誰もいない部屋の中、夜陰にまぎれて息を吐いた。秘め事ばかりが増えていく。あの人のことを考える時間ばかりが増えていく。ウロボロスという、僕に与えられた唯一の糧であり、またどこまでも絶えることのない憎しみの対象である言葉以外に、こんなにも僕を悩ませる存在があっただろうか。
もっと、きれいならよかった。
そしたら、こんなにも悩むことはなかった。葛藤はしただろう。僕の根幹が揺さぶられただろう。だけどただ、バディとしてあの男を求めることができたならばよかった。なのに僕は酷くきたないかたちをしたものを、求めようとしている。自分がこいねがうように求めようとしていることが、おかしいということは分かっていた。
もう、アクセルは踏んでしまった。ブレーキはない。夜、誰もいないベッドの中で息をつめ、ありもしないものを思い描くように、僕はみにくい。
ぎしりと、べッドのスプリングが軋みをあげる。その音さえ、僕をさいなんでいるように思えるのに、もう止まれるはずがなかった。胎児かなにかのように丸まり、ぼんやりと浮かぶ光さえもを拒絶するかのように強く瞼を閉じる。男ならば、誰もが経験するような性欲処理だ。
そう、この行為は、僕の中の膿を吐き出すような、ただの処理行為なのだ。
自己弁護を繰り返すように瞼の奥の暗闇を追って、下肢に手を伸ばす。
思い浮かべるのは、柔らかな肢体を持った女性の体。入りはいつもそれだ。たぶん、安物のポルノ映画にでも出てきそうな分かりやすい性欲の対象。僕の頭の中で女は僕の望むとおりに股を開き、受け入れてくれる。だから、僕は、その女を抱くつもりで自分を高めていくのに、いつの間にか触れたいから触れられたいという欲求へと変わっていく。思い描いていた欲望の対象も一緒に。はっと息を吐いて熱を持ち始めた性器をゆるく上下に擦りあげる。頭の中で扇情的なポーズをとりながら甘えるような声を出していた女はもういない。それは、嫌になるほど見慣れた男へと姿をかえた。節くれだった指先が僕に伸ばされて、バニーという低い声が脳裏に響いた。ただそれだけで、僕の性器は硬さをます。いまこの瞬間だけは、罪悪感さえ飛び越えて純粋に快楽を追うことができた。
十分に勃ちあがった性器をしごきながら、疼くように駆け巡る欲望を散らしていく。発散するどころかもてあますように、腰の奥が疼く。甘いというよりは切ないそれを追い求めるように、括れをこすり先走りに濡れた先端を押しつぶす。尿意が迫るようにじんわりとした痺れが下半身から背筋をのぼってくる。意識しているわけでもないのに、鼻にかかったような声が漏れた。どんどんと短くなる息。つま先までぎゅっと力がこもって、シーツをけった。
体が快楽に従順になるほどに、自分の中のストッパーが外れていく。ただ名前を呼ぶだけだった男は、僕に手を伸ばして、もうそんなに気持ちよくなったの本当にやらしいと耳元で囁いた。気持ちいい。それに答えるわけでもないのに、言葉が漏れる。年齢相応に歳を重ねた手のひらは躊躇うことなく僕の性器に触れて優しく愛撫してくれる。その妄想に忠実に僕は手を動かした。漏れ聞こえる水音は僕の荒い呼吸と交わる。まるでそこに潜ませるように、吐き出す。おじさんと、脳内で思い描いていただけの言葉が声になる。音になったそれに、体が震えた。
「おじ、さん……。……つ、さん」
ためらいが、まさった。なのに、僅かにかすれるように音となったそれが、僕の興奮をあおる。
質量を増した熱源をしごきあげながら、同じように欲情した瞳で僕を見つめる男の名前を呼ぶ。こんどは躊躇いさえも飛び越えて。まるで求めるように。
「こ、てつ、さん。はぁっ、こてつ」
