旦那は神を、愛さない。
 むしろ、憎んでいるといってもいいのかもしれない。それがどうしてなのか、どんな出来事に起因しているのかなんて知らない。聞いたことさえなかった。でも、テレビで見る海外の人みたいに食事の前にお祈りとかしないのと、興味本位で尋ねてみたときには、いつもの旦那らしからぬ取り乱しようで、オレには理解できないようなことをまくしたてていた。オレ自身のスタンスとしては、神というものを嫌悪することも否定することもない。もっと抽象的に、そして漠然としたものとしてとらえていた。たぶん、どこかに。姿を見せていないだけで、この世界のどこかには、それかもしくは、それに近しいものが隠れているに違いないのだ。だから、たしかにいるのだろうなと思っているものを、そこまでして否定してしまう旦那のその必死さの中に、いったいなにが隠されているのかということが気にならないわけではなかった。
 いま、オレの手の中にある、血管のような紋が描かれた大きな手のひらが、戒めのように祈りを捧げない理由。宗教に重きをおかない環境のせいなのか、ぱっと思いつくようなものはない。いくつか考えてみたところで、そのどれもが現実感もないうえにそれほど重要な原因には思えなかった。
「リュウノスケ」
「えっ?」
 頭の上からふってきた声。戸惑いを含んだそれに続くように、背後にある旦那の体がびくりと揺れる。あっと思ったときには手の中の爪切りが深く爪を抉り、行き過ぎて肉までを削ぎ取ろうとするところだった。寸前で思いとどまる。慌てて急ブレーキ。なんとか、爪の表面に薄く傷がついただけで最悪の事態は間逃れたようだった。それでも大分危機感を持ったのだろう。旦那はいままでしぶしぶながらオレに預けていた手のひらを、警戒するように硬く握り締めている。
「ご、ごめん。ちょっと勢いをつけすぎたみたいで」
 すぐ後ろにある旦那の胸に体をもたれかからせて、顔を見上げる。零れ落ちそうなくらいにまんまるな目は細められて、感情を読み取ることは出来ない。でも、怒っているわけではないみたいで、ほっと肩を撫で下ろす。二人して足を突っ込んで温まっている炬燵の上に爪切りを置いて、中途半端に爪の短くなった旦那の手のひらが開かれるのをまった。ころりと転がっている爪切りからは、ずいぶんと分厚い爪の破片が零れ落ちる。
「いえ、大丈夫ですが、まだ切らなければいけませんか」
 更に強く手のひらを握りこんだ旦那は、大丈夫という割には自分の左手の安全を確保できるように、タイミングをうかがっているような気がする。何度かぴくぴくと手のひらを引こうとしているところとか特に。いまさっき、少しだけ指を短くしてしまいそうになったオレがいえることではないけれども、これは脅えすぎだ。指が短くなるくらいどうしたというのだろうか。いや、旦那の指先が好きだから、傷つくのはいやだけど。でも、その傷をつけるのがオレだというのは悪くない。うん、悪くない。でも、そんなことを正直に言ってしまったら、手を預けてもらえないどころか、すぐさま炬燵から避難されてしまいそうなので、大丈夫だよちょっと手が滑っただけだから、むしろこの状態でストップさせたら指の半分だけが爪が長いままで変でしょと、できる限り爽やかな笑顔になるように注意しながら旦那の左手を握り締めた。
「たしかに、それはそうですが……」
 落とされた視線は、自分の爪先。旦那なりの葛藤があるのだろうか。
「しかし、急に爪を切るなどと、魔術か錬金術の類にでも目覚めたのでしょうか」
 理解しかねますと首をかしげる旦那に、その発想のほうが十分に理解しかねるものなのに、至極真面目な顔をして言うものだから違和感を持つ自分のほうがおかしいんじゃないかって思えてくる。時代錯誤とも言える、ぶっ飛んだその感性がCOOLで仕方ない。
「まさか。オレ、残念ながらそういう特殊技能は持ち合わせてないんだ」
 錬金術の材料にも、魔術の手助けにもなれない爪の欠片を、テーブルの上にあるゴミ袋代わりのコンビニのビニール袋の中に捨てて、切れ味を確かめるようにカチカチとかみ合わせてみる。緊張の緩んだらしい旦那の左手は、オレの手のひらの中で無造作に投げ出されていた。
「あなたは十分に魔術の才能を有していると思うのですが」
