手垢で汚れている窓ガラスの向こうの夜空はどんよりとしていて、冷ややかな女王のように夜に君臨しているはずの月は雲間に隠されてしまっている。夜を照らす月光もおぼろげだ。どことなく薄暗い夜道に人影はない。車の流れも途切れ途切れで、土曜日の夜だというのに、花がしおれてしまったかのように活気にかけていた。夜に相応しい夜。
どことなく秘め事のような後ろめたさを感じさせる藍色に臓腑の奥が浮き足立つのは、恥ずかしがって顔をみせない月が満月だからなのだろうか。体の端々が、成長を前にした疼きのようにジンジンと落ち着かない。それを誤魔化すように、手にしていた文庫本を持ち直し、店内を見回した。
二十四時間営業のファーストフード店の店内も人がまばらで、ボクがよく知っているこの街の夜にしては静か過ぎるものだった。窓際の二人掛けのボックス席。週末のこの時間帯であれば、店の奥にありレジからも見通しにくい場所にあるこのあたりは、カップルや学生達が我が物顔で陣取って、他人など目に入らないような騒ぎを繰り広げたり、レポートや書き物にいそしんでいたりする。だがいま現在、ボクの座っている席の背後にあるボックスが埋まっているだけで、他の席には人が座っているような気配もない。店内全体を見回すと、ポツポツとではあるが、客は入っているようだった。
すでに、読んでいるのかいないのかわからない文章を、ただ浪費するように目で追っていく。つまらないわけではないのだが、気分が乗らないせいで文字を追うだけで内容理解までは及ばず、たった数行を理解するために二回三回と読み返すことに疲れて、ページを閉じた。
長時間つけているせいで違和感を覚える耳栓代わりのイヤフォンを外すと、人の少ない店内を自分の部屋かなにかと勘違いしているらしい、背後の少女達の会話がもれ聞こえてきた。
ボクよりも早くにその席に座っていた二人組は、年のころ十七、八。近所の高校の制服を着ているようだったが、ボクが記憶してるその学校の制服とは胸を彩っているリボンの色が違ったので、もしかしたらコスプレか何かなのかもしれない。茶色と主張するには明るすぎる色に染められた髪と草食動物を捕食する肉食動物のように長く伸ばされた爪。よそ行きの仮面を被るように厚く塗りたくられた化粧。自らの魅力を熟知したそれは、子供と大人の中間地点にいる彼女たちに下駄をはかせるように成熟した女性の色香に近いものを匂わせていた。制服という補正を外してしまえば、ボクの目ばかりの年齢診断はあまり当てになりそうにもなかった。
その外見を遺憾なく利用して、草食動物ならぬ世の男性達を惑わせているらしい彼女たちの恋愛談義にはまったく興味がない上に、女性というものに夢を抱いている男性諸君を絶望させてしまいそうなあまりにもあけすけな会話に、自然と漏れそうになったため息を飲み込んで、もう一度外界を遮断するように肩にかけたままにしていたイヤフォンに手を伸ばした。だが、音を遮断する直前に、隙間を縫うように彼女たちの声音が鼓膜を揺らす。拾い上げた台詞は、店内の明るく陽気なBGMとは不釣り合いに薄暗い。
「たぶん、今日は誰か死ぬよ」
紅を引いた口から漏れるには随分と物騒すぎる言葉。硬質な響きを持ってタイル張りの床に響いたそれ。手にしていたイヤフォンを投げ出して、なんでもない風を装いながら、もうシェイクの名残を残していない甘すぎるバニラの液体の入ったカップに手を伸ばして、窓に映る二人組の少女の姿を盗み見た。
ボクと背中合わせに座っていた眼鏡の少女がいまの物騒な発言をしたのだろう。向かいに座ってた金髪の少女が、まんまるな瞳を細めて眉根を寄せる。恋愛から急に血生臭くなったそれに、ついていけていないのか。理解しがたい難解なテーマにでも挑むように整った顔をしかめて、どういうことと首を傾げた。オーディエンスとしては満点を出したいような喋りたがりの欲求を満たすその反応に、茶髪の少女がさらに作ったような過剰演出の声色で演じるように語り出す。
「あんただって知ってるでしょ、最近このあたりで起きてる殺人事件のこと」
