練習を始めたころには遠くで篝火が燃えているようだった空が、いつの間にかその炎が絶えてしまったような藍に侵食されつつあった。光から闇への転換は、少しでもさじ加減を間違えてしまえば薄汚れた色になってしまいそうな二色を、グラデーションというクッションをはさみながら、うつくしく彩り、また刻々と夜の気配を深めていく。
頬を撫ぜるひんやりとした外気を裏切るように、練習をしていたせいもあってか暑ささえ感じていたが、近くのコンビニまで行くあいだに汗が乾いてしまい、じゃっかん肌寒い。こんなことなら、鞄と一緒にコートに置いてきたジャケットを羽織ってこればよかった。腕に抱えているペットボトルの冷たさに更に体温を持っていかれる気がする。少しでも体を温めるために駆けるように練習をしていたコートに戻っていくと、まだ照明のともっていないその場所にボクを待つ影があった。もちろん、変質者なんかではなくて、しぶしぶながらシュートの練習につきあってくれる先生だ。
暗いせいかいつもよりも大きく見えるその人は、手にしていたボールを構えると、迷いない所作でゴールへと投げる。きれいな放物線を描いたそれは、まるでそうあることが当たり前のように、リングへと吸い込まれていく。いままでどれだけ練習してもうまくいかなかったことが、人が変わるだけで呼吸をするような当然さでなされてしまうのかと思うと、神がかり的な的中率で外していく自分がもどかしくさえあった。火神くんだって、先輩達だって試合をこなすごとに、強く自分の特性を生かせるようになっていく。いつまでも自分だけが、同じ場所で足踏みしているわけにはいかない。ならせめて、いまできる精一杯のことをしたかった。
ゴールを通過してリバウンドしたボールがころころと転がっていく。それを追うように、影がボクを振り向いた。
「か、がみくん」
戻りましたと、続けるつもりだった。なのに、頭に浮かべていた名前と声に出していた音は一音くらいしかあっていなくて、言ってしまった自分に目を丸くしてしまう。
しまったと、思った。だが、口にしてしまった言葉が消えるわけもなく、薄闇に包まれているコートの中に、返事をする人のない名前だけがころりと転がる。それこそ、必要以上に自己主張をするみたいに。ぼんやりと彼のことを考えていたせいだ。なんの違和もなく、いまこの場にはいない彼の名前を呼んでしまった。
呼びかけた相手が、とっさに言葉を返そうとしていた口を閉じて、分かりやすく眉をひそめる。つりあがった鋭い青藍の瞳に浮かぶのは、どう転んでも違えようのない不機嫌の影。もともと優しいとはいいがたい容貌が、更に凶悪なものになっていく。小学生あたりならあの迫力で話しかけただけで泣き出してしまいそうだと思うのだが、いまそれを正直に口にすると眉間の皺が更に深くなりそうなので、黙っておくことにする。正直が美徳とは限らないのは現実も文学の世界も同じなのだ。
「あのバカと間違えるなよ」
作ったような低い声音に細められた青藍。そのどちらもが不満ですと声高に自己主張していた。ここで嘘でもいいから、彼はバカじゃありませんと否定できないのがつらい。人にはついていい嘘と悪い嘘、そしてどうあがいても信じてもらえないような類の嘘だってあるのだ。ボクだって最初から信じてもらえないことを言うのは心苦しい。しかし、彼だって火神君をどうのこうのといえるレベルにたっているとは思えない。
「似たようなレベルだと思いますよ」
「あぁ? おちょくってんのか?」
「まさか。シュートの練習に付き合ってくれる青峰君をバカにするだなんてそんな」
信じてくださいと誠意を示すように、買ってきたばかりのスポーツ飲料を差し出すと、ボクの感謝の気持ちはうまく伝わらなかったのか、舌打ちとともに乱暴に奪われる。
ここに桃井さんがいたらたしなめられていたことだろう。だがそれでも、お礼の言葉を忘れないところが、青峰君の律儀なところだ。
「絶対バカにしてんだろ。だいたいオレはおちょくってるのかって聞いたのに、なんでバカにしたにすりかえてんだ。確実にそうだろ疑いようもねえよ!」
薄暗く手元がおぼつかないなかで、浅黒い手のひらが地面に転がったままだったバスケットボールを拾いあげた。どう見ても必要以上の力で握り締められているそれは、青峰君の頭の中ではボクの頭の代わりにでもなっているのだろうか。いらつきをそのまま力に変換してぶつけてこないのはいいけれども、それはそれで怖い。ボールを思って勝手におびえることができるくらいには、ボクを映す瞳に剣呑な光が宿っている。
