【 四百四病の外の話 】


 触れる頃あいを見計らわねば猫のように逃げていく。
 いや猫のようにかわいげがあればもっと話は別だったのかもしれないが、鈴をつければ外してしまうし、餌をやっても懐きはしない。もっとおくれとねだってみせるのに与えてみれば既に腹はくちているなんていうのも、ありそうな話だ。もちろん、こいつの場合は餌なんていうかわいいものではなくて、もっと鉄くさくてかわいげもない金なのだが。そんなことを分かりきっていたとしても、男とは愚かな生き物で、一度惚れた腫れたと騒いでみれば、あとは一気に落ちるだけだ。わずかな当座がいっそ永遠にでも続かないかと祈るのみ。
 その真摯な願いが今回ばかりは天に通じたのか、無理矢理深酒に付き合わせた与三郎は、俺が距離を縮めて男のものでしかない腰に腕を回したというのに、抵抗する素振りをみせない。触れていないほうの指先に触れる畳の目をなでながらゆっくり数をかぞえて、わずかに伝わる体温が馴染むのを待つ。反発することなくとけていくそれを了承の代わりとし、そろりと腕に力を入れて与三郎の腰を抱き寄せた。左肩にのしかかる重みが心地よい。それをなれたものと評することがせめてもの慰みだろうか。
 猥雑とした喧騒からかけ離れたように静まり返った座敷の中に、お互いの呼吸音が響く。今回はタイミングを見誤ることはなかったらしく、与三郎も徐々に俺の肩にその身を預けてきた。鳶色の長めの襟足から覗くうなじは、薄紅色に色づいていて、少し着崩れた胸元から覗く刀傷も血に濡れていた頃を思い出すように朱色に染まっていた。誘われるようにそろりそろりと腰から首筋へと手のひらを這わせると、第一次警報が鳴るように、与三郎の手元でお暇をしていた扇がぱちりとなる。
 もちろん自然現象ではない。与三郎が何らかの意図をもって鳴らしたものだ。それに気づかぬふりをして誘うように熱を持っている首筋に触れた。すると今度はもっと明確な意思を示すように、触れていた指先を扇で弱く叩かれる。それはかわいくてしょうのない悪戯っ子を嗜めるように優しいもので、まだ与三郎が本格的に拒絶しているわけではないということが知れた。
 もっとということかと、耳元で囁くと、打てば響くようにため息が返ってくる。呆れられているんだろうなと思うが、そんなものいまさらだ。我関せずと、衿元から手のひらを忍ばせて、肩口に刻み込まれた刀傷に触れる。傷をつけたものを忘れるなとばかりに深く残されたそれは、回りきった酒のせいなのか熱をおびて脈動しているようにも感じられる。その拍動にそうように、まわりの皮膚よりもかたくなった傷跡をたどっていくと、腕の中に納まっていた与三郎がくすぐったさを訴えるように身じろぎをした。それにあわせて室内灯のあかりを受けて艶を帯びていた髪が揺れ、首筋をくすぐる。
「おいたはいけませんよ、若旦那」
 たしなめる口調には笑いがまじっていて、今日はもう少し艶やかなことをしても許されるのだろうという信号を感じ取る。その途端に、腹の奥がうずくように浮き足立ってしまうのだから、単純な自分自身に肩を落とさずにはいられない。
「かわいいやつだよおまえは」
「そんなことを言うのは若旦那だけですよ」
 仕方のない人と口角をあげた与三郎は、駄々をこねる子供をあやすようにどこか呆れ半分の笑みを見せた。
 ああ、ていよくかわされているなと思う。
 海千山千のこの男にしてみれば、俺の拙い慕情を受け流すなど赤子の手をひねるようにたやすいものなのだろう。分かりきったことなのに、もういまさら過ぎるところまできてしまって諦められるわけがなかった。
 まるでなかなか懐かない猫のご機嫌でも取るように、こうして与三郎がどこまでを許してくれるかを手探りで探し当てながら、飢えをみたすようにわずかな熱を共有する隙をうかがう。
 不毛だと笑われたってそれでいい。
 それで立ち止まれるくらいならもっと簡単に楽になれただろう。だが、幇間だとか与三郎だとか神田川月平だとか数ある名をいくら知れども、目の前にいるこの男がどうしようもないくらいにすきでたまらなかった。それをいとおしいというのならたぶんそうなのだろう。幾重にも被った仮面からちょっとした拍子に覗く、どこか浮世を突き放し、違う世を生きるような頼りなさも、柳のような軽さで生きるそのしたたかさも。どうしようもないくらいに。
