【 プロローグ はじまりがはじまるまえのはなし 】


 きっかけはなんだったのか。ぼんやりとした記憶を手繰り寄せていく。
そうだ、僕のマンションが爆破事件の被害にあったところから話が始まるんだ。もちろん、アクション映画並みの爆発を想像してもらっては困る。事件としてはとても小規模なものだった。だが、僕に与える影響は甚大で、いまこのような危機的状況に追い込まれている。
僕はながらく家を空けたままにして、ずっと復讐に生きてきた自分を見つめるために、あまり深く考えないままに世界を見て回る旅に出た。学生の貧乏旅行とでも例えたほうが分かりやすいかもしれない。資金だけはたっぷりあったけれど、していることはそれと大して変わらなかった。
僕が思っているよりも世界は広くて、当たり前のようにシュテルンビルトの外にも世界は広がっていて、世の中にはいろんな考え方をする人たちがいた。シュテルンビルトではヒーローとして良くも悪くも束縛された毎日を過ごしていたけれども、外に出てしまえば僕の名前さえ知らない人間がいたのだ。それが少し寂しく、また嬉しくもあった。そして、僕自身、僕を応援してくれていた人たちの好意に知らないうちに甘えていたのだと、それを当たり前にしてしまった部分があったんじゃないだろうかとも感じた。ただ気のおもむくままに自分を見つめ、時間に追われることのない旅行は、物質的にではなくて精神的に得るものが多かった。
しかし、目的地も決めないその旅行から帰ってきてみれば、自分の娘にとってのヒーローになるといっていたあの人が、娘のヒーローどころかテレビを賑わすお茶の間のヒーローとして、最後の足掻きみたいな物を見せていたのだから本当に吃驚した。吃驚したついでに、自分としても自分の進むべき道や、自分がどうありたいのかを考えてみた結果、またヒーローとして生きていきたいと、そしてあのおじさんの隣に立ちたいと思ったから、またタイガーアンドバーナビーとしてシュテルンビルトを守ると決めたのだ。能力減退もすすんで、なんとか一分間はハンドレッドパワーをという状態を死守している虎徹さんをハンディとして、前と変わらない面子とHERO TVに籍を置いていたわけなのだが、先日、僕の家が爆破されるという事件が起こった。マンションのすべてが爆発するなんていう大それたものではなくて、ピンポイントな犯行だった。世間に、本名と顔を大々的に晒してヒーローをしているだけはあって、それなりの危険は付き纏っている。もちろん、できるだけ警戒して生活しているつもりだったのだが、狙いが僕ではないのだからどうしようもない。爆破されたのは僕の住むフロアの真下で、それなりに名の通った政治家が住んでいたらしいのだが、彼をよろしく思わない団体だか個人だかの犯行でそのような事態になったらしい。
僕も、被害が出た近くの部屋の住人もほとんど留守で、その政治家とやらだけが重症で入院中だ。それ以外に人命にかかわるような被害はでていないから、事件の規模を思えば穏便に済んだほうなのかもしれない。まあ、それで、何がいけなかったのかといえば、下の階が被害を受けたことによって、僕の住んでいるフロアまで改修工事を請けることになってしまったのだ。その間部屋を空けなければならなくなって、ホテル住まいか別に部屋を借りるかという二択に頭を悩ませていたのだが、どうしてだか、呆けるのには早すぎるのに呆けているとしか思えないようなことを言い出したおじさんの家に呼び出されて、いまのような不可解な問いを投げかけられるという状況に陥ってしまっていた。
本当にこの人は馬鹿なんだと、そう思った。
これは暴言や雑言などではない。紛れもない真実だ。だって、何を伝えたいのかまったく理解できなくて、二度も聞き返してしまった。しかし、二度ともよく分からなかった。僕の理解力が劣っているわけではない。この人の伝達能力が少々可哀想なことになっているんだと思う。僕としてもバディと意志伝達を諮れないというのは致命的というか、満足そうな顔で僕の方を見ている虎徹さんの伝えたいことを理解しないといつまでたっても開放されそうにもないので、三度目に挑戦しようと乾いた唇を舐め、唾液を嚥下する。