唇を噛んで、快楽をやり過ごす。輪にした指で下から上へとしごき上げ、先端の割れ目を指先でいじる。感覚は自分のものなのに、そこに触れるのはあの人の指先だ。そう思うだけで、なによりも恍惚としたものが僕を支配する。上ずる声が勝手に彼の名前をよんで、そこに喘ぎが混じる。はっはっとまるで犬のように荒い呼吸を繰り返しながら、耐えるように乱れたシーツに頭を埋め、唾液を嚥下する。
「んっ……。こてつ、さん、きもち、いっ…」
バニーと、名前を呼ばれたような気がした。しなるように体が震える。ふぁっと間抜けた声が漏れた。先端を弄っていた手のひらをあたたかいものが濡らす。だがべたついた白濁色のそれは外気にふれてすぐに気持ち悪い汚物へと成り下がる。現実を拒否するように閉じていた瞼を開いても、そこは自慰を始める前と同じ僕の部屋の僕のベッドの上で、馬鹿みたいに肩で呼吸している自分自身以外に人はいない。ベッドのそばに置いていたティッシュで手のひらをぬぐっても、下半身の気持ち悪さはどうにもならない。いくら欲望を吐き出しても、僕自身の気持ちがどうこうなるわけではなかった。初めて音にしたあの人の名前に泣きたくなる。自分はなにをしているのだろうかと。
もう、どうしようもない。処理などという事務的な皮をかぶった代償行為に、自分の愚かさが浮き彫りとなる。
せめて体にまとわりつく不快感をぬぐうためにバスルームへと向かった。
一言で表現するのなら、気分は最悪だ。
トイレの鏡に映っている僕の顔色は、お世辞にもいいとはいえない。おまけのように、目のしたには薄くクマができている。眼鏡の向こうの目には疲労の色。いろいろ総合的なあれやそれやのせいで、朝からおじさんに絡まれて面倒以外の何物でもない。大丈夫か、体調悪いのかって、むしろあの人のおかげでこんな最低な気持ちになっているのに、その根本的な原因が目の前をちらつくのは勘弁して欲しい。あの声でバニーと呼ばれるだけで、昨日の自分を思い出して死にたくなる。ついでに自分の吐き出したもののべたつく感覚がよみがえったような気がして、目の前のコックを勢いよくひねって冷たい水で手を洗った。
昼休憩は残り十五分。いつまでも逃げるようにトイレにこもっているわけにはいかない。だがと、子供の駄々か何かのように無意味な反論をしようとする自分自身を封じ込め、諦めの嘆息を飲み込むことなく鏡の向こうの自分をにらみつけた。
どうせならあなたをおかずにして自慰していたんで気分が悪くて仕方ないんです、責任取ってくださいとでもいってやろうかとまで考えて、あまりの空しさに乾いた笑いさえ漏れそうになる。あまりの自分の思考の馬鹿らしさに肩を落としてやっとトイレを後にした。
デスクの前に戻ると、コーヒー片手に新聞を読んでいるおじさんが視界の端に入って、それだけで憂鬱な気持ちが再来する。しかし、僕の気持ちなんて一切関知しないおじさんは、むしろ僕の苛立ちを刺激するかのような気軽さでイスを半回転させてこちらを覗き込んできた。T字に配置されたデスクがこんなにも憎らしく感じられたのは初めてだ。そして、一時の快楽に流されてしまった自分を恨むしかない。
「ちゃんと飯食ったのか? まだ顔色悪いぞ」
キャスターをならして距離を縮めるおじさんに、トイレでおしとどめて来たはずの疲労が顔を覗かせる。あまり眠れていないせいでぼんやりとする頭を振って、煩悶の元凶であるヘーゼルの瞳を射た。もちろん、僕が体調不良だと信じて疑わないおじさんには何の効果もないのだが。
「あなたに心配されなくても、ちゃんと社食にいってきましたよ。あと、もしも顔色が悪く見えるならできる限り声をかけないでください、無駄に声量が大きいんです」
「朝から元気ないから体調悪いのかとおもったけど、その分だとだいぶよくなってきたみたいだな」
