生きる、と表現することは、ひどく不似合いなのかもしれない。
 国として存在しているのだから、俺たちの中にたくさんの命が生きているわけで、生きるというよりは、そこにただただ存在していると言い表するほうがお似合いなのだろうか。だとするならば、食べて、寝て、笑って、泣いて、歌って、恋をして、心を動かして、心臓が脈打つ、この人間を模したように与えられた体を、嫌がらせのようにも、俺たちに与えられたほんの少しの慈しみのようにも感じることもあった。
 だけれども、ただただ存在しているにしては、ずいぶんとながい時の流れの中に身を置いている気がする。人間が生まれてから死ぬまでを何回繰り返したのかもわからないような時間の中で、繰り返し生まれては死んでいくことを体験することはなかったけれども、確かにその分量だけの記憶と痛みと喜びを胸のうちへと溜め込んできた。どんなコンピュータにも記憶しきれないような膨大な量の情報のはずなのに、そのどれもが薄れることもなく、この俺の中に降り積もっていく。どうせならそのままかすんでいってしまえばいいのにと願いたいような記憶、いや記録だってたくさんあるのに、そのどれもが忘却を許してくれない。
 俺は、俺として、いやイタリア=ヴェネチアーノとして、嫌になるほど、個である前に全であったのだ。
 だから、なのかもしれない。
 だから、なんだとおもう。
 どうしても、彼の名前を呼ぶ前に、ワンテンポ置いてしまうのは。ほんの一瞬、わからないくらいに小さく息をつめる。どうしてと聞かれたら、困ったみたいに笑うことしかできないのだけれど。でも、その星が瞬くよりも短い時の中に、言葉にしきれない錆付いた記憶と記録を生みつけるかのように、忘却を許してくれないそれらを詰め込み、そして流れる時間に逆らうように追いつこうとはしない、まだどこかに存在している幼い自分を押し殺すかのように上書きして、彼の名前を呼ぶのだ。
 いつか見た、陽だまりのようにいとおしい夢の中には存在していない、彼の名前を呼ぶのだ。
「ねえ、ドイツ」
 軍服やスーツではなく、カジュアルな服装に身を包んでソファに腰掛けている後姿が、俺の声に反応するようにびくりと揺れた。ああ、また眉間にしわを寄せているのだろうかと考えると、それだけで妙におかしな気分になってしまう。
 自然と緩んだ頬を誤魔化すようにもう一度、名前を、彼という国の名前を呼ぶと、わざとらしいようなため息がひとつ返事の代わりに落ちてきた。
 手元にある本に落とされていた湖面のような青をした瞳が、観念したかのように俺を振り向いた。想像通り眉間にはしわが刻まれているけれども、訓練のときに見せるような表情よりも幾分か柔らかいもので、そのまま両手を広げてその背中めがけて抱きついた。
「おい、イタリア!」
 聞きなれた低い声。不機嫌なんじゃないだろうかと思えるような響きを伴ったそれは、声色から受ける印象よりも気分が降下気味ではないことを知っている。ただ、地声が低くて、まるで訓練中の教官のようなしゃべり方をするから、彼の気分如何にかかわらず常に不機嫌であると誤解されてしまうだけなのだ。
「なあに?」
「なあにじゃない。お前が先に呼んだんだろう」
 はあ、ともうひとつため息が落ちてくる。そして、それを追うように膝の上に広げられていた本が閉じられた。
やったとガッツポーズをしたくなった。本を閉じたということは、ドイツが俺の相手をしてくれると言う遠まわしのサインなのだから。もちろん、話し合ったりしてそんなルールを決めたわけではないけど、普段のドイツを見ていれば、なんなんだまた変な問題でも起こしたのかとか、余計なことはしていないだろうなと内心でもため息をついて、いましていることなんかよりも俺のほうに関心がいっている状態なのだとわかった。
「んー、なんか暇だなと思って」
「それなら、お前も本でも読んだらどうだ。せっかくの休みなんだぞ」
 手元の本をぽんぽんと叩いているドイツの手のひらは、俺のものなんかよりも大きくて、節くれだった指をしていた。その手のひらは俺よりも角ばった字を書いて、そしてひどくなれた手つきで武器を扱うということを知っている。だって、嫌になるくらい近くでそれを見てきたのは、この俺自身なのだから。それを考えると、衝動的にその手のひらに触れたいという欲求が沸き起こってく。
 こういうところが、突拍子のない行動をすると評される所以なのかもしれないが、どうしてなんだと聞かれてもうまく言葉にすることはできない。ただ、そう、触れたくなったから、としかいえない。だから、ドイツの肩へと回していた手のひらでソファの背中をぐいっと押してよじ登るように飛び越え、そのままドイツの隣へと倒れこむように腰を下ろした。もちろん、俺の行動を予測していなかったドイツは、空色の瞳を瞬かせて、驚きに目を大きく見開いている。
 そして、驚きに感情が追いついたとたんに、また一段と眉間のしわが深くなって、行儀が悪い! というお叱りの声が飛んで聞いた。
「ヴェーごめんよー。でも、ドイツの隣にいきたかったんだ」
