出会ってから、短いようで長い時間を共有する中で、バーナビー・ブルックスJr.は鏑木・T・虎徹のことをとても好ましい人間だと思っていた。本人に自覚があるにしろ、ないにしろ、そしてそれを本人が認めるにしろ認めないにしろ、いままでの二十年間のうちで、他に類を見ないほどに心を開こうとしていたのはたがえようもない事実だった。信じてみようと思ったと、声にならない声で呟いたのは、そして裏切られたと知ったときその激情を抑え切れなかったのは、彼が思う以上に鏑木・T・虎徹という人間に魅入られていたからなのだろう。
 だが、いまこのときその現実が、バーナビーには許しがたいものとなっていた。
あと少しで、あと少しほんの少しで、自分が心の底から願って止まなかった復讐という切実なる願いが成就しようとしていたのに。バーナビーにとってこれ以上、これほどまで人生をかけた願いなど存在していなかったのに。たった一瞬、虎徹という男の甘言に惑わされてしまっただけで、自らの切実なる願いがまた一歩遠のいてしまったのだ。

 許せないと思った。バーナビーにとって虎徹は、マーベリックを除く人間の中でただ一人の理解者だったはずなのに、信じようとした男が自らのことを信じることもなく、それどころか、自分自身の邪魔をする立場になるだなんて。バーナビー・ブルックスJr.にとっては鏑木・T・虎徹は信頼に値する男であるかもしれないと、そうに違いないと願おうとしていたのに。絶対不可侵だったバーナビーの柔らかい部分に触れることを、許そうとさえしていたのに。
だから、許せないと思った。

 信じろといいながら、信じようとした僕を裏切るなんて。許せないと思った。あなただから。どんなことがあったって、同情でもなく、蔑みでもなく、下心でも、優越感からでもなく、ただただそばにいてくれたあなただからこそ信じようと思ったのに。そのあなたがこんな手ひどいかたちで僕のことを裏切るなんて、許すことができないと、バーナビーは怒りと絶望と暴力的衝動に苛まれる頭で考えた。
 誰もいない男子トイレの中、薄暗い光に照らされた鏡に映るバーナビーの表情は、手負いの獣のようにも、今にも泣き出しそうな子供のようにも見えた。
 虎徹の短慮としか言いようのない行動のせいで、事態は好転するどころか最悪の状況へと進むばかりだ。いや、あそこで虎徹が計画通りの行動をしたからといって望みどおりの結末になったかどうかは分からない。だとしても、いやだからそれがどうしたというのだ。バーナビーにとってはあのときの虎徹の選択が、行動が、己を信じてくれなかったという事実が、何よりも許しがたい裏切り行為であり、そしてまた自らがどうしようもないくらいに虎徹のことを信頼しようとしていたという事実に他ならなかった。
 もともと色が白いせいもあるが、十分に休息が取れていないせいでバーナビーの顔色は蝋のように青白く、緑の目には分かりやすい疲労の色が浮かんでいた。常人よりもはるかに体を鍛えているために、これくらいのことで悲鳴をあげるほどやわなつくりはしていなかった。深い湖水のように澄んだ色をしているはずの瞳は、いまは霞がかったように曇った色をしている。その瞳は自らの最悪な形相を映して諦めのように瞬いた。
 こんなことになるなら、誰にも心を許すんじゃなかった。自分の二十年を否定するかのように安易に手を伸ばすんじゃなかった。バーナビーはいくら後悔しても足りないくらいに、おろかにも浮かれていた自分を絞め殺してやりたい気分になった。
 許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。僕を裏切るなんて許せない。僕を信じてくれないなんて許せない。僕を信じてくれなかったくせに、あんな顔をしてまるで後悔していますなんて素振りを見せるなんて許せない。そんな傷ついたような顔をするなら、どうして僕を裏切ったんだ。どうして僕を信じてくれなかったんだ、どうして僕を、僕を信頼てくれなかったんだ。あなたはまるで外にある自販機にコーヒーを買いに行くような気楽さで僕に自分を信じてみろと、そういったくせに。あなたはまるで、なんでもないことのようにそういったくせに。許せない。許せない。許せない。そればかりが頭のなかをしめていく。あの男のことを、鏑木虎徹のことを許すことができない。
どんどんと一人の男のことで埋まっていく心の中を、バーナビーは耐えがたい痛みのように感じながら、どこにもぶつけることのできない痛みと苦しみと憎しみにも似たなにかを吐き出すように、自らの悪鬼か羅刹のような顔をなぞった。そこまできて、自然に当たり前のように、この顔を見られたら、あのお節介な男が余計な気を回すのだろうかと考えている自分に気づいた。

