なあ、と虎徹さんが口を開いたときに、ああついに来たのかと思った。
多くの人には被害妄想と思われるかもしれないが、この無害を絵に描いたような中年男性が、とても言いにくそうな顔をして、しかも視線を彷徨わせながら話しかけてくるのだ。これは重要な話なんだろうといぶかしんでもおかしくない。それだけではなく、僕の現在の状況を加味するのなら、覚悟をきめるべきときが来たのかもしれない。
 まず、いまの僕の状況がどういうものかといえば、あけすけに言ってしまえば居候だった。さらに詳しく言うのなら、シュテルンビルトで、ヒーローという存在自体を揺るがすような大きな事件のあおりを受けて、そのときのなんやかんやで僕の家まで壊れてしまい、行く場所がなくて困っていたところに、虎徹さんの深く考えていないとしか思えない、俺の実家にこればいいじゃんという発言にずるずると引きずられるようにして、本当に彼の実家にお世話になることになってしまったのだ。最低限の家賃しか払っていないうえに、定職を持っているわけでもない(無職ではないが休職中だ)。しかもお言葉に甘え出してはや何ヶ月。これ以上ないくらいに邪魔な存在でしかない。お荷物という烙印を押されても仕方のない状態だった。だから、そろそろ出ていかねぇのなんて、すごく言いにくそうに切り出されるときが来たのだとしても仕方のないことだと、まあ悔しいんだか悲しいんだかわからないことではあるけれども、自分を慰めながら、いままでお世話になりましたこのご恩は忘れませんと三つ指突いて頭を下げるときがきたのだ。
 いままでは写真でしか見たことのなかった日本家屋。畳の上に座布団をしいて正座をした虎徹さんは、僕の反応をうかがうようにヘーゼルの瞳を瞬かせた。開け放たれた障子の向こうには、家庭菜園にしては手の込んだキャベツ畑が広がっている。そして、その土のにおいを運ぶように、気だるい午後の風が吹き込んできた。この家に来るまで、土の匂いを身近に感じるのはまれなことだった。そして、畑仕事に従事するなんてことも。
 風に揺れる緑の葉っぱは、安寿さんが我が子のようにかわいがっているキャベツなのだから、いまから収穫のときが楽しみだった。それを見ることなくこの場所を去っていくのは少しだけ名残惜しかったが、赤の他人である僕をここまで受け入れてくれていたというだけで、これ以上ないくらい幸福なことなんだろうと思う。だから、いまでも満たされてしまっているというのに、限界を超えるようなわがままなんていえるわけがなかった。両手に余るものを求めたって、腕の中を滑り落ちていくだけなのだから。
「一週間くらい時間をいただいてもかまいませんか? 準備もありますし、あいさつ回りもしたいので」
「はぁ?」
 あいさつ回りに引越しの準備にと、軽く概算して弾き出した期限に、虎徹さんが驚いたような声を上げる。自分としては、がんばったつもりなのだが、ちょっと勝手が過ぎただろうかと、明日明後日のほうがいいですかと首をかしげると、まるで合わせ鏡のように虎徹さんも首をかしげる。二人して首を傾げていても何も始まらないわけなのだが、僕たちの間には決定的な伝達ミスがあるらしい。
「あのバニーさん? おっしゃっていることがよくわからないのですが」
「それはこっちの台詞ですよ」
「なんで急にあいさつ回りなんだよ。やっぱりそろそろ出て行きたかったのか? 田舎って不便だし。おまえって見るからに都会っこのセレブって感じがするじゃん。母ちゃんの農作業を手伝うバニーなんて見たくないって楓も泣いてたくらいだし」
「それくらいで泣かないでください」
「いや、あいつは多感なお年頃なんだ許してやってくれ。そのせいで、俺が八つ当たりされたくらいなんだぞ。いや違う、そうじゃなくて」
 仕切りなおすように自分の言葉を否定した虎徹さんは、姿勢を正して正面から僕を見た。やっぱりそれは、真剣な色をしていて、そこまで真面目な話というのなら、これ以外に何があるのだろうかと純粋に疑問だ。
「おまえ、そろそろ出て行きたいんじゃないのか?」
「出て行きたい? どこを?」
 虎徹さんの言っていることが理解できず、鸚鵡返しにしてしまう。まるで思考を放棄したようではあったけれども、僕が出て行きたいという場所が本当に思い浮かばなかったのだ。
「ここだよ。雇われてるわけでもないのにうちの店で店番して、たまに母ちゃんの畑仕事手伝って、嫌そうな顔一つしてねぇけどさ」
「だって、嫌じゃありませんから」
「いやでも、おまえだってやりたいこととかあるだろ。せっかく全部終わって、自由になったんだ。夢とか、憧れとか、なんでもいい。若いんだから」
「やっぱり、僕は出て行ったほうが」
「やっぱりって何だよ。俺は一言もそんなこと言ってないだろ。おまえにはおまえの人生があるんだから、気を遣って俺の実家でぼうっとしてなくたって、やりたいことやっていいんだって言いたいの!」
