雨生龍之介にとって、自らの美学が世間一般に受け入れられないことは、はなはだ理解に苦しむものであったが、それと同時に自分が愛するものが世界の全てにとってそうであると短絡的に思いこんでしまうほど愚かな男ではなかった。そこまで盲目的ではない程度には、自分の中の絶対の感覚とは別の場所に、倫理観や社会性というものが存在しているのだということが組み込まれているのだ。ただそれが、それを与えた人たちの思い通りには働かず、打ち捨てたれた建物のように破綻してしまっているだけで。だから、彼には殺人鬼としての雨生龍之介という顔とフリーターとして生きる雨生龍之介という顔がある。この二つは絶妙なバランスをもって彼の欲求を満たすために成立していたというのに、意識的にまたは無意識下でパワーバランスを保っていたはずのそれが一気におかしくなってしまっていた。ただ一人、いや、それを人の領域に貶めていいものか龍之介には分からなかったが、彼が心酔と表現していいほどに傾倒する人物に出会ってし まってから、彼が仮面を被り退屈を愛しながら演じるように生きてきた日常生活は、何処か遠くへと乖離してしまった。
 十のうち八か七は意識の奥底に沈めることでやり過ごしてきた死を知りたいというが思いが反転した、殺したいという衝動はむしろ、今では睡眠食欲性欲なんて味気ないものと成り代わるように、龍之介の世界を支配しつつあった。いままで捕まることなく凶行を繰り返してきた殺人鬼としての龍之介が、頭の中でそろそろペースを抑えていかなければ いけないと警笛を鳴らしていることを知りながら、自らの知らぬ鮮烈な世界を眼前に突きつけて見せて魅せて満たしてくれるキャスターに師事するように、日常をかなぐり捨てて血生臭い衝動へと身を落としていった。持て余すばかりだったが、たしかに愛して止まなかった退屈は、キャスターの隣には存在していない。むしろそれとは対極な、龍之介がもってする最大の賛辞であるCOOLなことの連続であった。いままでの自分はなぜこんな素晴らしいことを知らなかったんだろうかと何百回悔いたとしても足りないような、そして殺人に対して感じでいたマンネリも飛び越して、いま龍之介に与えられたのは、日々いや、毎分のように上書きされていく興奮と悦楽。だから、後悔などはない。もう警笛なんて知らない。キャスターの隣であれば、そして彼が繰り返し与えてくれるCOOLなことに比べれば、自らの保身など小指の先も重要なことではなかった。彼と共にあれば、どんなことだって何とかなってしまうのではないだろうかと、夢見る少女の ように思えてしまう。いや違う。龍之介にとってはさながら夢か現かも分からないような、エキサイティングなものだった。
 だが、いくら夢見ようと も、龍之介は世界の摂理の外側にいるようなキャスターとは違い、己の体を正常に機能させるための様々な雑事を捨て置くわけにはいかなかった。特に睡眠と食 欲は天敵といっていいほどに、彼の精神の邪魔をする。そんなもの捨ててしまいたいと思うのだが、彼が師と仰いでいるキャスターは、龍之介の体のことを龍之介自身が思う以上に大切に思いやるのだ。どうしてかと問えば、自らのマスターの健康を害すようなことをみすみす見過ごせはしませんと、まるで従者か何かのように言うものだから、龍之介は自らが敬愛する人物がそんなにも自分のことを大切にしてくれるならばと思えばこそ、そういった類のことをないがしろにすることは叶わなかった。
「はやく戻んないと。時間もったいない」
 時計が指す時間は丑三つ時。窓の外は暗く、隣の部屋からは物音もしない。 ぼそりと呟いた言葉が、誰もいない室内にこだまする。自分の家とひょうするにはまだ住みなれないワンルーム。冬木に拠点を構えるにあたって借りたボロアパート の一室だが、この場所に対する愛着は微塵もない。こんな場所よりも、いまもキャスターが美しいアートを作り上げている工房とやらのほうが、龍之介には大切な場所となっていた。だが、いくらいまの龍之介にとってのすべてであるキャスターがいるといえども、いかんせんあの場所には何もない。がらんどうの空間なのだ。二人の創作に対する邪魔が入らないという点ではこれ以上もないくらいに素晴らしいのだが、人間それだけでは生きていくことは出来ない。着替えも日用 品も十分に持ち合わせないままにキャスターの工房へと移動した龍之介は、既に作業着として再起不能なほどに、最低限の持ち合わせの服を駄目にしてしまったのだ。キャスターの魔術を利用して子供たちを連れてくるにしても、さすがに血濡れのまま外へと出るわけにはいかず、まだ着替えのあるうちにいったん家へと 戻ってきたのだった。
