赤い瞳が周りを見回し、自分の手元を凝視する。そこでいったん動きが止まったのは、自分の状況を理解するまでに時間を要したからだろうか。黒子が手心を加えた漢字の直しに気づくこともなく、時計を確認したときには、いままで熟睡していたのが嘘のような機敏さでびくりと肩を震わせて勢いよく椅子から立ち上がった。しかし、まだ寝ぼけているのか、その勢いを殺しきれずに机につんのめって机ごと倒れそうになってしまう。机の端でギリギリの均衡を保っていた筆記用具たちは、無残にも投身自殺を図り、床の上に幾何学模様を描きながら散らばっていった。そのままだと下敷きになってしまいそうだった黒子は、寸前のところで机を手で押さえて安全を確保すると、いつもは見下ろされるばかりの火神の紅色の瞳と視線を合わせて、おはようございますと朝の定番の挨拶をした。ただ、補足することがあるとするならば既に教室内の時計は夕方と呼ばれる時間を指し示していて、差し込むのは朝日ではなくオレンジ色に染め替えられた西日。どう考えても、皮肉だ。いつもならば、おちょくってるのかといって黒子に突っかかりそうな火神も、さすがにまだ覚醒しきっていないのか、数度瞬くと目の前の黒子をやっと認識したといった具合に紅色の瞳を見開いて、ああとかはあとか言葉にならない挨拶を返しただけだった。
「はやく起きないと、おはようございますからこんばんはになりますよ」
「あ?」
「漢字テストの追試、はやく合格しないとカントクがご立腹です」
 黒子の言葉に反応するようにぼんやりとしていた紅色が机の上に投げ出してあった漢字テストを映す。若干紙に皺がよっているのは、火神が臆することなくその上で居眠りを決め込んでいたせいだろう。中腰の状態から椅子にかけなおした火神は、自分の置かれた状況をようやく理解したのか唸るように頭を抱えて、疲労を感じさせるため息を漏らした。
「それ、いつまでなんですか?」
「あー、最終下校時刻。これ終わるまで、部活にはいけねぇ」
 掠れた声はいつもよりも幾分か低くて、拗ねているような雰囲気を感じさせる。火神は眠気覚ましのように頭を振って椅子を引くと、床に落ちた筆記用具を回収するために手を伸ばした。緩慢なその動作は、漢字の練習なんて面倒だという火神の気持ちを言外にしていて、書けないんだから練習するべきだと分かっている黒子も苦笑を漏らしてしまう。勝手に緩む口元を誤魔化すように、火神の手の届かないところまで転がってしまった消しゴムを拾ってわたすと、わるいという謝罪の言葉と引き換えに火神の指先が消しゴムを掴んだ。
「あーっ、こんなことちまちまやってねぇ」
 突っ伏して寝ていたせいでこってしまった体を解すように大きく伸びをした火神は、国語の教師が聞いたら激怒しそうな不満を漏らしながら、それでも嫌々と分かる苦々しい表情でシャーペンを握って紙に向かった。
「最初から勉強していればこんなことにはならなかったんですよ」
「おまえ、オレが一応は勉強してきてたの知ってるだろ」
 茜色に染め替えられてどこか普段とは違った印象を受ける級友の席に座った黒子は、芸術的なくらい真っ赤な答案にちゃちゃを入れる。既に度重なる敗北でむきになる気力もないのか、応ずる火神は何処か弱々しい。ああいえばこういういつものやり取りのつもりで、少々ではあるが意識的に失礼な物言いをした黒子としては張り合いがなくて、書けるようになるまでやってこその勉強ですと居心地の悪さを誤魔化すように呟く。帰国子女だということが関係あるのか、作文用紙に漢字を書き付けていく火神の指先は、文字を書くというよりも幼子が図形かなにかを書くようにたどたどしく、やはりバランスが壊滅的だ。バスケットになれば乱暴さを持ち合わせながらもこれ以上ないくらいに器用に動く指先が、どうすればここまで整合性の取れていないものを生み出すのか。これは、象形文字に対する冒涜なのではないかという感想を、黒子は最後の良心で心の奥にしまい込むことにした。
