一人暮らしには広すぎる部屋。
 あまりものがなくて、ともすればモデルルームのようなたたずまいさえ感じさせるその場所は、家主である火神君の印象とは対極にあった。もちろん、筋トレグッツが棚からはみ出ていたり、ガラスのテーブルの上に教科書が放り出してあったりと所々散らかってもいるが、圧倒的なものの少なさの前ではそれさえもインテリアのようだ。
 火神君自身を一言で表せばガサツ。もう一言付け足せば乱暴。
もちろん、基本的性格が暴力的なわけではなく、あの巨躯とパワーを他の人間とのスキンシップでも遺憾なく発揮するのでそういった印象が植え付けられてしまうのだろう。実際問題、少々力の加減ができなくて苦痛を感じる場合もあるのだが。そして、そういった類の人間の場合、部屋もその振る舞いと同じように乱雑なのだろうと勝手に思ってしまう。本人に言ったのなら、苦虫を噛み潰したような顔をしそうだが、床にはゴミが散らばり本が床に積み上げられ、ベッドの上のみが安住の地になっている部屋を見せられたほうが、火神君っぽいと納得してしまいそうなのでどうしようもない。
 既にバスケ部の面々と何度もきたり、個人的にもお邪魔したりしているので、勝手知ったるなんとらでマガジンラックから雑誌を拝借してパラパラとページをめくる。特別読みたいものがあるわけではなかったので、速読ばりのスピードでほとんど内容を理解できぬままに次の雑誌へと移っていく。バスケ雑誌もあるし、ファッション雑誌やアメリカから持ってきたと思われる全文英字のものもあった。自分の英語力を信じてその雑誌を解読しようとチャレンジしてみたが、過信はすぐに打ち砕かれ、特集記事の見出しさえ理解できず、不戦敗のままにそっと雑誌を戻した。
 ラックからくるりと反転して、部屋の奥に位置しているキッチンに目を向けると、これまた意外にも行儀よくエプロンをつけた火神君が、帰りに購入してきた食材を振り分けながら、迷いのない手つきで冷蔵庫へと収納しているところだった。ボクなんて自分の家のまな板がどこにあるのかも知らないのに、彼は既にまな板と包丁を取り出して鍋に水を張ってコンロに乗せるところまで完了させているのだから、その手際のよさには驚愕してしまう。夕食の用意をするから座っていろといわれて素直に待機していたが、人様の家にお邪魔して食事の準備まで全部お任せしてしまうのは少々心苦しい。
もしも卵をゆでたりすることがあるならば、ボクの力を遺憾なく発揮することができるし、そうでなくても何か手伝いはできるだろうとキッチンへと向かう。すでに包丁を扱っているので吃驚させてしまわないように気配を濃くしようと(この表現が正しいのかはわからないけれども、意気込みとしては気配を濃密なものにしたい)構える。
「おい、座ってろっていっただろ」
「へっ?」
 ニンジンを刻んでいた火神君は、ボクと目が合った瞬間にすごく奇怪なものを見たように眉間に皺を寄せて、いったいどうしたんだと首を傾げた。しかし、それよりもなによりも、驚いたのはボクの方だ。ついでに間の抜けた声まで出してしまったではないか。まさか、声をかける前に気づかれるなんて思ってもみなかった。
「いえ、気配を出そうかと思って」
「握りこぶし作って険しい顔してたらその目標は達成されるのか?」
「それは検証していないのでわかりませんが、雰囲気としてはオーラ的なものが発されそうじゃないですか?」
「疑問に疑問で返すな。てか、真面目にそんなことしてるなんてバカなのかアホなのか、早急に結論を出してくれ」
「火神君にそんなことを言われると、ボクとしては非常に心苦しいので勘弁してください。あと、お手伝いできることはありませんか?」
 ボクの申し出に怒ればいいのか喜べばいいのかわからないとばかりに複雑な表情を浮かべた火神君は、ため息を一つついてボクにジャガイモを差し出した。
「洗って、ピーラーで皮むいてくれ」
「もう少し発展的なこともできます」
「いいから、余計な欲を出すな。これでも十分発展的だ」
 ぐいっと押し付けられたジャガイモをしぶしぶながら受け取って、水道水ですすぐ。なかなか綺麗になった気がしなくてたわしに手を伸ばしかけたとき、まるで速攻でもかけるような速さで火神君に止められてしまった。
「いいか。どうせ皮をむくからそこまでこだわらなくて大丈夫だ」
「何事もはじめが肝心かと思いまして」
「屁理屈こねるな。いいからピーラー! 間違っても自分の皮をむくなよ!」
 沈痛な面持ちで呼気を吐き出した火神君は、カントクの料理を止めるときの日向先輩のような気迫に溢れていて、仕方なしに次の段階に進むことにする。さすがのボクでも、自分の皮をむくというスプラッタも真っ青な展開にはならないだろう。
「そういえば、よく気づきましたね」
「あ?」
「声をかける前に」
「ああ。なんとなく、いる気がした。あ、ジャガイモはちゃんと芽も取れよ」
「それくらいわかっています。中学の調理実習で実地訓練しました」
 ピーラーのYの字の先端についている部分を駆使して芽をくりぬき、その完成度に胸を張る。
 しかし、火神君から返ってきたのは、それくらいできて当たり前だろとでも言いたげな薄い反応。円を描くように見事にくりぬけたというのに、まったくわかっていない人だ。はあとわざとらしくため息をついて、これ以上ないくらいにうつくしくジャガイモをむいていく。
「最近、なんとなく分かってきた」
 むき終わったジャガイモを受け取った火神君がこちらを見ることもなくいった。流し台に転がっていたもう一つのジャガイモを掴んで、水洗いする。水音にまぎれるように、火神君がジャガイモを刻んでいく小気味いい音が響く。
「なにがですか?」
「おまえの気配ってか、雰囲気みたいなもんに。まだ、気づけねぇこともあるけど」
 タンタンタンと一定間隔で刻まれるリズム。
火神君の言葉が頭の中まで届いてその意味を理解したときに、ぼんやりと気づいてもらえるのかと思った。ああ、彼はボクに気づいてくれるのかと。別に、影が薄いことをとやかく言うような次元はもう過ぎたし、それを自分の強みにさえしていた。それでも、忘れられることが多いボクに気づいてくれる人がいるのだと思うと、少し変な気分だ。でも、いやではない。自然と頬が緩むような気がした。それがばれてしまわないように唇を噛んで、皮むきに集中しているようなふりをする。
「完璧でないとは、まだまだ修行が足りませんね。それでは、日本社会でやっていけませんよ」
「おまえはやっぱりバカなのか?」
「あ、」
「どうした?」
「皮がむけました、ボクの」
 勢いよく行き過ぎたせいで薄皮がはがれた人差し指の側面から、じわじわと血が滲んでくる。刺すような痛みはないが、じんじんと疼くようなそれに、自然と顔をしかめた。冷静に状況を説明すると、ボクの手元を覗き込んだ深紅色の瞳が驚きに丸くなるのがわかった。
「ばっか、なにやってんだ」
 包丁を投げ出す彼のほうが危ないと思うのだが、火神君はそんなこと気にも留めないでティッシュと救急箱を求めて足早にリビングのほうへと向かう。怪我をしたはずのボクなんかよりも慌てている火神君がおかしくて、痛みも忘れてどうしてだか笑ってしまった。




13・02・26