どうやら、ボクと火神君は結婚することになるらしい。
 穏やかな昼さがり。長い一週間を戦い終えて、ようやく訪れた週末。たまるばかりの積み本を消化するために本でも読もうかと、ソファでリラックスしていたときに、アメリカにいたはずの火神君が、話があるといって突然尋ねてきたのだ。そこまではよかった。いや、約束もなしに急に彼が来たことだけでもかなり驚いたのだが、いま思えばそんな驚きはかわいいものだった。
 そこからが、急転直下の大問題。もしかしたら、ボクが錯乱したと思うかもしれないが、ボク自身はいたって正常な状態であり、むしろ久しぶりに会いにきたと思ったら、急に前述のようなことを主張し出した火神君の頭のほうがかなり心配になってくる。ボクの知る限り、結婚とはお互いをいとしく思う男女が、これから先の人生をともに歩むことを誓い、新たな家庭を築いていくための大切なスタート地点である。
 さて、ここで、ボクと火神君をこの構図にあてはめてみよう。
 ボク、黒子テツヤは疑いようもなく男であり、同じくボクの前で暢気にコーヒーなど飲んでいる、高校のときよりも更に身長の伸びた(ボクの成長は高校を境に止まってしまったというのに、もう十分すぎるくらいの火神君の身長ばかりが伸びていくというのは、はっきり言って納得がいかないし、世の中の不公平というものを感じられずに入られない)プロバスケプレイヤー火神大我も男である。いや、もしも彼が女だったという事実が隠されていたのだとしたら、それこそボクは自分の視覚ととても大切なものを信じることができなくなっただろう。そしてもう一つ、お互いをいとしく思うというところに注目してもらいたい。辞書に載っている意味を取るとするなら、かわいく思う、恋しく慕わしい。ボクと火神君は光と影として、まあお互いのことを支えあったり、それなりに大切に思いあったりしながら高校三年間を過ごし今現在に至るわけだが、恋しく慕わしいというのは少々言いすぎというか、レールから外れているというか、そのような話を聞いたことがない。そして、最後に重大なことであるが、結婚というものは決して一方通行のものではなく、双方納得のうえで人生の新たなステージへと踏み出すものなのだ。状況を整理して余計に頭痛が酷くなった頭を抱えてため息をつくと、ちょうどマグカップを空にした火神君がコーヒーのおかわりを注いでもどってくるところだった。
「すみません。もう一度お願いしますか?」
「あ? コーヒーか? 仕方ねえなあ」
 よこせと、ボクのマグカップを引っつかんだ火神君は、まだ並々と黒い液体の注がれたそれをみて怪訝な顔をした。
「おい、まだ入ってるぞ」
「違います。あの、ボクと火神君がなんですって? よく聞こえなかったんですが」
「だから、あれだ。オレと結婚しねぇ?」
「誰がですか?」
「もちろんおまえだけど」
「おまえなにさんですか?」
「黒子テツヤさんだけど」
 何度も言わせるなと、いらだったように乱暴にマグカップを置いた火神君。カップの中の黒が激しく波紋を描く。たぶん、ボクのいまの気持ちもこんな感じだ。前代未聞の荒れ模様。
 ここで困惑しているボクのほうがおかしいのだろうかと思えてくるのだが、そんな馬鹿なことがあってたまるだろうか、いやない。まずもって、軽い。軽すぎる。いや、誠心誠意こめてボクに対する恋しく慕わしい気持ちを説いてくれればいいというわけでも、結婚への熱意をぶつけてくれという切実な願望でもない。しかも、ボクと火神君にそのようなフラグがたったことは一度もなかったはずだ。もしかして、ボクが忘れているだけで、将来を誓い合ったことがあるのだろうかいやまさかそんなはずはない。たしかに、ボクは少々影が薄く社会人になったいまでも恋人と呼べる存在はいない。だが、ここで急に火神君に、吹けば飛ぶような、それこそ高校時代のマジバいかねぇ? みたいなプロポーズをされて飛びつくほどの愚か者ではない。
「ボクは男です。火神君も男です。まず、そこの確認から始めましょう」
「なに当たり前なこといってんだよ。おまえ頭大丈夫か? 働きすぎでつかれてんじゃねーの」
「火神君こそバスケのしすぎで頭の中まで筋肉になったんですか? どうして現在の日本でボクと火神君が婚姻関係を結べるんですか。ずっと仲良しの太郎君と一緒にいたいから結婚するとか言いだして、お母さん達にほほえましく思われる幼稚園児みたいなこと言わないでください」
