黒子テツヤは欲しがらない。
 手のかからない子ねと、ずっとそういわれるような子供だった。無気力だというわけではない。誰しも幼いころならば、あれも欲しいこれも欲しいと、望むも のを望むばかり従順に、それこそ子供ゆえの無邪気さと打算の見え隠れする大きな瞳でいかにもな純朴さを覗かせてこうてみるのだろう。しかし彼は、そうして 望みを連ねることはしなかった。何が欲しいのかと問われれば、どこかぼんやりとした瞳を瞬かせ小首をかしげて、本が欲しいですと呟いてみせた。それは玩具 やゲーム、遊園地など、多彩な物欲を垣間見せる子供たちを思えば、素朴な願いだった。だからといって、無気力でないのと同じように、物質的な欲望にかけて いるわけではない。どちらかといえば、一つ、これだけ一つというものに深くのめりこんでいく、そんなタイプだった。だから、黒子テツヤは欲しがらない。両 手に余るようなものを。多すぎるものを。彼はどちらかといえば、その弱々しい外見には似合わず、願うよりもつかみ取ろうとする子供だった。
 体育館の天井に反響するように相田リコの怒声が響き渡った。練習の締めにあたるミニゲームの最中。メガホンもないのによく響く声音は、コートの中で縦横 無尽にかける部員達の鼓膜も揺らす。動きに切れがないとリコは激を飛ばすが、午前中から日が落ちるまでの十分すぎる練習に、コート内の選手達は最後の力を 振りしぼって、重い体に鞭を打っているような状態だった。だが、誰もそのことを主張することはない。いや、できないといったほうが正しいのだろうか。もち ろん、彼女が叫んだことのほうに是があるということもあるが、カントクと呼ばれる部の支配者に太刀打ちできる人間などこの場に存在しないのであった。
 彼女の叱責に汗が引くのとは違う冷たさを感じながら、黒子はゾーンの外、十分にゴールを狙える位置にいる日向にアイコンタクトを送り、瞬くような返事を 受け取るとともにパスを回す。吸い込まれるように日向の手のひらに落ちていったボールは、まるでそれ自体に意志があるかのように、放物線を描きながらゴー ルポストへと飲み込まれていった。響く歓声。しかし、浮かれたのも一瞬。相手の攻撃に備えるように掛け声が飛ぶ。コート外から投げ込まれたボールは、翼で もあるかのように、選手達の手から手へと飛び交っていく。既に疲れも限界に来ているせいか体は悲鳴をあげていたが、なんとか頭を働かせてバスケという動き がインプットされているかのように体を動かす。いつもと同じようにと念じながら、加速したボールの衝撃を殺し玉の如きそれを掠め取った黒子は、自らのパス を待つ位置に待機する自分とは違う色のゼッケンを着た背番号十番にとっさにアイコンタクトを送り、めいいっぱいの加速をつけてボールを放つ。その勢いに バッシュの底と床のすれる音が響いた。
「黒子! ナイスパス!」
 人の間を縫うように繋がるパス。疲れを感じさせない火神の声に、これで大丈夫だと安堵する。コートの中で聞こえる声援や罵声や怒声。様々な種類の声音が あれど、黒子にとって火神の声ほどによく届くものはなかった。どうしてかと問われても確証のある答えを返すことはできなかったけれども、バスケットコート の中にいるときに、黒子にとって火神は特別な存在だった。いまだってそうだ。にやりと口角をあげてドリブルしながらゴールへとかけていく大きな背中は、勝 利を確信させるほどに逞しいものだった。たった一つ、黒子が守るべきゴールへと駆けていくことを除けば。
「あ、間違えました」
 ぽろりと、黒子の口から漏れた言葉に、一瞬時が止まる。いや既に、黒子と火神以外は、二人の奇行に目を丸くしていたのだ。いかに黒子が自分の犯した重大 ミスに気づけども、時既に遅し。日向をはじめ黒子と同じチームに属していた面子が絶叫とともに、火神の背中を追うが、ボールを手にした彼を止められるもの など、このコートの中には存在していなかった。
 
