火神大我はよく笑う。
 普段はムッツリとしていて、鋭い目つきとあの巨躯とあわせて虎などと揶揄されることもあるが、一度バスケットコートに入ってしまえば、口角をあげ目をキラキラと輝かせて、大好物に手を伸ばした子供のように、あるいは草食動物を目の前にした肉食動物のように、いいようもなく莞爾と笑うのだ。対戦相手から見れば不敵、チームメイトから見れば心強い。彼のコート内での笑みは万華鏡のように見る側面によってコロコロとその姿を変える。
 ただただバスケが好きでしょうがない。コート内を駆けるボールをめぐる戦いが楽しくてしょうがないと声高に主張するような笑顔が、黒子にとってとても魅力的なものだった。それは、彼が浮かべるその表情が、帝光中学バスケ部という砂漠と見まごうばかりに広い場所で、徐々に徐々に乾いていくように失っていってしまったものの一つだったからだろうか。だが何より、彼が心行くまで楽しんでいるバスケというものを同じく共有しているとき、ずっとこのゲームが続けばいいのにと疲れを超越してハイになっている頭で考えてしまうことがあった。個々で機械的に点数を取るだけのバスケットではない。五人全員の力が一つになってパスが繋がりゴールポストへとボールを導いていくときの極限まで高まった緊張感と興奮。ゲームをリードしているときの高揚。追詰められたときにこそ感じる逆境故の闘争。勝利も敗北も苦楽もともにして、ただ、自らの技だけを求められるわけじゃなく、黒子テツヤという人間を信頼するからこそ回ってくるパスに、コートの中に己の存在場所を見つけられたような気がしたのだ。だから黒子は、コートの中を、それこそ我が物顔で草原を駆ける獣のような火神の不敵な笑顔が好きだった。
 だがと思う。虎なんて揶揄されるのに、これは緊張感がなさ過ぎであると。
 窓際の席に陣取っている大きな影。黒い学生服で机に伏せているせいで、小山かなにかのようにみえる。運動するときに邪魔にならないように短く刈られた黒みがかった紅色の髪は、開いた窓から吹き込む風に揺れていた。程よく汗をかいた黒子にとっては、濡れた肌を撫ぜていく風が心地いい。夕方の生ぬるい温度を伴ったそれは、外で練習に励んでいる運動部の生徒達の掛け声も運んでくる。本来ならば黒子と火神も彼らに混じってリコの地獄のしごきを受けているはずなのだが、いつまでたっても顔をみせない火神を呼んでくるようにと厳命を受けて駆け足で自分の教室に戻ってきたのだった。
 バスケに青春を捧げていると表現しても過言ではない火神が部活をサボるわけもなく、実際は国語の漢字テストの追試があるから遅刻する大義名分があったのだが、それにしても遅すぎるから偵察に行ってきなさいというのがリコの言い分だった。目も覆うような散々な火神の学力レベルを知っている部員達は、いまごろ追試どころか追々試してるんだろとか、あいつのことだから漢字の神に深い眠りへと誘われているとか言いたい放題だったのだが、同じテストを受けた身としてさすがにそれはないだろうと思っていた黒子も、目の前の状況にしたり顔で予言をしていた先輩達に軍配を上げなければならない。
「火神君」
 誰もいない教室内に、控えめな黒子の声が響く。ひゅうと吹き込んだ風に打ち消されてしまうような弱々しいそれでは、火神の安眠を邪魔することさえままならない。ううと小さく漏れた言葉になっていない寝言にため息をついて、軽く肩をゆするが、邪魔だとばかりに火神の手がまったく見当違いの場所を打ち払った。放課後の教室内とはいえ、追試の最中ではないのだろうかと黒子は頭を抱えたくなる。しかし、火神の腕の間から見えた追試結果と思わしき漢字テストの散々な結果に、頭を抱えるどころか目の前にいる人間が同じ日本人なのかどうかということを疑わずに入られなかった。帰国子女とはいえども、昼休みに黒子の後ろの席で文句を言いながらも漢字の練習をしていたはずなのだ。その成果がまったくといっていいほど発揮されていない。ギリギリまるをもらっているものも、危ういバランスで書かれているせいで歪んで見える絵のように拙く、どうがんばっても世間一般で使用されている漢字と同じものには見えなかった。火神のテスト毎の結果を知っている黒子としても顔を覆ってしまいたくなる。
 そのテスト用紙の下にもう一枚同じものが重なっていて、一番上には最終救済策なのだろうか。作文用紙に丁寧に書き込まれたお手本と、漢字練習用の枠が引かれ途中までは埋められている。残り四分の一というところでこれ以上ないくらいに字が歪んでミミズがのたくったようになっていた。睡魔との奮闘が手に取るようにわかる変遷だ。
「ぎょうにんべんがにんべんになってるうえに、れっかの点が一つ足りません」
 黒子は、何故その事実に気づかないのか問い詰めたくなるのを我慢して、机の端から落ちそうになっていたシャーペンを拝借し、漢字のミスを直していく。にんべんに棒を一本足し終えて、次はれっかの点を補おうかとしたときに、ようやく火神が身じろぎをして僅かに目を開けた。
「火神君」
 早く起きてくださいと、呼びかける。漢字テストなんてどうでもいいですから、早く起きてください。そして、一緒に練習しましょうと。
「起きてください」

「う、うう」

 火神の口元から漏れるうめき声は、彼が完全に覚醒しきっていないことを証明している。黒子はシャーペンを置いて、ずるずると夢と現をさ迷っている火神を無理矢理引っ張り上げるように勢いよく肩をゆすった。本人は持てる力の全てを使っているつもりなのだが、火神は全体的に体が大きくくわえて、眠っているせいで体から力が抜けていて重石か何かのように火神の体自体が重いせいで、あまり効果があるようには見えない。薄氷の瞳を瞬かせた黒子は、できの悪い子供を見る教師のような表情で、穏やかな寝顔を浮かべながら往生際も悪く睡魔にしがみついている火神を覗き込んだ。

「火神君。部活はじまってますよ」

 バスケしないんですかと、黒子の落ち着いた声が教室内に響く。遅れて、火神の体が僅かに揺れて、机に突っ伏していた上半身が動き出した。温情の課題提出の途中とは思えないほど爆睡していたというのに、バスケという言葉だけで夢から覚めてしまうとは随分と詐欺な話だ。黒子は呆れなんだか疲れなんだか分からないため息を漏らした。

「火神君? バスケの時間ですよ。早く起きてください」

 最後の追撃を放つように、黒子の腕が火神の体を揺さぶる。うっとうしいと言いたげにそれを振り払い顔を上げた火神の表情は明らかに寝起きと分かるそれで、こんな間の抜けた顔で部活にいったら、カントクのしごきを集中的に受けることになるだろう。その情景をリアルに想像することができるせいか、黒子は自分の口角が緩むのを抑えられない。それでもやっぱり、しごかれながらも楽しくてしょうがないとでもいうかのようにその練習に打ち込むのだろうと思うと、バスケバカという言葉は火神にぴったりだなあと感慨深くなる。だが、そんな火神を見て、また黒子自身も誘発されるように熱くなり練習に熱が入るというのなら、自分も大概だと苦笑を漏らした。

 とりあえず、あと少しの漢字の練習を終わらせて早く火神と練習したいと、あの研ぎ澄まされた刃の切っ先のような笑みを見たいと、黒子はそう思わずに入られなかった。



ついったーのふたりへのお題ったーさまより。





12・06・19