ずるりと甘すぎる液体をすする音と、心底おびえたような少女の声が重なる。しかし、そこに好奇が見え隠れしているのも事実。そしてそれは彼女だけのことではなかった。
「あの、血を抜かれて殺されるってやつ?」
「そうそうそれ!」
解に至る中途段階に理想的な答えを導き出した生徒をほめる教師のごとく手を打ち鳴らした眼鏡の少女は、にやりと加虐的な笑みを浮かべて、次の言葉を待つように息を凝らしている金髪の少女の前へとピースするように三本の指を出した。血生臭い事件を語るのにお誂え向きとでもいえばいいのか、彼女の爪はヴィヴィッドな赤に染められていて、店内の照明を受けてエナメル質の輝きを放っていた。
「いままでの三件の事件中初犯以外の二件は、どちらも満月の夜に犯行が行われてるんだって」
にやりとあげられた口角は、彼女がこの話題を楽しんでいるということを言外にしている。掲げられていた三本の指は、人差し指だけになり、その人差し指が窓の向こうの夜空を指さした。その指先につられるように、金髪の少女が黒い瞳に、どす黒い夜空を映す。ゆっくりと一呼吸おいてから滑りのよい口元が、曇っているけれど今日は満月でしょうと、言葉を紡いだ。
「二度あることは三度ある。三度目があったなら四度目がないとも限らないでしょ?」
秘め事みたいに語られるそれ。朗々と歌い上げるような語り口調は、彼女の推定年齢よりも大人びた雰囲気を持っていて、隣の席で聞き耳を立てているボクにも聞き取りやすい。対して聞き手の金髪の少女は、その派手派手しい外見とは裏腹に、夜を怖がる幼子のように肩をふるわせて自らを抱きしめた。
「いやだ、怖いこといわないでよ」
眼鏡の少女は、非難するようにねめつけてくる友人に、わずかばかり興ざめだとでも言いたげに、目の前にあった携帯電話を引き寄せた。オーバーに怖がりすぎよと皮肉げな笑みを浮かべ、肩をすくめる。しかし、金髪の少女が過剰に怖がってみせるのにもなんとなく納得することができた。
眼鏡の少女が言った三件の事件は、最近このあたりと、そしてお茶の間の話題を欲しいままにしている猟奇殺人事件だ。別にバラバラにされたり殺し方が特殊だったり、何かに見立てられているわけではない。だが、確かに異常なものだった。そして、彼女がおそれて見せる理由はそこに関連しているのかもしれない。
狙われれているのは年若い女性ばかり。全身の血を抜かれ死んでいるのだという。現場近くに血だまりができているわけでも、離れた場所に血液が捨てられているわけでもなかった。殺害現場は、路上であったり屋内であったりいろいろで、最初の事件は街中。夜闇に乗じての犯行だったと推測されていてる。目撃者はなし。凶器も発見されていない。お誂え向きに首筋に残された鋭いもので刺された、いや牙で噛みつかれたと表した方がわかりやすいような傷。そして、抜き取られた血液と組み合わせれば、世の中の人々の好奇心を刺激するには十分なものだった。その後二件、三件と事件は続いていき、いまでは立派な連続殺人事件と相成っている。
自らが当事者となれば恐ろしいばかりのそれではあるが、茅の外となれば、現実の殺人事件も虚構のなかのグロテスクな化け物も、喜々として語って見せた眼鏡の少女がそうであったように、鏡合わせに相似通った娯楽へと様変わりするらしい。時代遅れのホラー小説か何かのような殺され方に、この事件の犯人を現代に蘇った吸血鬼と揶揄するものさえいる。蘇るということは、いまのいままで死んでいたとでも思っているのだろうか。ずいぶんと自己中心的な物言いだ。
本当に人間とはのんきなものだとため息さえつきたい気分になるが、眼鏡の少女の言葉はあながち眉唾とも言い切れない。一度目の事件をのぞいても、その後二度が満月の夜の凶行であったとすれば、月の光さえかき消されるような暗闇の今夜ほど、事件にうってつけの夜はないだろう。それを分かっているからこそ、事件以来夜の人通りが減ったとはいえ、拍車をかけたように今宵は人通りが少ないのだろう。
「もしかしたら、いまごろ誰かが、ね?」
「ちょっと、やめなよ。冗談にしては、笑えないよ」