「あの、よく意味が分からないのですが」
水を打ったように静まり返っていた部屋の中に僕の声が控えめに響いた。それを追うように無遠慮なため息が上乗せされる。そのため息の犯人は、被っていた帽子を乱暴な仕草でソファの上に投げ捨てるとそのままグシャグシャと髪の毛を掻き毟った。その表情はなんで分からないんだよと、むしろ不満げな色がありありと浮かんでいる。
「だーかぁーらぁー。とりあえず家族にならないか?」
 うん。訳が分からない。
 意識したわけでないが自然とため息が出た。まず、家族というのは夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団である。これは辞書に載っていたのだから間違いない。そこにプラスするのならば、血縁関係がないとしても戸籍上のつながりを書類の処理で発生させれば家族という名前の枠組みを築くことが出来る。とりあえず、そういった繋がりを持つものがとる、絆の形態、またはシステムであり、とりあえずなんていう軽々しい言葉でなれるようなものではない。だからたぶん、この家族というのは僕の知る常識的な言葉ではなくなにか暗号じみたものであるはずだ。だとしたら、解決の糸口はどこにある。アナグラムなのかそれとも置き換え方式の暗号なのか。そうだとしたら何か鍵がなければ解くことができないはずだ。
「おーい、バニー遠くを見るな」
 肩をつかまれてぐらぐらと揺さぶられる。せめて現実を直視できるようにとおじさんの方の向こう側にある扉を凝視する。いつの間にか、酒瓶が床に散乱してどこかほこりっぽいこの部屋も見慣れてしまったのかと思うと感慨深いものがあった。
「聞いてるか」
「聞いてますよ」
 この人ももう嫌になるくらい見慣れてしまったうえに、いつの間にか隣にいることが当たり前になってしまったなと、僕を映している鳶色の瞳を見た。日系のせいか歳の割には若く見えるその外見は、僕と初めて出会ったころとあまり変わっていなかった。これが、日系人は若く見えるというやつなのか。まあ、内面が内面なので、その外見とはお似合いだった。
「聞いてるって割には理解力なさ過ぎるだろ。その賢い頭を遺憾なく使い切って俺の言いたいことを理解して欲しいんだけど」
「あなたの言いたいことって、暗号じゃないとしたらなんなんですか」
「暗号ってどうしたらそこへ行くんだ。俺にはバニーの言ってることのほうが理解できない」
「じゃあ、養子縁組ですか?」
 血縁関係のない二人にそれに準じた家族関係を与えるとしたら、結婚か養子縁組だ。でも、虎徹さんも僕も男だから前者の選択はありえない。だとしたら、これしかないだろう。だが、僕の言葉を聞いた虎徹さんはがくりと肩を落として両手で顔を覆ってしまった。
「言いたいことがあるなら言葉にしてください」
「ごめん、おじさんジェネレーションギャップ的なものを感じてもう言葉にならない」
「馬鹿にしてるんですか?」
「正直、賢すぎるのも問題かなとは思いだしてる。現在進行形で」
 手のひらで顔を覆ったままのせいで、幾分か声がこもっている。そこまで落胆されるのも何だか癪なのだけれども、彼の言っていることを僕なりに理解しようと努力しているというのに何が気に入らないのだろうか。
「家族っていったら、僕にはこれくらいしか思い浮かびません。もしかしてオリエンタルシティにはもっと深い意味があるんですか?」
 そうだとするなら、あまり外へ出たことがなくて国外の文化には疎い僕には理解し得ないものになってしまっているだろう。だが、虎徹さんは今度こそ勢いよく顔を上げると、すぐ隣に座っていたというのにさらに距離を詰めて僕をねめつける。その決意か何かよく分からないものをあらわすように僕の方をぎゅっと強くつかんでいる。いつものライダースーツを着たままなので、あまり皺になるようなことはして欲しくないんだけれど、言い出せる雰囲気ではなかった。
