと思ったけれど、菜々子とは違う灰色がかった瞳は心配そうに細められていた。早くしろと急かされているような気がして、乾いている口に真っ白な錠剤を詰め込んで、冷えた水で嚥下する。ついでに乾いた喉を潤す。
「菜々子はもう寝たか?」
「はい。俺に気を遣ってくれたみたいで、はやめに寝るっていって」
「はは。気を遣ったのか、本当に眠かっただけかなんて分からんぞ」
「でも、堂島さんに電話してくれたみたいだし。あの、ご飯まだだったら、テーブルの上にラップしておいてあるものを食べてください」
「ああ、いただくよ。最近はおまえが作ってくれるから、外で食べてくる習慣もなくなっちまってな。買ってくるよりも、おまえの手料理を食べたほうが体によさそうだ」
 本気なのか冗談なのか判らないことをいいながら、手にしていた風邪薬の箱を薬局の袋の中にしまい込む。俺をおちょくっているような雰囲気でもないから、本心でそう思ってもらえているんだとしたら、作っている身として嬉しい限りだった。
「食べたいものあったら、言ってください。作りますから」
「わかった。でも、おまえはその前にやることがあるだろ」
「洗い物なら」
「そんなことは、俺がやっておくからいい、主婦じゃないんだぞ」
 はあと重々しいため息をついて頭を抱えた堂島さんは、俺の肩を押してベッドへと逆戻りさせてしまう。あのっと抵抗の声も空しく、無言のままに掛け布団までかけられる。
「とりあえず、寝ておけ。微熱だから、明日にはさがるだろう。俺はまだ起きておくつもりだから、もしもつらくなったら声をかけてくれ」
 俺を覗き込んで笑った堂島さんの顔には疲労の色が濃く残っていて、目の下にはクマもあるくらいだった。いまだって、たぶんまだ帰ってきたばっかりで菜々子の顔も見ないで俺のところに来てくれたに違いない。それが嬉しくて、少しだけ心苦しい。
「あの、無理しないで寝てください」
「だから、なんでそう。子どもは気にしなくていいから、早く寝ろ」
 だいたい、菜々子の面倒を見て、家事の手伝いをしてくれてるだけでも、十分なくらいなんだと、含み聞かせるように苦笑した堂島さんは、節くれだった大きな指先で俺の頬を撫でて、もう一度だけその手のひらで額に触れた。かさついた皮膚の厚い手は、熱を持った体には気持ちよくて、導かれるように瞼を閉じてしまう。
「おやすみ、孝介」
「おやすみなさい」
 耳元に落ちた低く芯のある声音。そばにある気配。俺が目を閉じたあともそれが離れるような様子はない。薬を飲んだせいなのか、すぐにうとうととまどろむように眠りへと手を伸ばしてしまう。ぼんやりと思う、家族じゃないはずなのに、堂島さんのぬくもりや菜々子の優しさは、何よりも俺が一人遊びの中で思い描いたことのある家族そのものみたいじゃないかと。




11・10・27
13・02・25