潜められた声に、不愉快そうにたしなめる口調が続く。注意された眼鏡の少女も、少々性質の悪い冗談を言った自覚はあるらしい。気分を害することはなく誤魔化すようにテーブルに肘を突いて、すでに氷が溶けて薄まっていそうなジュースのストローを噛んで気のなさそうな返事をした。そんな二人の間を縫うように、こつりとタイルを蹴る小気味よい足音が響く。不穏な話をしていたところに、タイミング良く人の気配が混じったため、背後の席の少女たちの息をのむような雰囲気が伝わってきた。
その足音は、迷うことなく店内奥、もっと詳しく表現するならばボクたちが陣取っている席に向かってきているようだった。おびえるように黙り込んでしまった二人はしかし、足音の主がテーブルに近づいてきたところで、むしろ少女らしく好感が持てるような黄色い声を上げる。その言葉尻に黄瀬涼太という名前が混じりボクがため息を飲み込みきれなかったのと、足音がボクの座っているテーブルの隣で止まったのは、ほぼ同時だった。
「ここ、空いてるっスか?」
低く響く耳障りのいい声音に、背後の少女たちのざわめきがとまる。音源をさぐるように、ボクの席の真横に立った革靴から鼠色のスラックス、同色のブレザーと視線でたどっていって、マジバのトレイへとぶつかる。トレイの隙間から垣間見た髪色は金と言うよりも黄土色に近い金茶色。それと同じ色をした切れ長の瞳は、自らの提案が断られるとは微塵も思ってない涼やかな余裕を浮かべながらボクを見下ろしていた。
「いえ、残念ながら相席はお断りしていますので。どうぞ、たくさん空いている席をご自由にお使いください」
店員の代わりに店内を案内するかのごとく、自分の右手側に広がっている空席の数々へと手のひらを向ける。すると、イエスかノーの二択を迫ってきた張本人が、いたくショックを受けたかのように、肩を落として瞠目した。しかし、その様も整っていて一幅の絵画のように見えるとでも言うのか、張り付くように刺々しいニ対の不躾な視線を感じる。背後の席に座っている少女たちの関心が、血みどろの殺人事件から、こちらへと完全に移ろってしまったようだ。
「酷いっス! 明らかに席が空いてるのに拒絶しないで欲しいっス!」
「誤解しないでいただきたいのですが、邪魔だと言っているわけではないんです。ただ、キミがいると落ち着かないんです」
「言い方を変えただけで、確実に邪魔だってことっスよね? オレの勘違いじゃなければ」
選択権をボクに託したはずなのに、その答えを尊重することなく、テーブルにトレイを置いた黄瀬君は、勝手にボクの前の席に陣取ると、悲劇のヒロインよろしく両肘をテーブルについて手のひらで顔を覆って嘆きの声を上げた。あまりの演技過剰に、肩が若干ふるえているのは、笑いをこらえているからなのかと勘ぐりたくもなってくる。彼が盛り上がるほどに、反比例で冷静になっていくボクは、もう冷えてしまってパサパサとしたフライドポテトだったものへと退化したそれを口の中に入れて咀嚼する。これでは、男子高校生をいじめて泣かしている悪人のようではないか。確実に、女子高生二人組のなかではボクは悪者になっていることだろう。
「そんなまさか、滅相もありません。お近づきの印にこのポテトでもいかがですか?」
推定泣いている黄瀬君を慰めるように、ボクの貴重な夕飯をずいっと差し出すと、薄汚れたものをみるような視線を向けられてしまう。
「残飯処理係は勘弁して欲しいかなって」
「ちゃんと金銭を支払って得た食料を残飯などと表現するなんて、飽食になれた現代の悪習に染まってしまっていますよ。キミともあろう人が、嘆かわしいです」
確かに、一番おいしい頃合いをすぎてしまっているが食べれないわけではない。食べ盛りの男性の慰めになるようにと、食べ物を捧げたボクの真心を理解されないのは御しがたいほどに心苦しかった。その悲しみを表現するように瞼を閉じて軽く頭を降ると、冷め切った視線を向けられてしまった。
「黒子っち、ノリノリっスね」
「読書にも少々飽きてきたところです。黄瀬君こそ急にどうしたんです? こんな時間に外出なんて」
