自分が住んでいる場所に不満を感じたことはあまりなかった。でも、今回ばかりはいままで感じたこともなかった不平や不満をあげ連ねたくもなる。だって、何回同じことを聞かれたと思ってるの。
「ねえ、楓ちゃんのおうちにすっごくバーナビーにそっくりな人がいるって本当なの?」
放課後、帰りの会が終わった教室内。先生さようなら、皆さんさようならの掛け声と共に、腕白な男の子達は机や椅子にぶつかりながら教室の中から駆け出していってしまった。それに続くように女の子達も。そしていまは、お話好きの女の子達が友達同士集まって、帰る気があるとは思えないようなゆっくりした動作でランドセルに物をつめている。私といえば、図書室で借りた本がなかなかランドセルの中に入らなくて、縦にしてみたり横にしてみたりと格闘していたところなのだ。なのに、そんな私に注がれる視線。気づいてくださいと言わんばかりのそれに気づかないほど鈍感ではなかった。普段なら、もしかして私の能力のことが広がってしまって、ついに無遠慮な視線まで向けられるようになったのだろうかと思ったけれども、いまは聞かなくったって何を期待されているのかわかる。彼女達は、私の口から、私の家の話を聞きたくてしょうがないのだ。現在のこの状態は、私が覚えている範囲内での鏑木家大事件ベスト5に食い込んでいけるくらいの大騒動だと思う。主に、私達以外の人たちが。ご近所さんから始まり、学校の友達、お店のお客さん、果てはあったことのない人たちまで、みんな私の家のことが、いや鏑木酒店のことが気になって気になって、そして知りたくてしょうがないのだ。
自分が住んでいる場所に不満を持ったことはない、でもこの田舎の噂話とか情報のめぐるスピードだけには、頭をかかえたくなってしまった。本日十回目くらいの冒頭のような質問を投げつけられれば。
手にしていた本をランドセルにしまいこむのを諦めて、既に完全にぴっちりとはめ込まれているランドセルの中身を整えて蓋を閉める。ランドセルの金具を嵌めて、十字型に捻るときが好きだったりするのだけれど、今はそれどころではなかった。頭の中で、普段は所属するグループが違う女の子達が話しかけてきた時の対処法を考えていく。もちろん、彼女達の知りたいという気持ちを満たすために、一かけらの情報もあげるつもりはない。ここで口を滑らせてしまえば、それが嘘であれ本当であれ、私の言ったことに尾ひれはひれがついて、すごい勢いで広がっていってしまうのだ。噂話って本当に怖い。
ランドセルを背負って、入りきらなかった図書室の本を手にして、背後の私の返答をいまかいまかと待ち構えている女の子達を振り返った。人数は三人、私よりも早く帰りの準備をはじめたのに、まだ教科書の三分の一もしまいこんでいないなんて、効率的な後片付けとはいえない。茜色に染まった教室内には私と彼女達しかいないのに、こんなにもゆっくりと片づけをしていたら、茜色が藍色くらいになってしまうんじゃないのかと疑問だった。期待に満ちた三対の瞳に笑いかけると、ねえとはやくはやくと強請るようにずいっと距離をつめられる。でも、どれだけ行動に移されたって、私の気持ちが変わるわけではないのだ。
「私もよくわからないんだけど、お父さんのお友達が遊びにきてるだけだよ。だから詳しいことは知らないのごめんね」
先制攻撃をかわすように無難な言葉を返すと、彼女達の肉食動物のような瞳がそんなことで満足するわけないでしょうといわんばかりにらんらんと輝いた。三人は内緒話でもするようにアイコンタクトを交わすと、更なる追撃を放ってくる。
「でも、私のお母さんが楓ちゃんちの酒屋さんにお買い物にいったら、バーナビーにそっくりな人が店番してたっていってたんだもん。ねえ?」
同意を求めるように周りに問いかけると、他の二人もうんうんと頷いている。でも、彼女のお母さんがその光景を見ただけなのに、どうして見ていないはずの二人があんなに必死にって頷いているのか不思議でしょうがないのが、いまは火に油を注ぐだけの気がするので黙っておく。
「うーん。そうなんだ。今度お父さんに詳しく聞いてみるね! じゃあ、私帰るからばいばい!」
