言葉にしたことはなかったけれど、カーテン越しにもれる朝日に照らされた髪はチョコレート菓子のようだと思う。そして、この本人もそのように甘い男だった。外見も内面も、操る言葉も体温も、すべてが、触れればとけるチョコレートのように甘い。
 まだ寝起きでぼうっとしている思考を言い訳の筆頭にして、白いシーツの上に散らばっている髪に触れる。もしかして、起きてしまうだろうかと思ったが、一房の髪を手櫛ですくようにしただけでは、睡眠に貪欲な男を現実世界へと引きずり出すことはできなかったようだ。だた、見えないなにかに、たとえば、みんなで仲良くパスタでも食べている夢を見ているのだろうか、こちらがなんだか申し訳なくなってしまいそうな笑顔をみせて、何事かもわからぬ寝言を呟いただけだった。
 とっさに、名を呼ぼうかと思った。
 その、気の抜けた優しい笑顔に突き動かされるように、個でありながら全を指し、そして個であることを許さない象徴である彼の名を。だが、あまりにも感傷的としか表現のしようがない自分を引き止めるように、音になりかけた言葉を手の届かないくらい奥に飲み込んだ。
 ないものを持っている。具体的に何かと言われれば困るのだが、たしかに、気づけば隣ですやすやと眠っている男は、俺にないものをたくさん持っていた。それらすべてが美徳ではないことはわかっていた。だが、その欠けていたものすべては、とても郷愁をかき乱す。正確な“母”という存在を持たぬ、故郷という存在を持たぬ俺を満たすには、とても不思議な感情を呼び起こす。ただそばにあるだけで、こんなにも懐かしい、このかき乱される想いを、世に送り出された言葉に愛された詩人たちならば、なんと名づけるのだろうか。口下手な自分には永久の課題のように思えるけれど、隣でのんきに夢の世界を楽しんでいる男なら、これ以上ないくらいにぴったりな名前を選び出してくれるかもしれない。
 しかし、これも自分には不似合いな感傷としか思えなかった。
 やらなければいけないことなんて、思う以上にたくさんある。いつまでもベッドの上に転がっているわけにはいかない。一人寝ならば十分な広さのはずなのに、隣に自分よりも小柄とはいえ男一人が眠っているせいで狭く感じているベッドから上体を起こして、大きく伸びをした。すると、その動きに連動するように隣の毛虫のような塊がもぞもぞともがく。
「ん、まぶしい……」
 独り言のようなかすれた声を上げて、のろのろとしたスピードでベッドから体を起こした毛虫ならぬイタリアに、俺は驚きを隠せない。一度、時計を確かめてみたが、まだ朝の六時。普段ならば、俺が隣で何をしようと起きることはないというのに、珍しいことがあったものだ。と、思ったのもつかの間、起き上がったのは寝返りか何かのいったんだったのか、またすぐにシーツの海へと身を投じそうになる。とっさに裸の肩を掴むと、まだぼんやりとしか回りの景色を映し出していないであろう鳶色を覗き込んだ。何度かの瞬きの後に焦点があってきたのか、謎のヴェッヴェッという鳴き声とともにドイツだという当たり前の言葉を投げかけられた。
「起きろ。朝だぞ」
「んー。まだ眠たいであります」
「何を言ってるんだ。勝手に人の寝床に侵入してきたくせに、いつまで居座る気でいる」
 掴んだままだった肩をグラグラと揺すってやると、だってこれ以上寝坊したらドイツが怒りそうで怖かったんだもん! だとかわけのわからない泣き言を言い出した。大体が、もう十分に怒っているし、寝坊したくなくてここまで来たのに、起こされてもベッドに潜り込もうとしていたら本末転倒だ。後から後から湧き出るように言いたいことはたくさんあったが、そのすべてを目の前で目が回るとか言ってぐったりとしている男に説明するのは、真の意味での時間の無駄だ。
 いつも通りの日常に肩を落として、変なうめき声を上げているイタリアを開放する。しかし、ベッドから立ち上がろうとした俺を引き止めるかのように、放したばかりの手のひらを手繰り寄せるように、兵士として戦っているとは思えないような柔らかな両手が俺を捕捉した。その手のひらは両腕を掴んでそのまま二の腕から首筋をたどり首元へと腕を回される。そして、俺の抵抗があるなんて考えないように、こうすることが世界の摂理であるかのような当たり前さで、イタリアは全体重を俺にかけて抱きついてきた。
「おい、危ない!」
 こうなることは、たぶん頭のどこかで予想していた。なのに、思う以上に勢いよく抱きつかれたせいで姿勢を崩してしまい、そのまま後ろへと倒れこんでしまう。まだ目覚めきらない静かな室内に、ベッドが上げる軋みが響く。それを追うように、イタリアの驚きの声も。
「おはようのハグ! だったんだけど……」
「してからいうな!」
 上にのしかかっているイタリアが覗き込んでくる。もちろん、倒れこんだ衝撃を受けたのは俺だけだったようで、このヘタレは泣くこともなくぴんぴんとしているから、痛みもなかったのだろう。ほんの少しでも痛いと感じていたのなら、一も二もなく泣き叫んでいるはずだ。
