「これはやべぇな……」
 しんとした部屋の中に火神君の声がこだまする。
 そこに含まれているのは驚愕。ボクとしてもやはり、やばいとかまずいという意味では同意なのだが、心情は驚愕というよりも絶望に近い。アメリカにやってきてはや何ヶ月。最初に空港に降り立って、まったく日本語が聞こえずに、わけのわからない英語ばかりが耳に入ってきたときの心細さとはまた違う。目の前が真っ暗になるようなそれ。まさにどうしてこうなった。いや、なるべくしてこうなったというか、こうなるためにきたんじゃないのかといわれてしまえばそれまでなのだが、それにしたってひどすぎる。こんなふうに有名になったって、誰にも誇れない。確実に。というよりも、日本の実家に、父さんと母さんにどう顔向けすればいいのかわからなかった。
 火神君が手の中にあった雑誌のページをめくる。思い余って薄い紙を破ってしまいそうな乱暴な仕草。新しく目に飛び込んできた写真に、ボクはまた泣きたくなった。むしろ、泣いて火神君を罵倒できたらいま一番お手軽なストレス解消方として、少しは気分を向上させることができただろう。
 まだ英語に対してそこまで自信があるわけではないので、断片的な単語しか拾うことができない。その上もともとの能力値の低さに拍車をかけるように、いまは頭の中が混乱状態で、完全に日本語で思考しているので結局火神君の名前くらいしか理解することができなかった。ボクとは違って、ある意味では日本語よりも英語のほうが流暢な火神君は、深紅色の瞳でボクにとってはただのアルファベットでしかない文章の羅列を解読しているようだった。彼が記事を読み終わるまで、ボクは刑の執行を待つ死刑囚のような気持ちで深呼吸を繰り返していた。
「こいつ、なかなかやるな。おまえのこと写真で補足するなんて。いままで誰一人として、おまえのことを感知できなかったんだぞ。なんか特殊な訓練でもうけてるのか!?」
 記事を読破した火神君の第一声に、ボクは言葉を失ってしまった。
 どう考えてもおかしい。吃驚するべきところはそんな部分ではないし。ボクが頭を抱えているのは、自らのステルス機能が見破られてしまったからでもない。というより、火神君の頭はどうなっているのだろうか。ボクたちはいま、仲良くお手々を繋いでナイアガラの滝から飛び降りることを強要されているような状態なんだ。それを、暢気に今日は天気がいいななんていわれたら、いくら温厚を自負しているボクでも攻撃的な気分になってしまう。
「すみません。本当にボクと同じものを見ているんですか?」
「はあ? あたりまえだろ。いっとくけど、ここではオレのほうが言葉喋れるんだからな!」
「悔しいことではありますが、それについては認めざるを得ません。しかし、いまボクたちにとっての懸念事項は、ボクの姿がパパラッチの皆様に捕捉されたことではないと思います。いえ、たしかに写真を取られたことが問題の根幹なのかもしれませんが、それ以上に、写真と雑誌のカラーとなんとなく拾える単語から察するに、とても面倒なことになりそうなというか、なっている予感しかしないのですが」
「あー、まあそうっちゃそうだけど。想像の範囲内だろこれは。もともとこういうのが面倒だから、頼み込んでおまえにいっしょに来てもらったんじゃねーか」
 ボクの膝の上に雑誌を投げ置いて、並ぶように座っていたソファの背に上体をもたれかけさせて大きく伸びをした火神君。高校の授業中に惰眠を貪っているときくらいの間抜け顔だ。言葉を重ねるほどに大きくなっていく現状のとらえ方の違いに、ボクばっかりが追詰められているような気さえして、気の迷いのような殺意が脳裏をよぎった。
「おまえだって、海外勤務決まって一人でアメリカでやってけるかってときに、渡りに舟だっただろ?」
「それは、そうですけど……」
 まだ欠伸交じりの火神君の声音に、こちらの気まで抜けてしまう。何故ここまで気楽に構えていられるのか。たしかに、ちょうどよかっただろうといえば、その通りだ。向こうの支社に二年くらいいってくれないかといわれて、ボクとしても転職と海外転勤の間で揺れ動いていた。そこに、偽装でいいから結婚してくれと頭の沸いたことを言い出した火神君が盛大な衝突事故を起こすように殴りこんできたのだ。