敵前逃亡といわれてしまっても恥ずかしくはない。相手に出来ないと思ったら逃げるが勝ちだ。だっていつまで粘られたって、彼女達が望むような実はねなんていう言葉から始まるお話をしてあげることができないのだから。よいしょっとランドセルを背負いなおして、三人に手を振ると三者三様、不満そうな顔もっと知りたそうな顔をしならが手を振り返してきてくれた。手には忘れず図書室の本を持っていることを確認する。私の背中を追うように向けられる視線なんて気にしてませんという振りをしながら、教室を出て朱色の光が入り込む廊下を少し早足で歩いていく。これ以上同じことは聞かれたくなかった。どうやって交わせばいいかわかってきたとはいえども、レコーダーかなにかを耳元で再生させられるように、同じことを質問され続けるのが気分のいいものかと聞かれれば、それとこれとはまったく別問題だった。
始まりは、ほんの些細な、いや、些細なんだけど些細じゃない出来事が発端だった。
お父さんが帰ってきたのだ。あんなに辞める辞めるといっても辞められなかった会社を辞めてきて(本当は辞めるというよりも休職扱いなんだということを村正おじさんがいっていたけれど、難しいことはよくわからなかった)。なので、これからは楓と一緒にいるよとドアを開けた瞬間に抱きついてきたのはいい思い出だ。たぶん、私のNEXTの能力が発露したことも、お父さんの決断に拍車をかけたんだと思う。能力を得てからお父さんがどれだけ苦労したかっていう話は、おばあちゃんからも聞いたことがあったから。まあ、経験者だけあってお父さんから能力について学んだことも多かったんだけど、私自身がこの能力を制御できるようになるまではもう少しかかりそうだった。で、ここまではよかったんだけど、帰ってきたと同時にお父さんが言いにくそうな顔で紹介した人が、いまの私をこの混乱の渦中へと導いた張本人なのだ。
私に抱きついた後にお父さんは、私とおばあちゃんの顔を見て言いにくそうに困ったような顔をして笑った。そして、客間ってあいてるよなっていったのだ。もちろん、昔は村正おじさんとお父さんとおばあちゃんとおじいちゃんが暮らしていた家だから、客間も空き部屋もあった。でも、一人で帰ってきて、客間のことを気にするなんてと首をかしげていると、あのなあそのおと言葉を濁していたお父さんが意を決したように私達の顔を見て言ったのだ。紹介したいやつがいるって。お父さんが覚悟をきめると行動が早いのは昔からのことなので、言うが早いか外に待機していた紹介したい人とやらを呼ぶように、おいバニーと呼びかけた。バニーってなんなの兎さんなのと疑問に思っていると、こういうときくらいは名前で呼んでくださいよととても聞きなれた声が私の鼓膜を揺らした。おばあちゃんもその声に聞き覚えがあるみたいで、同じように肩を揺らしたのがわかった。でも、聞き覚えがあるのに親近感を持つような人ではなかった。もしかしてと考えて、いやまさかそんなと否定する。でも、否定したそのすぐ後に、お父さんが私の必死の思考を軽く飛び越えて、そのもしかしてを肯定してくれたのだ。
お父さんの仕事仲間だったバーナビー・ブルックスJr.さんなんだけど、ちょっといろいろあって家に住めなくなったらしいから、落ち着くまでの間でいいから家に住まわせてやってもいいかな。部屋余ってるし大丈夫かなって思って連れてきたんだけど。一字一句違うことなく、この後、バーナビーさんが、そんな紹介のしかたはないんじゃないですかとお父さんの脇腹を突いてから、ご紹介に預かりましたバーナビー・ブルックスJr.です。虎徹さんとはお仕事少しお世話になったことがあるのですが、家がテロ事件で壊れてしまって困っているところで声をかけていただいたんです。迷惑を承知でお言葉に甘えてしまいました。ご無理は申しませんので、迷惑な場合はすぐにおっしゃってくださいと、深々と頭を下げたことまで覚えている。
