きゃあきゃあと、ずいぶん元気のよい女子社員の声が頭の中をぐわんぐわんと揺らす。
 いくつになっても女性はおしゃべりに夢中で、これでは高校のときの休み時間とあまり代わり映えがしない。本日のテーマは週末に行った合コンの結果報告会。戦況はかくも厳しいものだったらしく、誰一人運命の人を射止めることはできなかった、むしろあの合コンは外れだったと言いたい放題だ。社員食堂であるということを加味しても、遠慮なしのあけすけな会話に、さっきまで同じ部署で仕事をしていたときには早く帰りたいという願望を顔全面に押し出していたのが嘘のようだった。これは、ボクの影が薄いからというわけではない、つらい戦いの中に見出した小休止だから、こんなにも盛り上がってしまうのだろう。そう、考えておくことにする。しかし、彼女たちの話題は次の合コンの話に移っていて、女性の恋愛に対する逞しさは、ボクには到底理解することができないだろうと心の中で拍手をおくりたくなった。
 恋に恋するとはよく言うけれど、ボクが持つそれは彼女たちがかたるそれらよりも湿っぽく、もう既に何にしがみついているのかもよくわからないような慕情だった。いや、本当のところは、それが恋なのかも判別のつかないような酩酊状態だったのかもしれない。だけれども、そうだとしても、確かにそこにはなんらかの強い執着があったのだと思う。そうじゃなければ、出来損ないのボクの想いが報われない。そして、この報われないという思いこそが自分の一番正直な根幹なのかもしれないとすら考えてしまう自分がいた。まさに、おなかも一杯、胸一杯。本日の昼食である和風定食の鮭の塩焼きを半分食べたところで胃に限界を感じて、そっと箸を置く。
「おまえ、本当に小食だね」
「あなたの食べっぷりを見てたら満腹になりました」
 日替わり定食という名の油物定食に大盛りのご飯とサラダを、迷いないスピードで胃袋におさめていく同僚は、ほとんど半分くらいしか手をつけていないボクにもったいないなあと目を細めている。そんなことを言われても、これでもがんばったほうなのだ。その努力は認めてもらいたい。いつ見ても必要以上のカロリーを摂取しているのに、どうしてボクよりも頭一つ分くらいの身長でスレンダーな体格を維持できているのが不思議でしょうがない。だが、もったいないといわれてしまうとボクとしても妙な罪悪感が沸いてくるので、液体であるお味噌汁だけは完食しようとお椀に手を伸ばした。
「そんなんで、高校のときあの火神といっしょにバスケできたのか?」
 お味噌汁に口を付けようとしていた動きが止まる。赤縁の眼鏡からのぞく切れ長の鳶色の瞳に他意はない。ふざけたような口調のそれは、いとも簡単にボクの思考を停止させる。だけれども、火神君がボクの隣を離れてから、こういった思考回路のフリーズは何回も味わっているので、再起動までの手間はどんどんと省略されていくばかりだ。とりあえず、悲劇を起こすことのないようにお椀を元の場所に戻しておく。
「それ相応の努力はしていましたので。必要なのは食事量ではなくて、よきカントクとチームメイトと練習です」
「そんなにマジに返されると困る。もしかして怒った?」
 コロッケを切り分けようとしていた箸がとまって、不安げな表情が浮かぶ。こちらのご機嫌を伺うようなそれに、まさかと肩をすくめて僅かに口角をあげた。それはよかったと笑った彼に、ちゃんと意思疎通を図ることができたのかと安堵する。
「それにしても、NBAでなんてやってけるのかね」
 悪意は感じられない声音。純粋に疑問だと言いたげなそれは、独り言にも似ていた。そういった結論に行き着くのも仕方のないことだから、怒りはわいてこなかった。体格がものをいうバスケットボールでは日本人は世界で通用しないというのが通俗的な考え方で、それにはボクも頷かざるを得ない。