「必要なものってなんだ。とりあえず、服か」
 長い一人暮らしで身についてしまった独り言。うんうんとうなりながら、工房での生活を思い出し、自分が足りないと思ったものを頭の中で指折り数えていく。一番重要な衣料品をそろえるために、収納してあった服を片っ端から取り出して、使えそうなものを並べて選別する。ついでに、部屋の隅にたたんでおいてあった薄めのブランケットも持っていくことにした。黙々と荷造りをこなしていく龍之介のためのバックミュージックは、深夜放送にありがちなどこの国かも分からないような一般的に美しいといわれる風景を映し出す番組だ。ぼうっとそれを見ているのもそれはそれで楽しいことなのだが、いまの龍之介にとってはまったく心動かされることのない娯楽だ。
「あるだけってのはあれだから、作業着と日常着を分けるか」
  どうしても汚れる一方になってしまう服の運用方法について腕を考える龍之介の視界の端で、RPGの舞台にでもなりそうな深い森が、白亜と金を基調とした宮殿のような場所へと変わっていく。内壁を飾る宗教画を眠くなる音楽をバックに映されても、龍之介の心は微塵も動かなかった。世の中の大半は、こういったものを美しいと評するのかもしれないけれども、あの中には躍動的な生はない。そしてみずみずしい死も存在してはいない。あんなものよりも、キャスターの生み出すアートのほうが、龍之介を興奮させ感動させ、そして突き動かす。あれほどに素晴らしいものを知らない人間がいるなんて、本当にもったいないと思うのだ が、その理解者が存在しないであろうことは薄々感づいていた。洋服の趣味を共有できる人間はいても、龍之介の根源的欲求を理解してくれる人間なんてものは存在していないのだ。これからもこれまでも理解者を得ることが出来ないと思っていたからこそ、キャスターという存在は、これ以上ないくらいに龍之介にとって素晴らしいものだった。
「あんなんより、旦那のほうが数十倍COOLなのに、なんでわかんねーかな」
 作業着と普段着を仕分けしながらため息を一つ。押入れに入れっぱなしにしていた旅行鞄を取り出して、それらを詰め込んでいく。その右手の甲に刻まれた、弧を描きともすればナイフのエッジのようにも見える文様は龍之介にとってお気に入りだ。これがキャスターとの契約の証だとするならば、どこをとっても龍之介を魅入って仕方のない存在である。詳しいことはまったく分からなかったが、このタトゥーはキャスターとの大切なつながりだった。冗談めかして、それがあればいつでもリュウノスケのもとに馳せ参じますよといわれたことは記憶に新しい。それが本当か嘘かなんて龍之介には分からなかったけれども、まるで目に見えない一本のラインが通っているかのように、キャスターとの繋がりを感じることはあった。工房とは離れているはずなのに、いまも確かにキャスターの存在を知覚としてではなく感覚としてどこかで感じている。それは、呼吸をするように当然に隣にあって、水分が体の中に取り込まれるように自然と体の中に親和していく。
 キャスターはこ の瞬間も、あの血色の悪い長くしなるような指先で、子供たちを美しい芸術へと昇華していくのだ。そのさまを見ることができないのは龍之介にとって何よりも 口惜しい。何度繰り返しても失敗してしまう工程を、キャスターはなんでもないことのように成功させて、龍之介が考えるよりもさらに素晴らしいものを作り出してしまうのだ。そこに添えられる絶望という感情は、キャスターのアートを彩る最高のスパイスとなる。
 常に狩る側にいる龍之介にとっても、作りかえられていく感覚がどんなものであるのか、どこかで子供たちを羨ましく感じてしまうことがあるほどだった。その苦痛を、興奮を思うと、腹の奥がふるえ、背筋をぞわぞわとしたものが駆け抜けていく。
「どうしたらあんなすんごいことできるんだろ。旦那の手が欲しいくらいだ」