真っ白になった頭でお父さんとバーナビーさんの顔を見て、とりあえずこれが夢でないことを確認する。反応のない私達をなんと思ったのか、おーい、かえでー、かーちゃんとお父さんの緊張感のない声が聞こえた。その隣でバーナビーさんが突然ですみませんと眉根を下げて謝ったのだけれど、こんなときの表情も写真で見たときみたいに格好良かった。
自然と顔を見合わせた私とおばあちゃんは、お互いに同じような顔をしていたと思う。掠れた声で、部屋は空いてるけれど、と返したおばあちゃんに、お父さんはじゃあバニーのこと面倒見てやってもいいかなといった。バーナビーさんはそれでいいのかい。いいよなバニー。ええ、虎徹さんのご家族に迷惑がかからないのでしたら。困ったときはお互い様だから、部屋を貸すくらいは構わないけど、ねえ楓。頭上で交わされる会話、おばあちゃんに同意を求められて、なんとかうんと返すことしか出来なかった。そんな私にバーナビーさんは、ありがとう、迷惑をかけることになるけどよろしくね楓ちゃんと笑ってくれた。
そう、お父さんが、どうしてだかバーナビーさんを引き連れて帰ってきたのだ。
お父さんが帰ってきてくれたのはちょっとした些細なことなのかもしれないけれど、バーナビーさんがセットで帰ってくるなんて聞いていないし、聞いていたらもっとおしゃれをしてお出迎えをしたし、だってバーナビーさんだし。いま思い出してもちょっと夢のようだ。そしてこの夢のような出来事のあとから、私の質問攻めの日々の始まりだったのだ。
家に帰ると家の中はしんとしていて、お父さんもおばあちゃんもいないみたいだった。バーナビーさんはもちろんこの時間は家にはいない。どうしてもちろんかというと、クラスメイトの噂は真実であり、村正おじさんが働いている鏑木酒店で店番のお仕事をしているからだ。シュテルンビルトのスーパーヒーローが酒屋さんの店番なってちょっと信じられない本当の話だ。信じ切れなくて何度か私もお店を覗きにいつたけれど、果たしてバーナビーさんはあのきれいな笑顔を浮かべて調理用のお酒を売っているところだった。まだ日常の中に組み込みきれていないバーナビーさんの存在に浮かれ出しそうになる自分にため息をついて、家の上がりがまちにランドセルを下ろすと、ちょうどビールのケースを運んでいる村正おじさんが玄関から顔を覗かせた。
「おかえり楓」
「ただいま。村正おじさんどうしたの?」
「虎徹が家にビールを届けて欲しいっていうものだから、配達の途中で寄ったんだ」
見慣れた前掛けをして慣れた様子で村正おじさんは台所までビールを運んでいく。その背中を追っていくと、ちょうど台所のテーブルにおばあちゃんからのメモ書きが置いてあった。夕飯の買い物のためにスーパーにいっているらしい。
「お父さんは?」
「うちでバーナビーと一緒に店番をしている。いつまでもふらふらさせておく訳にはいかないだろう。まあ、バーナビーのほうが真面目に働いているくらいだけどな。なんなら見に来るか?」
台所の端にビールのケースを置いた村正おじさんは、腰をさすりながら首をかしげる。うんと首を振ったらその言葉どおりにお店のほうに連れて行ってくれるんだろうけれど、私は少しだけ悩んでから明日までに提出しなければいけない算数の宿題があることを思い出して肩を落とした。
「ううん。宿題しなきゃいけないから今日はいいや。お父さんとバーナビーさんにがんばってねって伝えておいて」
「わかった。それじゃあ行くけど、もしも何かあったら電話してこいよ」
「うん!」
大きく頷いた私の頭を村正おじさんはぽんぽんと撫ぜてくれた。お父さんなんかよりも長く近くにいたせいか、こういうことをされることにあんまり抵抗はない。じゃあなといって背を向けた村正おじさんを見送ってばいばいと手を振ったときに、大切なことを思い出して大きな声を上げてしまった。
「村正おじさん!」
「な、なんだ楓」
私の上げた大声におじさんも吃驚したみたいで、何事かと目を丸くしてこちらを振り返った。その拍子におじさんがつけていた、鏑木酒店の前掛けが揺れる。村正おじさんは渋くてかっこういいからそれが似合うのだけれども、前掛け関連でどうしても許せないことがあったのだ。
