また、駄目だった。
 飲み込むことなく呟いた雨生龍之介は、細い首をくるりと回して、わざとらしいくらいゆっくりとため息をついた。味わうようなそれは、冷え冷えとした夜のリビングにこだまする。人の気配のないこの空間は独特のにおいに支配されていたが、それに対して不平不満を述べるものはいなかった。いや、なにかを口にしたかったとしても、その権利さえ龍之介に剥奪されていたのだ。もっとも残酷な方法で。
 脱ぎ捨てられた靴は、どこの国かも分からないような風景と眠くなるような曲を流しているテレビの光に照らされて、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。同じく白く照らされている龍之介の足は、つま先から土踏まずの辺りまでが真っ黒に汚れていて、彼の指先からぽたぽたと黒い液体がフローリングへと滴り落ちていった。さらに、その汚れは、墨でも落としたような深い闇の色をしたバケツと、彼が悩ましげなため息をつきながら眺めていた幾何学模様のような図形を繋いでいる。すべて、薄闇の中では黒に見えるが、かすかなテレビの光のなかで目を凝らせば、それがただの黒でないことが分かる。あまりにも深い赤だから、すでに薄く引き延ばされ乾きつつあるから、いろいろな理由で紅色がただの黒に変色して見えるのだった。
 べたべたに濡れてしまった足の裏を躊躇うことなくフローリングに着地させた龍之介は、自らが描いたある種芸術的とも思われる図案を見た。回数をこなしているためか、いまやそれを描くテクニックはどんどんと上達し、線に迷いはなく、自分のつま先がこの曲線と直線を描きこんでいったのかと思えば、なかなかに誇らしいものがあった。既に脳裏に刻み付けられているお手本と比べてみても遜色はないし、初めて自分が完成させたものと比べてみてもこちらのほうがいいと、胸を張って言うことができた。しかし、これでは駄目だったのだ。
 じゃあ何がと考えてみる。次は、自らが紡ぎ出した言葉だ。彼の何度となく復唱した題目は違えようがない。日常生活では使わないような、ひどく奇異な言葉や意味のわからぬ文言もたくさんあったが、それを噛んだり飛ばしたりすることもなかった。やはり、満点だったじゃないかと考えて、否定するように頭を振る。いや関係ないのだと。なぜ龍之介がそれを無関係であると否定できたのかといえば、最初にして、唯一の成功例はお遊び半分の、合っているのか間違っているのかも定かではないお粗末な詠唱だったからだ。このように真剣に魔法陣に向かい合っているいまとなってみれば許されざる手抜き加減であったし、我ながらやる気があるのかと自分をしかりつけたくなるそれを思えば、そこに成功と失敗の判断基準を置くのは頼りない。
 なばらと、龍之介はこの召喚に必要なものを指折り数えてみる。魔法陣、題目、そして生贄だ。彼が知った召喚の手順の中には、最後の一つは指定されていなかったが、一度召喚したときには自らが悪魔と楽しくお話をするために用意していたものだから、あのときの状況を一つも見落とすことなく再現するために、今回も男児の哀れな子羊を用意している。そして、魔法陣を描く血液も、たっぷりすぎるほどに新鮮なものを抜き取ったのだ。鼻腔をみたすかぎなれたにおいを胸いっぱいに吸収してみたが、それもいつもと変わらぬものだった。むしろ、あの悪魔が好むように、色欲を知らぬ柔らかな幼子達を捕まえ、動的な恐怖と絶望で彩り、彼らや彼女たちの体全体にその感情が行き渡ったところで生きたままにその赤い液体を抜いたのだから、悪魔という人という領域を超えたものを呼びだすために、これ以上うってつけの媒体はないだろう。