ボクの差し出したポテトに文句を連ねたくせに、何食わぬ顔をしてそれを食していた黄瀬君は、油で汚れた手をナプキンで拭って携帯電話を取り出した。ボクの目の前にかざされた液晶画面には、さっきまで黒子とマジバで飯食ってたという素っ気ない文章。差出人の欄には、見慣れた火神大我という名前があった。
「何してるっスかってメールしたら、火神っちからこのような返信があったので、もしかしたらって思って覗きにきた感じっス」
「随分とメル友ライフを満喫しているようで」
ときどき火神君が、黄瀬のメールが女子高生みたいで面倒だという愚痴につきあわせられることがあるので、これが噂の女子高生みたいなメールということなのだろう。大方、いまなにをしているんですかとか、唐突にいま何をしているかを連絡するような、だからどうしたとでもいいたくなる内容のメールを送ったんだろうなと思うと、送られた方でもないのにげんなりしてしまう。しかし、それを何と勘違いしたのか、知った風な表情を見せた黄瀬君は、ボクを安心させるよう優しげな笑みを浮かべた。
「そんなに心配しなくても、火神っちのこととったりしないっスよ」
いいっスね青春。若さをどこかにおいてきたような黒子っちにもやっと春が訪れたようで、我がことのように祝福してるっスよと、同じ言語を操っているとは思えないくらい素晴らしく高次元的な理論を操っている。
「あの、ボクが知らない間にそんなことになってたんですか?」
「そうっスよ。主にオレの中では」
重々しく吐き出された言葉。残念ながら、それはボクの中では取りざたされていない新事実で申し訳なくなってくる。だが、妄想がとどまることのない黄瀬君は、戸惑っているボクを置いて、二世を契るどころか七世くらい誓い合って感動的な最後を迎えるボクと火神君の話を語って聞かせてくれた。その湯水の如く湧き出てくる物語を文章に書き起こして出版社にでも売り込んでいったら、世の女性たちが号泣するラブストーリーにでもなりそうだ。心苦しいことには、主人公がボクと火神君という誠にがっかりな組み合わせではあるが。
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「ボクは、予約していた本を借りてくるので、ちょっとだけ待っていてください」
「わかった」
入ってすぐの場所にあるカウンターから、司書室に引っ込んでしまった先生を呼びに行った黒子を尻目に、開けた自習スペースではなく、奥まった場所にある高い高い本棚のほうへと引き寄せられるように歩いていく。
カウンターに近い手前には、よく借りる現代から近代の文学がおかれていて、あまり人気のない迷路のように高い本棚が入り組んでいる場所には、あまり求められていなさそうな全集や古典文学と思わしきぶっとい本が、ずらっと並べられている。
あまり日のあたらないその場所に足を踏み入れると、少し呼吸をしただけで、ふるい本独特の埃っぽさが肺のあたりを満たした。深緑や茶色一色で染められた本棚を何とはなしに眺める。掠れた箔の押された背表紙を見るだけで読む気が失せてしまうオレに罪はないはずだ。ただ人目につかない場所に逃れたかっただけで、この場所に読みたい本があったわけではない。前に単純な好奇心でこのあたりの本を手に取っていたら、黒子にキミにはこのあたりは無理ですと、絵本のコーナーまで手を引かれていってしまったのは、いま思い出しても癪だ。だが、黒子が言っていることもたしかで、強く否といえないのがつらい。
そこまで言われるなら一度読んでみようかと、一番手ごろな場所にあった全集の一巻を取り出す。ずしりと思いそれは、小口が日に焼けていて、もとの紙の色が推測できない。ほとんど怖いものみたさだ。
目的があるわけでもなく適当に真ん中あたりのページを開くと、くらりとめまいがした。クリームというよりは、ほぼベージュに近い紙面に、印刷のかすれた活字が徒党を組んだように肩を並べていて、オレが知っている日本語と同じもののはずなのに、もう腹も胸も頭の中も一杯になってしまう。これ、確実にオレたちが使ってる日本語と違う。というよりなんでこんなにも読まれることを拒否するみたいに読みにくい印刷をするんだろうか。てか、漢字が多すぎる。もう少し、優しい雰囲気になるように、ひらがなを多用していくべきだ。
