白を基調とした静かな部屋。
 カーテンが開いた窓から吹き込む風でふわふわと揺れている。そう表現するなら清潔感溢れる爽やかな室内を想像してしまうのだから、言葉というのは不思議なものだ。だが、その後に続くのは消毒液の匂いと、体を包帯でぐるぐる巻きにされた窮屈さだった。
 枕元には頼んでもいないのに見舞いの品が溢れていて、隣に置いてある花瓶に生けられた花もひっきりなしに姿をかえる。枯れるまえに消えていく花たちは、儀式かなにかのように隣のベッドの枕元を飾る役目を任命されている。それでも処理が追いつかなくて、ベッドの足元に置かれた水を張ったバケツに無造作に生花が突っ込まれているのを見た瞬間に、この花たちに何か意味はあるんだろうかと寂しさを覚えてしまうくらいだった。
 需要と供給のバランスが崩れたような物の溢れ具合に、いまは不在の隣のベッドの男が、ひどく不満そうな顔をしていた。子供っぽいところのあるあの人のことだから、なぜ僕ばっかりに贈り物が来るのかと、小学生のような拗ね方をしているのかもしれない。むしろ、それくらいがお似合いだった。
 あまりにも羨ましそうな視線を向けてくるので、気を利かせて食べきれないメロンを丸々プレゼントしてあげたら当て付けかと怒られてしまった。おじさんはよく食べよく寝るので、一つでは足りなかったのだろうかと、もう一つセットでつけてあげたのだが、それでも気に入らなかったらしい。優しくしなければ機嫌を損ねるし、こちらが気を利かせれば怒り出すし、本当に面倒な人だ。
 その面倒な隣人は、そろそろベッドの上でおとなしくしているのにも飽きたようで、一日の大半を使って病院内の探索に心血を注いでいるらしかった。ちょっと行ってくるという言葉を残したまま、ちょっとどころか一日中帰ってこないこともあった。一度気分転換に中庭まで散歩にでたときなど、見知らぬ子供達と一緒にキャッチボールをしている姿を見かけた。まだ完全に傷が治ったわけでもないのに、あのおじさんには主治医の安静にしていてくださいという言葉が聞こえていなかったのであろうか。肌寒い中庭で、どちらが子供なのかわからないくらいに大声を上げてヒートアップし、キャッチボールに興じている様子はなかなか人目を引くものだった。しかも、たまに羽目を外しすぎて、治りきっていない傷の辺りを押さえている姿にも頭をかかえたくなった。頼んでもいないのに目ざとく僕を発見したおじさんは、気楽に手を振ってお前も混ざれよと見当違いもはなはだしいお誘いをくれたのだが、すぐに看護師さんに見つかって病室へと強制連行されていた。そのとき何を勘違いされたのか、そばにいた僕まであまり無茶しないでくださいと看護師さんにしかられてしまったのだからいやになる。完全にとばっちりだ。それ以上に、僕がお小言をもらっているときに、姑息にも看護師さんから見えない位置でニヤニヤとした笑いを見せていたおじさんを殴ってやりたくなった。あの人は本当に、僕と十以上も離れているのか甚だ疑問である。
 それ以来は看護師さんたちもおじさんが病室から抜け出さないように気を張っているようだったが、なにかに付けてというか、こういうところばかりは無駄に高いスキルを持っているというか、なかなかどうして見つかることもなく病室を抜け出して院内を放浪しているのだ。もちろん今日も、昼食を食べ終わった後にこのままじゃ運動不足になるから腹ごなしの運動をしてくるといって、病室から姿を消した。普段トレーニングセンターで、トレーニングをサボって時間つぶしをしている人とは思えないような言葉だ。たぶん、小児病棟の子供達と仲良く遊んでいるのだろう。もしくは、他のヒーロー達のところに遊びに行っているはずだ(自分で行って怒られるくらいなら、相手を呼べばいいのにと思うのだが、会いに行くことに意味があるらしい。結局、退屈を紛らわすために病室から抜け出したいだけなのだ)。そうなってくると、バディだからというわけのわからない理由で二人部屋に入れられてしまった身としては、特にすることもなく静かな時間を過ごすこととなる。ヒーローとして仕事をしているときには忙しくて消化できなかった本たちを片手に読書に浸る絶好の機会なのだが、一日中本ばかり読んでいても目が疲れてしまう。どうにも集中できなくなって、中盤の盛り上がりを見せるところまで読み進めたミステリー小説にしおりを挟み、見舞いの品が雪崩を起こさないように注意しながらサイドテーブルに置いた。