 もちろん真正面からそれに頷くほど、ボクも焼きが回ったわけではない。いろいろとりなすうちに、結婚は無理だけれどもスケープゴートとして覚悟を決めて同居ならという話に落ち着いたのが一年弱前。準備が整ってこちらに来たのが半年前。誰も知り合いのいない遠い異郷の地で、現地の言葉にも堪能で信頼できる人といっしょに暮らせるというのなら、これ以上にありがたいことはない。
 だが、だが、だ。これは、少々はしゃぎすぎではないだろうか。というより、ボクなんかよりも、火神君のほうが困るのではないだろうか。彼は、日本人で二人目のNBAプレイヤーとして、本国でも注目を浴びている。日本から離れているので現在の詳しいことはわからないけれども、たまにメールをやり取りしているみんなの話によると、特集番組が組まれたりバスケ雑誌の表紙を飾ったり、知らない間に日本の雑誌や番組のインタビューを受けていたらしい。たまになにやらパソコンに向かって原稿を書いているなあと思ったら、あとから聞いたところによると、日本に送るためのインタビュー回答だったそうだ。珍しくボクにこの文章はおかしくないかと添削をお願いしてくるはずだ。そんな日本国内でも、一、二を争うくらいに注目されているバスケプレイヤーが、ゴシップ記事にこんなスキャンダルをすっぱ抜かれたなんて知れたら、その影響はいかほどのものなのだろうか。好調な滑り出しだったはずなのに、火神大我という名前に泥を塗る可能性になりはしないのだろうか。考えれば考えるほどに最悪の状況しか思い描けない。
 もしも夢だったらいいのにと縋るように視線を落として、薄い紙面に印刷されたそれを見た。飛び込んでくる見出しは、解読できたとしても内容を知りたくはない。問題は、あまり鮮明とは言いがたい写真のほうだ。夜なのだろう。必要以上に影が落ち、薄暗い中で二人の男がなんというか、こう寄り添いあっていると表現すればいいのか、とても心苦しくはあるけれども見ようによっては肩を組んでキスをしているような、そう取れなくもない写真だった。背の高い体格のいい男が、少し背が低めの男の肩を抱いて、人通りの少ない裏道の壁に寄りかかっているその姿は、まあそういった意味合いを持っているのだといわれれば、頷かざるを得ない。もう一つ付け加えると、背の高い男はよく見なくてもボクの隣にいる火神大我とかいう人と生き写しで、更にいうのなら彼よりも小さい男のほうが、今朝も鏡で顔を見たばかりの黒子テツヤというか、ボク自身とそっくりだった。いや、確実にボク自身だった。
「これはなあ、角度が不味いよな」
「角度だけなんでしょうか。それ以外にも問題があるとしか思えません」
 ボクの肩に手をかけてすべての元凶である写真を覗き込んできた火神君。
 もちろん、角度も悪い。間違ってもボクたちは色っぽい意味で肩を抱き合っていたわけではないし、キスをしているわけでもない。これは火神君と気晴らしに飲みにいって少々羽目を外しすぎたがために、彼に引きずられるようにして帰り、その途中、路地裏で嘔吐したときに介抱してもらったところを、悪意のあるとしか思えないタイミングと角度で激写されてしまったものだ。しかし、真実がどうであれ写真という物的証拠さえあれば、あとは適当に豊かな想像力の力を借りてそれなりの記事が出来上がってしまうのが残酷な現実だ。そして、そうまでしても火神大我というバスケットプレイヤーのゴシップを手に入れたいというのが、出版社の正直なところで、それほどまでに彼が関心を持たれているという証拠なのだろう。有名税とはまさにこのことだ。
「これ、どうするんですか。このままだと、知らないうちに火神テツヤになっていそうでこわいです。ちなみに、ボクはストレートなので、そこのところは誤解のないようにしていただけませんか?」
「バカか! オレだってそうだよ!」
 ガードするように身を引くと、咄嗟に身を乗り出した火神君に勢いよく怒鳴りつけられてしまう。一応予防線を張っただけだというのに、目に角を立てて反論することはないではないか。