 旦那の左手が爪切りを握っていた右手に添えられる。歪な形に爪を切られた指先は、なにかを探すように手の甲をなぞっていく。もちろんそこには、青く浮かび上がる血管くらいしか見当たらない。手がきれいだと言われることはあったけれども、それが旦那にとって重要なのかというと、そういうわけでもない。だが、ときどきこうして目に見えないものを探すように、旦那の指先や視線がオレのかざりっけのない手の甲をさ迷うことがあった。形のない物を、それこそ砂漠の砂の中から米粒の一つでも探し出そうとするように、大きな爬虫類にも似た目を凝らしているのに、オレは知らない。いったい何を、求めているのかを。もしかしたら、そんなものただの勘違いで、なにも探していないのかもしれないけれども、それでも、瞬いた瞼の奥の瞳は何処か遠くを見ているようだった。いったい、オレの向こう側に誰がいるというのだろうか。
「魔術かぁ。呪文、教えてくれたら使えるかもね」
 魔法だか、魔術だか、その違いだってあるのかも知りもしないけれども、そうしたら、旦那が何かを教えてくれるのならば、オレはもしかしたら彼が望むような事象を起こすことができるのかもしれない。オレの向こう側の見えない誰かを、演じることが出来るのかもしれない。でもそれはたぶん、いまではない。そして明日でもない。ずっと、短くはない時間を隣で過ごしてきたが、その日は一向に来ない。思うよりも真摯に願っているオレを置き去りにして、懐古を打ち払うように、自分の中にある残滓を分け与えるつもりはないとでも言うかのように、旦那は触れていた指先をそのまま炬燵の奥へと隠してしまう。
「爪、切らなければいけないでしょうか」
 閑話休題。振り出しに戻る。
 やはり、さっきの失敗が、もともと爪を切ることに乗り気ではなかった旦那のハードルを更に上げてしまったのか、篭城を決め込むように、炬燵の奥に両の手を逃げ込ませてしまう。だが、いくら逃げられても、オレにだって魔術とか錬金術なんかよりもたしかに、旦那の爪を切らなければいけない理由があるのだ。端的に言うのならば、自分のために。雨生龍之介の体のために。
「残念ながら、オレと旦那の明るい未来のためには外せない」
 それはと言いよどむその表情は案外深刻で、オレの犯したミスが致命的なものであることが浮き彫りになる。しかし、いくらごねられたとしても、譲れない一線という物があるのだ。雨の中捨てられた犬みたいな目をしたってだめに決まっている。
「どうしてもですか」
「どうしてもです」
 旦那の迷いを一刀両断するように言い切ると、恨めしげな半眼を向けられてしまう。だが、考えてみて欲しい、親指からはじまり中指の中途半端なところまで切りそろえられた状態では格好が付かないじゃないか。だからといって、左手だけを切り終えてしまえばそこで任務完了なのかと問われれば、そこはターニングポイントでしかない。極端に爪を長く伸ばしていることが災いして、片手だけが酷く浮いてしまうのである。なので、旦那には大変申し訳ないことだが、この試練はまだまだ終わりそうにもないのだ。
 じっと見下ろしてくる瞳に答えるように視線を逸らすことなく見つめる。我慢比べか睨めっこか、鬼気迫る根競べの果てに、はあというため息が落ちてきた。それを追うように聞こえてきたのは、よろしくお願いしますという降参の声。
「合点承知!」
 肯定の言葉をもらえたそれだけのことで自然と緩む頬。旦那も少しだけ困ったように笑いながら答えてくれる。炬燵の中で温まった手のひらを引き寄せて、室内灯の明かりを受けて銀色に光る爪きりを握り締めた。鋭利な刃物のように切りそろえられていた爪に、できるだけ丁寧に刃を入れていく。爪を切断するたびに、背後にある旦那の体に力が入るのがわかる。そんなに緊張しなくてもいいのにと愉快な気持ちになる反面、オレの指先がこんなにも彼を脅えさせているのかと思うと、興奮だとか高揚だとか、ちょっと人様には言いにくい感情が頭をもたげてくる。
 でも、しょうがないじゃないか。これも、オレと旦那の楽しい日常生活を営むためのものなのだ。このままでは衛生的にもよくないし、なかなか自由がきかない。何がと問われれば、まあそういった日々の営みというか夜の営みというか、性交渉っていうか、つまるところセックスのことなんだけれども。ただでさえ体の機能を捻じ曲げてまで無理矢理突っ込まれているわけだから、円滑に行為を進めるためにも双方の歩み寄りが必要なんじゃないかと考えた末の苦渊の選択なのだ。決して、旦那の爪を切るのって楽しそう、なんていう軽い気持ちで始めたわけではない。本当に。絶対に。確実に。