 まあつまりは、惚れた欲目というやつだ。





 【 鳴かぬ蛍の話 】


 茜色の空が、いつの間にか藍色にかわり、障子の向こうに見え隠れする空は更に深い夜の色へと身を落としていた。もう町は眠りに付くころなのかもしれないけれども、雲間から覗く月の輝きが増すほどに絢爛華美な一夜の夢を彩っていく吉原は、夜の静けさを打ち消すように熱をはらんで喧騒をみせている。
 他のお座敷から離れているこの行灯部屋にまで、にぎやかな声音が伝わってくるような気がした。こうやって離れた場所でこの騒がしさを味わうのもまた一興。だが、まだ女将としての仕事が残っているのでいつまでものんびりとしているわけにもいかず、薄暗い室内にともった明かりを吹き消して立ち上がる。するとそれに呼応したように、華やぐ空気にまじってしずしずとした忍ぶような足音が聞こえてきた。もしかして、誰かが私を探しに来たのだろうかとも思ったのだけれども、その足音の主は行灯部屋の前で立ち止まると躊躇うこともなく襖を開け放った。
 薄暗かった室内に廊下の明かりが差しこんで、わずかに眩しく感じる。
襖を開けた人物は、私の姿を確認すると鳶色の瞳を瞠目させて、滑り落ちそうになった眼鏡をかけなおした。そのさまは、まるで悪戯が見つかった子どものように頼りない。
「あら、与三さん。今日も茜の間は待ちぼうけみたいですけど、あんたはこの部屋になんの御用なのかしら」
「女将さん、わかってらっしゃるのに酷いですよ」
 釘を刺す私の言葉に分かりやすく眉をしかめて嘆くように両手で顔を覆った与三郎は、お芝居か何かのように畳の上にしなだれて泣き言を漏らしている。しかし、どれだけ甘えた表情をみせられても、こちらも客商売。お客様を待たせるわけにはいかないというのが道理であり、なんだかんだと言い訳をつけてはあの人から逃げ回ろうとする与三郎の背中を押すのが最優先のように思われた。花街の手管も、それが過ぎれば野暮でしかないということなんて、この子はよくわかっているはずなのに。
「酷いのはあんたのほうじゃない。随分と若旦那の背中が寂しそうでしたけど、今度どんなお預けをされたのかしら」
「あたしゃしりませんよ。あの人のことなんて。こんな男芸者を捕まえて、惚れた腫れたの問答なんて三文芝居にもなりゃしないってのに」
「あんな男前を捕まえてよくいうわ」
 引く手あまたの妓もいれば、引く手あまたの客もいるというのが正直なところ。若旦那にお座敷をかけてもらいたいと話しているのを小耳に挟んだのは、片手では足りないくらいだ。隣にはべって夢を売るのなら、それは見目麗しいほうがいいというのが女心というものだろう。だけれども、その若旦那から飽きることなく御座敷をかけられている当の本人は、ままならない世を儚むように逃げ場を探してばかりいる。いっそ嫌なら袖にしてしまえばいい。なにかと文句をつけてはその糸を切らないでいるというこのは、すでにある種の結論をはじき出しているということだとどうして気づかないのだろうか。いや、気づいているのに、知らないふりをしているだけなのか。
 本当にどうしようもない子と零れ落ちそうになったため息を飲み込むと、私のあきれを汲み取った与三郎が救いを求めるように足元にすがり付いてきた。
「だってあの人、他のお座敷にかかりきりになると拗ねちまうし、旦那なんだから羽織の次は着物か煙管かなにが欲しいって、挙句の果てにはあたしのために離れをつくるとかわけのわからないことを言い出したんですよ。離れに囲われる幇間なんてきいたことありゃしません。冗談にしても寒すぎる。二号さんじゃあるまいし。いくら酔っ払いの戯言っていったって、バカ旦那じゃたりもしませんよ」
 演技過剰に震える声音は、同情して欲しいと声高に叫んでいるようだ。でもいくら嘆き悲しんでみせても、離れてみればのろけているようにしか聞こえない。それだけ大切にされて何が不満なのと小さく笑うと、不満以外ありゃしませんよと鼻白む。