突き放すように嫌味を言ったつもりなのに、おじさんはそんなことはどこ吹く風で手にしていた紙コップに口を付けた。この人が好むのがブラックコーヒーなのか、それとも砂糖やミルクを必要とするのかさえも知らない。なのに、性欲を吐き出すために、コップに触れる指先が僕を翻弄するところを想像しているのだろうと思うと滑稽だった。
「あなたこそ、僕のことなんて気にしないで少しは仕事してください。始末書たまってるんじゃないですか」
デスクトップ上の文書作成ソフトが真っ白なままであることを揶揄すると、おじさんの顔が一転して苦々しいものに変わる。やっぱりいま飲んでいるのはブラックコーヒーなのかもしれない。出動するたびに器物破損とスポンサーのご機嫌を損ねるような失態を繰り返すのだから、始末書を量産するのが最近の仕事になっているようだった。一緒にコンビとして活動している僕には、始末書のしの字も回ってこないのがなんだか不満であるらしい。
「余計なこと言いやがって、これだからバニーは」
かわいくない、とため息交じりに続けられた言葉にわけもなく肩が震えた。かわいさを求められたって困る。だけれども、もしも僕がこの人にかわいいとめでられるような人間だったのなら、もっと分かりやすかったのだろうか。いや、そんなことは僕が男で彼も男である時点で無意味だ。かわいこぶってみたとしても情に絆されるどころか、距離をおかれるに決まっている。そして、僕のプライドがそれを許さないだろうことも。いや違う、そうじゃない。僕はこんな男に現を抜かすよりも、もっと大切にしなければいけないものが、そして目指すべき場所があったじゃないかと、まるで夢か現かも分からぬような曖昧さで思考を続ける自分を止める。
かわいくなくて結構ですと口にしようとしたとき、僕達のまん前の席に座る女性がわざとらしい咳払いをした。時計をみれば、昼休憩が終わるまであと二分だ。おじさんの方は、彼女の牽制を歯牙にかけることもなく、僕への不満を漏らしながら新聞に目を通している。
あと二分。寝不足のせいで気持ちが悪く、妙な浮遊感があった。もちろん頭だってぼうっとする。それが相まって、何も知らないくせに距離ばかりつめてくるおじさんに一矢報いてやりたくなる。一人相撲だなんてことは重々承知だ。そしてこのすべてが、僕が行動を起こすための言い訳であることも。唇を舐めて呼気を吐き出す。思考のまとまらない自分をあざ笑うかのように、言葉が零れ落ちた。
「今日、お暇ですか?」
「えっ? なんだよ急に」
おじさんは瞠目してつまらなさそうに新聞を辿っていた動きを止めた。でも少しの逡巡もなく大きく頷くと、おじさんが飯でもおごってやると相好を崩す。この男は知らない。僕が夜毎とその腕に抱かれていることを。快楽に飲まれるように、熱に浮かされるように、その名を呼んでいることを。だから、何も知らないで暢気な相棒ごっこを繰り広げようとするこの人が、いとしくもあり憎くもあった。自分勝手な妄想だ。
坂を転がり出した小石は加速度的に落下速度を増す。一度踏み外したそれは、ダメージなしに落下をとめることができない。あの人の侵略を許したときから、そしてその名を呼び呼ばれることに喜悦を感じたときから。もう始まってしまったことは白紙には戻せない。こぼれたミルクを嘆いたって意味がない。だとしたら、あとはもう劣情に身を任せてしまうだけだ。一矢報いたいんじゃない、繋がるきっかけがほしい。追い込むように、縋るように、僕を翻弄する男の熱源を知りたかった。
「外もいいですけど、僕の家に来ませんか?」
思ったよりも冷静な声。ご機嫌で返事をくれるおじさんに、こんなに簡単なことだったのかと笑いがこぼれる。
愛か恋かと問われれば、酷く汚れた情欲だった。
11・06・14