「リュウノスケ」
「んー?」
 パチリ、パチリ、と体の一部を切り落とす音にまじって、控えめな旦那の声が鼓膜を揺らす。声も落ち着いてきて、不自然に固まっていた体から力が抜けたたみたいだから、爪きりにも慣れてきたのだろうか。
「アルバイトに行かなくても大丈夫なのですか」
「んー」
 伺うようにオレを覗き込んできた旦那の胸に背中を預ける。すると、炬燵の中に潜んでいたはずの右手がオレのおなかの辺りに回されて、子供か何かのように抱きすくめられてしまう。アルバイトに行かなくてもいいのかと気を遣って見せるのに、自分の元に繋ぎとめるように抱きとめられるのが心地いい。体が密着したせいで、旦那の長い髪が首元にふれて少しだけくすぐったかった。だが、間違っても手元がくるってしまわないように細心の注意を払う。
「休みなんだ。この間ヘルプで違う店を手伝いに行ったから、代休みたいな感じ」
 窓の外。閉められたカーテンの向こう側には、藍色の海と星の光の代わりのような、街の灯りがともっている。健全な夜のざわめきと、猥雑な欲望をはらんだ賑わいとの境目のような時間帯。いつもならば、勤労に励んでいる頃だ。でも、今日は一日フリーだから時間を気にしなくてもいい。
「そうですか」
 自分で聞いてきたくせに、なんて他人事みたいな返答なのだろうか。既に視線は、時計から炬燵の上に置いてあるみかんの方へと移っていた。噛み合っているのかいないのかよくわからない自分たちに苦笑いを禁じ得ない。
「そーなんです」
 四角みたいにかくかくした爪の端を切って、不恰好にならないように丸みを持たせる。できれば自然な円を描くように。自分の爪を切るときよりも丁寧に形を整える。リズムでも刻むように子気味よく、パチリパチリと音楽を奏でていく。
「できた」
 最後のひとかけらを切り落とし、ヤスリを掛け終えると、思わず唸ってしまいそうになる。旦那も生まれ変わったみたいに爪が短くなってしまった自分の手のひらに、どうしてだか感嘆の声を上げ、感覚をたしかめるように閉じたり開いたりを繰り返した。
 旦那の抵抗がないのをいいことに、小指の爪まで切りそろえ終わった手のひらを持ち上げて、光に透かすようにすると、我ながら中々の出来映えで惚れ惚れする。
「次、右手出して」
 すでにもう諦めの境地に達している旦那は、オレのリクエストにいやな顔もせずに右手を差し出してくれた。水仕事なんてしない、働いたこともないんじゃないかって思えるような、柔らかくて大きな手のひら。長く伸びた指先は、ピアノを弾いたりなんかしたら尋常じゃなく似合いそうだ。旦那についてあまり詳しいことは知らないけれど、時折みせる崩壊した金銭感覚だとか、丁寧な言葉遣い、そしてしっかりと躾けられたんだろうなとわかる立ち振る舞いを考えると、リクエストしてみたらピアノくらい弾いてくれそうな気もする。でも、そうだとするなら、こんなに爪を伸ばしたら鍵盤を上手く押せないはずだ。じゃあやっぱり、ピアノなんて習っていなかったんだろうか。
 解放した左手の代わりに、今度は右手の親指から順番に爪を切りそろえていく。自由になった旦那の左手は、さっきまでと同じように、オレを抱きしめるようにしている。すわりが悪くて身じろぎすると、苦しいですかと囁くような声が耳朶を擽った。
「平気。旦那こそ、手ぇ痛くない?」
「慣れました。リュウノスケは手先が器用で素晴らしいですね」
 にっこりと笑う旦那は、惜しげもなくお褒めの言葉をくれる。こんなこと誰だって出来るのに、特別なことではないのに。
 そうかなと首を傾げる。すると、あなたほど綺麗に爪を切れる人間を、私はほかに知りませんと真顔で返されてしまった。しかし、客観的に見るなら、旦那が爪を切った回数なんて、両手のひらの指で数え切れてしまえそうだから、むしろオレ以外を知らないんじゃないだろうかと考えてしまうのは、失礼に値するだろうか。
「爪を切らないのは願掛け?」
 言うつもりのなかった言葉が、勢いみたいに滑り落ちる。いまの無しっておどけたとしても、一度声に出してしまった好奇心が消えるわけではなかった。声帯と体が、切り離されたみたいに、どこか人事のようだ。
「さあ、どうでしょうか。なにぶん昔のことですから、よく覚えていませんね」