 地面に投げ出してある古文書は、それこそ嫌になるくらいに読みこんだ。冬木の街で儀式殺人をしたときにはその雰囲気を楽しむことを念頭においていたため、そこまで真剣に読み解いてはいなかった。だが、今回はただ楽しみたいだけの儀式殺人ではなくて、その先にある彼が思うところの悪魔を召喚する、ということが本題である。あまり形あるものを残すのは好まなかったが、ノートや辞書を使って現代訳が必要な部分は専用のノートに訳を写し取っていった。龍之介が何年かぶりに真剣におこなった勉強によって発覚した事実はいくつもあったが、そのどれもが召喚に役立つ情報ではなかった。一つだけ有力であるなしにかかわらず参考になったのは、悪魔を、いやサーヴァントというものを召喚する際には彼ら縁の品を触媒として使用するべきであるという記述であったのだが、残念なことに龍之介には自らが呼び出したい悪魔のためにどんな触媒を用意すればいいのか想像もつかなかった。古文書にあった、サーヴァントの真名というものさえ、龍之介は知らなかったのだ。いや、知ろうともしなかったのだ。ただ、犬がじゃれ付くように、旦那、旦那と、ただそれだけが自らに許された呼び名であるように悪魔を慕っていた。真名を知らぬことは悔いたが、想像がつかないわけではなかった。与えられた断片的な情報を組み合わせれば、なんとなくではあるが想像することができたが、それがわかったとして自分が召喚することができた悪魔に相応しい触媒など思いつきもしなかったし、一介の快楽殺人鬼にそれを手に入れることが可能だとは思わなかった。だが、龍之介はそれを重大なミスであるとは考えていなかった。なぜならば、前回の召喚ではそんなものを用意すらしていなかったからだ。ありもしなかったものを必死になって探すくらいならば、あのときの状況を刻銘に再現するために、いまこの部屋の中で恐怖に震えている子羊こそが、悪魔にお似合いの触媒のように思えた。
 ここまで完璧なのに、何が足りないのか。龍之介にはそれがわからなかった。召喚の地には冬木が最適であるとあったが、既に彼の師である悪魔と共に自由奔放に凶行を重ねすぎたせいであと二十年はあの街に近づくことは出来ないだろう。既に龍之介の隣にはいない彼の置き土産のおかげで、一連の児童誘拐と連続殺人については未解決事件のまま世間のワイドショーを騒がせて終わっていった。前者の誘拐事件に関しては、彼らで作り出したアートを工房と共に灰も残さず燃やし尽くされたために、その死体さえ見つかっていない迷宮入り事件のように扱われていた。龍之介自身も、自らが捜査線上に上がることはないだろうと楽観視していた。ここまで、雨生龍之介としてはなんの失敗もしていないのだ。このまま楽しく建設的に人生を生きていこうと思えば、いままで通りのやり方でなんとかなるだろう。しかし、それでは駄目だった。龍之介には、もうそんな生き方では足りなかった。パズルのピースがかけてしまったように、大切なものが抜け落ちてしまったように、雨生龍之介という人間にぽっかりと穴があいてしまっていた。それは、埋めようとしても自分一人では埋められない。
 いまだって、考えているのはあの悪魔のことだった。どうせならば、あの男の口から彼の真名を聞くことが出来ればよかったのに、いやもっと彼自身について知ることが出来ればよかったのにと、考えても考えても仕方のないことが頭の中をぐるぐると駆け巡って、後悔ばかりが残った。こうしてたった一人取り残されてみれば、あんなに慕っていた男のことを何一つ知らなかったのだ。名前も、歳も、経歴も。謎掛けみたいな情報の断片しか知らない。その事実に何よりも愕然とした。いつのまにか、繋がっていると、深く深く繋がっていると勘違いしていたのだ。そんな自分が、とても愚かしかった。
「つまんねぇ」
 低く、落ち着いた声が静寂を揺らした。それに反応してまだ息のある子どもがひっと悲鳴をあげる。だが、それを歯牙にもかけないで龍之介はもう一度自らの舌に馴染んだ呪文を唱えた。まるで、それだけが彼にとっての救いであるかのように。