 僅かにあいた窓から、冬の冷たい風が忍び込んでくる。暖房で暑くもなく寒くもないようにコントロールされた室内にいるせいで、ひんやりとした自然の風が心地よかった。風に乗って遠くから聞こえてくる誰のものかもわからないような声の中に、おじさんが子供達と遊んでいるものも混じっているのかもしれない。そこまで考えて、ああこんなにも普通のことになってしまったのかと吃驚してしまう。誰もいない部屋の中で、当たり前のようにあの人のことを考えてしまうのかと。それほどまでに彼は僕の中に侵略してきているのかと。
 最初は負けてなるものかと思っていた。陥落されてなるものかと。そうしなければ自分ひとりでは立てなくなってしまうような気がして。でもいつの間にか、あの人は僕を脅かす存在ではなくて僕の隣に立っていてくれる人になってしまったのだ。責めるでも追い立てるでもなくて、ただただ隣にいてくれる。立っていてくれる。いままで誰も与えてくれなかったものを、まるでなんでもないもののように与えてくれる。それを名付けることはできなかった。僕が外界との関係を絶ってきていたからなのだろうか。彼の立場をなんとラベリングすればいいのかわからなかった。裏切られたと思ったときもそうだった。どうしても許せなかった。復讐を邪魔されたことも、彼が僕のことを信じてくれなかったことも。どうしても許せなかった。自分でもキャパシティオーバーしてしまって処理し切れなかった感情だったように思う。なによりもたしかに、許せないということだけが頭の中に焼きついていた。なのに、怪我を引きずって僕にジェイクの能力(すごくチープな嘘だったわけだが)を知らせにきてくれたとき、そのどれもを飛び越えて、僕の心の柔らかい部分はあの人のことを選んでしまっていた。突き放すことができたら、昔のように自分だけで生きていくことができたなら、もっと簡単でわかりやすくて苦しみなんてなかったのかもしれない。僕が信じる信じないではなくて、僕が彼に信頼されたかったのだ。もうどうしようもないくらいに、僕にとってはあの人が隣にいることが当たり前になってしまったのだ。
「おーい、バニー起きてるかー?」
 がらりと勢いよく扉が開いて、いやがおうにも毎日顔を合わせているおじさんが戻ってきた。思考の大部分を占めていた男の声に、びくりと体が震える。それを知られてしまうのは癪なので、なんでもないような顔をして、できるなら呆れているように見えればいいなと表情を作って振り返った。扉の前に立っているおじさんの後ろにいつもの看護師さんの姿は見えないので、強制送還させられたわけではないらしい。悠々自適の散歩の末の凱旋だ。
「こんな時間から寝られません。おじさんが抜け出しているあいだに、あなたがとても魅力的だと評価していた看護師さんが検温に来て、もぬけの殻のベッドをみてひどくご立腹でしたよ」
「げっ、みつかっちまったのか。廊下で会わなかったからうまく行ったかと思ったのに」
「そのうちベッドに縛り付けられても知りませんからね」
「いやあ、いくらナース相手といえどもそこまでアグレッシブなプレイは……」
「馬鹿ばっかりいわないでください」