「バーナビーさんに、やっぱりその前掛けをつけるのは止めてくださいって伝えておいて!」
「それ、前も言っていたな。結構いいデザインだと思うんだが」
前掛けを掴んで、少しだけ悲しそうな顔をしている村正おじさんはわかっていない。デザインが悪いわけじゃないのに。バーナビーさんがその前掛けをしているっていうのが駄目なのに。初めてお店を覗きにいったときに、バーナビーさんが私を笑顔で迎え入れてくれたのは嬉しかったけれど、あの前掛けをしているのを見て愕然としてしまった。だって、どこか泥臭いイメージのある鏑木酒店の前掛けを、あの繊細で綺麗で格好良くて王子様みたいなバーナビーさんがしてるんだもん。バーナビーさんのファンなら誰だって止めたくなる。私が外してくださいって言ったのに、ここの従業員だからしないとわかりにくいよといって、笑って交わされてしまったのだ。私が言って駄目でも、店主の村正おじさんが言ったらバーナビーさんだって納得してくれるはずだ。
「バーナビーさんだけは絶対駄目なの! お願いだからね!」
「あ、ああわかったよ。でも、そんなに気になるなら、覗きにこればいいんじゃないのか?」
「だから、宿題があるの! それに、お店にいかなくったってお、父さんもバーナビーさんも、この家に帰ってきてくれるんだもん。だから、いいの」
そういってじゃあねと背中を押した私に、村正おじさんはすごく優しい顔で笑ってくれた。なんだかそれが少しだけ恥ずかしくって、はやく仕事に戻ってとおじさんの背中をぐいぐいと押してしまう。最後に一度だけぐしゃぐしゃと私の頭をなぜた村正おじさんは、じゃあなと言っていってしまった。私はその背中を見送って、玄関に置いたままだったランドセルと図書室で置いた本を回収して、村正おじさんに言ったとおり宿題に勤しむことにした。バーナビーさんとお父さんの働く姿を見られないのは少しだけ残念だったけれど、また機会があるのだと思えばそこまで思い悩むほどのことでもなかった。
そう、もうおばあちゃんだけじゃない。優しい村正おじさんも、嘘つきだけれども誰よりも私のことを考えてくれるお父さんも、まだ少し吃驚しているけれども期間限定で鏑木家の一員になったバーナビーさんも、この家に帰ってきてそして私の傍にいてくれる。みんな私の大切な家族なんだ。だから私は、みんなが帰ってきたらお疲れ様お帰りなさいって笑顔で迎えてあげればいい。お帰りなさいと、いってくれる人というべき人がいる。なんだか、信じられないくらいに家族みたいで、私はランドセルを抱きかかえたまま、ベッドの上にダイブしてしまった。
見慣れた実家の店のカウンターに立つのは、実質小さいころのお手伝い期間ぶりぐらいだった。まさか、ヒーローを休業して実家の手伝いに入るなんて事は想像もしていなかった。しかも、バニーを引き連れて。だが、俺なんかよりもバニーのほうが若いだけに適応能力が高いのか、あいつは何の疑問も持つことなく、閑古鳥が鳴いているバーのやりくりを全て俺に任せて、店のほうで店番に勤しんでいるのだ。それだけじゃない。自ら志願して店の手伝いを始めたのだから恐れ入る。母ちゃんも兄貴も、俺よりも先にバニーのほうが店の手伝いをしたいといい始めたことをだしに執拗に俺のことを責めてきたのだから、バニーの勤労精神も少しだけいい迷惑だ。しかし、そこまで言われては鏑木酒店の次男の名が廃るので、言いように操作された気がしないでもないが、バニーと共に手伝いに借り出されている。
欠伸をかみ殺して、ドアのほうへと目をやる。もちろん人が来る気配はない。まだオープンしたばかりの時間だから、こんな夕方から酒を飲みに来るほど暇な人間もいないだろう。シュテルンビルトならまだしも、この片田舎で昼間っから酒をかっくらっていたら、次の日には奥さんあたりに知れて雷を落とされそうだ。
「誰も来ませんよねー」
俺以外の人間の気配のしない空間に声をかけて返事が返ってくるわけがない。しかし、返事がないことが、俺にとって一番のオーケーサインだったので、誰もいないならいいだろうと暇つぶしをかねて隣に併設されている酒屋の方をのぞくことにした。隣も隣、本当に隣に並んでいるので、店の行き来はすぐ出来る。もしもバーのほうに客が来たなら、呼び鈴を鳴らして、呼んでくれるだろう。まあ、そんな軽い気持ちだった。