 嘘つき、とそういってしまえればよかった。だが、オレにできるのはただ爪を切る機械になったかのように、迷いなく旦那の皮膚の一部を切り取って綺麗に形をそろえていくことだけだ。いったいどんな顔をして、嘘をついているのか見てやろうか。無駄だとわかっていても、頭の片隅で思ってしまう。どれだけオレが躍起になったって、たぶん同じ土俵になんて上がれていない。幼子をあやすように、優しく微笑まれるだけだ。
「そっか」
 じゃあ仕方ないねと、なにも知らないいい子のふりをして笑う。それに答える旦那も、いい子を褒める親のように穏やかだ。
 知らないことばかりある。
 旦那の名前(本当は自己紹介されたんだけど、発音がよすぎて聞き取れなかった)、年齢、職業、どうして日本にきたのか、たまに出かけるときにはどこに行っているのか、オレ以外の知り合いは、どうしてオレとセックスしたのか、どうして、どうして、どうして、知らないことばかり、つもり積もっていく。どうしてが、オレの中の器の限界まで達したときに、何がこぼれ落ちてしまうのか。旦那の手なんかよりも小さいオレの手のひらでは、すくい取れる物なんてほんのわずかだ。それでも、そばにある体温はたしかに旦那のものだし、それが気持ちよくて、オレにとっていとおしいものであることは違えようのない事実だった。
「これ終わったら、やらしいことしようか」
 知らないから、オレが唯一知りえる方法で繋ぐしかない。
 音のない部屋の中に、明るさを装った俺の声が上滑りしていく。表面上だけはスムーズだった言葉のキャッチボールは盛大なファールをたたき出したかのように、途切れてしまう。オレが投げたボールはいったいどこへと消えてしまったのだろうか。その行き先を、知りたくはなかった。だから、逃げるように俯いて、必死になって旦那の爪を切るようなふりをする。静かな部屋の中に、波紋を落とすようにパチリパチリという硬質な音が響く。 何とも知れない、カウントダウンのように。残る指は、あと二本だ。
「ええ、あなたがそれを望むのなら」
 身じろぎもしないで返された言葉が、鼓膜を揺らす。今日の献立でも決めるような気軽さで。オレが、望むのならなんて、違う。いや、違う。望まないわけじゃない。でも、オレがとかじゃなくて、オレは旦那に望まれたかった。そんなこと、いえないけれども。感情の追いつかないところで、本能に忠実な肉体は、簡単に陥落してしまうけれども、望まれたかったのだ。まるで、真摯に何かを願うように、オレの向こう側に誰かを探す旦那のようなひたむきさで、願ったんだ。自分でも、どうしてここまで突き動かされるのかわからなかった。理由なんて、すべて後付だ。一瞬頭が真っ白になってしまうような、逃れられない乱暴さで、オレはどうしようもないくらいに魅入られてしまっている。
 だからせめて、共犯者でありたかった。男同士で無様なセックスをして、不恰好な快楽を拾って、愛されるような夢を見て、旦那の愛さない、だからこそ愛して止まない神に逆らって、体の中をぐちゃぐちゃにされて、共犯者になりたかった。旦那とのセックスは、必ずしもオレにとっての肉体的快楽に繋がるわけじゃない。苦痛のほうが大きいくらいだった。それでも、旦那が神に捧げる涜神行為の相手に選ばれたのだと思えば、その苦痛にさえも貪欲に手を伸ばした。それは、いつも旦那を希ってばかりいるオレの中身を満たすスパイスとなる。性感とは違う、根本を揺さぶるような衝動だ。旦那が神に背く犯罪者一号なら、オレは二号になりたかった。
「リュウノスケ」
 名前を、呼ばれる。訛りの混じった、どこかしたったらずなそれが、好きだった。抑揚のきいた、声色も。
 あと、残るは小指だけだ。ラスボス手前のゲームで急に回り道をしだすように、終わりをもったいぶるように、旦那の手を解放して、爪切りをカチカチとかみ合わせながら、爪の欠片をコンビニの袋の中へと落としていく。
 リュウノスケと、もう一度名前を呼ばれた。
 小指の爪だけが長いままの旦那の右手が、爪切りを握っていたオレの右手を握る。何事かと爪きりを置いて、旦那の胸に上半身を預けもたれ掛かると、じかに体温と鼓動が伝わってくるような気がする。それを肯定ととったのか、そのまま抱きすくめられて、一気に距離が近くなる。猫背ぎみにまるまった旦那がそのままのしかかってきて、熱を持った吐息が耳元を擽った。繋がったままの手のひらは、オレに勘違いをさせる。そして、それに拍車をかけるように、ぐいっと腕を引かれた。
