夜の街には似合わない、人が焼けるにおいがした。
 脳内をちりちりと焼くように、ぞわりぞわりと近づいてくる。嗅覚は正常な働きを拒否し、記憶の中にのみ残る感覚を追い再現していく。
真っ赤な中に倒れている人。もう動かない人。燃える人。吐き気がするような匂い。
恐怖と絶望と憎しみと暴力的衝動。それを起爆スイッチとして、俺の感情は爆発する。
 地面を蹴り跳躍。
 体はスーツと能力の恩恵を受け、人体の限界を超えて飛翔する。脳に痛覚はないというのにずきずきと痛む。駆け出す。地面を蹴りまた跳躍。
目の前を行く、赤ではない青い炎を追う。
 スーツの中に充満する不快な匂い。たぶんこれは僕の体からにじみ出る匂いだ。一度たりとも忘れたことのない、俺の両親のにおい。
あまりの不快さから、父と母のやさしい匂いなど忘れてしまった。跳躍。飛翔。重力を無視して、体はいままで感じたことがないくらい軽い。
眼鏡などなくとも強化された視力とスーツの性能のおかげで視野には困らなかった。
 いっこうに狭まらないあいつとの距離を苦々しく想い、唇を噛む。
興奮で痛覚も麻痺しているのか、自分の肉をかんでいるのだという自覚さえ希薄で、がりっと歯が肉を食い破る。だが、そんなものを感じている余裕はなかった。
僕の小さな頭の中は「ふくしゅう」という言葉一つで染めかえられて、行き場のない衝動だけが渦巻いていた。開放なんてものはない。
必要はない。求めてはいない。はやくあのNEXTを捕まえなければ。
 迫りくる炎をよけ、跳躍。火花が散る。しなる。浮遊感。捕まえなければ。伸ばした指先には、たしかに憎しみと憎悪のみが宿っていた。
 僕をここまで追い立てるものが、まだ内に潜んでいるのだと思うと、幼いままの俺はほっと肩をなでおろした。後ろ暗い安堵だ。
俺はまだ忘れてはいないのだと、自分に安らぎを覚えた。まるで、その事実が揺るぎない自己の象徴かなにかであるように。
 大丈夫だ、俺は人が焼ける匂いをまだ忘れてはいない。




「おまえ、あんな顔するんだな」
 人影のない廊下に、おじさんの声が響いた。
低くなんの感慨も感じさせないような、思わずといった口調の声だったからこそ、彼が真に思っていることなのだと分かった。
あんな顔ってと問おうとして、すぐにやめた。考えなくても彼が何を指しているのか簡単に想像できたから。
 あまり好きな言葉ではないが、空気の読めない人だと思う。だけど、分かりやすく同情したり、安っぽい言葉をかけられるよりは何十倍もましだった。
僕の周りには、自分の状況と比べて恵まれているという優越感に浸って、
無意識に自分の自尊心を満たしたり無意識に見下したりするようなやつらも少なくなかったので、
それに比べれば花丸をあげたいくらいの出来だった。
「いつも、他人なんて関係ありませんって、おきれいな顔してすましているだけかと思ったら」
 病院の硬いソファに疲れたように腰を下ろし、膝の上に肘を置いて組んだ手の甲に顎を乗せたおじさんは、誰もいない廊下を睨みつけるように目を細めてから、
深く息を吐いた。その真意がわからずに、呆れられたのかと彼のほうを伺うと、こちらを向いた鳶色の瞳は、僕を映して笑った。
救助作業にあたっていたため疲労を感じさせる顔をしているが、僕に向けられた笑顔は穏やかなもので、これが普段人のことをバニーと呼び、
空回りして人に迷惑をかけ、僕の邪魔ばかりをするおじさんなのかと疑いたくなった。隣にいるのは、たしかに僕よりもベテランのヒーローであり、大人の男だった。
いつもなら堪らなく嫌に思えるそれらが、どうしてだか不快ではなく、むしろ心地よかった。
「スイッチが切り替わるんです」
 自分の中にそれしかないみたいに。心の中で呟いた言葉は三文芝居の台詞のようで、自分を笑ってやりたくなる。
