そういった感情には覚えがあった。自分を特別扱いしているわけでもないし、感傷に浸っているわけでもない。それでも、確かにそこには、いつまでたっても可愛らしいお人形がなければ眠れないと駄々をこねる幼子のように、どうしても捨て去ることができない物があったのだ。たぶん、すでに私の一部になりつつあるそれを、輪郭をたどるように強く意識したのは、タイムカプセルを開けるかのような、懐かしいメンバーで集まったからなのだろう。きらきらと宝石や宝物ばかりを入れた箱の中から、あたたかな感傷がわき上がるように、連鎖的に慈しむべき思い出たちが顔をのぞかせた。
「青峰っちは相変わらずっスね」
 壁越しに他の部屋の喧噪が伝わってくる居酒屋の個室内で、きーちゃんが腕時計を確認して苦笑いを漏らした。店全体の盛り上がりに反して、私たちのテーブルの上は嵐の前の静けさのように整っていて、配られたおしぼりが一人分余った状態だった。私の携帯には五分遅れるというメールがきたのだが、大ちゃんの五分というのは人の三倍もあるらしい。今日のメンバーが私、きーちゃん、ミドリンと、時間はきっちり守るタイプがそろっているせいかその十五分が一時間のようにも感じられた。現に、おは朝占い関連のみにしか遅刻を許可しないミドリンは、苛ついたように何度も何度も腕時計を確認していた。既に飲み会という言葉から想像するような和やかな雰囲気は失われている。
あいつはなにをやっているのだよ。どこの世界の五分を引き合いに出しているのだ」
「メールもらった後に、電話で再三言ったからもうそろそろくると思うんだけど」
「まあまあ、緑間っちも落ち着いて、いつものことじゃないっスか」
「そうやって甘やかすから付け上がるのだ!」
 興奮した動物でもいなすように肩にまわされたきーちゃんの手を打ち払ったミドリンは、限界まで空気を吹き込んだ風船だ。ひりひりとすれるように秒読みを続けているそれは、破裂するのを待つのみ。
「これは、手厳しい」
 悩ましげに眉をひそめたきーちゃに、私の方がハラハラしてしまう。なかなかこない大ちゃんを心の中でののしりながら、しつこいくらいに新着メールを確認する。いつまでたっても、新着メールはありませんというそっけない文章が表示されるだけで、行儀が悪いかなと思いつつも舌打ちをしそうになったときに、がらっと個室のドアが開いた。全員の視線をあびて座敷に上がってきたのは、重役出勤も甚だしい大ちゃんだった。
「わりぃ、遅れた」
 悪いと言っているのに、その表情にもしゃべり方にもあまり誠意は感じられない。欠伸をかみ殺してあいていた私の隣に座った大ちゃんは、まだ何にも注文してなかったのか、と当然のようにメニューに手を伸ばす。この、遅刻が許されて当然と考えているきらいのあるその態度に、やばいと思ってミドリンを盗み見ると、頭を抱えて苦虫を噛み潰したような顔をしているきーちゃの隣で、ついに風船が破裂した。
「遅れたのはわかっているのだよ!」
 なにかフォローをと口を開こうとするよりも一瞬早くミドリンが臨界点を突破して、大ちゃんのもっていたメニューを乱暴に奪い取る。しかし、大ちゃんはむしろ、人が見てるメニューを勝手に取るなとミドリンの無礼を責める傲慢不遜な態度だ。自分をどこかの王様と勘違いしているんじゃないだろうか。
「だから、さつきに連絡しただろ」
 なあと話を振られても、ミドリンの怒りは理解できるので、大ちゃんをたしなめるようにわき腹をつつくことしかできない。私の中のミドリンに傾いた天秤がそうさせるのか、案外強くノーガードの脇腹に肘が入ってしまった。私の発した信号に気づきもしない大ちゃんはそれに不満を漏らすように、いってぇと顔をしかめている。その余裕が、さらにミドリンの起爆剤になるということにどうして気づかないのだろうか。幼馴染ながら、いつまでたっても理解に苦しむ。
「おまえの五分はどこの時計による五分なのだ! とっくに二十分は過ぎている!」
「あ? オレの時計はまだ五分なんだよ」
 ずいと差し出された腕時計。待ち合わせの時間は十八時。大ちゃんの腕時計は十八時五分。たしかに、主張するところが間違っていないのは分かるけれど、もうすでに根本的に間違いすぎていて、我こそが世界のルールであるとでも言いだしそうな青藍の瞳から視線を逸らすことしかできなかった。たぶん、この感情に名前をつけるのなら呆れなのだと思う。絶対に、間違いなく。
「青峰っち、小学生じゃないんスから」
「おまえには、本当にがっかりさせられるのだよ。怒るだけ時間の無駄だ」
 力なく重なる二人の声音。諦めの境地へと達していたきーちゃんの脱力具合はなんとなく想像がつくけれども、そろそろテーブルをひっくり返してもおかしくない雰囲気だったミドリンも、大ちゃんの不遜さに言葉を失ってしまったようだった。ここまで堂々と自分は悪くないと主張されると、どうにもこうにも反論する気も失せてしまう。普段の大ちゃんを知っていれば特に。だが、自分がそんなふうに諦められているとは気づいてないであろう台風の目は、ミドリンの手からメニューを取り返して注文するものを吟味し始めた。