 龍之介の脳裏に浮かぶのは、メスを握るキャスターの指先。血に濡れたそれがあればキャスターと同じようにCOOLなものが作り出せるのだろうか。既にぱんぱんになってしまった旅行鞄の中に下着を詰め込みながらぼんやりと思考する。龍之介の頬を撫でる冷たい手のひらそれを切断して自らのものにしてしまえればという考えは、彼を興奮させるものではある。だが、違った。それだけでは駄目だ。それだけじゃあ足りない。いつだって龍之介を導くひんやりとした指先だけでは駄目だ。あの発想力と思想と、子供たちをかどかわすときに見せる聖者のように穢れない笑みと、師のように自らを見守ってくれる優しさと、零れ落ちてしまいそうに大きな瞳。あげだせば切がない、そのどれもが龍之介にとって大切なものだった。キャスターを解体して何処か一部を取り出したって足りない、全部ないと駄目だ。龍之介の 中身を余すことなく満たしてくれる彼は、どこが欠けてしまったっていけない。
「はやくもどんねぇと」
 ぎゅうぎゅうづめになった鞄の チャックを閉めて、他にも必要なものがないか室内を見回す。テレビの上の置時計を見て、時計がなかったことを思い出す。龍之介はそれも鞄の中に入れようとするが、これ以上は無理だというくらいに詰め込まれたそれには、入りそうもない。どうせなら、もっと大きな旅行鞄を用意しておけばよかったと考えたときに、そうだと思った。帰ったら、鞄をつくろう。子供の中身を全部かきだして、かわいい鞄にしてあげよう。脳内で工房の中にいる子供を思い浮かべながら、誰にしようか想像してみると、獲物を前にしたわけでもないのに興奮してきた。名案に思えるそれを忘れないように頭に刻み込みながら、自らを落ち着かせるように令呪をひとなでする。
「服、下着、時計、あと、歯ブラシは買ったし、食事はこの後買えばいいでしょ。他になんかいるっけ?」
 顎に手を やって視線をさ迷わせる龍之介。しゃらんと右手首のブレスレットがなる。令呪にブレスレット。狭いワンルームの中を歩き回って必要なものを散策するのに、考えるのは鞄製作とキャスターのことばかり。いまだかつて、これほどまでに誰かを思ったことがあるだろうか。龍之介は自分で笑い出したくなるくらいだった。
「まあ、思いつかないってことはいらないってことだよな。どうせなら、旦那にいるものでも聞いてこればよかった」
 テーブルの上に置きっ放しにしていた必要最低限のことがメモしてある手帳をポケットの中に押し込んで、立ち上がる。
「じゃあ、行くとしますか」
  しつこいぐらいに美しい世界を映し出すテレビの電源を切って、電気を落とす。真っ暗な室内に思い残すことは何もない。龍之介ははやる気持ちを抑えるように 鞄を肩にかけて、玄関へと向かう。お気に入りのヒョウ柄の靴は、一目ではわからないほど僅かにではあるが血で汚れてしまっている。もしかしたら必要になるかもしれないと、靴の代えも適当な紙袋に入れて持っていくことにした。
 くるりと振り返った室内。他人のように空々しいその場所。はたと、持ってこようとした時計を手帳の代わりにテーブルの上に置いてきてしまったことを思い出した。
「また取りにこればいいか。これ以上旦那待たせるわけに行かないし」
 じゃあと、誰もいない部屋の中に別れを告げる龍之介。またといいながらも、ここに戻ってくることなんてもうないんだろうなあと、心のどこかで考えていた。それは、想像というよりも確信に近い。
  わずかばかりの感傷を遮るように部屋を出て鍵を閉める。藍色の空には煌々と星が光り、肌をつめたい外気がなぞっていく。街灯に照らされた薄暗い夜道には、人通りも少なく、すれ違う人々は、特に女性などは、自分以外の他人の存在に恐れさえいだいているようだった。これが、冬木の悪魔と呼ばれる連続殺人犯のせ いだと思えば、龍之介の頬は自然と緩んだ。
 一歩部屋を飛び出してしまえば、すれ違う街を行く人々は龍之介のキャンバスで、彼を理解してくれるのは世界で唯一一人だけ。はやくはやくとせく気持ちを落ち着けようと思っても、工房で自分のことを待ってくれているキャスターのことを考えれば自然と早足になっていく。
  やはり、と思う。こんなにもたった一人に思考の全てが塗り替えられていくのは初めてだ。恋は熱病のようだというが、支配されるように己の中を作り変えられていくこの感覚を、なんと名付けるべきなのか龍之介は知らなかった。だが、そんなことは些細なことだ。自分が向かう先に、何よりも素晴らしくCOOLなことを与えてくれるキャスターがいると思えば、ただそれだけで龍之介は満たされるような気がした。




11・12・05
13・02・25