「太郎君って誰だよ」
「話を分かりやすくするための例です。細かいことは気にしないでください」
 誰か知り合いでも思い出すようにこめかみを指で押さえている火神君には申し訳ないが、ボクが注目して欲しいところはそこではない。断じて。もっと、気づくべきところがあるはずではないだろうか。彼に国語を教えているときの、先生の気持ちはこんな感じだったのだろう。今すぐにでもテーブルを殴りたくなる衝動を抑えて、コーヒーで喉を潤す。普段は気にならない苦味が舌を刺激して、涙が出そうになった。
「だいたい、誰が日本でって言ったんだよ。アメリカだよアメリカ」
 勝手に勘違いするなと呆れたように肩を竦められても、こっちだってそういう重要なところを勝手に省略するなと殴りかかってもおかしくないはずだ。少々思考が乱暴なほうへと流されている自覚があるので、落ち着くのだと自分をクールダウンさせるために、深呼吸をする。
だが、ここでアメリカということを補足したとしても、まったくもって根本的解決には至っていない上に、さらなる問題が浮上してきていることに彼自身気づいていないのだろうか。帰国子女という病が、彼をいとも簡単にグローバルな思考へと走らせているのかもしれないが、ボクは純粋な日本人であり、結婚するときも孫を見るときも骨を埋めるのも日本の大地と心をきめているのだ。
「あの、ボクというか黒子テツヤが、火神君とアメリカで結婚するということなんですか?」
「だから、そうだって言ってるだろ。何回もしつこいぞ!」
 ボクを映す深紅色の瞳は、自分の提案に対して一点の疑問すら抱いている様子もなく、断られると思っている雰囲気でもない。ボク、火神君、アメリカ、結婚と断片的に単語を音にしてみたが、目の前になる現実は何も変わらなかった。どうにも意思疎通がうまくいかなくて、じっと深紅色の瞳を覗き込むと、火神君がちょっと怯んだように身を引いた。椅子が床と擦れる音が、リビングの中にこだまする。
「な、なんだよ」
「いつからなんですか? いつからボクのことを好きなんですか。そういった節は見受けられませんでした。ボクに対してつっけんどんな振る舞いをしたりしていたのも、もしかして火神君なりのカモフラージュだったんですか?」
「はあ?」
「はあじゃありませんよ。結婚をしたいというからには、そういうことなんじゃないんですか? ボクはそのてのことには理解があるつもりです。怒らないから教えてください」
 問い詰めるようにテーブルに両手を付いて身を乗り出すと、いつもボクのパスを受け止めていた火神君の大きな手が、ボールでも叩き落とすかのようにボクの頭を押さえつけた。高校ぶりくらいのなんとなく懐かしい感覚だが、遠慮なしに力をこめられて懐かしむよりも先に痛みにうめき声を上げそうになる。頭が破裂しますと大げさに痛がってみたら、燃えるような色とは対極の酷く冷たい視線がボクに向けられた。
「暴力反対です」
「おまえが気持ち悪いこと言うからだろ! 勝手に人の気持ちを捏造するな!」
「だって、結婚するんじゃないんですか? 受けるかどうかは別にしても、きっかけは聞かせてくれてもいいじゃないですか」
「おまえ、話聞いてたか」
 がくりと肩を落として頭を抱えた火神君は、まるで言葉の通じない新人類とでも話しているかのような物憂げな雰囲気をかもし出している。だが、それはこっちの台詞だ。この短時間の間に百回以上は頭の中でこの流れを整理してみたが、ボクの理解の範疇を軽く超えてしまっていて、何かよくわからないボク内新記録を叩きだしそうなレベルだ。しかし、ボクの混乱をよそに、火神君は物分りの悪い生徒に最後の温情を投げかけるかのごとく口を開いた。
「いいか、誰がマジで結婚するって言ったんだよ。偽装だよぎそー。最近、周りが結婚しろってうるさいし、そういう目的で近づいてくる女もいるし、オレのスキャンダルねらって張り付いてるやつもいるし、こっちにその気がないのにいちいち相手してたら日が暮れるだろ。だから、手っ取り早く結婚してわずらわしいことを遠ざけることにしたんだよ」