「大丈夫? 思ったよりも勢いついたみたいでごめん」
 殊勝にもくるんとした癖毛までをしょんぼりさせて謝る姿に、責める言葉はため息へと姿を変えた。こういうところがイタリアがイタリアたる由縁というか、ある意味での強みなんだと最近理解できるようになってきた。
「お前は大丈夫なのか」
「俺は平気だよー。ドイツのムキムキがクッションだもんね!」
 へらりと緩んだ頬に触れると、鳶色の瞳が少しだけ驚いたように見開かれた。指先に伝わる柔らかさに、ああこれはあまり自分らしくない行動だっただろうかと、誰にでもなく弁解するように考える。目の前にあったから、手が勝手に触ったんだとか、当のイタリアから責める言葉が聞こえてくるわけでもないのに、脳内の自分は何か合理的な説明を組み立てようと必死になっている。
「すまない、起き上がりたいからどいてくれないか」
「あ、うん。重かったよね」
 ゆっくりと上体を起こしたイタリアを膝の上に乗せたまま体勢を整える。俺が起き上がったのを確かめたイタリアはもう一度おはようのハグといって抱きついてきた。今度は無様に倒れることもなく受け止めて、いつも同じように抱きしめ返す。
「あー、なんか目ぇさめてきた!」
 ぐっと伸びをして大きく欠伸をしたイタリアはまだ裸のままだ。どれだけ服を着て寝ろといっても、聞く耳を持たないんだから嫌になる。
「あれだけ、バタバタすれば目も覚めるだろ」
「ドイツのムキムキが硬すぎるせいで衝撃が強かったんだよ」
 何故だかしたり顔で俺の胸元を叩くイタリアは、比べるようにベッドの上をボフボフとした。
「やっぱり硬い」
「お前は柔らかすぎるんだ」
 投げ出されたままのイタリアの柔らかな手のひらに触れる。見慣れたゆるい緊張感のない笑顔を見せていたイタリアは、どこか不思議そうに首をかしげた。もう、判ったような気がしていた。この男を戦場では見たくない。多くの国が武器を取るこの時代には不似合いな感情だとわかっている。でも、感覚的にそう思う自分がいることは間違いではなかった。
 武器を持つことを好まないこの手のひらは、武器の代わりに白旗を握り、白旗のように真っ白なキャンパスを美しく染め上げていく。この男が生み出していく芸術の数々は酷く好ましいものであった。そして、俺には与えられていないもののひとつだ。ならば、自分の武器を持つことばかりに慣れ親しんだ硬い手のひらばかりが、世界に与えられた価値観でないことは確かだ。
 手を握ったままでいる俺を、俺よりも長く生きているのにどこか幼いままの鳶色の瞳が映していた。ぼんやりとした焦点を捉えるように小さくその名前呼ぶと、返事の代わりにびくりとつないだ手のひらが震えるのがわかった。
「戦いばかりの俺にはよくわからないが、こういった柔らかいものもこの世界の中には必要なんだろうな」
「えっ?」
 イタリアの鳶色に閉じ込められた感情はいったいどんなものだったんだろうか。驚きとも喜びとも戸惑いとも感じ取れるような、すべてが交じり合ったようなものが、ただ言葉もなく見慣れた瞳の中に浮かんでいた。一瞬迷うようにさ迷った視線は、数度の瞬きの後に躊躇いの残滓さえも見せずに俺を見据えた。
「俺、お前の硬い手とかも大好きだよ! これは俺を守ってくれる手だろ!」
 呼吸よりも先に、ああと思った。
 お前はどうしてこんなにも、戦いではない部分で俺に与えてくれるんだろうか。
「お前は馬鹿か。そういうことをいっていたわけじゃ」
「ドイツが言ったことだってこういうことでしょ。ドイツは俺の柔らかい手を必要だと思ってくれて、俺はドイツの守ってくれる手が好きだよ。間違ってないだろ」
 ほら、こんなにも簡単に言葉にしてしまうんじゃないか。
 また、かき乱される。
 名づけることさえできないのに、感情だけが先走っていく。このまま積もり積もって、いったいどこへと向かっていくと言うのだろうか。ただ、言葉にできないものを封じ込めるように、握ったままだった手のひらを引き寄せて俺よりも薄い体を抱きしめた。いつもハグやキスをねだるイタリアは、ただただ擽ったそうに小さな笑い声を上げるだけだった。この一つ一つの中にさえ、なにか情動をせきたてられるようなものを感じてしまう。無邪気なだけのイタリアに翻弄されるように、俺だけが自分の感情を制御しきれないままに置いていかれてしまう。あの柔らかい頬に唇を落とそうかと思ったが、なんだかそれがいつもとは違う意味を持ってしまうような気がして、強請るように俺を覗き込んでくるイタリアをまぶたを閉じることでシャットアウトした。
「おはようのハグだ」
 いつもと同じことなんだと宣言する自分が、どこか白々しい。なのに、俺の内心を知らないイタリアはなんか、いつものドイツじゃないみたいだと笑っただけだった。的を射ていないわけでもないイタリアの言葉を誤魔化すためにもう一度力をこめて、俺には与えられなかった柔らかいものの感覚を確かめた。




11・03・25
13・02・25