 たしかにバーナビーはあの男のことを許せないと思っている。
 では何故許せないのか、バーナビーにとってなにが裏切りであったのか。考えたくないと思った。だが、考えなくたってその怒りの根源は何であるのか一目瞭然であった。虎徹がどう考えているのかは知らない。わからない。他人だから当然だ。そうではあるが、バーナビーは自らのことをもう少しだけ踏み込んで考えることができた。彼のこの嵐のような激情の根元は、虎徹が信じてくれなかったという悲痛な叫びだった。復讐を邪魔されたことだって、たしかに許せなかったのかもしれない。それよりも深く根ざしているのは、信じてみようとした自らを踏みにじられた悲しみであり、悲憤であり憤りであった。信じたいのに信じてくれなかった。自らを認めてもらえなかった悲しみであった。一番苦々しくて仕方なかったのは、ここまできても虎徹を信じたいと、そして彼に信じられたいと心の底から考えていたバーナビーの心そのものだった。

 鏡に映る己自身は、何も語ってはくれない。ほんの少し前まで虎徹と信頼しあうバディか何かのように振舞っていたことが、遠く思い出せないほど古めかしい過去のように思えた。その過去の中で、虎徹の隣に立っているバーナビーは、自らが知る二十年の中で浮かべたことのないような安堵と安らぎを宿した表情をしていた。それが妬ましくもあり許しがたいことでもあった。
 バーナビー・ブルックスJr.にとって、何よりも一番の裏切り者は己自身だったのかもしれない。
 
 
 たゆたうようにゆれる。まどろみと現実の狭間を行き来するようにつたない。どこか遠くで声がする。それを知覚することはできたが、声の発信源は虎徹にとって酷く遠い場所だった。少し前までは耐え難い痛みを感じていた体は、自らに迫っていた泥のようなまどろみに身を任せたためにどこか遠くへと消え去ってしまった。
 ああと、思った。
 思考は定まらない。これが夢なのか現実なのかも虎徹にはよくわからなかった。ぼんやりとする頭の中で、なんてことをしてしまったのだろうかと考える。だが、その重大な出来事がなんだったのかを思い出せない。ただ切に、まるで懺悔するかのように心の中を占めるのは、彼のバディ、バーナビー・ブルックスJr.のことであった。
 強がりで立ち続けるボロボロな彼を見るたびに、泣けばいいのにと、思っていた。そうすれば虎徹自身が彼のことを慰めることができるから。人生の最終地点として掲げるには悲しすぎる望みばかりを叫ぶ彼に、もっと歳相応のことを願えばいいのにと思っていた。そうすれば虎徹自身が彼の願いを叶えることができるから。百パーセントは無理だったとしても。空白に近い二十年を、少しでも幸福な思い出で埋めることができるのではないかと、特別ではなくたっていい、普通の日常を与えることができるのではないかと思っていた。
 だってそうではないか、虎徹にとってバーナビーは生意気な新人だったはずなのに、歳相応な部分を持っていることを知った。歳相応というよりも幼い部分を持っていることを知った。復讐が自らの望みであると高らかに宣言するくせに、あんなに優しい穏やかな顔をして笑うことを知った。虎徹にとって生意気な新人は、いつの間にか生意気だけれどもそれだけではない、とてもくすぐったい表現ではあるがいつくしむべき対象に変化していた。そして、バーナビーも不器用に臆病に虎徹に心を許しているように思えたのだ。
 なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 泣けばいいと思っていた。願いを叫べばいいと思っていた。でもあんな顔をさせたかったわけじゃなかった。たしかにいえる事は、バーナビーが願ったことを裏切りたいわけじゃなかった。ただただ、四歳という幼さで両親を失いその傷を癒すことなくむしろ癒すことなど望まず、手負いのままに成長してきたバーナビーを守ることができたのなら、人間としていたって当然の楽しみや悲しみや美しさやすばらしさやたくさんのものを与えることができたらいいのにと、虎徹は願って止まなかっただけだったのだ。自分勝手な考えだとは分かっていた。でも、それでもそうありたいと思っていたのだ。
 どうして信じてくれなかったのかとバーナビーになじられて、信じてないわけじゃないと叫び返すことができたのならよかった。でも、とっさに虎徹は言い返すことができなかった。言い訳のように、いや言い訳でしかないものを頼りなく揺れる声で吐き出すことしかできなかった。そんな自分が情けなく矮小なもののように思えた。
 心配だった。守ってやりたいと思っていたから。傷つけたくないと思った。誰よりも近くで、バーナビーの膿傷ついた心を見ているように思っていたから。信じろといいながら、バーナビーをかごの中に入れていつくしむように、閉じ込めて自由を奪うように、ただ自分と同じ痛みを、そして楓と同じ苦しみを知るバーナビーを、自己満足のみで虎徹の庇護欲の中に押し込めようとしていたのではないだろうか。そうだとするのなら、自分はなんて傲慢だったのだろうと、虎徹は自分の愚かさに泣きたくなった。
 バーナビーは鏑木楓ではない。そして鏑木・T・虎徹でもない。バーナビーはバーナビーにしか分からぬ苦しみと決意を背負った、バーナビー・ブルックスJr.でしかないのだ。彼が涙を流すのならば、泣き疲れるまで隣に立ってやればいい。望まれるのなら肩を差し出し胸を貸せばいい。彼が願うのならば、叶えてやるのではなく一緒に向かっていけばいい。バディなのだから共に掴み取ればいい。虎徹自身がバーナビーに信頼されたいと思うのならば、虎徹がバーナビーを信頼すればいい。すべてがはやすぎたのだろうか。急ぎすぎたのだろうか。もっとゆっくりとあせることなく、自分達の信頼関係を育てていくことができればよかったのにと、いまさら遅いかもしれない悔恨の情が浮かんでは消えていった。
 手遅れであるとは、思いたくなかった。
 虎徹にとって、バーナビーはなくてはならない相棒となっていた。あの憎まれ口だってなれればかわいいものだし、素直じゃないのはただうまく感情表現ができないだけだとわかってきた。まだお互いのことを、目隠ししながら手探りで引き当てている段階なのだ。急きすぎたということはあっても遅すぎるということはないはずだ。
 虎徹の隣にバーナビーがいて、ワイルドタイガーの隣にバーナビーがいる。
それはもう、覆しようのない日常であり当然であり、欠くことなくあるべき姿だった。だからいまさらその当たり前がなくなってしまうということを、考えることも受け入れることも想像することもできない。守ってやりたいと思った。かけた二十年を埋めてやることができるのならばと願うように思った。誰にも助けを求めることなく苦しみを身のうちに囲い続け、復讐という乱暴な衝動のみでその虚を埋め続けるバーナビーに、もっと美しいものをすばらしいものをそして幸福というものを与えてやりたいと思った。全部うそではない。いまも確かにそう願っている。そう願って止まない。迷うことなくこの願いは真実だと虎徹は宣言することができた。でもそれ以上に、バーナビーの相棒でありたいと望まずにはいられなかった。