「あら、あんたのために必死で一途な方ね」
「そんなのんきなものじゃありません」
 軽く揺れた肩。涙を流しているふりだけは一流だ。しかし、私にはそんなものなんて通用しないって分かっているのに、子供みたいにしてみせるのは彼なりの甘えなのだろうか。
「のろけならもういっぱいよ」
 慰めるように乱れた髪を梳いてやると、そんなんじゃありませんよと眼鏡の向こう側の鳶色が瞬いた。頼りなさげに揺れる声音は、諦めからくる弱々しさなのか、彼なりの迷いありきのそれなのかは分からなかったけれども、こういった類のことは否定すればするほどに火に油を注ぐ結果になるのは世の摂理というもの。はやく観念してしまえばいいのにと思うのは、第三者の身勝手さなのか。他人事と決め込んでいる分だけ、どんどんと追詰められていく与三郎のことが手に取るように分かった。金だなんだといって公明正大な理由を盾にしてみても、憎みきれないというのなら、答えかそれに近いものは出たも当然で、あとはこの人がそれをどうするか。右か左か上か下かはいかいいえか。その岐路に立っていることを知っているからこその、逡巡なのだろう。切り捨てられないのは、それくらいにあの人が与三郎のなかに深く食い込んでいるからだ。
「若旦那なりに必死なのよ。遊びなれないあの人が、せめてあんたの気を引きたくて精一杯背伸びしてるんじゃない」
 背中を押す手助けをするように、しゃがみこんで鳶色の瞳を覗き込む。途方にくれたようなその表情は、与三郎の躊躇いを如実にあらわしているようだ。具合が悪そうにさ迷った視線は、いったい誰を探しているのか。口篭ったままだった与三郎は観念したように頭を抱えて、重々しいため息を吐き出した。
「まあそこを、かわいらしい人というのかもしれませんけれど」
 でも、こわいんですよと、消え入りそうな与三郎の声が薄暗い行灯部屋にこだました。このままじゃ死んじまいますと、切羽詰ったような泣き言さえ続く。
 見栄も羞恥も世間体も剥ぎ取って、最後に残ったのはたぶんそれなのだろう。すがるようにぐいと押し付けられた体をため息混じりに受け止めて、大丈夫よと伝えるように羽織の下に隠れている傷だらけの肩をなでた。体に残って消えない傷は、肉の器の中にある心にだって同じだけのものを残している。とかくこの世はままならぬと、それこそ諦念の境地ではあるけれども、死んでしまうというくらいに思いつめた相手なら、それだけの痛みを抱えながら結局突き放すことができない相手なら、はやく観念してしまえばいいのにとはたから見れば酷く安易な考えを抱かざるを得なかった。





 【 若旦那と幇間の話 】


「今生の別れだ、みなさんさあさよならだというときに、瞼の裏に浮かぶのがあいつだなんていうのは癪じゃあありませんか」
 なぜそんな流れになったのかはよく覚えていない。だがたしかに、酒気に忍ばせるように、笑いまじりなくせに、案外切羽詰った声が耳元に落ちた。囚われ続けているということかとは聞けなかった。なんとなくその答えを想像し、そしてそれが否でも応でも、俺はまた腹のうちに何ものかも分からぬどす黒いものを押し込めねばならなくなるからだ。
既に酔いは十分に回っている。正体を失ってしまうまであと数歩。酔っ払いの戯言といえないこともない。しなだれかかってくる男の体には海月のように骨がなくだらしがない。それなりの矜持ありきで幇間をしていると公言したこともあるのに、これではどちらがもてなす側なのか分かったもんじゃなかった。
 だがそれに声を大にして不平不満を述べるほど、出来た客ではない俺は、これさいわいとばかりに求めても手に入ることのない重みをいつくしむ。しかし、俺の沈黙をなんと受け取ったのか、瓶底のような眼鏡の向こうからどこか頼りないとろりと融解するような熱をおびた鳶色の瞳がこちらをうかがっている。顔には出していないけれども、さ迷う視線はいってはならぬという秘密を漏らしてしまった子供のように頼りない。どうせ心の中では言わなければよかったと後悔していることだろう。