「な、なんですか」
「あのな、家族にならないかって言ってるの」
「だから、」
「だからもだってもないんだよもっと軽く考えろよ。あと、養子縁組とかやめろ、世間の皆様に俺たちの関係が誤解されるだろ! だいたい俺にはもう楓というかわいいかわいい子どもがいるんだよ!」
「楓ちゃんがかわいいのは認めます。虎徹さんに似なくてよかったですね」
「くっそ、いまはその暴言許してやる。いいか、おまえは難しく考えすぎなんだよもっと肩の力を抜いて考えろ!」
「じゃあなんなんですか。やっぱり暗号?」
「なわけあるか」
 一気に勢いを失ったように、はあと重々しいため息をついて、虎徹さんがバニーなんでそんなに物分りが悪いんだと嘆きの声を上げた。また髪をグチャグチャとかき回しているせいで、僕が来たときにはセットされていた髪型が無残なことになってしまっている。
「一緒に住まないかっていってるんだよ」
「えっ」
 今度こそKOHと呼ばれていた僕には不似合いなほどの間の抜けた声を上げてしまった。どうしてだか虎徹さんは、してやったりみたいな顔をしているものだから、何なんですかと言い返してしまいたくなる。だけれども、現状把握のほうが先立った。ヒーローとして出撃しているときも同じだ、現状を理解しこの状況をいかにして自分に有利なものとしていくかということが勝利の鍵なのだ。
「やっとわかったか?」
 僅かに身を引いた虎徹さんは、自分が投げ出したハンチング帽を拾い上げるとそのまま腕を組んで、満足げにうんうんと頷いている。勝手に満足していないで僕にもしっかりとした説明をして欲しい。彼の中では完璧な理論として、僕の家が爆破される=家族になろう=一緒に住もうへと帰結しているのかもしれないが、その理論の蚊帳の外にいる僕にはまったくもって理解できない。というか、理解がどんどんと遠くへといってしまっている。そろそろその姿が見えなくなりそうだ。どうせなら、暗号ですといってくれたほうが幾分かましだったくらいだ。
「残念ながら、僕の自宅にあった辞書を引いてみても、家族になろうと一緒に住もうが同じ意味になるとは思えないのですが」
「いや、それはまあ、そっちの方がかっこよくね? 言い方として」
「すみません。ちょっといま、ジェネレーションギャップというものを実体験として感じてしまいました」
「おまえ本当にかわいくないね。そういうときは年長者に気を使ってかっこいいですとか言えないわけ」
 目の前の先輩のリクエストに答えるために、何とか彼が求める言葉を口にしようと思ったのだが、かっこいいですねのかの辺りであたりで躊躇ってしまう。何度かチャレンジしたところで、虎徹さんが切羽詰ったような声で僕の名前を呼んだ。なんだろうかと不思議に思って首を傾げる。
「ごめん。前言撤回。余計に苦しくなるからやめてくれ」
「期待に沿おうと努力はしてみたんですが」
 口元を覆ってすみませんと呟くと、つらそうな虎徹さんに、もうやめてくれバニーと懇願されてしまった。先輩というのもなかなか難しいものである。


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【 四月 はじまりのはなし 】


 部屋の奥からガサゴソと物をひっくり返すような音が聞こえてくる。何か大きなものを落としたのかゴトっという重量感のある落下音、そしてどこにやったんだっけこの間まではあったはずなのにという焦り交じりの声が物音を追いかけていく。
 誰よりもこの家の中を知り尽くしているはずの家主は、その実、奔放に片づけをサボり続け、なおかつ僕の警告に耳を貸さないでギリギリまで用意を怠っていたせいで、こんな出発時間間際になって部屋中をひっくり返す羽目になるのだ。これじゃあ長期休暇最終日に宿題が終わっていないと泣き叫ぶ子供と一緒じゃないか。