憎しみに支配される自分は確かに俺の根幹を支えるものであるはずなのに、どこかそれをさめた目で見つめている俺もいた。
四歳の僕は、泣きながらときおりひどく冷たい目をして僕を見る。
「スイッチってなんだ。ぴょんぴょん飛びたくなるのか」
 肩をすくめ吐き出された言葉に、おじさんはどこまでいってもおじさんだと、苦笑が漏れた。
「違いますよ。憎くて憎くて堪らなくなる。それしかなくなるんだ。父や母を思うより憎しみが強くなる」
 こんなことを吐き出したのは初めてだった。自分の中にこんな真っ黒のものが陣取っていたのかと、冷静な自分どこかで笑った。
怖くて、隣にいる男の表情を確認することはできない。
こんなのはおかしいと分かっている自分も存在していたから、至極真っ当な日のあたる場所にいるおじさんが、どんな嫌悪と怒りを見せるのかと思うと。
僕になんの感慨も及ぼさない犯罪者の死にさえ心を動かす男が、復讐という真っ黒なものに身を浸しているのだと知ったらどんな怒りを見せるのかと思うと。
 なのにおじさんは、僕の予想を裏切るようにただかぶっていた帽子を僕に向かって投げつけて、小さくバニーと呼んだだけだった。
その呼び名を認めたわけじゃなかったけれども、もうここまでくれば否定するほうが馬鹿みたいだった。
僕に投げつけられた帽子は、軽く右肩にぶつかって座り心地がいいとはいえないソファの上に転がった。
ただじっとリノリウムの床を眺めていると、もう一度あまり好きにはなれないあだ名を呼ばれる。
「なんですか」
 少しでも時間を稼ぐために、すぐ隣に不時着した帽子を拾おうとしたのに、おじさんは僕の先手を取るように腕を伸ばしてきた。
だが、それよりも早く帽子を奪い取る。随分と大切にされているのだろうか、使い古されている印象があるのにボロボロというわけではなかった。
ザラザラとした布地は、まるで僕のことを揺さぶるおじさんみたいだ。
 防衛ラインのような僕たちの間の距離を埋めるように、おじさんがソファの真ん中あたりに腕をついて顔を覗き込んできた。
無理強いをするように合わせられた目線。そこに、想像したような嫌悪の表情はなかった。ただ、いつもと同じように緊張感のない顔が、僕を見つめていた。
普段は子供みたいな人だと思えるそれが、いまは余裕がある大人だからこそのものだろうかと考えてしまう。
幼い子供のように振舞うのに、その幼さは僕なんかよりも長い時間を生きてきたからこそ演じることができる大人の男のものだった。
それを、悔しいと思う。僕は、こんなにも必死になって、自分を正当化しなければいけないのに。
このおじさんは、そんな僕をいとも簡単に捕まえて、こうやって先に回り込もうとするんだ。
「用事がないなら呼ばないでください」
「おまえもやっぱり若いんだな」
「はあ?」
 おじさんは僕の疑問に答える気もなさそうに手の中でもてあそんでいた帽子を奪い取ると、そのまま乱暴に僕の頭へとかぶせてきた。
似合うとも思えないそれは、思ったよりも強く押し付けられたせいで、変なバランスを保って僕の頭に乗っかっている。こんなところを誰かに見られたくはない。
「どうしたらわからないみたいな顔してる。わからないなら泣けばいいのに」
 帽子を取ろうと伸ばした指先が止まった。なんでもないことのように僕に与えられた言葉によって。
何故簡単にそんなことを言うのかと、ぎゅっと唇を噛み締めそうになる。だが、それは負けを認めてしまうようで、
行き場なく引っ込めてしまった手のひらを握り締めて耐える。
 おじさんはそんな僕をあざ笑うかのように目を細めて口角をあげただけだった。
「そうしたら、慰めてやる」
 思ったよりも近くで聞こえた声色は、穏やかなものでどうしてだか目の奥があつくなった。
目元を涙でぬらしたって、なんの足しにもならないことを知っているのに。
むしろ余計つらくなるだけだというのに。