「だからといって、そんなところをまたいでくるな! 回ってこい!」
「えー、こっちのほうが近いじゃんか」
 自分の背中にあるいま越えてきたばかりのソファの背中をぽんぽんと叩くと、その横着を責めるように、ドイツの大きな手のひらが俺の頭を軽くはたいた。特別痛いわけではないけれど、様式美のように痛いようと涙を流すようなふりを見せてみる。だけど、ドイツは大して気にしたそぶりを見せないで肩を落としただけだった。
「近いとか遠いとかの問題ではないだろ」
「遠いより近いほうが効率がいいであります!」
 ドイツを納得させるように胸を張って言うと、お前の口から効率重視なんて言葉が出るなんて、明日は雨でも降るのかもしれないなと呆れを返されただけだった。
 ぐでっとソファにもたれかかっている俺とは対象的にドイツはまるで訓練に勤しんでいるかのようにピンと背を伸ばして、礼儀作法のお手本になりそうなくらい理想的な姿勢を保っている。休みの日までこんなふうに気を張っていたら疲れないんだろうかと思ったが、ぐでっと気を抜いているドイツを想像するのはなかなか難しかった。そういうところは、あの子と一緒だなと過去に飛びそうになった思考を打ち消して、目の前にいるドイツに抱きつく。
 だってそうでしょ、いまここにいるのは、あの子じゃなくてドイツなんだから。
「おい、イタリア。急に危ない」
「ドイツはむきむきだから平気だよー」
 自分の中からわきあがる感傷を誤魔化すかのように、分厚い胸板に抱きついてぎゅうっと力をこめる。男に抱きつく趣味があるわけではなかったけど、ドイツだけは特別だった。嫌悪感よりも安堵が先を行く。でも、それと同時に酷く胸が苦しくなった。
 恋なんて、過ぎ去ってしまえば幻のようなものだ。なのに、過去が忘却を許さないとき、幻は幻覚になって、ただの執着へと姿をかえる。本当は、もう愛なのか恋なのか執着なのかもわからなかった。美しい思い出だとフランス兄ちゃんのように自分の糧にしてしまうことは、どうしてだかできなかった。なのに、こうやってドイツの隣で安らぎを手に入れるのは、裏切りなのだろうか。過去の自分に対する、割りきれない思い出に対する、そして残酷なくらいにやさしいドイツに対する。
 おいイタリアと、ドイツが俺を呼ぶ声が耳元を擽る。離れていってしまう体温が寂しかった。でも、すぐ傍で聞こえる低い声は嫌いじゃなきあった。
「どうした? おまえが黙り込んでいると気味が悪い」
 けなすようなことを言うのに、俺を覗き込んでくるドイツの瞳はひどく不安そうなものだったから笑いそうになってしまった。素直じゃない。でも、純粋に心配してくれるのは嬉しかった。俺が考えていることを知らないから、こんなふうに俺のことを思ってくれるんだろう。だって俺は、ドイツの名前を呼びながら心のどこかであの子のことを思っているんだから。
「なんでもないよ、おなかすいたなあっておもって」
 壊れ物にでも触れるかのように伸ばされた手のひらを掴んでぎゅっと握り締めた。生きている体温。国であるというのに、肉体という入れ物を与えられた俺たち。いとしいと愛を叫びながら、自分の意思を許されないのなら、そこにどんな意味があるのか。苦しみも喜びも悔しさも愛おしさも、多くのことを積み重ねすぎて鈍感になっていく。
「ねえ、」
 日の光を受けてすける金色の髪。空を切り取ってきたような美しい瞳。この中身にも、俺のと同じように国としての淀が積み重なっているのかと思うと、不思議な気がした。瞬きのあとに訪れた沈黙は、言葉の続きを求められているようで、まるでリハーサルを繰り返すように心の中で彼の名前を連呼する。あの子じゃなくて、彼の名前を。
「ねえ、ドイツ。俺、おまえのことすきだなあ」
 まっすぐに俺のことを見ていたドイツの顔は分かりやすく真っ赤になって、視線があらぬ方向をさ迷い出した。握られたままの手がまだ離れていかないことに、俺は妙な満足感をいだいている。俺と同じ言葉を返してくれることはなくても、ドイツはこうやって俺のことを受け入れてくれるから。
 名前を呼ぶ前の一瞬の間。心の奥底に住み着いている過去への憧憬。愛なのか執着なのかも分からないような、あの子への想い。吐き出せないことはたくさんあっても、俺は確かにドイツの隣を心地いいと思っている。
「すきだよ」
 呟いた言葉は、なにかをこうように切実な響きを伴っていた。こんな求めるようなことがしたいわけじゃなかったのに。なのにドイツは、彼なりの精一杯の返事だとでもいうかのように、ただイタリアと俺の名前を呼んで、握りこんだままの手のひらを引っ張り込んで俺のことを抱きしめた。
 こんなになれないことをしてるんだから、絶対に真っ赤になっているに違いない。その証拠に、盗み見た首元から耳にかけてがくれないに染まっていた。
 埋まらない空白が、塗り替えられる日がくるのかは分からない。でも、もしもその日がくるのなら、どうかこのぬくもりでと願わずに入られなかった。




11・05・17
13・02・25