漏れそうになるため息を宥めながら、僕も自分の準備の最終確認に入る。スーツはスーツキャリアーに入れてかけてあるし、今日の主役であるレディのために用意したプレゼントは、忘れることがないように既に車に積み込み済みだ。あと忘れ物はないだろうかと指折り数えていると、奥の部屋から漏れ聞こえた悲痛な叫び声が鼓膜を揺らす。
「あー、どこいったんだよ!」
「そろそろ出ないと遅刻しますよ」
 まったくもって荷物探索がはかどっていなさそうな背中に声をかけると、わかってるよという舌打ち混じりのイラついたような声が返ってきた。既に半ば混沌とした物置とかしている部屋をあさり出して一時間ほど、意気揚々と用意を始めたころの余裕は欠片も残っていない。しかし、この惨状を招いた理由は、自分が前もって準備をしていなかったからだということに気づいているのだろうか。
「なにを探してるんですか。プレゼントならもうリビングに出してありますよ」
「そうじゃねえ、あんな大きいもの見失うわけないだろ。ビデオだよビデオ。最近使ってなかったから、ちゃんと使えるように充電して準備して、どっかにおいておいたはずなんだけど」
 準備しているはずなのに、どっかにおいておいたという自らの言葉の矛盾に、たぶんこの人が気づくことはないのだろう。準備というのは、どこかにおいておくことじゃなくて、ちゃんと自分が把握できる範囲にそのものを置いておかなければ意味がないはずだ。しかし、おじさんが必死になって家捜ししているものには覚えがあるので、救いの手を差し伸べることにする。
「それってたしか、すぐに持っていけるようにってクローゼットの方にしまってませんでしたか」
 手にしていたスーツキャリアーをソファの上に置いて、虎徹さんのいる部屋に向かって呼びかける。すると途端に荷物を引っ掻き回すような音が止まった。そして、くるりとこちらを振り返ると、まるで遠い記憶を呼び戻すかのようにこめかみに手をやりながら、眉根を寄せた。
「あー、そういわれれば、そんな気が。いや、あっ、そうだ! たしかケースに入れて、クローゼットに入れておいたんだよ!」
「呆けるにはまだ早いですよ」
 両手を打ち鳴らし、荷物探しで荒らしまわった部屋はそのままに、優勝をかけた徒競走かなにかのように騒がしい足音を立ててクローゼットに向かってかけていく虎徹さんに呆れ声を漏らす。
「呆けてねえよ。ちょっとド忘れしてただけだ」
すれ違い様に返ってきたのは苦虫を噛み潰したかのような声色だった。はたして、僕の記憶どおりクローゼットからビデオカメラを救出できたお陰でそれ以上の苦言が続くことはなく、今度は更にパワーアップした騒がしさでサルベージした荷物をまとめ出した。
「悪いバニー。これ先に積んどいてくれないか」
「わかりました。あと、二十分ででないと、約束の時間に間に合いませんよ」
「大丈夫だ、間に合うから」
 なにが大丈夫なのかまったく分からない。だが、根拠もなしに断言した虎徹さんは僕に、一抱えもある大きなプレゼント包装された品を押し付けると、あれこれと鞄の中に必要なのかどうかもわからないような荷物を詰め込むスピードを加速させていった。
 最低限にまとめた荷物とスーツキャリアーも一緒に持って、転んでしまわないようにバランスを取りながら、外へとでた。
 暖房器具で暖められて室内との温度差にぶるりと体が震える。これから向かうオリエンタルタウンがどうなのかは分からないけれど、玄関を開けた先に広がっていた空は、新たな門出のときに相応しい、ひどく深く、そして透明感のある色をしていた。こういうのを蒼穹というのだろうか。まだ四月になったばかりで肌寒く、張り詰めるような外気に空気が澄み渡っているようにも思えた。街なかを行く人たちの衣替えや、深く青みが買った空。そしてそこに混じる新緑の色に、否応なく春の訪れを感じさせられる。一人の少女の新生活の始まりとしては、これ以上ないくらいに好条件の揃った天気だった。