「自分の光をバカにするわけないじゃないですか。影を務めるボクだって遠まわしに貶されるみたいでいやです。それに、ああみえて火神くんは帰国子女です。英語を話すのだけはすごいんですよ」
「あいつが? アメリカ帰りなのはさつきから聞いてたけど、確実に日本語も不自由っていうより、なんかすべての勉強と名のつくものが駄目そうだろ」
まさかと青峰君が瞠目するのがわかった。ボクのフォローも少しはインパクトがあったようなので、ペーパーテストはまったく駄目でしたけどということは心の奥に封印しておくことにする。ついでに言うのなら、英語で分からないことがあったときに質問してみたら、なんとなくとか、感覚でとかまったく当てにならない答えしか返ってこなかったうえに、和訳をお願いしたらうまい日本語が見つからないとプラスになるどころか時間の無駄というマイナス状態だった。それも、この場ではなかったことにしておく。そうじゃなければ、あいつが英語話せるとか嘘だろと納得いかなさそうな顔をしている青峰君を押し切ることができない。火神君の好感度アップのためには致し方ない。
「絶対オレのほうが知的な顔してるだろ」
「あの、それ本気でいってるんですか?」
「あ?」
「野生的の間違いじゃ?」
「はぁ。あのなあ」
がくりと肩を落として地面を蹴りつけた青峰君は、疲れたようにため息をついて手にしていたペットボトルを端へと寄せた。自分用に買ってきていたペットボトルを開けて乾いた喉を潤すと、さっきまでの不機嫌を何処かに置き忘れてきたような青峰君が恨めしげな視線を向けてくる。
「おまえ、中学のころから大概なやつだとは思ってたが、誠凛行ってさらに磨きがかかったな」
「それって、貶してるんですか? 褒めてるんですか?」
「もう、どっちでも好きなように取れよ」
がしゃんと、青峰君がコートと歩道を区切っていたフェンスにもたれかかる音が響いた。
あまり自覚はないけれども、良くも悪くも変わったといわれているようなそれは、ボクなんかよりも青峰君にこそ言えることのように思う。たぶん、帝光中学時代、彼の強さという光が輝きを増すのに比例して深く濃くなっていったボクではない彼自身の中の影。彼を飲み込もうとでもするようにその濃度を増していたそれは、誠凛との試合をきっかけにして少しずつ薄れていっているみたいだった。こうやってくだらないことを話したりできるのは、その証拠なんじゃないだろうか。
「そんなに似てるか? 呼び間違えちまうくらい」
ボールを抱えたまま藍色の空を見上げるその横顔。少し視線を上げなければ見ることのできないそれ。いつの間にか、身長差はひろがってしまった。
中学のときは誰よりも長く一緒に練習していた、隣にいるのが当たり前だった。彼の言葉を借りるなら、バスケ以外はまったくだけど、バスケのことではこれ以上ないくらいに気があった。それが嬉しくもあったし、くすぐったくもあった。言葉にしたことなんてなかったけれども、パス以外では彼ら五人の足元にも及ばなかったボクが、彼の隣にいられるのが、誇らしくさえあった。好きで好きでしょうがなかったものを諦めようとしたときに、諦めるなと諭してくれたのも、そしてボクに影になるという新しい可能性のきっかけをくれたのも彼だった。
でも、今は違う。
あの時は当たり前だったのに、いまのボクにとっての当たり前は、違う。
「似てますよ」
そんなつもりはなかったのに、思ったよりも通る声が二人しかいないバスケットコートに響いた。見下ろしてくるのは、深紅ではなく青藍。真っ直ぐに視線を返すと、そこに僅かな戸惑いが見え隠れしているような気がした。
「青峰君は火神君と似てます」
バスケットが好きで仕方ないところも、乱暴なくせに優しいところも、ただコートに立つだけで人を魅了するところも、そのプレイにまるで自分がボールを持っているみたいに手に汗を握るところも、彼らにパスを繋げることを嬉しく思うことも、一緒にプレイできることが楽しくて仕方ないことも、ボクにバスケットボールを嫌いにならせないでくれたことも、あげだせばきりがないくらいに似ている。
でも違う。
彼が似ているんじゃない、彼に似ているんだ。