 胸の奥からこみ上げそうになるものを堪え、なんでもないような振りをする。
「必要ないです。泣いたって何の意味もない」
 泣き暮らすだけの子供ではいられなかった。僕が選んだのは復讐という道だったからだ。自分の選択を絶対のものだとは思わない。
もし、同じ境遇に陥ったとしても、僕とは違う未来を選ぶ人間が幾人もいるだろうことは分かっていた。
でも、僕にはこの選択しか許されなかったし、それ以外を望んでもいなかった。いまも、そしてこれから先も。望まない。
僕の掲げるものが破綻しているのだとしても、はたから見れば歪なものでしかなかったとしても、もうこれだけが指標であり生きる意味だった。
両親の思い出は優しい日向のかおりではなくて、鼻を突く人の焼けるにおいだ。
 だから、もうこれしか望まない。
 出会ったばかりの人間に、なにがわかるというんだ。泣けといわれて、涙を流して、なんになるんだ。
「意地っ張りだなあ、バニーちゃんは」
 耳に残る残響を打ち払うように帽子のつばを掴んで押し付けるようにしておじさんの方へと追いやると、
それを逆手に取るかのように手首を握られ一気に距離をつめられる。
抵抗の声を上げるよりも先に、からかうような調子の声とはつりあわない、真剣な瞳が僕を見ていた。
それに拍車をかけるように、僕の手首を握る指先に力がこめられる。
「やめてください。セクハラで訴えますよ」
「手首握っただけでセクハラなんて、生きにくい世の中になったもんだな」
 余裕さえ滲ませる口調が苛立たしい。ネクタイを掴んでそのまま締め上げてやろうかと思ったけれど、それこそおじさんの思う壺なのかもしれない。
感情を高ぶらせて本能のままに動くのなら、自分の本心に近い部分をさらしているのと一緒だ。一度ならず二度までも同じ轍は踏みたくない。
「その調子で、会社の女子社員に訴えられても知りませんから」
「そのときはおまえさんが守ってくれよ」
「他人の振りさせていただきます」
 そりゃあ残念だなんていっているが、そんなことはまったく思っていなさそうなヘーゼルの瞳が細められる。なんでもないことのように僕を映す瞳。
明日の天気でも聞くように軽く放り出された、泣けばいいのにという言葉。
僕に泣けという大人は、自分の本心は心の奥に隠したままで、僕にだけすべてを見せてみろと強いる。なんてずるい人なんだろうか。
「まあ、強い男の子は最後まで涙を堪えるもんだ。でも、本当につらくなったらいつでも慰めてやるさ」
「馬鹿にしてるんですか」
 歌うような軽やかな口調に、おじさんが求める涙よりも呆れと怒りがない交ぜになったものの方が強くなる。
だけど、おじさんは心外だとばかりに肩をすくめて、僕の手の中から帽子を奪い取った。
「まさか。とりあえず俺達は、タイガー&バーナビーで、おまえがどう思っていたとしても、相棒だってことだ」
「返事になってません」
「もー、バニーはつれないなあ」
 一度だけ手首を握っていた指先に力をいれたおじさんは、そのままなにもなかったかのように手をはなして立ち上がった。
帽子をかぶりなおしてソファから立ち上がり、大きく伸びをする。僕を見下ろしている彼の表情からはさっきまで顔をのぞかせていた真剣さも消えうせていた。
「いつだって、必要になったら呼べってことさ。じゃー、俺帰るわ。また明日な」
 僕の返事も待たずに背中を向けて歩き出したおじさんは、おやすみと欠伸をかみ殺すような台詞をのこしていってしまった。
仕方なしに、おやすみなさいと返すと、肩越しにひらひらと手を振られる。振り返ることもないその背中を視線で追いながら、涙を流すことのない目頭に触れた。
 握られた感覚が残ったままの手首。残滓のような体温。知りたくもないそれ。
 でも、人が焼けるにおいよりかはましなものだった。







11・06・14