 大荷物を抱えてふらふらとしている僕を怪訝な表情で見つめていたお隣さんに軽く会釈をして、鍵を開けっ放しにしている虎徹さんの車に荷物を積み込んでいく。彼が愛して止まない娘へあてたプレゼントは大きすぎて座席に入らないので、後ろのトランクを開けて、かけられたリボンがぐちゃぐやにならないように注意しながら壁に立てかけるように座らせる。無機物を座らせると表現するのも変な話なのだが、中身のことを思えばまあおかしい言葉選びでもないだろう。
 他人事ながら、もう少し送る相手の年齢を考えて選んだほうがいいんじゃないだろうかと進言したかったのだが、おまえの写真集とこれと迷ったなどと言われてしまえば、とても素敵なテディベアですねと返すことしか出来なかった。女にはアクセサリーをプレゼントしておけばいいと考えている男と、娘にはぬいぐるみをプレゼントしておけばいいと考えている父親の思考の根源は同じものなのかもしれない。気が利かないというところでは。
「おーい、積み込み終わったか」
「ええ。虎徹さんこそ準備は?」
「ああ。何とか間に合った」
 噂をすれば影なのか、無駄な大荷物を抱えた虎徹さんが玄関から顔をのぞかせた。セーフと言いながら満面の笑みを浮かべているその姿に、見てもいない部屋の乱雑具合が脳裏を過ぎる。いったいどれほどまでに散らかしつくしてくれたのだろうか。あの物置を掃除して、どこからか掘り起こしたかも分からないようなものを片付けてしまわなければいけないのかと思うと、自然と胃が痛くなってしまう。ふとそこまで考えて、部屋の間取りを思い浮かべて掃除にまで気を回さねばならないくらいには、この人の家に慣れ親しんでしまったのかとぼんやりと思った。最初は部屋を間借りすることをあんなにも渋っていた自分も、案外現金なものだ。
「バニーの方はもう準備大丈夫か」
「いつでも出発できますよ。虎徹さんのほうこそ、スーツ忘れてないでしょうね。クリーニングからかえってきたのを寝室に吊り下げたままにしてましたけど」
 手にしている荷物の中にスーツキャリアーらしきものが見当たらなくて、ため息の代わりに聞いてみると、鳶色の瞳が大きく見開かれて慌てたように腕の中の荷物を押し付けられた。
「さっきスーツの話したばっかりじゃないですか」
「ビデオカメラが見つからなくて焦ってたんだよ!」
 受け取った荷物を後部座席に積み込みながら、走り去っていく背中に分かりやすい嫌味を投げつけると、強い語調が飛んでくる。さすがにここまで遅くなることはないだろうと笑いながら決めた最低出発時間まで、あと五分。だらしがないといわれてしまえばそれまでだが、まあ、いつも通りと評してもいい一日の始まりだった。


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【 十月 うまれたひに 】


 ううという、獣がうなるような声が聞こえた。もちろん、そんなうなり声を上げそうな肉食獣をペットにした覚えはないので、これが人間の上げる苦悶の声であるということはすぐに分かった。ソファに寝転がしてある酔っ払いの成れの果てのためにキッチンへと向かい、ミネラルウォーターのボトルを二本取り出して、まだうなり続けている虎徹さんの頬に押し付けた。僕自身が歩きにくいのも、あの混乱状態の後自棄になってたくさんアルコールをあおったからだろう。
「うう、気持ち悪い」
「ここでは吐かないでくださいよ」
 起き上がろうとするように体をもがかせた虎徹さんの肩を掴んでぐっと引き上げて、上体をソファの背に預けさせることで無理やり座らせ、僕もその隣に腰を下ろした。
「悪い、あけて」
 何度かチャレンジしたが手に力が入らないらしい。差し出されたボトルを受け取って、蓋を開ける。
「あと、炭酸はいってないやつでたのむ。いま炭酸飲んだらやばい」
「ちゃんと普通のミネラルウォーターですよ」
 悪いと謝罪と感謝の両方をこめた言葉を漏らした虎徹さんは、頼りない手つきで僕が差し出したボトルを受け取ると、アルコールを摂取しているときとは違うゆっくりとしたスピードで嚥下していく。途中むせそうになるたびに、まさか吐くんじゃないだろうなと身構えてしまう。この状態だと、明日は二日酔いだろうか。