 名案でしょとばかりに胸を張った火神君に、誰か常識というものを教えてくれないだろうか。もう突っ込むところが多すぎて、日向先輩を連れてきてもさばききれる自信がない。たしかに、火神君は最近アメリカでも注目され出したプレイヤーだ。パパラッチにねらわれることもあるだろうし、金銭目的や売名目的で近づいてくる女性もいるのだろう。しがないサラリーマンにはハリウッドくらいに想像できない世界だ。だが、そこでどうして偽装結婚。そこでどうして、ボク。何故どうしてそうなってしまったのか。導入はまだ、ギリギリ、なんとか及第点でいいとしても、展開の部分がすべて吹っ飛んで前人未踏の未知の結論を導き出してしまっている。
「もう突っ込みきれないんですけど、せめて女の子にお願いしてください」
「はあ? おまえ、好きでもない女にこんなことで迷惑かけられるわけねえだろ」
「え? その気遣いをどうしてボクにできないんですか? どうして、ボクの戸籍を自分の自由帳みたく考えているんですか? おかしいですよね?」
 すごく真っ当なことを言っているのに、すごくおかしい。何故その常識がボクに適用されないのか。そしてどうして火神君は、その当然の主張に対して、それは気づかなかったと眉をひそめているのか。
「あー、あれだろ。ほら、光と影だろ」
「あのとき、キミを日本一にするとは誓いましたが、夫婦になるとは誓ってません。光と影のプラン外です」
「稼ぎのことは心配しなくても、おまえの二倍くらいは軽くいけると思うから」
「それこそ余計なお世話です!」
「じゃあ、ボーナスも出すから! 頼む、この通り」
 ぱんと両手を打ち鳴らして拝まれても、ボクの気持ちが動くわけがなかった。いまからでも遅くないから、縁結びの神社にでもいって、その二倍の給料とやらをボーナス込みで賽銭箱に突っ込んできたほうがよりよい結果がでるのではないだろうか。いったい、火神君の頭の中で結婚というものがどうなっているのか、頭蓋骨を勝ち割って確かめてみたい。もしも、何も入っていなかったらボクは泣く。
「青峰も、いまも昔もおまえには彼女いないから大丈夫だって言ってたし」
「さらに余計なお世話です! なんで青峰君はそんなどうでもいいことばっかり!」
 人の傷を抉るようなことを軽々と漏らす元ボクの光。今度あったときには絶対にバニラシェイク一年分をおごってもらうと心にきめた。一年分でも足りないくらいだ。
「そんなに軽々しく結婚を考えなくでください。家族になるっていうことなんですよ意味わかってるんですか?」
「これでも真剣に考えて、おまえとならやっていけるって結論に達したんだ。背中を預けられる相手っていうと黒子くらいしか思い浮ばなかった」
 いままでの頓珍漢なやり取りをどこかにおいてきたみたいに、真剣な声音。深紅色の瞳は、真っ直ぐにボクを射る。それはまるで、おまえしかいないといわれているようで、なんとなく実際にプロポーズをされる女性はこんな気持ちなんのかもしれないと、知りたくなんてなかったことを実感させられてしまった。燃えるような赤は、高校の試合中、ボクが誰よりも信頼できた誠凛のエースのそれで、思わずぎゅっと手を握り締めてしまった。別に、心が動いたわけではない。絶対に。確実に。
「なあ、頼む。オレを助けると思って協力してくれ」
「だから、ボクのことも考えてください」
「おまえなら、影も薄いし、結婚しましたってしてもパパラッチからも逃げ続けられるだろ。もしも危険があるとしたら、オレが何とかする。絶対に後悔はさせねえから」
 なあと、懇願するように言い募られる。おかしい。どうしてこんなことになっているのか。火神君が安直に結婚という解決策を導き出したことも、そのパートナーにボクをあてがったことも、全てがおかしい。
「おまえしかいないんだ」
 頼むと、伸ばされた右手。ボクのパスを受ける手のひら。あの頃から変わらない、ボクが信頼して止まないその手のひら。まるで、ボクが唯一無二の存在であるかのようにさえ思えてくる、哀願。全部がおかしい。なのに、ああと思う。多分一番おかしいのは、頭の中でいろいろな抵抗をこねくり回しているのに、どんな形であれ火神君に求められていることに、心のどこかで喜びながら、まるでそれを慈しみ味わうかのように強い否定の言葉を投げかけられないこのボクなのだ。



12・06・30