目の前で左右に揺れる五円玉。もちろん、黄金色のそれが、空中浮遊しているわけではない。ちゃんと白い糸が結び付けられて、頼りなく揺れている糸の先端は桃井さんの白い指先にからんでいる。自らの重みと桃井さんの指先から与えられる振動によって揺れるそれは、なんとなくボクがイメージする胡散臭い催眠術の典型だった。少し前まで火神君と一緒にマジバで部活の後のシェイクを楽しんでいたところだったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。わけもわからない状態でこの場所、つまりは桃井さんの部屋まで引っ張ってこられたのは三十分ほど前のことだった。少女然としたコーディネートをされた部屋は、こぎれいに整っていて、発育もよく、どこか大人びた雰囲気を持っている彼女を裏切るように、いまボクが腰掛けているベッドの上にはクマのぬいぐるみが転がっていた。一緒に買い物に行ったときにボクがプレゼントしたぬいぐるみもその隣に並んでいる。ベッドと向かい合うようにある窓には、かわいらしい色をしたカーテンが揺れていた。その隙間からは、既に日が落ちきった藍色の空が覗いている。明日も学校があると思えば、そうゆっくりもしていられないような時間だった。あと、女性の部屋に上がりこむにしては不躾すぎる時間帯だ。いくら中学から現在に至るまでの交友があるとはいえ、お家の方もあまり良い顔はしないだろうと足元に投げ出すようになっていた鞄に手を伸ばすと、ベッドの前に椅子を引っ張り出して陣取っていた桃井さんが、きっとボクを睨みつけた。
「テツ君! これを見てっていってるでしょ」
 彼女の言葉に反応するように、大きく揺れる五円玉。
これといわれても、どうしてボクの財布にも入っているような五円玉を凝視しなければいけないのかまずもって理解できなかったし、それがいったい何の効果を及ぼすのかということも説明されていない。更に不可解なことに、あまり広くはない部屋の中を圧迫するように無駄に大きな三人が置物のごとくボクを取り囲んできた。ぐるりとその三人を見回すと、桃井さんに勢いよく手を引かれる。思い余ってベッドから転落しそうになった。それをボクの隣に腰掛けてつまらなさそうに欠伸をかみ殺していた青峰君が、さつきの胸をねらってバランスを崩すとはやるなと、にやりと口角をあげてボクの肩を乱暴に叩いた。
「すみません。はなはだしくボクを誤解しています」
 あまりに失礼すぎる物言いというか、ボクについて誤解されかねない青峰君の価値観に特化したそれに、自然とさめた視線を送ってしまう。だが、自分が女性の胸を愛するように世界人類の男性全てが女性の胸のふくらみに何かしらの愛着および執着をもっていると疑いもしない(別に、ボクが女性の胸に興味がないといっているわけではない。時と場合によるということが重要であり、この場合はそんなことは念頭においていないということだ)青峰君は、怪訝な顔でボクを見た。
「確実にその角度だっただろ……」
「青峰っち、自分の基準で物事の全てを考えるのやめたほうがいいっスよ」
 不可思議なものを前にしたような戸惑いをあらわにしている、自らの欲望に忠実な青峰君を、その隣に座っていた黄瀬君が嗜める。だが、ボクの隣に腰掛けていた緑間君はそこまで優しい物言いができる人でもないので、ずれてもいない眼鏡をかけなおすようにブリッジを押し上げ、心底呆れたとばかりに深々とため息をついて頭を振った。
「そうなのだよ。おまえが女性の胸のことしか考えていないのはよくわかった。これ以上墓穴は掘るな」
「うっせぇよ! 眼鏡は黙ってろ。おまえは確実にむっつりだろオーラが出てる。あと、黄瀬は堀北マイちゃんのサインはやくもらって来い」
「えっ、オレだけ全然関係なくないっスか? サインとかそんな話聞いたことないし、しかも無理なんでやめて欲しいっス」
「なんのためにモデルやってんだよ! 確実にいまこそその真価が問われてんだろ」
「ひ、ひどいっスよね黒子っち。オレ、青峰っちのサインのためにモデルやってる訳じゃないのに」