「一応聞きますけど、大丈夫ですか?」
 虎徹さんが飲み終わったボトルを受け取ってキャップを閉める。背もたれに上体をあずけたまま、ううだとかああだとかいいながら頭を抱えている彼に問いかけると、酔いつつも正気を取り戻した感があるヘーゼルの瞳が弱々しく瞬いた。
「だい、じょうぶそうに、みえるか?」
 掠れた途切れ途切れのその声音は、重病か何かのようにも思えるのだが、残念ながらただの飲みすぎだ。しかも、体に力が入らないのか、どんどんと僕の方に倒れこんできている。
「安心してください。間違っても大丈夫そうには見えません。むしろ、あの場にいた全員が、重症もしくは再起不能という感じでしたよ。明日以降に引きずりそうな人もいましたので、尻拭いは自分でしてくださいね」
「そんな冷たいこと言うなよ、相棒だろ」
「相棒は飲み会の最中に僕を困らせたりしませんので」
「そ、その件については反省しておりますので」
「誠意を見せてください誠意を」
 だらしなく僕の肩にもたれかかったままアルコール臭を発している男からは誠意どころか、自分が飲み会でおこなってしまった数々の不祥事に気づいていない様子だった。
「誠意見せますから、テーブルの下にある箱とって」
「箱ですか?」
 そんなもの、今日の朝にはなかったはずだと思いながら、テーブルの下を覗くと、確かにラッピングされたピンク色の箱が鎮座していた。虎徹さんの枕の代わりになっているせいで立ち上がることも出来ないので、ちょっと無理して腕を伸ばしてその箱を取る。両手のひらに収まるサイズの小さめのそれにはカードも添えられていなくて、どうしてこれが誠意になるんだろうかと首を傾げてしまう。
「誕生日、おめでとう。プレゼントな、それ」
 僕の肩を支えに、なんとか体を起こした虎徹さんが悪戯が成功した子供のような表情で口角を上げた。家に帰ってきたときよりは顔色がよくなっているけれども、今度は僕の方がえっと戸惑いの声を上げてしまった。
「でも、もういただきましたよ」
 初めて虎徹さんたちに誕生日を祝ってもらったときにピンクのウサギの抱き枕をもらってから、毎年恒例なのか何なのか、誕生日のたびにウサギ関連のプレゼントをもらうようになったのだ。今年は耳が長くのびたウサギのブックエンドだった。去年はウサギの花瓶だったのだが、最近では来年はどんなウサギグッズを探してくるのだろうかと、ちょっとした楽しみになってしまっている。
「それはみんなから。これは、俺から。受け取ってくれ。これ、カードね」
 どうしてかプレゼントと分離されていたカードは、虎徹さんの胸ポケットから姿を現した。そこには送り主の虎徹さんの名前と、送られる僕の名前。そして、あなたが生まれてきたこの日に感謝をというメッセージが添えられていた。ただの軽かった箱が、急に重みを増した気がして、吐き気よりも先に胸の奥が熱くなった。嬉しい、と思う反面、説明のつかない戸惑いを覚えるのは、誕生日を祝うという行為にあまり馴染みを持たなかったからだろうか。もちろん、祝ってくれた人がいなかったわけではなかったけれども、両親が死んでからそこに喜びを見出す気持ちは希薄だった。なにがお目出度いのかよく分からない。でも、おめでとうという言葉とプレゼントを送られるから、よく分からないなりに笑顔でありがとうと返す。それがいつの間にか習慣になってしまっていた。
 でも今になって思えば、楓ちゃんが、虎徹さんが、ヒーローのみんなが、僕を気にかけてくれること、毎年のようにサマンサが僕のことを思ってケーキを作ってくれていたこと、そしてたくさんの人たちがその日僕を祝福してくれたその優しさというものが何よりもの喜びだったのだろうなと思う。気づくのが遅すぎたのだろうなと、全部捨てた気でいた自分に呆れてしまう。本当は、欲しかったものなんていうのは身近に全部あったのかもしれないのに、何物にも手を伸ばしてこなかったのは、周りに壁を作っていたのは自分だったのだから。生まれてきてくれてありがとうなんて、そんな言葉をくれる人がいるなんてこと、想像したこともなかったのだ。ただただ、復讐に生きることばかりを考えていた自分には、まるで発想の逆転のような思考だ。