 これもまた酒の勢いというものなのか。俺もそれに踊らされるように、迷子の子供を導く代わりにその手を握り、思いのほか逞しい男の肩に腕を回して、既にゼロに等しい距離を更に詰めて長めの髪を手櫛で梳いた。
 若旦那と、揺れる声音が耳朶に触れる。その抑揚に甘えた色が忍び込む瞬間が、たまらなくすきだった。それを手管というのなら、当の昔に俺は篭絡されてしまっている。それこそたぶん、もう手の施しようがないほどに。もがけばもがくほどに絡まるそれは、遅効性の毒のように骨身に染み込んでいった。
 もう一度、若旦那と、こうように名を呼ばれた。まるで褥の中で求められているようなそれに、いっそと思う。もういっそこのまま自らのものにしてしまえればいいのにと。なのにこいつは言うのだ、死ぬときに瞼の裏に思い浮かべるのは、あの男だと。それが堪えがたく憎らしい。かわいさあまって何とやら。
 だから、熱を持った頤を幾分か乱暴に引き寄せて、自分と同じ酒の味のする唇に触れた。ただ触れるだけなのにどうしようもないくらいにかき乱されるということを、たぶんこいつは知らない。俺の埋火のつらさを味あわせるように紅を引くことを知らない唇に軽く歯を立てると、力ない手のひらで胸のあたりを押し返される。それではもっととこうているのと同じじゃないかというのは、自分にばかり都合のいい穿った見方なのだろうか。名残惜しむようにもう一度だけ口付けて、そのまま抱き寄せると俺の肩口に顔を埋めた男は、重々しいため息をついた。
 呆れられただろうかと思ったが、呆れよりも躊躇いの滲んだ声音が鼓膜を揺らした。どんな顔をしているかなんてわからない。それでも、わからないこそ分かってしまうような揺れる声色が、怒ってますかと言葉をつむいだ。
 まさか。そんな。予想もしていなかったそのしおらしさに肩を揺らして、やせて骨ばった手のひらに指を這わせて握り締めた。
「死ぬときは、俺を思い出せばいいだろう。どうせ、これから先は俺といっしょなんだ。すぐにぬりかえられるだろうさ」
 思ったよりも大きく響いたそれに、羽織をはおった肩が揺れる。もしかして、笑われたのだろうかと思ったがそういうわけではないらしい。こちらとしても冗談どころか、怖いくらいに本気でいったことなので、笑われなくてよかったと肩を撫で下ろした。緊張した体から力を抜いて、まだもたれかかったままの重みを受け止め続けていると、身じろぎをしてずいと体を寄せてくるのがわかった。苦痛ではないその沈黙に身を浸すように、鳶色の髪を梳く。徐々に馴染んでくるその感覚を楽しんでいるというのに、彼が小さく息を吐くのがわかった。濡れた呼気が首筋を舐める。本当に、ばかなお人だ。言葉の割りに優しい声音。本当にどうしようもないと、独り言のように続いた言葉。こんなにすいているのに、酷いやつだとわざとらしく苦笑を浮かべる。
 すると、体を起こした骨なし海月がなんとか俺に寄りかかりながら、それでもしっかりと唇を重ねてきた。酒気を帯びたそれは、どうしてだか甘く、耳元に落ちたばかなお人という声音も睦言を交わすかのように艶かしい。瞬いた鳶色は、真っ直ぐに俺を映している。そこに映りこんでいる俺がどんな表情をしているのかは知らないけれども、ただ与三郎はそのお話については考えておきますよと小さく笑っただけだった。
 たまらなく憎らしかったはずなのに、触れた瞬間はなれていったそれがたまらなくいとおしく感じられて、ほらまたこいつの手管にあっけなく落ちていってしまうのだ。




 【 若旦那と奉公人の話 】


 周りの空気がどことなく落ち着かない。
 朝、日もとうに昇り終えたころ。朝の早い職人たちは既に与えられた自らの仕事をこなしている中で、折り重なるように新たなざわめきが起こる。時計を確認する必要もなく店を開ける時間が近づいてきているのだということが知れた。なぜなら自分も、今日からそこにまじって働かなければならないからだ。前職の性質上、あまり前に出るのは好ましくないだろうと判断して裏方を希望したのだが、いやそれ以前にこの店に奉公に来るつもりもなかったのだが、養われるか働くかの二択で迷うことなく出した結論をもとに、あれよあれよという間にここまで来てしまったのであった。