「虎徹さん、仕事サボって何しに来たんですか」
俺が来るまで相手をしていた客に見せていた営業スマイルを捨て去って眉をしかめたバニーが、女王様か何かのように腕組みをして睨みつけてきた。しかし、その腰には鏑木酒店の前掛けをつけているので、なんだかバニーの印象とつりあわなくて見るたびに笑いそうになってしまう。この場面で笑ったりしたら確実に命取りなので、なんとか頬に神経を集中させて不貞腐れたような表情を維持する。
「だってさー、バーのほう暇なんだよ。どうせバニーだって暇なんじゃねーの?」
声を潜めて言い訳を呟くと、ずれているわけでもないのに眼鏡のブリッジを押し上げたバニーが、俺のことを鼻で笑って肩をすくめた。明らかに馬鹿にされているというか、見下されている感じがするのは気のせいではない。
「さっきまで接客していたのが見えないんですか。虎徹さんには申し訳ないですけど、僕は暇ではないんです。ほら、またお客さんが来ましたよ」
下等な虫か何かを見るような目を、一瞬で客寄せパンダのような営業スマイルに切り替えたバニーは、満面の笑みでいらっしゃいませと、どう考えてもバニー目当てとしか思えない主婦のお客様を迎え入れた。俺も釣られていらっしゃいませといったのだけれども、すぐに気持ちがこもってませんと、あのブーツのかかとでつま先を踏み潰された。痛みで涙目になっていると、日本酒の銘柄を二本も持ってカウンターのほうへ来たお客様を接客するために、邪魔ですから向こうへいっていてくださいと、俺を涙目にした張本人に無下に扱われてしまう。もちろん、店の売り上げになりそうな客をみすみす見逃すわけにもいかないので、この場はおとなしく下がっておくことにする。
少し離れたところで、踏み潰されたつま先の無事を確認しながら話を聞いていると、どうやらこの二つの銘柄ってどう違うんですかという質問らしい。普段なんてそんなことは気にしないだろうに、バニーの説明を真剣に聞きながらうんうん頷いている。しかし、話を聞いているように見えて、その実視線はバニーの顔にロックオンされているのだ。ちなみにこういう人種が、何人か店の外にも待機している。店に入っても何も買えない小中学生やら高校生は、親にお手伝いで買い物に行かせてくれと強請るか、外でバニーの出待ちをして少しでもいいからこいつのに会えないだろうかと画策しているのだ。その根性には恐れ入る。
バニーが鏑木酒店で店番をしだしてから、売り上げは好調で客足が途切れることもない。若干ではあるが、兄貴の機嫌もいいようだった。どうせなら、バーのほうのバーテンでもしないかとバニーに話を持ちかけているところを、何日か前に目撃してしまった。このままいくと、俺の仕事がバニーによって奪われてしまうかもしれない。さすがに御用聞きのほうが兄貴が全部やっているし、配達もそうなのだが、店番関連はバニーに一任される日が来てもおかしくない。
「虎徹さん、まだ地面に這いつくばってるんですか?」
「這いつくばってねえよ! ちょっとお前に踏まれたつま先を確認してただけだ! それよりさっきのお客さんは」
「ああ、懇切丁寧に質問にお答えしたら、ご機嫌で二本とも購入して帰っていかれましたよ」
「おまえ、ヒーローよりも店員のほうが向いてるんじゃないか」
「やめてくださいよ。僕も一瞬考えちゃったじゃないですか」
バニーがあまりにも真剣な顔をして言うものだから、冗談なんだか本気なんだかわからなくて笑ってしまった。中途半端な時間で次の客の姿は見えないので、カウンターの端に寄せてあったパイプイスを引き寄せて座ると、バニーは俺の隣でなにやら発注書に目を通し始めた。その所作に迷いはなくて、酒屋の店番も板についているようだ。俺が子供のころから変わらぬ見慣れた店内。そこにたしかに見慣れた俺の相棒が入り込んでいるわけなのだが、まさかバニーがうちの店で働くようになるなんて想像もしなかった。