「ありがとうございます」
 詰まりそうな声を何とか絞り出す。視線は箱にとどめたままだけれども、あけてみろよという嬉しそうな虎徹さんの声が耳をざわめかせた。彼に従うように真っ赤なリボンの先を握って引く。あっけなく解けてしまったそれをはずして、箱の蓋を開けると、中にあったのは赤い皮のキーケースだった。しかもご丁寧なことに、彼から初めてもらっつたプレゼントであるウサギの抱き枕を小さくしたようなキーホルダーまでぶら下げられていた。箱からそれを出すと、中から金属がこすれるような音が聞こえて、中を確かめるように三つ折になっているそれをあけた。
「これ、なんで」
 中から現れた鍵に当惑してしまう。いや、ここ何ヶ月で見慣れてしまった鍵だからこそなおさらだ。だってこれは、既に僕が持っているキーケースの中にも納まっているものなのだ。
「ずっとスペアしか渡してなかっただろ。だから、おまえの分の鍵も作ってきたんだ。だからぶら下げといた」
 だから、明日からはそれを使ってくれといって水を煽った虎徹さんには、含みも後ろめたさもない。何事もなかったように、こういうことをするから、僕はいつまでたっても彼に魅せられてばかりなんだろうと、酔いの回りきったアルコール付けの頭で考える。頭の中は饒舌なのに、言葉になりきらないのは酔いのせいばかりではない。たぶん、僕が自分の気持ちを処理するので精一杯だからだ。その感情に名をつけるのなら、喜びとか嬉しいとか感激とかそんなところだろう。
「スペアキーは返します」
「ああ。テーブルにでも置いといてくれ」
 音のない室内。真っ黒なテレビの画面には、前だけを向いて座っている僕たちの姿が映りこんでいた。なんでもない静寂に苦痛は感じない。もうこの人の隣にいることは当たり前で日常で、そんなことに疑問を持つことの方がおかしな話だった。だからなんとはなしに思い浮かぶのは、彼がたびたび口にする家族という言葉だった。
 日常の当然を、暴力的なまでの強引さで奪われた僕にとって、その当たり前を失うことの恐怖は心の奥深いところまで根付いている。こんな僕を愚かだと笑う人間がいるであろうこともわかっている。それでも、そうだとしても、安全であったあたたかな家が燃えさかったときの火の熱さを、人が焼けるときの匂いを、僕はたぶん生涯忘れることはないだろう。だから余計に、あのときの恐怖をもう一度与えられることが怖かった。いつだって、しあわせの裏には、それを失ったときの恐怖と絶望と言葉なんかでは説明することができない悲しみが潜んでいることを僕は嫌というほどに知っているのだ。
 もううめき声も上げなくなった虎徹さんを盗み見ると、ソファに体を預けてぼんやりと一点を見つめていた。もう眠いのだろうかと思ったけれども、動き出すような気配もない。この沈黙を楽しんでいるというのだろうか。この人も僕と同じように大切なものを失う苦しみを知っているのに、人生の中で背負う荷物を増やすことに躊躇いがないように思えた。
「なあ、バニー」
 くるりと虎徹さんが僕を見る。投げ出したままにしていた腕を組んで、ゆっくりを瞼を閉じた。
「こうやって、少しずついろんなものを増やしていけばいいんだ。物は壊れて駄目になるけれども、想い出はかさばらない。なくなっても嘘にはならない。おまえが記憶し続ける限り現実なんだ」
 暗闇を映し出したみたいなテレビ画面。それごしに僕を見つめる虎徹さんは、答えを求めているわけではないようだった。彼の言葉に温かいものを感じた刹那、まるですがるように彼の名前が口から零れ落ちた。声帯がゆれるその振動に、ああ僕は彼を呼んだのかと自覚する。
「僕は臆病なんです」
 酔っているなと思う。いつもの自分ならこんなこと言うはずがないのに。でも、頭では分かっているのに口は止まらない。