 願うことすべてがうそではない。バーナビーを裏切ったつもりなど微塵もなかった、自分なりのやり方で、自分なりの選択で、間違ってしまったのだとしても、そのときに正しいと思ったことを自らに恥ずかしくないように選んできた。
 ただ少し、ほんの少し、その少しが重なり積もっていって、いつの間にか道を間違えてしまったのだとしたら、己の間違いを正すために、いまからでもいいバーナビーを信頼し、庇護するだけではなく対等な立場で隣に立ちたいと、強く思った。もう誰の助けも要らないとばかりに一人で立ち一人で戦おうとするバーナビーの隣が自分の居場所であればいいと、そしてそこが自分の居場所に他ならないはずだと、ぼんやりともやのなかを浮遊する意識を掴み取る。
 遠くで鏑木さんと呼ばれた気がした。そんな他人行儀な呼び方はよしてくれないかバニーと、虎徹は誰にともなく呼びかけて薄く目を開いた。声になっていたのかも分からない。掠れて音にさえなっていなかったのかもしれない。それでもバニーと、いまここにはいない彼の名を呼んだ。その途端に、漠然としてつかみどころのなかった情報や記憶たち、そして痛覚までもが虎徹の頭の中を占拠する。
意識が戻ったぞ、大丈夫ですか鏑木さん、鏑木さん、まるで騒音の中心にいるように一気にたくさんのものが溢れてくる。ここがどこなのかさえ分からない。なのに虎徹は、そうだと思った。こんなところで寝ている場合ではないと。あいつのところに行かなければならないと。いましかないのだ。あいつの隣に立つチャンスは。もう一度あいつのことを信じるチャンスは。バーナビーの求める形ではなかったとしても、ずっと虎徹はバーナビーのことを想いいつくしみ信頼してきた。だからそのすべてをうそにしてしまわないためにも、虎徹は行かなければならなかった。

 なあバニー、もう一度あの憎まれ口で、俺のことをおじさんと呼んでくれよ。いまならどんなひどいことをいわれたとしても、俺はお前のことを笑って抱きしめるから。







11・06・22