 がくりと肩を落として頭を抱えた青峰君に、黄瀬君はこの世の不当なものの全てを見たような表情を浮かべてボクの腕を引いて泣きついてきた。もちろん、隣にいる無駄に大きな青峰君を飛び越えて無理矢理引っ張られているので、体のバランスが崩れて青峰君の肩口にぐいぐいと体が押し付けられるような状態なので、非常に好ましくない体勢を強要されている。だが、黄瀬君は自分の悲痛な気持ちをアピールするだけで精一杯なのか、少々思いやりが足りない。現状ボクの方が泣きたい気持ちで一杯なくらいだ。
「そこのバカ二人落ち着け。そんなサインごときでぎゃあぎゃあと騒いでは品性が問われるのだよ」
 くだらないと切り捨てる緑間君に、黄瀬君に追撃を放つようにモデルとは思えない小学生の泣き顔みたいな表情を浮かべていた彼の頬をぐいぐいと引っ張っていた青峰君の動きが止まる。弱いものイジメをするガキ大将のような雰囲気を放っていたのが一転して、コートの中に立ったような威圧感を放ちだした。それを向けられているのは、空気を読まない発言をした緑間君なのだけれども、彼自身は自分が失言をしたということに気づいてさえいないらしく、青峰君の雰囲気が急変したことに眉根を寄せて首を傾げた。
「な、なんなのだよ」
「おまえ、いまなんつった?」
 地面を這うような低い声音。ファンシーな雰囲気に彩られた桃井さんの部屋には不似合いなそれは、室内の体感温度を何度か下げ、ひりひりと肌を撫ぜる。こういうときにすかさず止めに入ってくれるはずの桃井さんは、あの五円玉を握り締めたままうつむいてしまっている。膝の上で握り締められた拳がふるふると震えていて、指先が白くなってしまっているところからも不穏なものを感じるのだが、いまは目先の危機を回避するほうが先だ。ストッパーである桃井さんの代わりに、黄瀬君が慌てたように二人の様子を伺っているのだが、そんなことで状況が好転するわけもない。
「緑間っち、はやく謝って。はやく!」
 口をパクパクさせながら、緑間君に助け舟を出す黄瀬君。しかし、緑間君は何を謝ることがあるのだと、むしろ謝罪を強要されていることに不愉快そうに目を細めて呆れたようにため息を落とした。そのふてぶてしいと取られてもおかしくない態度に、青峰君の不機嫌さは加速していく。
「黄瀬、うるさいのだよ。サインごときで騒がずに、バカは深呼吸して落ち着けと言ったまでだ」
 どうしたらここまで的確に火に油を注げるのか。これもある種の才能なのだろうと、ある意味感動せずにはいられない。だが、それが良い方向に働くかというと、世界が逆立ちしてもそんな日がくるとは思えない。まったくもって必要のない、一刻も早くゴミ箱に燃えるゴミと一緒に捨てたほうがいい役に立たないものだ。
機嫌が悪すぎて、逆にご機嫌に見えるくらいの優しい笑顔を浮かべた青峰君。死刑宣告を下されたかのように黄瀬君が頭を抱えた。救いを求めるように、十代後半とは思えないような疲れを滲ませた稲穂色の瞳がボクを映したが、アイコンタクトにこたえて、最後通告を突きつけるように小さく頭を振った。この状況でボクができることといったら、他人の振りをしてこの部屋から脱出することくらいだ。
たしかに、自分の好きなものを否定されるのはあまり気分のいいものではないから仕方がないといえばそうなのだが、緑間君がずれているのはいつものことなので、そこで一歩立ち止まって仕方ない人なのだからと自分を落ち着けられるような心の広さを求めるボクが間違っているのだろうか。いや、円滑な社会生活を送るためには、必要なスキルのはずだ。しかし、そのスキルを身につけるつもりも、必要性も感じていない青峰君は、一触即発の空気でジロリと緑間君をにらみつけた。さすがに怒気を隠そうともしない彼の様子に、緑間君も自分の決定的なミスに気づいたのだろう、見失ってしまった答えでも探そうとするようにボクたち全員の顔を見回した、だが、時すでに遅し。もうタイムアップのベルが鳴る直前だ。
「なあ、緑間くーん」
 優しく耳障りのいい作ったような青峰君の声音に、緑間君が訝しげに彼を凝視する。
「青峰君、正直気持ち悪いです」
「うっせぇ! テツは黙ってろ!」
 あまりにあまりすぎる青峰君の猫撫で声に突っ込みを入れてしまうと、射殺さんばかりの勢いで睨みつけられてしまった。いえでも、と言葉を重ねようとするとそれを制するように、ぐいっと頬を引っ張られてしまう。