「ナイスじゃないわよ、このバカども!」
 脳天を直撃するようなリコの怒声に、大小二つの影がびくりと揺れる。彼らを置いて自主練へと入ったほかの部員達も、反射的に体を硬くして声の主を伺うほ どの勢いのあるものだった。小さくなっている二人を映した彼らの瞳には同情が色濃く表れているが、いくらミニゲームの最中といえども敵と味方の区別がつか ないようではフォローに回ることもできない。というよりも、触らぬ神に祟りなしなので、生身のままわざと地雷平原に突っ込むような蛮行は犯したくないとい うのが、生贄二人以外が瞬時に交わしたアイコンタクトによる統一見解だった。
「どこの世界に、敵と味方を間違えてパスする人間がいるの! 目ぇ見えてるの? そのゼッケン何色? 色違いのペアルックじゃないんだからね!」
 申し開きを聞く気もないとばかりの猛攻に、黒子は小さくなってまさにその通りですとばかりにこくりこくりと頷いている。そのさまは、チームメイトの前で 全面降伏するようにお腹をみせる二号を思い出させるものだった。しかし、隣にいる火神はリコの勢いに押されるように縮こまっているにもかかわらず何、処か 不満げに紅色の瞳で体育館の床を睨みつけている。反抗期の子供が母親にするようなその小さな抵抗は、もちろん目ざといリコに気づかれないわけもなく、彼女 の体育館シューズが盛大に木目の床を踏みつけた。
「火神君? いいたいことがあるのならちゃあんと言葉にしなきゃ駄目よ?」
 にっこりと満面の笑みを浮かべたリコに、やっと視線を上げた火神が瞠目する。この場で日向や伊月に発言権があったとしたならば、火神の愚かさを詰りまた 自分を見直すようにと諭したことだろう。それくらいに、優しいはずなのに正反対の怒りまでもを感じさせるリコ笑みは迫力のあるものだった。隣にいた黒子 は、隣で死刑執行を待つばかりの相棒の無事をただただ祈ることしかできなかった。
「ほら、はやく? どうしたの? 話くらいは聞いてあげるから」
 三日月を浮かべている口元を裏切るように笑っていない鳶色の瞳に、危機的状況から退避するかのごとく火神が若干体をそらすが、正座のこの状態から逃れら れるわけがない。聞いてあげるからという甘言はもちろん聞くだけで、それ以上もそれ以下もない。救いを求めるようにさ迷った深紅色の瞳は、露草色の黒子の 瞳とぶつかる。しかし、同じように首吊り台への階段順番待ち状態の黒子は、試合の最中に培ったアイコンタクト技術でがんばってくださいという声援を送るこ としかできなかった。
「んー? いつもの元気はどうしたのかな?」
 ドンと大げさな音を立てて一歩近づいたリコに、意を決したように火神が口を開いた。
「い、や。あのっ、黒子がパスを間違えただけでなんでオレまで正座なんすか?」
 仁王立ちで天使のような笑みを浮かべるリコの前で、弱々しく震える語尾が消えていく。彼女の言葉どおり聞くだけは聞いたリコがうんうんと大きく頷いて、一瞬のうちに無表情になった。
「あんた、ナイスパスっていったわよね」
「あ、いや」
「いった! わよね!」
「は、はい」
 反論も許さぬ語調に虎と揶揄される火神はその獰猛さをどこへ忘れてきたのか。虎というよりは飼いならされた家猫のように丸くなる。ほとんど勢いで得た言 質に満足げに頷いた部の支配者は、黒子君も聞いてたでしょと、更なる追撃を放つ。もちろん、これ以上のミスを許されない黒子は、心の中で火神に謝罪しなが ら迷うことなく首を縦に振った。宜しいとわずかに笑みを浮かべたリコは、大きく息を吸い込んで火神の名を呼ぶ。芯の通ったそれに、火神は無意識に背筋を伸 ばしてリコを真っ直ぐに見つめた。
「あんただって間違ってたことに気づいてたんでしょうがバカガミ! 集中力が足りないのよ気をぬいてじゃないわよ! 黒子君も!」
「す、すみませんでした」
 いまにも土下座しそうなくらいの勢いのいい黒子の謝罪に、死刑執行人たるリコは黒子君はわかっているようねと値踏みするような目を向ける。
「で、火神君?」
「も、もちろん悪かった! です!」
 一人安全圏に逃げていくような黒子を追うように、心がこもっているのかは分からないが危機感だけは感じられる大声を張り上げた火神に、リコは鳶色の目を 細めた。そこに映る火神は、審判を待つ罪人のような面持ちだ。黒子がちらりとリコの背後から二人を見下ろしている時計を盗み見る。このお説教が始まってか らゆうに二十分が過ぎようとしていた。お説教の原因を正せば黒子のパスミスにあるのだが、黒子にとってみれば、自分はそこまで火神という光を支えることが 当たり前になってしまったのかと、お説教に耐えるのとはどこか別の場所で感慨深くもあった。
火神は瞬く間にその光を強く、激しく発光させ、コートの内外を問うことなく魅入るようなプレイを繰り出していく。その光の眩しさに黒子は自らの無力ささえ 感じることがあった。彼の隣に立つ自分は、帝光の黒子テツヤから進歩しているのだろうかと。いつか、彼の光の強さに、自分は打ち消されてしまうのではない だろうかと。そんなのはいやだった。負けたくない。日本一を目指して、このチームで勝ち抜いていきたい。喜びを分かち合いたい。奇跡の世代と呼ばれた帝光 のチームメイトたちに自分のバスケを認めさせたい。そして何よりも、自分を信用し信頼してくれる火神の隣で、プレイしていたかった。パスを繋いでいきた かった。だから、黒子は昨日よりも前に、明日よりも前に、進んでいかなければならなかった。背中を見るだけじゃなくて、その隣を歩き同じコートの中でボー ルを繋ぎ、笑い、泣き、同じ興奮を味わいたかったから。幼いころは、あまり欲しがらない子供だといわれたが、いまの黒子にしてみれば欲しくてほしくてしょ うがないものばかりで、あのころ望むことが少なかった反動なのだろうかと疑問に思うくらいだった。
巨躯を面白いくらいに丸めて正座に耐えている火神に視線をやると、気のせいか潤んで見える深紅色と露草色がぶつかる。ボールを追うときの射るような目とは違うけれど、自分を映したそれに黒子は僅かに口角をあげた、それを見咎めた火神は不満そうに眉根を潜める。
そろそろ足は限界を訴えそうだ。漏れそうになったため息を飲み込んだ黒子に釘を刺すように、リコが彼の名前を呼んだ。
「二人とも楽しそうね。何があるのかしら? 教えてくれる?」
 ひっと二人分の息を呑む音が重なる。十六歳の男二人が十七歳の少女を前にしてあげる類のものではなかったが、か弱いと本人が主張するには少々無理がある その気迫を体感すれば誰しもが納得することだろう。聖母のようなリコの笑顔に、二人は遠くで延長戦の笛の音がなるのを聞いた。




ついったーのふたりへのお題ったーさまより。



12・06・19