 どちらが悪いということはない。タイミングと、運が悪かっただけだ。その二つがないだけで、お互いに会心の一撃を食らってしまって半死半生状態ではあるが。だが、少しくらい八つ当たりをしたいボクの気持ちも分かってもらいたい。反逆ののろしを上げるために、分かりやすく頬を膨らませてみせると、ボクを嗜めるようにドアのチャイムが鳴った。音に引き寄せられるようにそちらに視線を向けると、火神君の大きな手がボクの肩を掴んだ。
「おい、出るなよ」
 まるで親の敵が尋ねてきたかのように、ドアのほうを睨みつける彼。そこには、懐かしいコートの中で感じた威圧感があった。敵に回せば恐ろしいが、味方としてはこれ以上ないくらいに頼りになるそれが、ボクはすごく好きだった。もちろん、ゴシップ記事を読んでいる方々が期待するような類の好意ではないが。そして、火神君が警戒しているドアの向こう側には、その見当違いの期待に満ち溢れた方々が多く待機しているであろうことはなんとなく想像がついた。
「わかっています。夜の密会の次は同棲発覚ですね。順調に階段を上っていくような進化です。そこまでいったら、ナイアガラの滝どころか、パラシュートなしのスカイダイビングとそう変わりません」
「はあ? なんだよそれ。行きたいのか?」
「違います。ボクたちのこの状況をたとえを用いて表現してみただけです」
「それがなんでナイアガラの滝。まあいい。とりあえず、これからどれだけの期間かはわかんねーけど、めんどいのが周りをうろつきそうだから、気をつけとけよ。別行動してるときにどうしよもねーとおもったら携帯に連絡くれ」
「了解です。まあ、そういう手合いにからまれているときに火神君を頼ったら余計に面倒なことになりそうですけど」
「んなのこの際いいんだよ。おまえが絡まれて面倒なことになるほうが、オレはいやなんだ」
 くだらないといわんばかりにきっとボクを見た火神君に、勘違いをしそうになる。まるで、ボクが危険に陥ることを厭うているようではないか。彼がそこまでのことを考えているかはわからないけれども、この二進も三進もいかない、何でこんなことになったのかわからない状況の中で、三文記事に書きたてられるとしてもその相手が火神君で救われたと思わずにはいられなかった。たぶん、そこに他意はないんだろうけれども。
「でも、もしもこれが日本まで伝わったら面倒なことになりそうですね。こちらではボクだと特定される可能性は低そうですが、日本にまで写真が行ってしまうと分かる人にはわかってしまいます」
「あー、それは。まあ、なあ」
 頭を抱えるようにして目を細める火神君。たぶん、ボクの伝えたいことというか、日本の空の下で元気にやっている人たちの反応を想像して、心底面倒なことになりそうだとでも思っているのだろう。徐々に苦虫を噛み潰したような表情になっていく。
「桃井あたりとか、大丈夫なのか」
「それもですけど、黄瀬君もそうと、」
 ボクの言葉を遮るように携帯電話が新着メールの着信を告げる。しかも、ボクと火神君のものが二台同時に。何事かと二人して顔を見合わせて、携帯電話を引き寄せる。新着メール、一件。差出人の名前は、桃井さつき。まさかと思って顔を上げると、火神君もボクと同じように携帯電話片手に重々しいため息をついていた。
「火神君……桃井さんが……」
「オレは、黄瀬だ……」
「このタイミングとは、あまり中身を見たくありません」
「珍しく気が合うな」
 重なるボクたちのため息。誠に心苦しいことに、そしてボクたちに現実がつれないことに、いまの世の中インターネットというものがあって、情報は一瞬のうちに世界を駆け巡っていくのだ。なんとなく想像のついてしまうメールの内容にボクは静かに深呼吸を繰り返しながら、現実を拒絶するように開いたままにしていたゴシップ誌を閉じた。そうやって心を落ち着けなければ、雑誌の代わりに携帯電話を逆に折ってしまいそうな気がしたからだ。
 救いを求めるように視線をやった火神君の紅色の瞳にも、ボクが感じているのと同じような疲労の色がうかんでいて、これ以上ないくらいの一体感を味わってしまった。





12・07・15
12・08・26