「痛いです」
「じゃあもう喋るな!」
 青峰君の怒声によって、部屋全体が振動したような気がした。その勢いに押されるように思わず肩を揺らしてしまう。だが、とても小さな理由で怒りに飲み込まれようとしてる青峰君はそんなことくらいでは止まりはしない。ボクを挟んでいまにも射殺さん勢いで緑間君を睨みつけて、無遠慮に彼の胸元をぐっと掴んだ。一つ付け加えるとするなら、全部ボクを間に挟んで展開されているので、すごく据わりが悪い。
「おまえとは、常々気があわねぇと思ってたんだよ。そろそろ決着をつけるときが来たようだな」
「昔の悪者みたいでちょっと格好悪いです」
 二十年位前の時代劇のような台詞に思わず苦言を漏らしてしまうと、また青峰君が怒りの矛先をボクに向けてくる。親切心のつもりだったのだけれども、お気に召さなかったらしい。
「だから、いちいち人のやる気を削ぐようなことを言うな!」
「いえ、もう少し考えて喋ったほうがいいですよ。絶対あとで恥ずかしくなります」
「あー、うっせえ! 口にガムテープ張るぞ!」
 いらつきをぶつけるようにグシャグシャと自らの髪をかき乱す青峰君。
「そういう特殊性癖はちょっと。元影のボクまで品性を問われそうなので、勘弁してください」
「そんなこと、いまさら過ぎるのだよ。すぐにこうして暴力に訴えようとするおまえとオレでは知能レベルと社会性が釣り合わなさ過ぎて、会話が成り立たないといつも思っていたのだよ」
 ぐっと青峰君の手のひらに力が入れられて、緑間君の体がぐらりと揺れる。こんどこそ本当にずれた眼鏡の位置を直すようにテーピングされた長く伸びた指先がフレームに触れた。
「制服が皺になるからやめるのだよ」
「余裕だな」
 口角をあげてにっこりと笑った青峰君に、慌てる意味がわからないのだよと、知能レベルが釣り合わないという割には同じ次元で対応しようとする緑間君が更に爆弾を投下してくれる。こういうときに意地を張り合うと余計面倒なことになるというのに、どうして面倒なほうばかりに駒を進めようとするのか、甚だ理解に苦しむ。唯一の穏便派であるボクと黄瀬君はただただ頭を抱えることしかできない。
「緑間っち、空気読めてなさ過ぎて、逆にドンピシャな受け答えばっかりしててオレ感動っス」
「そんなに褒めないで欲しいのだよ」
 向けられた賛辞を辞退するかのごとく、真っ直ぐに伸びた緑間君の手のひらがボクたちの眼前を遮断する。誇らしささえも感じさせるそれは、見当違いもはなはだしいものなのだが、当の本人はボクたちが本当に伝えたい呆れにまったく気づいていない。


                       ********************************************************************



 天気の話をするみたいに自然で、人間が呼吸を繰り返すように当然のことのように言うものだから、いや盛り上がればよかったのかといわれるとまったくそんなことを望んでいたわけではないのだが、とにかく自然すぎて、オレは間抜けにもはあと答えることしかできなかった。これが、今日は良い天気ですねとか、だったらいや曇っててまったくいい天気じゃねぇだろとか、寒すぎるとか、それ相応の人間らしい反応をできたんだと思う。でも、あまりにも自然に、不自然なことを言うものだから、オレを映す露草色の瞳を凝視することしか叶わなかった。
 既に午前中四時間を戦い終わって、待ちに待った昼食時間。特に待ち合わせをしているわけではないが、二人揃って屋上でメシを食っていた。太陽は一番高い位置にあるというのに、まったくその威光を感じられない。むしろ厚い雲に遮断されているように気温は冷えたままで、学ランの前を開けっ放しにしているせいか、吹き込む風にぶるりと体がふるえた。高くすんだとは言いにくいが、ひんやりとした透明感のある空気は、秋よりも強く冬を感じさせた。あまり外での食事日和とは言いがたい天気に、屋上に陣取っているのはオレたちだけだった。
