ボクもあまり人のことを言えるほうではないけれども、ばかというのはすごい。
 本当に稀なことではあるけれども、常人ならばこんなことはありえないと切り捨ててしまうことを、その思考力のなさゆえに拾い上げて、人知も及ばぬようなことを考え付いてしまうようなことがあるのだ。そういった思考力として限界をこえたばかというものも存在しているのだが、いまボクの目の前に居るばか、もとい別の名を火神大我と呼ぶのだけれども、この人も一般人の想像力を軽く超えてしまっていて、正直彼の言いたいことがちょっとボクには伝わってこない。というよりも、この場合一周もどってきてただのばかということで決着が付くのではないだろうか。
「なぜこういった結論に達したのか、ボクにも分かるように説明していただけませんでしょうか。ちょっと火神君の思考レベルは未来を生きているようで、ボクなんかでは追いつくことが出来ないみたいで」
 現実を拒絶するように一旦瞼を閉じて、もう一度開く。室内灯の残光がハーレーションをおこしながら、眼球に突き刺さるような眩しさを演出していく。その光に慣らすように何度か瞬きを繰り返していると、常識人であるはずのボクを疑うような視線が向けられた。この場所に居る、一番常識とは縁遠い火神君の。
「いや、これ買ってみたんだけど」
 何がわからないのか理解に苦しむとでも言いたげな表情で、ボクと火神君が向かい合って座っているテーブルの上の、現在の台風の目であるものを置いた。どう考えてみても、ボクと火神君には必要のないものだ。必要のないはずのものだ。ボクたちの見解が一致していて、ボクの知らない間に世界の法則が変わっていなかったとしたら、まったくもって一ミリも一ミクロンも必要のないものだし、ボクとしてはその必要性を感じたことなどたったの一度もなかった。誠に残念なことではあるが。
「いえ、買ってみたのはいいんです。そこはもう覆しようがありませんから。いまさら返品してこいとはいいません。ただボクが問題としているのは、これをどうするかということです」
「どうするかって、嵌めるしかねーんじゃねーの。指輪なんだし」
 それが世界の真理であると、当然のように言いはなった火神君。その言葉にボクは顔を覆うことしかできなかった。間違っても幸福だとか感激だとか感涙だとかそういったものから来る衝動ではなく、どっちかといえば脱力とか気力を失うとかそういったものから逃れ、自分を支えるために顔を覆ったのだ。なにが、どうして、そうなった。
それはそうだ指輪は嵌めるしかない。もちろん、火神君のように首からかけることもできるが、買ってきた本人の口から嵌めるしかねーんじゃねーのという言葉を賜った以上、嵌めることを前提に購入されたものと見て間違いはないだろう。
「これ、ペアですよね? 嵌めるってことは、二人が嵌めるわけですよね?」
「まあ、ペアリングだから、そうなるとおもうぞ。店の店員もそういってたし」
「ですよね。そうですよね。まだ、火神君に言葉が通じるみたいでボクは安心しました」
 これは、もしかしたら彼とボクの意思疎通ができてないのではないかという恐るべき可能性も考慮していたのだが、そこまで絶望的な状態ではないらしい。安堵のため息を漏らすと、ボクのそれを否定するように火神君の拳がテーブルを叩いた。その衝撃のお陰で、テーブルの上で、室内灯の灯りを受けてキラキラとした光を放っていたシルバーリング(ペア)が揺れる。
「おまえなあ、ばかにするのもいい加減にしろよ! いちいち棘があるんだよ!」
 肩をいからせて身を乗り出してきた火神君は、怒声を上げてボクを殴る代わりに重々しいため息を吐き出して頭を抱えた。もちろん、失礼なことを言っているかもしれなくもないかもしれないという自覚がないわけでもないような気がしないでもないが、いろいろ深い事情があって、異国の地で同居している友人から(外から見ると付き合っているということになっているらしい。ボクたちのカップルレベルは、雑誌に熱愛報道をすっぱ抜かれる程度だ。本当に、ボクもえらくなってしまったものだ)シルバーリングなどというものを突きつけられたとしたら、この人はもしかして正気を失ってしまっているんじゃないだろうかと不安になっても仕方ないだろう。
「棘はありません。安心してください大丈夫です。高校のころから火神君の学力だとか言語レベルについては、海のように広い心を持って受け入れることにしていますので、キミを否定するようなことはしません。ただしこの場合、何度も言うようになんでこんなものを買ってこようとしたのかというところが重要な論点となってくるはずです」
「それがばかにしてるってことだってはやく気づけよ! もう突っ込むのも疲れたわ!」
「ボクだってキミに奇行に突っ込むのも疲れました。ちょっとまえに雑誌に載っておたがいそれなりに迷惑を被ってきたところだというのに、なんでこんな勘違いに王手をかけるようなことをしちゃったんですか」
「あ、買い物はちゃんと信頼できる店でしてきたぞ」
 へんなところに情報が行くことないと思うといけしゃあしゃあと言ってのけた火神君。だが、誠に遺憾ながらボクが心配しているのはそんなところではないし、むしろその誇らしげな横っ面をひっぱたいてやりたくなった。暴力はいけない。暴力反対。そのスタンスは変わらない。だが、力で訴えなければ成し遂げられないものというものもたしかにこの世の中には存在しているのだ。そしていまがそのときなのだ。絶対に間違いなく。