「あー、ここにバニーちゃんがいるとか信じられねえわ」
自然と出た言葉に、発注書に目を落としたままだったバニーが小さくため息をついた。
「今更なに言ってるんですか。僕はいいって言ったのに、あなたが無理矢理引っ張ってきたんですよ。邪魔なら出て行きますので、早いうちに言ってくださいね」
バニーがなんでもないことのように吐き出したのは、俺が考えていたのとは百八十度というか、まったく掠りもしない考えで、またバニーの悪い癖が出たんじゃないだろうかと慌ててやつの前掛けを引っ張った。こっちを向けというサインだったのだか、バニーは面倒そうに仕事の邪魔はしないでくださいといってくれる。
「おい、こっち向け」
「だから、仕事の邪魔は」
「ちげえよ、仕事よりちょっと大事な話だよ」
言い募る俺にやっと発注書から顔を上げたバニーが俺へと視線を向けた。オリーブグリーンの瞳は真剣な色を宿していて、邪魔なら早く言ってくださいという言葉が冗談じゃないんだということが知れた。楓は喜んでバニーを迎え入れ、母ちゃんだって兄貴だって、もうバニーのことを家族のように扱っている。兄貴にいたってはバニーが来たことにより店の売り上げが上がって珍しく喜んでいるというのに、どうして邪魔なら出て行きますという発言に繋がるのだろうか。バニーはわかっていなさすぎる。
「俺が言いたいのは邪魔とか、そういうことじゃないからな。この場所におまえがいるっていうのが少しだけ不思議だって言ってるんだ。兄貴なんて、おまえのおかげで店の売り上げが上がって喜んでるのに、こんなところで追い出したら俺が呪い殺される」
「他意があるわけじゃありませんよ。急に家に他人が上がりこんだら落ち着かないじゃないですか。だから、もしも邪魔ならというお話です」
「だから、その邪魔云々って話が間違ってるっていうの。お前はまったく邪魔じゃねえし、むしろ歓迎されてるんだ。それくらいわかれよ。次男坊よりも真面目に働く人間が嫌煙されるわけないだろ」
椅子に座ったまま、俺のことを見下ろしてくる翡翠色の瞳をまっすぐに見つめると、レンズの向こうの瞳が何度か瞬いてため息が落とされた。顔は逃げるように逸らされてはいるが、金糸から覗く耳は少しだけ赤く染まって見えるような気がする。
「バニー、聞いてる?」
「聞いてますよ。邪魔って言うのは撤回しますから、これ以上恥ずかしいことは言わないでください」
「恥ずかしくねえよ。重要なことだろ」
十分恥ずかしいですよと言い募るバニーは、俺の視線から逃げるようにさっきよりも落ち着かなさそうに発注書を捲ったり目を通したりしている。確実に集中できていないことは傍から見ているだけでもわかった。それでも、このままやられっぱなしというのは悔しいのか、虎徹さんってと小さく口を開いた。
「仕事サボってるっていう自覚はあったんですね」
「まあ、ほどほどには。燃え尽き症候群っていうか、なかなか仕事に身が入らなくて。俺の代わりにバニーが真面目に働いてくれるからいいかなって。こんな短期間でお客さんに商品の説明までできるようになるんなんて、おまえ本当にがんばってるよな」
「だって、あなたの実家ですから」
「えっ?」
発注書にさらさらと何かを書き込んでいくバニーは、視線一つ上げないで世界の真理か何かのように言った。バニーが言いたいことがよくわからなくて、いやわかったような気がするが、本当に俺が理解した意味で間違いないのかがわからなくて、間抜けな声を上げてしまう。
「あなたの育った場所ですから、精一杯働きもしますよ。お世話になってますし」
俺が理解できていないと思ったらしいバニーはくるりとこちらを向いて、まるで物分りが悪い生徒に、わかりやすく噛み砕いて教えるかのように、一言一言聞き取りやすい発音でさっきよりも分かりやすい言葉をくれた。もちろん、さっきカットされたであろう言葉も補足されたその台詞を理解できないほど馬鹿でない。むしろ、最初にもしかしてと思った意味で取り間違えていなかったのかと頭をかかえたくなった。
「俺の実家だからって、そりゃどーも。母ちゃんと兄貴にも聞かせてやりたいね」
「なんでですか?」