 手に持っていたままだったサンドウィッチの最後の一切れを口の中に放り込んで、寒さをしのぐために学ランの前をあわせると、黒子の控えめな声に名前を呼ばれる。
「あの、起きてますか?」
 露草色はどこか焦れたように瞬く。オレの視界は間違いなくクリアなのだが、向かい合っている相手はそれが信じられないのか、わざわざ覗き込んできた。
存在感がないとか人に忘れられたりするという割には、その視線を意識すると、言葉にするよりも饒舌に、まとわりつくような視線を向けてくる。悪いことをしたわけではないが、オレを責めるような語調に壁に預けていた上体を起き上がらせて姿勢を正した。そんなオレを嗜めるように、刺すような冷気の混じった風がぶわりとオレと黒子の間を吹き抜ける。舞い上がった黒子の露草色の髪。曇り空から漏れるように差す光に照らされたそれは、空の色に同化するように頼りなかった。新しいパンに伸ばしかけた手を止めて、僅かに身を乗り出した黒子と向かい合う。
「寝てねーよ! 目ぇ開いたまま寝るとか器用すぎるだろ!」
「いえ、火神君のことですので、前人未到の領域にまで足を踏み入れることが可能だったのかと。このあいだ、授業中に寝たまま先生に返事をしたときには、人類の新たな可能性を見出したような気がしました」
「勝手に変な確信をするな!」
「仕方がないじゃないですか、返事がなかったんですから」
 眉をひそめて頬を膨らませた黒子は、いつもと同じように見えた。分かりやすく棘を含んだ会話もいつも通りだ。曇ることのないように磨きぬかれた尖ったナイフのように切れのいい口撃で、躊躇うことなくオレを糾弾してくる。だが、どこかがおかしい。向かいあっていたはずなのに、すっと音もなく立ち上がるとオレの隣に並ぶように壁に沿って腰掛けた。しかも、頼んでもいないのにこてんとオレの肩に頭を乗せて、火神君あったかいですとか抜かしている。これはあれか、寒い日に動物が体を寄せ合って暖をとるという、野生的なあれか。しかし、ここで考えなければいけないのは、オレたちは通常そのようなことはしないし、オレの頭がおかしくなり心を病んでしまったうえ、そのショックで錯乱して黒子に対してこのような行いをしたあかつきには、ひどく冷め切った、さっきオレたちの間を通り抜けた風のように鋭い視線で侮蔑とも軽蔑ともつかないものを向けられるということだろう。この距離に違和感しかもてなくて、逃げるように自然と距離を置こうとすると、それを許さぬとばかりに寄り添うようにという表現には不似合いなくらいにぐっと腕をつかまれ撤退することを許されない。
 おかしい。この状態は、どう考えてもおかしい。
肩に感じるなれない重みもおかしいし、それを当然のように受け止めている黒子もおかしい。あまりに自然とスムーズに進行していく物事に、オレのほうがおかしいのだろうかと戸惑いを隠しきれなくなったが、流されてはいけない。絶対に、おかしいのはオレのほうではないはずだ。その確証がほしくて、救いを求めるように周りを見回すが、幸か不幸か屋上はオレたちだけの独壇場だ。
弱気になりつつあった自分を叱責するように、寒さにやられてしまったのだろうかとという可能性にかけるように、黒子の額に手を当てて熱を計る。だが、それが平熱なのか、そうではないのかということはよくわからなかった。ただ一つ分かったことは、黒子が恥らうように睫を瞬かせて頬を染め、いつもよりも熱を持った視線でオレを見つめてきたということで。近い距離のせいか、黒子の吐息が耳を擽った。くすぐったいそれに、思わず肩を揺らしそうになる。やはりどう考えても、通常の状態とは言いがたい、緊急事態だ。いますぐに戦略的撤退の必要性を感じる。脱出の機会をうかがうように目の前の敵の様子を伺うが、捕食者はそのにおいでも隠そうとするかのようにどこかしおらしげだ。
「く、黒子?」
「はい」