「あと、タツヤが」
「氷室さんが?」
 ここで出てきた常識人の名前に、ボクは思わず身を乗り出した。救い主にも匹敵するほどの常識人レベルの持ち主の登場に、自然と両手を握り締めてしまう。急なボクの反応に、火神君は驚いたように深紅色の瞳を瞬かせる。驚きで言葉を止めてしまった彼を促すようになんですかと問いかけると、訝しげな表情で口を開いた。
「タツヤが、実際の関係性がどうであれ、そこまで一蓮托生状態なら指輪でもわたしてみたらどうだって、無理やり店まで引っ張っていかれたから、まあ買ってみるかと思って購入にいたった」
 そうして壁にかけてある時計を睨みつけるようにした火神君は、二時間くらい前の話だと聞いてもいないのに教えてくれた。たしかに、今日は珍しくオフだから朝から人と会いに行ってくるといって出かけていった。いまさらながらに、氷室さんと会っていたのかということは分かったが、それがどうしてこの結論を導き出してしまったのかは正直よくわからない。すごく当然のように説明されているが、まったく説得力のない説明であるということを火神君は理解できているのだろうか。氷室さんと会うことと、ボクとのペアリングを買ってくることは全然関係ないうえに、氷室さんは火神君をおちょくって楽しんでいるとしか思えないし、火神君は氷室さんのことを兄のように慕っているからといって疑うことを知らなさすぎだろう。なんで一度、ボクに電話して確認してくれなかったのだろうか。せめてお会計に行く前に一度携帯電話を取り出すだけでよかったんだ。いやべつに、氷室さんとのことをああだこうだといってるわけではなく、いやこれ以上言っても目の前の現実が変わるわけでもないので仕方ない。
「いろいろ言いたいことはありますが、ボクの指のサイズ分かるんですか? 違ってたら嵌められませんけど。いえ、嵌めるといっているわけでもありませんが」
「ああ、それなら日本でおまえのところに結婚の話を持っていくまえに、桃井に聞いて確かめたから問題ない」
「確かめたんですか。なんで、確かめたのかはききたくないですけど」
「あ? もちろん、形だけとはいえども、一応指輪もっていったほうがいいかと思ったからに決まってんだろ」
 現実を拒否したくて耳を塞ごうと思ったのに、それよりもはやく火神君の言葉が脳にまで届いてしまった。そんなこと知りたくなかった。なかったのに火神君は、どうせわたそうと思ってたしまあそれがずれ込んだだけだから、丸く収まったってことじゃねーのとまったく丸く収まってないことをいってうんうんと頷いている。そして、なんの躊躇いもなく、まるで判決を待ちわびる罪人のようにテーブルの上に放置されたままになっていた指輪のケースを引き寄せて、たぶんボク用だと思われるほうの指輪を取り出した。
「まあ、なんていうか、相棒のしるしってか、家族の証ってか、そう深く考えんなよ」
 あんがい、おまえには感謝してるところもあるんだと、はにかむように笑った火神君に、本当にこの人はどうしようもない人だと泣きたくなった。この気持ちをなんとすればいいのか。呆れもあるし、なんでこんなことをという気持ちだって強い。指輪が欲しいわけじゃないとも思う。だけれども、口下手なくせに思わぬところでハッとするような言葉くれる彼のことがどうしようもなくすきだった。変な意味じゃなくて。
 火神君の無骨な皮膚の厚い手のひらが、ボクの左手を取った。制止するよりも一瞬はやく左手の薬指に指輪を嵌められてしまう。まるで最初からそこにあったかのように、完全にボクの指に馴染むサイズだった。
「あの、これじゃあ日本的に結婚指輪になってるんですけど」
「でも、それいがいどこに嵌めるのかオレしらねーし。おまえの薬指のサイズで合わせちまったから仕方ない」
「仕方なくないです! これは確実に誤解されます! ちょっとほだされそうになったボクがばかでした!」
「は? 別にいいだろ、指ぐらいでぎゃあぎゃあいうなよ! そんなとこ誰も見てねえよ!」
「社会人なめないでください! 会社で何か言われたらどうしてくれるんですか!」
「そんなの、正直にいえばいいだろ隠すからうたがわれんだよ!」
「隠してないのに疑われてるから、雑誌にスクープされたりしたんじゃないですか」
 お互いに肩で息をしながらジャブの応酬をする。なんだかボクだけが必死になっているような気がして、この気持ちを分からせてあげようと、ボクも指輪のケースを取って火神君の左手を引っつかみ薬指に指輪を嵌める。そっちのサイズも間違いはないらしく、ちゃんと綺麗にはまってしまった。
「おっ、サイズ完璧だな」
「キミのもそこのサイズで作ったんですね」
 指の感覚を確かめるように拳を開いたり閉じたりしていた火神君に確認すると、そんな当たり前のことを聞くなというようにいなされてしまった。ほんとうにこの状況はどうしようもうない。必死になっている自分がばかみたいではないか。こうなることが当然だと、当たり前の帰結のような顔をしてボクたちの左手の薬指で輝いているシルバーリングに肩を落とした。彼もボクも、すでに手遅れなくらいにどうしようもない。




12・08・19
12・08・26