 緊張しないわけではないが、いちいち些細なことで一喜一憂するほどに初心なわけでもない。まあ、世の中を悲観しない程度に、なんとなく楽に生きていければいいかなと居直れる程度には人生経験をつんできたつもりだ。だが、今回ばかりはちょっと話は別で。隣で嬉しそうにだらしない笑いを見せている男の顔を見ていると、自然と呆れのため息を漏らしてしまいそうになる。せっかくのご面相が台無しだと嫌味の一つでも言ってやりたいが、そんなことを言えば惚れ直したかと自分にばかり都合のいい見当違いの解釈に顔面を崩すのだろう。
 なにがそんなに嬉しいのか。こんな年増を捕まえて隣に添えてみたところで、この男に幸福が訪れるとは思えない。ここまで必死になられるほど魅力を兼ね備えた玉でもあるまいしと、卑下するわけでもない現実に、どこか浮ついた雰囲気をかもし出す男とは正反対にがくりと肩を落としてしまった。
「いつまでもぼうっとしてないではやく店に出てください。もう開店間際ですよ」
 じっとあたしの隣から動こうとしない邪魔な体をぐいっと押して、開店準備に追われている店のほうへと向かうように言い聞かせる。何も間違っていることはしていないはずだが、返ってきたのは物いいたげな視線だ。そんなだらしのない表情ですごまれたって何も怖くないっていうのに。そんなものよりも、先ほどからちょいちょいと様子を覗きに来る女中頭の勝子さんの視線のほうが、あたしを刺し殺しそうな勢いで肝が冷えた。
 隣の男もそれと同じものを感じ取っているはずなのに、まったく動じないのはさすが大店の若旦那の器ということなのか。それとも年甲斐もなくはしゃぎすぎて、鈍感になっているかのどちらかだ。
「何言ってるんだ、今日はあんたの働きはじめだろう。俺が付いて何をすればいいか指導するに決まっている」
「大変申し訳ないことに深窓の令嬢でもあるまいし。これでもそれなりのことはしてきましたので、若旦那にご丁寧にご説明いただかなくても大丈夫です」
 真顔で先人ぶってみせる若旦那はあたしの言い分に納得していないのか、梃子でも動かない気でいるらしい。ほらいまも、苛立たしげな勝子さんの視線があたしたちを射殺さん勢いだ。そりゃあ、目に入れても痛くないくらい大切な跡継ぎが、わけもわからぬ男妾なんぞを連れてきたら、怒り心頭もいいところだろう。
取り入ろうとしたわけではないが、何度か会話を交わしてみても、どこか彼女の対応は固いままで、始終あたしにだらしない顔を見せている若旦那にはすでに諦めの境地とばかりの極寒の眼差しを向けていた。
 まだ、たたき出されないだけ肯定的に受け入れられているのだろうと思うが、これからの働きぶりであたしの立場をもう少しいいものにしていけるように、ここでこの人に足を引っ張られるわけにはいかない。
「ですから、はやく若旦那にしかできないお仕事のために店のほうにでてくださいよ」
 邪魔者を追い払いたいのだろうと不満顔のこの人は、これでもそれなりに新しく与えられたというか選択したというか勝ち得た場所に馴染むために必死のあたしの気持ちを汲み取ってはくれない。しかも、あたしの努力の何が気に入らないのか、着流しの袂に両手を突っ込んで眉根を寄せ渋い表情だ。
「なんですか?」
「なんですかって、おまえ若旦那はないだろ」
「はあ?」
 目の前の男の言っている意味がわからずに首を傾げると、向こうもこちらの意図がわからないのか世の不幸を嘆くかのように頭を振って額を覆う。まるで出来の悪いが学生に向けられるかのようなそれに、自分の発言を振り返るがなにも不味いところは見つからなかった。それどころか、奉公先の若旦那に迷惑をかけないようにしようとする模範的な奉公人ではないか。
「いいかよさ、いや違う周士」
 まるでご高説を下さる学者先生のようにすっと背筋を伸ばしてあたしのことを覗き込んできた若旦那は、特定の人間以外には久しく呼ばれることのなかったあたしの本名を口にした。予想していなかったそれに、びくりと体が揺れてしまう。その動揺が知られないようにそ知らぬふうを装って、真面目な顔をつくっている若旦那を見返すが、右往左往している視線からこの人もなんとなく照れくさいんだろうなあと苦笑してしまいそうになる。最後に格好がつかないのがなんとなくこの人らしい。だから憎めない。