 聞いてもいないのに緊縛はちょっとと顔をゆがめたおじさんは、そのままベッドには戻ることなく僕のベッドの隣に置いてあるパイプイスに腰掛けた。病人が体を休めるためにあるベッドなのに、この病人には余り効果のあるものではないようだった。子供達と遊んで乱れた髪を手櫛で整えながら、持っていた缶コーヒーを差し出した。なんですかと首をかしげると、お前の分だよとぐいっと押し付けられる。冷たくひえたそれはいましがた自動販売機で買ってきたものだろうと知れた。おじさんが手の中の缶コーヒーのブルトップを開けたのを見てから、ありがとうございますと押し付けられた勢いでベッドの上に転がったそれを受け取る。
「それにしてもトゲのある言い方だな。あの胸の大きさは男のロマンだろ。好みだとまではいってないけど、十分魅力的だと思うぜ」
「僕はあなたと違って胸の大きさで女性の魅力を測るような愚かなことはしませんので」
「うわー、そういうこと言うやつに限ってムッツリなんだよな」
「喧嘩売ってるんですか、おじさん?」
 缶コーヒーを手のひらでもてあそんでいたおじさんがその動きをとめてじっと僕のほうを見つめてきた。鳶色の瞳があまりにも真剣な色をしているものだから、何事かと僕のほうまで真面目な顔になってしまう。おじさんの言葉を待つように手の中にある缶を握り締める。
「なあ、もう一度いってみてくれない?」
「はあ?」
「だから、さっきのもう一回」
「喧嘩売ってるんですか?」
「そこじゃなくて!」
 おじさんが何にヒートアップしているのかわからないが、そこじゃないのならどこなのだと問いたくなる。ミルクと砂糖がめいいっぱい入れられたコーヒーを流し込みながら、片手間の思考で考えてみる。もちろん真剣に熟考しているわけでもないので、考えてみても結論はでなかった。仕方なしに、おじさんの言うことが理解できませんとため息と一緒に吐き出した。
「それだよ!」
「どれですか? メロンですか?」
 膝を打って身を乗り出したおじさんに、その視線の先にある、僕の背後というか、すぐとなりにつんである見舞いの品のことなのかと素のままのメロンを差し出し首を傾げてみるが、どうやらそのことではないらしい。僕の手からメロンを受け取ったおじさんはコーヒーの缶を足元において縦横無尽に駆け巡っているメロンの網目をなでながら、もうメロンの話はいいんだよと疲れたように呟いた。
「じゃあなんですか? おじさんの言葉遊びに付き合うほど暇じゃないんですけど」
「それだよそれ。おじさんってなんなんだよ」
「おじさんはおじさんですよ。意味を知りたいなら辞書を引いていただけませんか」
 気持ち悪いくらいに真剣な顔をしていたはずなのに、それは一瞬で何もなかったかのように崩れ去って、わかりやすくがくりと肩を落とされた。その僕に対する失礼な態度はどうにかならないんだろうか。
「せっかく脱おじさんしたかと思ったのに」
 はあと、二度目のため息。しおらしく言い募られてもまったくかわいくない。しかも腕にかかえているのがメロンなのだから格好もつかないというものだ。
「本当にバニーは素直じゃねえなあ」
「僕はいつだって素直ですよ。あなたの自分勝手な思い込みで判断しないでください。だいたいあなただって、僕のことバニーって呼ぶじゃないですか」
「えっ?」
「だから、おじさんだって、」
 そこまで言葉にした瞬間に、おじさんのしまりのない笑顔が視界をよぎって自分が吐き出そうとしていた言葉をとっさに飲み込んだ。一度音にしてしまったものはどうしようもないけれど、だとしてもこれじゃあまるで子供みたいに拗ねて強請っているみたいじゃないか。
「なんだよ、バニーちゃんはバニーちゃんじゃ嫌なのか?」
 いままで肩を落としていた中年はどこへ消えたのか、わざわざいやらしい笑いを見せながら覗き込んでくる。手元にある缶を投げつけてやろうかとも思ったが、ベッドにコーヒーの染みができるだけなので賢明な策とはいえない。おじさんを調子に乗らせてしまった自分の発言をどうにかなかったことにできないだろうか。無理だとはわかっていても、嬉しそうに細められたヘーゼルの瞳が憎らしい。