「うっせー。別に二十分ぐらいでぐだぐだいうな。はげるぞ。それより、今日はテツこねーの? あいつなんだかんだでいつもいるだろ」
「今回はテツ君忙しいから欠席だって。いまいろいろバタバタしてるみたい」
「ふーん。なんだ、ついに素直になって渡米の準備か?」
 もう注文を決めたのか、メニューを押し付けるようにミドリンに返した大ちゃんの言葉に、全員の呼吸が一瞬止まったような気がした。テツ君と渡米というキーワードを結びつけることができるのは、私たちが知る限りただ一人の人物だ。彼はもちろんいま日本にはいない。狭すぎるこの国を飛び出して、彼のホームでもあるアメリカでプロバスケプレイヤーとして活躍している。光である彼自身の影をおいて。それをどうこう言うわけではないし、私たちが、そして私が口出しできることではないとわかっていた。でも、彼の隣で生き生きとバスケットをしていたテツ君の姿を知っているからこそ、彼がアメリカに行ってしまってから何か大切なものを失ってしまったようなテツ君を見てしまったからこそ、大ちゃんの二人の領分に土足で踏み込むような台詞に言葉を失ってしまったのだろう。いや、そう感じたのは私に含むところがあったからかもしれない。いけしゃあしゃあと言ってのける大ちゃんを恨みたくなるくらいには、私の胸の柔らかい部分をぐさりと刺されたかのような衝撃が体の中を走っていった。実際の痛みなどない。ただ、言葉にしがたい鬱屈とした気持ちが、肺から胃の辺りにかけて渦巻いていく。脱力とも絶望とも違う。なんだろう、終わりないものを追いかける疲労にも似ていた。そのきたないものをせめて吐き出すことができるように、ゆっくり呼吸を繰り返す。まだ、混乱から回復しきらない私を差し置いて、困ったような笑みを浮かべていたきーちゃんが、動きを止めてしまったミドリンの代わりにメニューを受け取った。
「そういうのじゃなくて、単純に仕事が忙しいみたいっス。新しい企画が始まったみたいで」
「はあ? まだトロトロやってるのかあいつは。さっさと向こういっちまえばいいんだよ、めんどくせぇ」
 退屈を紛らわすように意味のない曲線を描いていく大ちゃんの割り箸。なんでもないように吐き出されている言葉の数々が、正鵠を射ていることは分かっていた。それでも、理解することと納得することは別問題で、そして当事者は第三者ほどに割り切ることができないこともまた事実だった。
「それは、あの二人の問題なのだよ。オレたちが口出しできることではない。だいたい、黒子はあいつがアメリカにもどることに関して文句を言ったことも、止めるような素振りをしたこともなかったのだよ。納得のうえでいまの状態に甘んじているのだろう。だからなおさら、部外者が勝手なことを言うわけにはいかない」
 ずれているわけでもないのに、ブリッジを押して眼鏡をかけなおしたミドリンは言葉を選ぶようにやけにゆっくりと話す。狭められている眉根が、彼の気持ちを代弁していた。
「やっぱアメリカと日本ははなれてるっスからね。会いに行こうと思っても気軽に会えるもんでもないし。むこうはむこうで急がしいんじゃないっスか?」
「二人のってか、テツの一人相撲だろ。あれでオレたちが気づいてないって思ってんのか? メガホンで叫びまわってるみたいに、あいつに対して未練たらたらだって筒抜けだぜ」
 ミドリンを援護するようなきーちゃんの言葉に、大ちゃんは心底呆れたとでも言いたげにため息をついて、手にしていた箸でかんとテーブルを打ちつけた。
「おまえら、テツの部屋見たことあるか?」
 タンタンとリズムを刻むように箸でテーブルを叩きながら話す大ちゃん。行儀が悪いと注意することはできない。全員が、彼の次の言葉を待つようにじっと視線を向けていた。大ちゃんはその視線なんてものともしないで、自分が操っている箸の軌跡を追っている。
「本とバスケ関連以外はほとんど物ないくせに、本棚の端に何冊か連番になったタイトルも書いてないスクラップブックが置いてあってよ。珍しいからなにかとおもったら、それに日本で手に入るあいつの、火神の、向こうでの活躍の記事を全部ファイリングしてるんだぜ。たまに読めもしねぇ英字の記事が貼ってあったりもするんだぞ。そんなまどろっこしいことするくらいならさっさと行きゃあいいのに」
 揶揄するように口角をあげて笑う大ちゃん。だが誰もそれに同意することはない。私はただただ次の言葉を待つことしかできなかった。吐き出したはずの澱は、悲鳴をあげることも許さぬとばかりに、私の気管を侵し、体の中を侵食していく。
「ばかだよ、テツは」