「はやくしてください」
「あー、急かすな」
「そういわれても、ボクはカントクから厳命を受けていますので」
 漢字を記述するのにあわせて上下に動く紅色のつむじを視線で追いながら、火神の邪魔にならないように机に肘を突いて顎を乗せ、彼を観察していた黒子をちらりと紅蓮の瞳が伺った。一瞬視線がかみ合った薄氷と紅は、意思疎通できているのかいないのかわからぬうちに離れていった。
「先行ってろ」
「別に、そういうことを言いたいわけじゃないです」
 最後の一列に差し掛かった火神の指先が止まる。画数が多い漢字だから難しいのだろうかと黒子が首をひねってると、じゃあどういうことだよと低い声音が黒子の耳朶を撫でた。いままで以上にバランスを取るのが難しい字のせいか、火神が文字を書くスピードはカタツムリの行進といい勝負だ。だが、大本の枠内に収めるという大原則が守れていないせいで、全体の形が崩壊してしまっている。これではいくらスピードを落として他って意味がない。見かねた黒子は、火神の筆箱の中からもう一本のシャーペンを拝借すると、同じ日本人として字とは認めがたいものを量産していく帰国子女を制止して適当な紙にお手本を書いた。ご丁寧にも、小学生にしてみせるように画数を数えながらだ。
「こうです」
 獲物に焦点を合わせるように目を細めた火神は、黒子のお手本を凝視しながらその隣に同じ字を書いていく。
「こうか?」
「おしいです。へんがはなれすぎです」
「へん?」
「部首のことです? わかりますか? あと、バランスが悪いのは、書き順を守ってないからだと思いますよ」
「わかった。これ以上駄目だし食らうのも面倒だしな。これでどうだ」
「まあ、いいんじゃないですか。せめて漢字っぽい形にはなってますよ」
 それで本当に大丈夫なのかよと訝しげな火神をなだめながら、二つの字を見比べて随分ましになったでしょうと無理矢理納得させる。それに丸め込まれた火神は、いままで量産した漢字のなりそこないを消しゴムで消して、書き直しだした。文句も言わずに勝手に書き直しを始めるところが、彼の彼たる所以なのだろうかと、黒子は思わず心の中で拍手をしたくなった。
「別にそういうわけじゃないなら、どういうわけなんだよ」
 突然投げかけられたと言葉に、一瞬何を言われたのかよくわからなかった。少し考えるように視線をさ迷わせた黒子に、火神が顔を上げて先に行くんじゃなきゃ何なんだと、省略していた部分を明らかにした。
「はやく練習したいので、さっさと終わらせてくださいっていってるんです」
「拗ねてるのか?」
 火神の口から出た言葉に、黒子の動きが止まる。手持ち無沙汰を誤魔化すようにくるくると回していたペンを取り落としてしまいそうになったのは、多分驚きからだ。火神の口からそんな言葉がでたことも、自らに対してその言葉が向けられたことにも違和感をもってしまう。火神は見開かれた露草色の瞳を見上げて、小さく笑った。
「なんだよ、そんな間抜けな顔して」
「してません」
「じゃあやっぱり、拗ねてるんだな。あれだ、オレだって学習してるんだ」
 火神が伸ばした腕にとっさに身をすくめる黒子。握っていたシャーペンがその拍子に床へと落ちる。がらんという音が教室内に響いて、そのあとを追うように火神の大きな手が黒子の頭を掴んだ。しかしそこに普段の乱暴さはない。バスケットボールを掴むよりも優しく伸ばされた指先は、黒子の瞳と同じ露草色の髪を梳いて、いつくしむように何度かなぜた。
「こうすればいいんだろ」