これ以上ないくらいに相容れないものを感じながら、ペラペラとページをめくっていくと、あっという間に最後の奥付までたどり着いてしまった。いったい何を伝えたい本だったのかは小指の先も理解できなくて、少々申し訳のない気持ちになってくる。もう一度だけ戯れみたいに最初からページをめくっていくと、ちくりとした痛みが人差し指の指先に走る。思わず眉根を寄せて痛みの根源を確認すると、指先を横に裂くような細い傷が出来ていて、その端からわずかに出血していた。本を汚してしまわないように閉じてもとの場所に戻す。
傷口の端で綺麗にだまになった血液がおもしろくて、わざと指の腹辺りを押さえて指先に血をためる。すると、一気にそれが皮膚の外へと排出されて、うつくしい球形を保っていた赤色が壊れて無粋な液体状に広がっていった。
コツリと、足音がした。ついで、聞きなれた声に名前を呼ばれた。本を借り終わったのかと問いかけるよりも先に、怪我をしていたほうの腕をぐっと掴まれる。
「怪我したんですか?」
二人しかいない図書室の中に、無機質な黒子の声音が響いた。それと同時に、何故と思う。背後にいる黒子がどうしてオレのこんな些細な怪我を感知することができたのだろうかと。球という秩序を失って、指先を手のひらに向かって流れていく血液。
ねえと、黒子の声音が重なる。オレの肘の辺りを掴んでいた黒子の手のひらに力がこめられた。
「火神君? 痛いんですか?」
心配しているような言葉選びをしているのに、それには感情というものが感じられなくて、どこか鬼気迫った響きがある。よく知った黒子のものなのに、はじめて聞くような声のトーンに、保険医のどこまで黒子を知っているのかという、謎かけのような問いが脳裏をよぎる。
乾いた喉を潤すために唾液を嚥下して、ぎゅっと指の腹を圧迫していた指先に力を入れる。新しく溢れてきた液体に、黒子の呼吸が重なった。小さく息を吐いて体を反転させると、ちょうど本棚の影になっているせいでその表情はうすぐらい。その中でも露草色の瞳は爛々としていて、大丈夫かと心配してみせるわりには、どこか浮き足立っているように恍惚として濡れているようだった。だが、それに反して口元は堪えるように強く引き結ばれている。
「血、たれますよ」
「あ、ああ。紙で切っちまったみたいで。なんか拭くもん持ってるか?」
「教室にならあるんですけど」
「あー、そうか。まあこんなもん、舐めときゃ治るだろ」
冗談のように言って軽く笑う。だが、黒子ははっとしたように目を瞬かせて、舐めるようにオレの指先へと視線を落とす。それは、何事かを乞うようにいじらしくじれったい。
「だめです」
意味がわからなくて、えっと首をかしげると、もう一度今度ははっきりと駄目ですという拒絶の言葉が落ちた。そしてそれに続けるようにもったいないと。いったい何が駄目で何がもったいないのか。言わずもがな前後の会話から推測するになんとなく把握することは出来るが、まさかと思う。だから、どうしたんだと問いかけようとすると、紅を引いたわけでもないのに赤い唇が三日月のような弧を描いて、笑みを落とした。そしてそのまま黒子がオレの腕を取って、血に濡れた指先を口に含んだ。
何事かと、目を丸くしてしまう。何か止めるようなことを言ったはずなのに、それは意味のある日本語にはならなかった。だがたしかに、オレの指先は黒子の口の中に含まれていて、ぬるりとしたあたたかいものが指先全体はっていく。少量の出血はを舐め取ると、また満足していないとばかりに、今度は傷口を開けるように黒子の舌が動き出す。ぬるぬるとしたその動きは何か別のものを連想させ、たまらずオレに寄りかかるようになっていた黒子の肩を押し返そうとすると、思ったよりも強い力で抵抗される。それどころか、オレの動きを封じ込めるように背後の本棚にしたたかに押し付けられた。