 カツンと、場違いなくらいに陽気なリズムを刻んでいた箸が止まる。外界を遮断するように青藍の瞳を閉じた大ちゃんは、風のない湖のように凪いだ声音でそう呟いた。
ああと、そう思う。本当にばかだ。私も、テツ君も。本当にばかだ。どうして駄目だって分かっているのにやめられないのだろう。もう我慢比べか意地の張り合いみたいなものだった。捨てられたらいいのに、捨ててしまったらそれを追いかけ続けていた自分さえも否定するようで、彼を、テツ君のことを好きで好きで仕方なかった自分を、そして彼に捧げた時間さえもを、すべて捨て去り踏みにじってしまうようで、いまも惰性で縋るがごとくこの恋を手放せないでいる。これがないと眠れないと、汚れきった人形を抱きしめる子供のように、私はその期限の切れた恋への切符を大切に握り締めているのだ。
 大ちゃんの言葉が、テツ君を通して全部私へと突き刺さる。
 私は知らない。テツ君が火神さんのことをどう思っているかなんて、火神さんがテツ君のことをどう思っているかなんて。でもそれでも、二人がさようならお元気でなんていう社交辞令で終われるような安っぽい繋がりではないということは、嫌というくらいに知らしめさせられている。そしてそれを知れば知るほどに、私はもう二進も三進もいかない袋小路の中に押し込められていくのだ。やめられればいいのに、どうしてやめられないんだろう。
「ばかじゃないよ」
 思ったよりも響いた声に、自分が吃驚してしまう。大ちゃんは、そうかと興味なさそうに呟いただけだった。でも、それでも、ばかじゃない。愚か者なんかじゃない。ただ、ちょっと臆病なだけなのだろう。私が、自分が抱えているつもり積もった重すぎるものを捨てられないのと一緒で、怖がりなだけなのだ。
「きーちゃん、メニューちょうだい!」
「え、っ、あっ、はいっス」
 黄金色の瞳を見開いたきーちゃんは、反射のようにメニューを差し出した。それを受け取ってアルコールのページをめくる。きらきらと透き通った色をしたカクテルや果実酒はおいしそうだったけれども、そんなあまやかなうつくしいものを飲む気にはなれなかつた。彼の幸福を願うけれども、それでも彼の幸福の隣には私という存在があって欲しかった。それらのように甘く、うつくしい夢を見ていたかった。だから、叶わぬとわかっていながらそんな綺麗なものを飲みたくなんてない。
「ビール!」
「苦くてのめねぇえだろ」
「大ちゃんは黙ってて! ビールでいいの! ほらみんなもはやく決めてよ。今日はとことん飲むんだから!」
「も、桃っち、大丈夫っスか?」
 その大丈夫という言葉がどういう意味で私に向けられているのかは分からなかった。でも、自分の惨めな恋心に向けられているのだとしたら、恥の上塗りをするように鼻の奥がツンとしてしまいそうだったから、私を覗き込んでくるきーちゃんを押しのける。
「そんなのいいから、きーちゃんもミドリンも注文決めて!」
「わ、わかったのだよ」
 困惑している二人を急かすように叱り付けていると、大ちゃんが急に私の頬を掴んで引っ張りあげた。女の子にするには乱暴すぎるそれは、遠慮なしで痛い。その痛みに反応するようにじんわりと涙が滲んだ。
「泣いてんのか?」
「ばか! 変態! セクハラ! 泣いてないもん、痛いんだもん!」
「青峰はデリカシーにかけるのだよ」
「緑間っち、青峰っちにデリカシーなんてものを期待しちゃだめっス。存在感のある黒子っちぐらいありえないっスよ」
「おまえら、喧嘩売ってるんだったら正直に言えよ? 買い取ってやるから」
 残念なものをみるようにメニューから顔を上げた二人。青筋を立てて拳を握り締めている大ちゃんには申し訳ないが、二人がいっていることに間違いはない。それに気づいていないことがもう手遅れな証拠だ。
「大ちゃん。全部本当のことだから、ちゃんと受け止めて」
 慰めるように大ちゃんの肩をぽんと叩くと、乱暴に振り払われてしまった。人を殺せそうな勢いでにらまれてしまうけれども、大ちゃんの目つきが悪いのはいつものことだから対して怖くもない。
 今度、テツ君と一緒になったときには、テツ君の話を聞いてあげようと思う。嫌がられるかもしれないけれども、もしも彼が話してくれるのならどれだけだって、彼の隣で耳を傾け続けよう。私は泣きたくなるかもしれないし、唇を噛んで言葉にならないものを堪えるかもしれない。だけれども、それでテツ君が少しでも楽になるのなら、私のことなんてどうだっていいのだ。報われない思いを一人抱え続けるのはつらい。それを慈しむ自分を美化するのにも限界がある。気づいてしまえば、本当に彼に恋しているのか、恋に恋する自分を慰むようにその想いを抱き続けているのか、もうよくわからなかった。でも、そうだとしても、テツ君が火神君を思うように、泣いたって笑ったって、私はテツ君を思うことをやめられないのだろう。それこそ、不治の病か何かのように。




12・06・26