 姿勢よく正座していた姿勢を崩して、僕との距離を詰めた。ヘーゼルの瞳は嘘を言っているとは思えない。この人はどこまで甘い人間なんだろうかと、他人ながらに心配になってしまうのはこういうときだ。まだ畳になれない足を組み替えて、はあとため息を吐き出す。嬉しいのか悲しいのか、たぶん、嬉しいに天秤は傾いているはずだ。
「僕はこの場所で不便を感じていませんし、むしろ家においていただいて感謝しているくらいです。そこまで不義理な人間ではありませんよ。だから、あなたが出て行ってくれというのなら考えますが、自分からなんて考えたことありませんでした」
 嘘偽りなく、ここでの日々を重荷だとか苦痛だとか感じたことはなく、この場所を離れたいとそんな思考が脳裏を過ぎることさえなかった。それこそ甘えきっていると非難されるのかもしれないが、ここの場所は居心地がよすぎるのだ。虎徹さんと同じで、違和を感じさせる隙さえ与えずに僕の中に忍び込んでくる。そして、当たり前じゃないことを、当たり前にしていってしまう。
「なんだよ、そろそろ好きなことさせてやったほうがいいんじゃないかって悩んでた俺が馬鹿みたいじゃないか」
「そんなこと考えていたんですか? 僕はてっきり極潰しは出て行けということなのかと思って」
「その顔で極潰しとかいうな。おまえが真面目に鏑木酒店で働きすぎて、俺の立場のほうが危うくなってるくらいだ」
 心配して損したといって姿勢を崩した虎徹さんは、縁側の向こう側にある空を目で追いながら、なあと僕の名前を呼んだ。綿菓子のように真っ白な雲が浮かんでいる空は、この先にシュテルンビルトのような大都市が存在しているとは思えないくらいに穏やかなものだった。
「なんでもいい。夢とか憧れとかなんだっていい。おまえがやりたいって思うことが出来たらすぐにいえよ」
「なんです、叶えてくれるんですか?」
「茶化すなよ」
 そういうつもりではなかったのだが、虎徹さんはわずかに拗ねたように頬を膨らませた。中年のそんな表情を見ても、まったく可愛くないのだが、仕方のない人だなあと自然と頬が緩んだ。
「叶えるのはおまえだけど、手伝うことくらいは出来るだろ」
 余計なお世話って言われるかもしれないけどさと笑った虎徹さんに、ああと思った。なんでそんなにも与えたがるのかと。僕の中の許容量はたぶんもう一杯だ。なのに欲張りだからもっともっとと欲しがってしまう。非日常が日常となって、傲慢にもこれが当然なんだと思ってしまう。
「お人好し」
「よく言われる。俺はお人好しでも何でもいいからさ、おまえはいましか出来ないことをするべきだろう?」
 噛み砕いて僕を諭すように問いかけるとき、この人は僕よりも年上なんだなあと自覚する。
 レールが用意されていると思ったことはなかった。これこそが僕が選ぶべき道だと盲目的に信じきっていたからだ。だが、いま思えば、確かに僕が選択したことではあったけれども、知らないところで神のような見えない手が僕の記憶に改変を加えながら、軌道修正をなしていたのだろう。だとするのなら、もう手の届かない過去の僕が真に心の底から願っていたのは何なのだろうか。
 両親の復讐。それだけで埋められていた僕の体の中は、たぶん空っぽになってしまっている。その虚を埋めるように虎徹さんが忍び込んできて、いまは彼で一杯だ。でも、それだけじゃ駄目だと分かっている。世界は僕と彼だけでは完結しないし、いつまでもこの安寧の中に閉じこもっているわけにはないかない。もう少し落ち着いたらヒーローとして自分の身の振り方を選択するときも来る。
「何だっていいさ。考えてみろよ」
「もしも見つかったら、笑わないで聞いてくれますか?」
「もちろんだ」
 大きく頷いて破顔した虎徹さんに、笑えばいいのか泣けばいいのか分からなくなった。それと同時に、難しいなあと思った。何も与えられない中で、考えるということは。選ぶということは。レールを外れるということは。それでも、嫌ではなかった。
 僕のこの場所での毎日はとても優しいものだった。もったいなさ過ぎるくらいに。過ぎ去っていくことが惜しいくらいに。もしかしたら、欲しいと願っても手に入らなかった家族というものはこういう色合いをしていたんじゃないだろうかと思えるくらいに、しあわせなんて名づけてしまってもいいんじゃないだろうかと思えるくらいに、僕にとって夢のように楽しいものだったんだと思う。
 虎徹さんと、僕が呼ぶと、何だと小さく笑った彼が、僕を見た。なんて他愛無い日常、なんて普通な毎日。
 たぶんあなたはしらないけれど、そして僕がそれを口にする日は来ないのかもしれないけれど、僕はあなたが思う以上に鏑木虎徹という人間に救われている。
 僕がどんな未来を選んだのだとしてもいいから、その先にこの人の姿があればいいのにと、僕が夢を叶えたときにはこの人が隣にいてくれればいいのにと、むしろそれが真の願いか何かのように、祈らずにはいられなかった。





作成 11・08・28
掲載 11・09・27