「旦那」
 こたえるように、旦那の乾いた唇が、オレの手の甲に触れる。揺れる前髪が、恭しく閉じられた旦那の目元に影を落とした。こんな、御伽噺の王子様みたいなこと、女の子がされたら喜ぶんだろうなあと、頭の中の冷静な自分が考える。フランス人だから、恥ずかしがることもなく、騎士みたいなことができるのだろうか。自分なら女の子にこわれたとしても、こんなことはしない。
「ねえ、旦那」
 呼びかけに反応するように、旦那の肩が揺れる。その振動さえ伝わる距離なのに、オレの中のどうしては何一つとして解決しない。
「はい」
「そこには、何もないよ」
 もう一度落とされた口付けは、なにを意味するのだろうか。以心伝心どころか、テレパシーさえ持ち合わせていないオレは、貧相な頭を総動員して想像するしかない。だが、空いた左手でオレの頬をなぞり唇に触れた旦那は、オレの問いなんて気にも留めないような緩慢さで首をかしげた。
「いいえ。あなたの血肉が、この下に」
 ぬるりとした赤い舌が唇の間から覗き、オレの皮膚を舐める。温かな唾液は、部屋の明かりに照らされててらてらとした光を帯びる。もう一度と強請るように、オレの唇に触れていた旦那の指先を舐めると、旦那がくすりと笑ったのが振動で伝わってきた。
「あっ」
 がりっと、嫌な音がした気がした。痛みよりも先に、高揚する。旦那の白い歯が、遠慮なしに手の甲に食い込む。肉の少ないその場所は、いとも簡単に食いちぎられてしまいそうで、背筋が震えた。投げ出したままだった左手を旦那の左手に絡め、お返しとばかりにその指先に噛み付く。すると、痛みに熱を持った手の甲を癒すように噛み痕を舐められ、瞼を閉じた。室内の明かりでスパークしたような視界の中で、感覚だけが鋭敏になる。あっけなく去ってしまった痛みが恋しくて、旦那の薬指に歯を立てる。柔らかい肉を噛み締める感覚に、そのまま食いちぎってしまいたい衝動に駆られるが、それを嗜めるように旦那がもう一度薄い皮膚に噛み付いた。ぞくりと肌が粟立つ。嫌悪より快楽に近いそれ。しかし、決定的なものを与えないように、皮膚に歯を立てては動物が傷を癒すかのごとく、歯形の残った場所を舌で舐め取る。もどかしい。どうせなら、もっとたしかな痛みをくれと、旦那の指を噛んで乞う。しまりのない口角からは、だらしなく唾液が糸を引いていく。
「らん、な。ひっ、あ」
 痛みに、旦那の指を噛み締めた。唯一残った小指の爪が、ぎゅっとオレの右手の皮膚に食い込む。ぎちぎちと、皮膚を食い破ろうとするように、噛み付かれて体がふるえた。
 そうだ、痛いってこんな感じだ。体の奥底を刺さんばかりの鋭さを持っているのに、嵐のように過ぎ去ってしまう生の証にも近い感覚。
「いっ」
「もっと、ですか?」
「あっ」
 オレの口内から指を引き抜いた旦那は、濡れた口元を拭ってくれる。痛みと高揚でぼんやりとする頭を叩き起こして、オレとは正反対に穏やかに笑ってみせる旦那を見た。すると、子供にでもするように優しい手つきでオレの頭を撫ぜて、手櫛で髪を梳いていく。そうされるのが、嫌ではなかったが、いまは早く次が欲しかった。もっと、舐めて、噛んで、どうせなら食いちぎって。それで、何もない場所に印を刻んでくれればいい。
「だんな、もっと」
滑り落ちたのは懇願。待ち望んだものを得たとばかりに、三日月のような笑みを唇に浮かべて、リュウノスケと名を呼ぶ。いとしいものの代わりのように。
「ええ。あなたがのぞむのなら、いくらでも」
 痛みは、オレの頭の中を甘く麻痺させるのに、本当にのぞんでいる物からは遠ざかってしまう。オレはたしかに欲しいとおもっている。じゃあ、旦那は。あんたはどうなんだと、言葉にしてしまいたかった。近いのに遠く、触れているからこそ届かないものを手繰り寄せたくて、体を反転させて旦那と向かい合い、甘えるように身をすり寄らせる。のぞむままになんていいながら、手放しのままにオレをコントロールしているように思えるのは気のせいだろうか。なんだかそれが悔しくて、オレたちを繋いでいた右手を引き寄せる。小指の爪だけが、長く伸びたそれ。不恰好だから、綺麗にそろえてあげなければいけない。だからまるで、最後の抵抗のように、旦那の小指の爪を噛みちぎった。



12・02・14
13・02・25