 どうだと誇らしげな笑みを浮かべる火神に、完全に固まってしまった黒子は言葉を返せない。むしろこの状態はいったいなんなのかと、吐き出そうとした息を飲み込んでしまう。呆然と瞬きを繰り返していると、黒子の驚きに気づかない火神は足りないのかとひとりごちると、先ほどよりも強く黒子の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。自然と引き寄せられるような体勢になってしまった黒子は、危うくバランスを崩して火神の机に倒れこみそうになってしまう。なんとか耐えて体を立て直すと、頭を振って火神の手のひらから逃れようとした。
「やめてください、これだから火神君は駄目なんです」
「おい、どういうことだよ」
 風呂上りの犬のようにるふると震える黒子と彼の言葉に、火神は不満げな表情を浮かべる。自分の選択が間違っていなかったと確信してるのだろうと想像できてしまった黒子はもれそうになった呆れのため息を何とか飲み込んで、頭部に置かれたままになっていた手のひらをぐっと掴んで引き剥がした。
「それは、女の子にするからいいんであって、残念ながら男のボクには通用しません。むしろ逆効果です。あ、もしかしてボクが女だと勘違いしてるとかですか?」
「いや、それはねーだろ気持ち悪いこと考えさせるな」
 かわい子ぶるように首を傾げた黒子を一刀両断した火神は、どう見ても女にはみえねぇから安心しろといって、一瞬考えてしまった女子制服版の自らの影の姿を打ち払うように首を振る。
「確かに火神君のいう通りなんですけど、言い方が失礼じゃないですか? あと、遊んでないではやく課題を終わらせてください。カントクに怒られます」
「わかった、わかったから」
 憮然とした表情で腕を組み、切り捨てるように言い放った黒子。さすがに気持ち悪いという言葉は過ぎるんじゃないかと思うのに、火神は反省している様子もなく、流すように気のない返事だ。その間も、無骨な指先がシャープペンシルを走らせている。
 火神の大きな手がボールを操り、シュートを決めるだけで、観衆は魅了され熱狂する。黒子がどれだけ願ったって、それを手に入れることはできない。努力なんかでは埋められない天賦の才だ。そんなこと、嫌になるくらい分かってた。黒子が火神に出会い、誠凛の中でプレイしていく中で、その努力と進化と開花を一番近くで見てきたのだ。そして、彼とともに歩むことで黒子も邁進することができたのだ。
 だからもう、黒子にとってのバスケットボールは、火神大我という男がいなければはじまらないといっても過言ではないのかもしれない。その単語を思い浮かべると自然と頭の中で火神と結び付けられてしまう。まるで、恋焦がれるように心酔した己の考えに、重症だなとため息をつきたくなる。しかしそれを吐き出すのは癪で、無理矢理嚥下してしまった。
 それを聡く見咎めた火神はどうかしたのかと首を傾げた。
「火神君ナイズされてるので、」
「えっ、あ? うん?」
 瞬く瞳。映るのは戸惑い。目を白黒させている火神を急かすように、黒子はがたりと机を揺らした。まだ書きかけだった字が歪み、火神が忌々しそうに舌打ちをする。
「いまのボクは、火神君ありきなんです、だからはやくしてください」
 キミがいないとはじまらないと、まるで明日の天気でも話題にしているような何気なさで紡がれた言葉に、火神は息を呑んで紅色の瞳を瞬かせた。一瞬遅れたようにその言葉の意味を理解したらしい火神は、乱暴に黒子の頭を撫ぜる。それを受けた黒子は、女の子にしか通用しないといっているじゃないですかと、納得いかない面持ちで火神の手のひらから逃れようと身をよじった。
「いまはこれで、あってるんだよ」
 つっけんどんな言い方なのに、口元に浮かんでいるのは三日月のごとき笑み。がたがたと暴れたせいで、机の上に放り出されていた赤ペンがころりと床に落ちて、変なことをしてないではやくしてくださいと諦念から火神の好きなようにさせている黒子の爪先にコツリと当たった。






12・12・13
13・02・26