 繰り返す回数は五回。歌い上げるように朗々と、決まりきった台本を読み上げるように単調に。あの冬木の地で体験したような高揚が、龍之介の心の中に巻き起こることはなかった。失敗すると分かりきっていたからかもしれない。いや、だがそれだけではない。もう、随分と前からそうだ。具体的にいうのならば、龍之介の師であり理解者であったあの男がいなくなってから、龍之介の中身は酷く凪いでいた。死への探究心が消えたわけではない。それは龍之介にとって何物にも代えがたい、三代欲求にも並ぶ根源的知識欲だったからだ。しかしそれ以上に、あの悪魔が、キャスターが、自分の隣にいないことが、龍之介を落胆させた。一人ということに慣れ親しんでいた龍之介は自らも気づかぬうちに、どうしようもないくらいに深く、逃げ切れないくらいに強く、魅入られていたのだ。別れがくるということにも忘れてしまうくらいに。ずっとあの幸福な日々が続くと、子供みたいに従順に信じてしまえるほどに。
 待ちわびるように潜められていた呼吸は、落胆へと変わる。何も起きない。いまはなんのあとも残っていない右手には、変化はない。焼け付くような痛みもない。体を電流が駆け抜けるような痛みも。予想できていたことではあったが、龍之介は唇を噛んで出そうになったため息を飲み込んだ。もう、何度目の失敗かはわからない。何度繰り返したのかも分からない。どうして駄目なのか、龍之介にはわからなかった。理解できいないのに、自分が失敗したのだということはよくわかった。
「なあ、なんで駄目なんだと思う? お嬢ちゃん」
 龍之介の後方に転がった喉を掻き切られた少女は、この凄惨な殺人現場に響く嘆きの声に返事をしない。もう生命の光を宿さぬ黒い瞳は、ただ寂しげな龍之介だけを映していた。
未分化で中世的な外見を持った少女だったから、彼ならばとても喜んで素晴らしくCOOLなアートを作ってくれただろう。なのに、その彼がいないのだ。
 あの一連の出来事が白昼夢だったのだろうかと考えたこともあった。悪魔に取り入られて、頭がおかしくなってしまったんじゃないだろうかと考えたこともあった。でも、彼が龍之介に与えてくれた全てを幻や嘘にしてしまうことは、龍之介自身が耐えられなかったし、また彼の存在を否定することなどできなかった。
 まるで、一人ぼっちで取り残された迷子の子供みたいだ。たしかに繋がっていたはずの右手にはもう、二人を繋ぐ証は残されていない。ぼんやりとではあるが確かに存在していた、龍之介と悪魔を繋いでいたラインも感知することが出来ない。
 本当に、消えてしまったのだと、龍之介は思う。
 自分は、一人取り残されてしまったのだと。
「つまんねぇ」
 瞬いた黒い瞳は、自らが描いた血の魔法陣を映す。それだけが、龍之介が求めて止まない男へと繋がる唯一の架け橋だった。しかし、血はただの血でしかないし、魔法陣はただの魔法陣でしかない。間抜けにさえ見えるそれは、なんの変化さえも起こさずにそこにあるだけだ。この殺人現場には似合わぬ暢気な音楽とナレーションが、龍之介の神経を逆なでする。何か起これと、なんでもいいからおこってくれと祈るように、旦那と、龍之介の唇が言葉を紡いだ。しかし、返事はない。血で満たされたバケツが、波紋を描いただけだ。あの男が綺麗だといった指先を手のひらに食い込ませて、龍之介は歯噛みする。
「つまんねぇよ、旦那」
 乾いた声音は、恐怖に震えることしか出来ない少年の鼓膜を揺らした。もう、助からないと自分の運命を受け入れつつあった彼は、酷く退屈そうなのに、殺された自分の家族があげたような悲痛な叫びにも似た呟きに息を呑んだ。この悪魔のような青年は、人を殺しながらこんなにも泣きそうな顔をするのかと、自分を殺すであろう相手に対して瞠目する。
「あんたがいなきゃ、この世の中はこんなにも退屈だ」
 少年を見下ろし、殺すということを考える。龍之介の頭の中には、まだ試したことのない殺害方法や作ったことのないアートの構想が渦巻いているのに、その全てが何処かくすんで見えた。いままでどんな退屈だって愛し、またその中から新しい悦楽を抽出してきた。なのに、誰よりも世界を、退屈を、人間を愛してきたはずの雨生龍之介は、いま人生で初めて、いかんともしがたい漠然とした退屈というものに殺されてしまいそうだった。
 たった一人、龍之介が求めて止まない悪魔がいないだけで。





12・04・26
13・02・25