「そのメロンあげますから、隣のベッドでおとなしくしていてください。あなたが脱走ばっかりするから、僕の管理不行き届きだって看護師さんにちくちく責められるんですよ」
「照れるなって」
「照れてません。どうしたらそんな話になるんですか。おじさんははやく目と耳の治療もしてもらったほうがいいみたいですね」
「はいはいはいはい。わかりましたって、バーナビーさんの言うとおりにしますよ」
 メロンを持ったまま立ち上がったおじさんは、少し前までメロンはいいんだよと主張していたくせにこれはお言葉に甘えてもらうことにするといって、自分のサイドテーブルに無造作に転がした。ごろんごろんと揺れるメロンをなんとか固定したおじさんは、そのままベッドに寝転がる。
「なあバニー。落ち着いたら飲みにいこうか」
「退院するまえから、飲酒することを考えないでください」
 隣のベッドがギシリと揺れる。寝返りを打って僕のほうをみたおじさんは、そんなつれないこというなよと眉根を寄せた。入院してから禁酒を命じられていることがなかなかつらいらしい。ことあるごとに見舞いの品に酒はないのかと聞いてくるぐらいだから、相当なのだろう。しかし、普通に考えて入院している患者相手にお酒を持ってくる人がいるとは思えなかった。その正常な判断ができないくらいにはアルコールに飢えているのだということにしておく。
「あなたが、虎徹さんがおごってくれるなら考えておきます」
 沈黙の後に視線をさ迷わせたおじさんは、何がおかしいのかはわからないけれど満面の笑みを浮かべて、本当にしょうがないやつだよと呟いた。
「ぜったいお前のほうが年俸いいはずなのに、無心するなよ。どうせなら先輩に感謝の気持ちを見せるとかどうだ」
「僕の邪魔ばっかりする人を先輩とはいいません」
「じゃあ間を取って割り勘で」
「僕の提示した条件覚えてますか?」
「なんだよ、いいじゃないか割り勘。いいじゃないか、イーブンな関係。これ以上ないくらいに平和的解決方法だろ」
 本当に、しょうがないのはどっちなんだよ。飲みに行くと返事をしたわけでもないのに、虎徹さんはどこの店がいいと話をふってくる。仕方がない人だと呆れるのと同時に、この関係は明日も明後日もこうやってなんだかんだ言いながらも続いていくのかと思うと、上手い言葉が見つからなかった。その場限りではない、彼がいて僕がいて、相手を利用することや腹を探り合うこと、ビジネスライクでもない確かな体温のある関係。不快な侵略者は、いつの間にか当然のように僕の心の中に居座って、うちにこもってばかりいた僕の中身を破壊しつくしていく。壁が壊れた先には、窓の外に広がるような澄んだ青空が広がっているんだ。
 望んだことも、欲したこともなかった。なのに、まるで嵐のように現れて、暴力的ともいえる強引さで与えられたたくさんのものに、僕はどうしてだか泣きたくなった。
「僕、泣き上戸かもしれないですけどいいんですか? あなたの駄目なところをあげ連ねて泣きわめくかもしれませんよ」
「おう! おじさんが責任もって介抱してやるから安心しろ」
 中年のウインクなんて向こうからお願いされたって見たくない。お調子者の典型みたいな解答だ。それでも僕は、いままで感じたことのないあたたかいものに、名の付けられない感情に、ラベリングすることのできない関係に、胸の奥を揺さぶられた。悲しみでも苦しみでも憎しみでもない涙なんて、初めてだろうと四歳の僕さえ知らなかったそれに瞼を閉じる。かすかな光を感じる瞼の裏に映るのは一つの光景。虎徹さんと僕が、なんだかんだ言いながらお酒を飲んでいるところなんて、案外簡単に想像することができる。だからたぶん、そういうことなんだ。






作成 11・06・28
掲載 11・08・07