「なんででもだよ」
恥ずかしいのはどっちなんだと言ってやりたい。漏れそうになったため息を嚥下して、曇ない瞳を見返してやる。さっきは恥ずかしいからやめて下さいと顔を背けたくせに、いまは何を当たり前なことをと言いたげな表情で俺のことを見下ろしている。
「お世話になってるっていったけど、金は払うっていってなかったか?」
「どうしてもといって渡した格安の家賃以外は断られましたよ。あなたの口座から引き落とすからいいって」
「母ちゃん……」
頭をかかえた俺に、バニーは愉快そうに肩を揺らして笑った。会話のキャッチボールはいたって順調だ。もう、こうやってバニーが隣にいることが当たり前になってしまった。だから、バニーの住む場所がいないというのを体のいい言い訳にして、俺自身のためにバニーを引き連れて実家に帰ってきたのかもしれない。たぶん、こいつは、もうヒーローとしてだけのバディじゃなくて、もっと深く俺の生活の中に食い込んでいる。いまさら、じゃあさようならで別れられるわけがなかった。
誰も客のいない店内はしんと静まり返っている。ときおり聞こえてくる外の雑音は、耳にうるさくなくてちょうどよかった。配達にいってくると言って出て行った兄貴が帰ってくる様子はない。もしかしたら、バニーが店番をしているからと気を抜いて、どこかで遊んでいるんじゃないだろうか。いや、あの堅物に限ってそんなことはないか。バニーに同じことを聞いたら、村正さんを虎徹さんと一緒にしないでくださいと言われそうだ。脳内ですごく冷たいバニーの声で再生できてしまいつらすぎる。
ここまできて、ああと思った。
いまは違和を感じるこの生活も、いつかは当たり前になってしまうのだろう、と。そして俺は、これが当たり前になることが嫌ではなかった。HERO TVどころかアポロンメディアを巻き込んだ騒動のおかげで、お互いにヒーロー休業中の身だ。落ち着くまではこの場所でこうやって暮らしていけるのならば、それはそれで上々だ。
たぶん、シュテルンビルトのこと、そしてヒーローのこと、ウロボロスとアポロンメディアの黒い繋がりが発覚した今でも市民にヒーローは必要とされているのかということ、いろいろなことに結論が出たのなら、そしてヒーローが必要とされているのなら、バニーはまたシュテルンビルトでヒーローとして生きていくのだろう。能力が減退してしまった俺が、その隣でまたワイルドタイガーとしてヒーローのバーナビ―を支えてやるのは、少しだけ無理な相談だった。若干、スーツを強化して、ヒーローを続けられないだろうかとも考えたりしたのだが。
楓のヒーローになる。これは俺の中での決定事項だ。だが、休業中という看板を出して引退自体もうやむやになってしまったいま、自分なりにヒーローという仕事と、もっと違う繋がり方はないのだろうかと模索してみたかった。欲張りだといわれるかもしれないけれど、楓のこともヒーローのことも、そしてバニーのことも、無理ならいいやで諦めてしまえるほど、軽いものではなかった。もう俺の、生活の一部なのだ。
「田舎って退屈じゃねえか。都会育ちのお前には」
「そう、ですね。シュテルンビルトよりは不便ですけど、でも必要なものは全部揃っているし。空気が綺麗だし、人は優しいし、安寿さんも村正さんも楓ちゃんもすごくよくしてくださるし、こういうのも悪くないんじゃないかって思ってますよ」
もちろん虎徹さんもいますしねといって笑ったバニーの表情は、ずっと苦しんできたときには見せなかったとてもやさしいもので、ああこいつは少しは楽になることが出来たのかなあとなんだか泣きたいような気持ちになった。改変された記憶も、殺されてしまった両親も、復讐にまみれた二十一年の人生も、全部が全部を過去として語るにはまだ早すぎる。そのときが来るには、もっとたくさんの時間が必要になるはずだ。でも、もしもそうだとしても、バニーがこうやって俺の隣で笑っていてくれるのならば、その未来にだって手が届くはずだとそう思えるんだ。
なあバニー、どうせなら家族にならないか?
作成 11・08・08
掲載 11・09・27