「おい、いま笑っただろ」
「笑ってませんよ。そんな、若旦那のことを笑うだなんて失礼なこと」
 必死になるところがまだ子供だと、唇の裏側を噛み締めて堪えると、若旦那は若旦那で頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「いいか。とりあえず、あんたは今日から吉原の幇間じゃなくて鶴亀味噌の奉公人なんだ」
「はい。だからでしょう?」
 言葉の先を取られて勢いを失った若旦那がへっと間の抜けた声を上げた。
 あたしだって、この人が言いたいことがわからないほど野暮ではない。というより、お座敷で何度か懇願されたことはあるのだが、花街の作法にのっとって彼自身の名など呼んだことはなかった。それをあたしは必要とはしなかったけれども、どうやら彼としてはそいった形というものを大切にしたかったらしい。そんなふうだからこれはいい機会だと水を得た魚のように喜んだことだろう。しかし、誠に残念なことではあるが、花街のルールは抜け出しても新しい関係をかんがみれば、また若旦那の主張は通らないのだ。
「だから、今日からあたしはここの奉公人になるわけですから、若旦那のことは若旦那とお呼びしませんと」
 小首をかしげて笑って見せると、あたしの言いたいことを理解してくれたらしい若旦那が悔しそうに唇を噛んで小さく周士と慣れているはずなのに、慣れないその名前を呼んだ。彼の声でそうやって呼ばれるのは、どこかくすぐったくて背中がかゆくなってしまう。
「若旦那だって、与三郎と呼んでくださってかまいませんよ。なにぶんそちらのほうが慣れておりますから」
「俺は周士でいいんだよ。それよりも、その若旦那っていうのを」
 ぐっと肩を掴まれてゆすぶられても、若旦那は若旦那だから仕方ない。むしろこの店の中でこの人のことを名で呼んでいるのは近しい人たちくらいだろう。そんなに必死になってかわいい人だと思ってしまうあたり、相当に焼きが回ってしまっているのかも知れないが、いつまでもこの人と遊んでいるわけにはいかない。
 肩を掴んでいる手に触れると、若旦那がその動きを止めて朽葉色の瞳にあたしを映した。じっと視線がぶつかったことを確認して小さく微笑む。触れていた若旦那の手のひらはいつの間にかあたしの手首を握り締めて、そこに刻まれた刀傷を指先で慈しむようになでていく。そのままぐいっと手首を掴んで引き寄せ、耳元に囁くように声を落とした。
「ほら、勝子さんが睨んでますよ。はやく行かないと」
「くっ、ずるいぞおまえ」
 若旦那もトゲトゲしいその視線には気づいているのだろう、恨めしげな色の浮かぶ朽葉色に仕方のない人だと笑ってしまう。駄々をこねる子供じゃないんだからという代わりに、本当にどうしようもない人と呟いて、はやく行ってくださいよと胸元を押して距離をとる。離れたその距離を埋めるように、秘め事でも口にするかのような高揚を味わいながら唇を舐めた。一瞬のためらいを誤魔化すように、唾液を嚥下して口を開く。
「ほら、升一郎さん」
 若旦那の朽葉色の瞳が瞠目して、そう強く押したわけでもないのにバランスを崩したようにその場に倒れこむ。何があったのか理解できていないらしい若旦那は、しりもちをついたままじっとあたしのほうを見て、一瞬遅れて頬を紅色に染めた。そのさまが純情な少年を誑かしてしまったかのようで居た堪れない。こちらのほうが恥ずかしくなってしまう。
 何事かとあたしたちの方に早足で向かってくる勝子さんの先回りをするように、升一郎さんはしょうのない人なんですからと、若干熱を持った頬を誤魔化すように手を伸ばして、若旦那を引っ張りあげた。
 手のひらを介して伝わる体温がいとおしいだとか、呼ばれる名前がそれほど嫌じゃないだとか。またたいた朽葉色に滲んだ喜色が安堵を覚えてしまうだとか。これじゃあ、どうしようもないのなんて御互い様だ。あたしだって、年甲斐もなく浮かれてしまっている証拠じゃないか。





12・09・20
13・02・25