 真ん丸く見開かれた瞳は見慣れた露草色で、コートの中でいつだってこの目が語りかけてきた。あの長方形に区切られたコートの中で、何よりもたしかに信頼できた、オレにとっての影だ。それは疑いようもなく、これからもこれまでも変わることはない。それ自体は何も揺るがない。だから、いつもの黒子から考えて、できる限り可能な限りこの状況に行き着くであろうパターンを連想して、オレに対するドッキリを仕掛けているんだろうかとも思ったが、隠し事をしている素振りは見受けられなかった。思考の堂々巡りを繰り返していても仕方ないので、往生際の悪い自分を落ち着かせるように一旦頭の中を整理していく。よく聞こえていなかったなんて嘘だ。本当は聞こえていた。というか、聞こえてしまった。聞こえてしまったけれども、よく意味がわからなかったといったほうが正しかったかもしれない。混乱するオレをよそに、寝ていないならこんどこそ絶対に聞いていてくださいねと、呆れたような声音が耳朶を揺らした。いや、いい。聞いていてくださいねじゃねえよ。どうして、返事をすることができなかったとか、流してしまいたかったという結論にたどり着かないんだ。頼むから、いわないでくれ。というより、このまま自然な感じでなかったことにさせてくれないだろうか。しかし、必死に祈ったところでそんな願いが叶うわけもなく、黒子はじっとオレを見て普段の無遠慮さをどこかにおいてきたかのように逡巡したように唇をなめた。
もう一度言いますからと断言したのに、俯いてしまった頬は薄く上気していて、髪から覗く耳殻は薄い紅色に染まっていた。よくない予感しかしなくて、慌ててその胸騒ぎの大本を封じるように黒子の口元を抑えようと手を伸ばしたけれども、一歩及ばず恥らう割にはしっかりとした声音がオレの鼓膜を揺らした。
「すきです」
 うつむいていたはずの黒子が、いつの間にか真っ直ぐにオレを見つめていた。凪いだ薄氷の色から、怒りは感じない。漠然と、無を映しとるように澄んでいた。しかし、射るようにオレを見据える寒色を裏切るように熱を持ったそれは、怖いくらいの本気を感じさせて、これが冗談の類ではないのだろうなということがうかがい知れた。むしろ冗談だったらよかったのにと考えて、泣きたくなった。悲しみとはもっと違うものが原因で。
「すきなんです」
 もう一度、一言一言区切るように。そこに至高の何かが秘められてでもいるかのように、ゆっくりとおちた六文字の言葉。単純な、ひらがなの組み合わせ。それの意味がわからないほど日本語が不自由なわけではなかった。もちろん意味としては分かった。だが、分かっただけで理解ができなかった。黒子が吐き出したそれは言葉としていまオレたちの目の前にあるだけで、投げ出されたそれにオレたちを当て嵌めリアリティのあるものとして手に取ることができなかった。
 驚きに飲み込んだ息を吐き出す。ヒュッと喉が鳴った。乾ききった冬の空気に喉の奥に血の味が広がっていく、それを誤魔化すように唾液を嚥下すると、必要以上に大きくごくりという音が響いた。現実を拒絶するように、瞼を閉じる。周りの風景が遮断されたことで、肩にのしかかる重みを一際強く意識してしまう。それを頭の片隅に思い描きながら、ゆっくり十数えて瞼を開く。一番最初に目に飛び込んできたのは鈍色の雲。そして次が、薄汚れたコンクリートで、三番目がオレにもたれかかっている黒子の姿だった。
 夢じゃない。現実だ。起きたまま夢を見るなんていう特殊能力は持ち合わせていない。言葉にならない胸の内を呼気に紛れ込ますようにして吐き出すと、黒子が身じろぎをするのが分かった。想像力貧困なオレでは、このこう着状態の出口を思い描くことさえできない。
「誰が、誰のことを?」
 酷くばからしい質問だと思いながら、それでも一縷の望みをかけて問いかけないわけにはいかなかった。すると黒子は、怪訝な表情を浮かべてオレの望んだ、そして望んでもいなかった解答をくれた。
「もちろん、ボクがキミのことをですけど」
 オレと黒子の間を行き来する、真っ直ぐに伸ばされた黒子の人差し指。
「ボクさんと、キミさん?」
「いえ、そんな分かりやすい逃避をしないでください。黒子テツヤが火神大我君のことをすきなんです」
 藁でも掴むように一縷の望みをかけた悪足掻きを黒子は一刀両断してしまう。それも、鼻で笑うように。こいつ、すきって言う割には攻撃的じゃねえか。さっきまでのしおらしさはどこへ消えたんだ。二重人格なのか。
「黒子さんが火神さんをか……」