いつのまにか、その主体は変わってしまった。ボクがキセキの世代の黒子テツヤじゃなくなったように。誠凛高校バスケットボール部の黒子テツヤになったように。でもそれは、流されるようにではなくて、自分で選び掴み取った変化だ。
「なあ」
ボクの言葉に対して、さっきまでの不服そうな色はない。しかし、それ以外の何かを叫ぶようにさ迷う視線。手持ち無沙汰を誤魔化すように彼の手がボールを地面へと打ちつけ、ドリブルの音がやけに大きく響く。返す返事はかすれてしまったが、青峰君がそれを求めているわけではないことは分かっていた。唾液を嚥下して乾いた喉を誤魔化すと、テツと名前を呼ばれた。
「はい」
「自分のものがさ、」
言葉を選ぶように、つぐまれた口。本当にいっていいのだろうかと踏ん切りがつかないように、青藍の瞳は揺れていた。いつもは自信満々なくせに、なにを躊躇っているのか。青峰君らしくないその様子に、ボクまで飲まれそうになってしまう。コートのすぐ隣には車道が走っていて、車の往来だって絶えない。それなのに、この場所だけが隔絶されたみたいに、全てが遠かった。
「青峰君?」
瞬く瞳、一際響くドリブルの音、遠くで鳴るクラクション。そのすべてに背中を押されたように、青峰君が唇を舐めて僕を呼んだ。
「なあ、自分のものだと思ってたもんがさ、他人に取られちまうと案外ショックだな」
何が、とは聞かなかった。なんとなく、彼が自分のものだと思っていたものが何かわかったから。自意識過剰だと笑われてしまうかもしれないが、無駄に彼の影だったわけじゃない。拳をあわせてきたわけじゃない。でもだからといって、ボクにはもう選ぶことなんてできないんだ。彼らしくない逡巡と戸惑いを見せ付けられたって、もしも彼がもっと分かりやすく言葉にしたとしても、ボクに手を伸ばしたとしても、無数の可能性をはらんだもしもを与えられても現状を覆したいとは思わなかった。
ボクの当たり前は火神君で、火神君の隣がボクの場所なんだ。いまこうやって青峰君と向き合っていられるのも、火神君と出会って、誠凛高校のバスケットボール部でプレイすることができたから。もう一度楽しいという、このメンバーで勝ちたいという気持ちを思い出させてくれたのは間違いなく、あの場所だった。ボクは彼と彼らとバスケットをすることを選び、またそこに如何ともしがたいくらいの愛着と喜びをみいだしたのだから。
それでも、聞くくらいは許されるはずだ。のぞいたのは、ほんの少しの悪戯心。あのとき確かに自分がかけがえのないものだと感じていたように、彼も小指の先くらいでもいいからそれに似通ったものを感じてくれていたらいいのにと思わずにはいられない自分勝手だ。
「大切だったからですか?」
「さあ、もうよくわかんねえよ。いるのが当たり前だと思ってたからさ」
そんなもんだろうと、嘯くみたいに吐き出された声音。いったいどんな顔をしているのかと確かめようとしたときに、先手を打つように頭を掴まれてぐしゃぐしゃと髪をかき回される。
「うわっ、何するんですか」
やめてくださいと身を引くと、逃げるなんてテツのくせに生意気だと理不尽なことを言ってボクの首に腕を回して、さらに頭を撫でられた。無駄に力の入ったそれは、彼なりの照れ隠しのようでもあった。しかし、照れ隠しだろうとなんだろうと、撫でるなんて表現するとソフトな感じがするが、青峰君の大きな手のひらが遠慮なしにしてくれると、案外痛いのだ。
「髪が抜けます」
「バカ、抜けるか」
「青峰君と違って繊細なので、もう少し丁寧に扱ってください」
「テツおまえ、やっぱり言うようになったな」
「高校デビューして鍛えられましたので」
浅黒い手のひらを無理矢理引き離して背後の青藍色を見上げると、不貞腐れた顔をしているのかと思ったのに、楽しくてしょうがないとでも言いたげに口角をあげていた。
「はい、休憩終了。まだ、練習するんだろ」
「そうですけど」
「じゃあ、やるぞ。あと一時間くらいなら付き合える」
あの話題はここまでと宣言するように転がっていたボールを拾い上げた青峰君は、シュート打ってみろといってボクに向かってそれを投げた。一つのボールを取り合うんじゃなくて、一緒に共有し練習する。それが昔に返ったみたいで懐かしい。自分の腕の中に納まったそれを一撫でしてゴールと向かいあう。
「あいつに言っとけよ、自分のものは、」
ボクがボールを投げるタイミングを見計らったように、青峰君の声が鼓膜を揺らした。