 日本人二人目のNBAプレイヤーともなれば、いくらアメリカ在住期間のほうが長いといえども否応なく注目される。いまお茶の間でも、徐々に彼の姿を見る機会は増していた。彼の人となりも知らないのに、早計にも勝手に天井を決めてかかって懐疑的な見方をするような人種もいるが、火神君ならNBAだってどこだって、やっていけるに決まっている。
「なんとかなると思いますよ。絶対に」
「元チームメイトのおまえがいうのならそうなんかなあ。バスケしたことないから適当なこともいえないし」
 そうですねと笑いながら、頭の中はまったく別のことで一杯だった。
 火神君は静かに笑うのがボクらしいといって、頼んでもいないのに頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。彼の手の置き場としてちょうどいい場所に、ボクの頭があったのだろう。高校在学中は、頭を掴まれたり撫でられたり、バリエーションにとんだスキンシップを交わすことが多々あった。あの頃は力任せのそれから身をよじって逃げたりもしたけれども、大人になって思えば感情が追いついてなかったボクなりの照れ隠しだったのだろうか。いや、それこそがまさに自分自身を美化しているだけか。
 べつに喧嘩別れをしたわけでもないし、不仲になったわけでもない。火神君は火神君の道を、ボクはボクの道を選んだだけだ。彼はアメリカにいってバスケットを、そしてボクは大学に進学し一般の商社に入社して、たまに誠凜のバスケットボール部のみんなや帝光中学のみんなとあって消息確認をしあったりしている。いまの生活に不満があるわけではないし、後悔はなかった。たしかにバスケットは大好きだったけれども、ボクはそれを日々の生活の糧にできるような人間ではなかった。それは、どうにも覆しようのない真実だった。だけれども、火神君は違った。彼は、日本なんかでは小さすぎるとばかりに次の舞台を求めて、高校卒業と同時に彼にとってのホームでもあるアメリカへと渡ったのだ。
 一緒に来るかと、問われたことがあった。いまでもボクの中で色褪せない深紅色の瞳は、冗談めかしたような口調を裏切るように真剣な光を宿していた。だからボクはどうすることもできなくて、英語なんで話せませんと、彼のその真摯さに気づかぬ振りをして返すことしかできなかった。あのときの選択が正しかったのか、それとも間違いだったのか。いまでも判断はつかない。でも、卒業して隣にいて当たり前だった彼が、ボクの光が、いなくなってしまったときに、いままで感じたこともないくらいに、それこそ何か大切なものを失ってしまったみたいに、空虚だった。
 ああすきだったのかと、手遅れになってしまってから気づいた。
 気づいてしまえば自分の中がそれで埋め尽くされるのは一瞬で、三年間ボクの気配と同じような薄さで片鱗さえもなりを潜めていたのだから、どうせなら一生気づかなくてよかったのにと鈍感で愚か者な自分を何度悔いたかわからない。この恋は、一方通行で、行き止まりで、袋小路。だって、火神君はボクの気持ちを知らない。ボクたちは、同じ土俵に立って向かいあえてさえいなかった。ただただ、ボクの中にだけ名付け難いものが募っていく。
 離れても連絡が来ないわけじゃない。たまに、メールと電話で近況を報告しあうことはあった。でも、どんどんとその間隔は長くなっていく。このままいつか途切れてしまうのだろうと思うと、どうしようもないくらい、胸が苦しくなる。
「自分でもたまに、彼と一緒にいたことが夢だったんじゃないかと思うことがあります」
「へっ? なんだって?」
「いえ、なんでもないです」
 笑って誤魔化して時計を確認すると、もうすぐ短い昼休みが終わりを告げる時間だった。
これがいまボクに与えられた現実で、火神君はどうにもこうにも手の届きそうのない海の向こうにいて、いっそ夢ならよかったのにと考えて、すぐに怖くなってくだらない思考を打ち消すくらいには、どうしようもない袋小路だ。
 既に、恋に恋して、愛に自意識をみいだして、やめ方さえも分からぬ甘い痛みは、自己愛にも似た自らの血肉のようにそばにあるだけだった。




12・05・29