そうなのか。受け入れがたい現実を目の前に突きつけられたような気がして、鈍く痛む頭を抱えた。いや、なんとなく想像はついていたし、まあこの状況から考えてその線が妥当だろうということは嫌というほどに分かっていた。充分に想像の範囲内だ。だが、考えてみてほしい。ボク、つまり黒子テツヤは男であり、黒子が言うところの火神君こと火神大我つまりオレは、もちろんいうまでもなく世界的常識として男である。
 ああそうかと、一つのひらめきがオレに浮かんだ。緑間の鉛筆がなくたって、オレにだってできるじゃねぇか。
 安全第一に距離をとることを優先するために、黒子の肩を掴んで密着していた体を剥がす。そうして、相手を安心させることができるように目線を合わせて、覗き込んだ。
「あー、なんだ。ほら、オレだっておまえのことはあれだ、嫌いじゃねえぞ」
 恥ずかしいという自覚はあるが、まあ友達というのも変なのだが、いま一番長い時間を共有しているこいつのことを嫌いなわけではない。それを間違いなく伝えることができるように、恥を忍んで言葉にする。なのに、黒子は興ざめだとでも言い出しそうな表情でオレを見ただけだ。おい、オレの精一杯の努力の何が足りないというんだ。
「あの、幼稚園児の仲良しごっこじゃないんです。ちょっとボクのことをなめてるんじゃないんですか? 嫌いじゃないとか旧世代の亭主関白じゃあるまいし」
「なめてるのはおまえのほうだろ! だいたい、ていしゅかんぱくってなんだよ日本語話せ!」
「残念ながら、亭主関白とは純然たる日本語です。説明が面倒なのであとから辞書で引いてみてください。つまるところ、すきなんですかきらいなんですかはっきりしてください」
 挑むように言い切った黒子。何故そこまで上から目線なんだろうか。というよりも、純粋に好意を告げているはずなのに、こんなにもつっけんどんな言い方をされてしまうと、こちらだってヒートアップしてしまう。最後まで言い切らなくたて分かれよと思わずにいられないオレのほうがおかしいのだろうか。
「だーかーらー、きらいじゃねぇんだからすきに決まってんだろ! 話の流れを読め!」
「読む流れもありませんでしたので。じゃあボクとセックスできるっていうことですよね? 男に二言はありませんよね?」
「はっ?」
 会話のキャッチボールどころか会話のサンドバッグ。和解への道を進もうとしていたはずなのに、オレの歩みよりは遠慮なしの重い一撃によって粉砕されてしまった。呼吸のために吸い込んだ酸素を過呼吸のように吸い込みすぎて、激しく吸い込んでしまう。友達としてすきだとかきらいだとかそういう次元の話をしていたはずなのに、どうして男同士の友情には通常必要のない単語がでてきた。
「悪い、なんだって?」
 ただ単純に、意味が理解できいなくて間の抜けた声を上げてしまう。それを聞いた黒子は、はあとわざとらしいため息をついて肩を竦めた。これだからとでも言い出しそうなその態度に、思わず握り締めた拳を何とか押さえ込む。
「だから、セックスできますよねって言ってるんです」
「誰と誰が?」
「ボクと火神君が」
「悪い、意味がよく」
「黒子テツヤと火神大我がセッ」
「オレのわかる日本語で頼む。できたら英語のほうがいい」
リクエストにこたえるためになのか腕を組んで首を傾げた黒子。その表情は険しく、なんとか自分の伝えたいことを英訳するために頭を悩ませているようだった。いやしかしだとしても、英語にしても日本語にしてもまったく意味が理解できない。セックスとかいう単語がまぎれ聞こえたような気がするのだが、オレと黒子がセックスをするというあれで正しいのだろうか。できれば間違っていて欲しい、なのに何度考えてみても、それ以外にしっくり来る文の組み立てが無かった。オレと黒子とセックス。並ぶ三つの単語。自分で言うのもなんだが、オレが定期考査で全教科満点を取るというぐらいに想像を絶することで、うまくその情景を思い描くことができなかった。いや、想像なんてしてしまったら確実に心の傷になり、闇を抱えることになってしまいそうなのでそんな必要性は感じない。自分の頭の中の辞書と日本語能力をフル稼働させながら黒子が伝えたいことを理解しようとするが、そこに暗号の類は隠されていないらしい。