「いや、光なら影を大切にしろってな」
アドバイスをくれるみたいに、真剣なよく通る声。水面に波紋を描くように、ボクの頭の中を占拠していく。突然のことに、どういうことだとそちらに気を取られてしまい、フォームがずれる。だが、既に手元から離れてしまったボールの軌道を修正することなど不可能で、多分駄目だろうなと文句の一つでも言ってやろうとくるりと青峰君を振り返った。
反転、ゴールが揺れる音、瞠目。まさかと思ってゴールに向き直ると、リングの振動に合わせて網が揺れていた。いい返事だなと、声を震わせて笑う青峰君に言い返す言葉が見つからなくて、言葉になりきらなかった呼気を吐き出すことしかできない。霧散した音になれなかった二酸化炭素の代わりに、リングを通過したボールがボクのつま先にぶつかった。
「火神君」
練習が終わって後片付けの最中、体育館のモップがけをしている大きな背中に声をかけた。いくらウィンターカップに出場するといって、学校全体から壮行会で見送られても、ギリギリの人数でまわしているボクたちは、自分で自分のことをするしかない。そして、どこの運動部も同じように遵守される年功序列に従って、後片付けは一年生の重要な仕事だった。今日も一日みっちりとしごかれた体を引きずって、同じように酷使された体育館を掃除していく。もちろんボクたちだけじゃない。くるりと振り返った火神君の肩越しに、ボールや練習で使ったものを体育倉庫に運んでいく降旗君たちの背中が見えた。
「なんだよ」
「いえ、たいしたことじゃないんですけど」
ボクにあわせるようにゆっくりになった歩幅。少し早足で彼の隣に並ぶと、どうしても見上げるようになってしまう。見下ろしてくる深紅の瞳は次の言葉を待つように真っ直ぐにボクを見つめている。
「影は大事にしたほうがいいそうですよ」
「はあ? 急になに言ってんだ」
理解でいないとばかりに眉をひそめた火神君は、話を聞くためにおとしたモップがけのスピードを元の速さに戻してずんずんといってしまう。急いでその背中を追いかけて、誤解がないように言葉を繋いだ。
「いえ、青峰君の伝言を伝えただけです」
「青峰が? あいつ、ついに頭がおかしくなったのか」
足を止めた火神君に、危うくボクがつんのめりそうになってしまう。怪訝そうな表情と歯に衣着せぬというか少々正直すぎる物言いに、やっぱり反応も似てるなと新たな共通点を見つけたが、どうでもいいことなので、これ以上面倒なことにならないように腹の奥に飲み込むことにする。
「だいたいなあ、その影ってなんとなく誰のことをさしてるかわかるけど、大事にするもしないもおまえがいなきゃはじまらねぇだろ。てか、光と影はいつも一緒みたいなこと言ってたのおまえじゃなかったか?」
「せっかく誰という言葉を使って前半で言葉を濁してたのに、後半でボクのこと名指ししちゃったらまったく意味ないです。あと、ボクだけじゃなくて火神君も言ってました。言い逃げは許しません」
「別に逃げてねえし、あと細かいことはいいんだよ!」
ボクを睨みつける火神君は同い年とは思えない気迫に溢れている。でも、彼が本気でおこっているわけではないと分かるのは、それなりの付き合いの長さのおかげだろうか。その気安さで細かくないですと反論してみたら、軽く頭をはたかれて、モップを取り落としてしまう。痛いですと小さく文句を言って、それを拾い上げるために手を伸ばした。
はあと、わざとらしく落ちた火神君のため息。なにをくだらないことをと言いたげに竦められた肩。呆れられたのだろうかと、ボクを置いていってしまう背中に視線をやると、黒子と名前を呼ばれた。返事をするよりも先に、火神君が口を開く。
「当たり前すぎること言うなって、あいつにいっとけ」
くるりとボクを振り返った彼の表情は、できない子を前にして九九の一の段をそらんじる小学生のような呆れさえ感じさせた。でも、それは間違ってもボクをバカにしたものじゃない。
まるで、ボールがゴールに吸い込まれていくように、火神君の言葉がすっぽりとボクの胸の中に納まる。火神君はよく恥ずかしいことを言うなとボクに言うけれども、ボクから言わせてもらえば火神君だって十分すぎるくらいに恥ずかしい。でも、一番どうしようもないのは、そんな彼の言葉を喜んでモップの柄を握り締めているこのボクに違いないのだ。
作成:12・05・26
更新:12・05・28