わたしのお父さんはうそつきだ。しかも、反省しないうそつきだ。
 授業参観があればかならず見に行くといい、運動会シーズンになればそわそわと電話ばかりかけてきて、

フィギュアスケートの大会があれば私よりもはり切るくせに、十中八九見に来ない。後からごきげん取りの電話をかけてくるだけだ。
 小さいころに花びんを壊してしまったとき、わたしはやってないよとうそをついて言いのがれをしようとしたことがあった。

そのときに、お父さんは、うそだけは絶対につくな、まちがったら素直にあやまるんだとわたしをしかった。

そのくせ、本人がこのありさまなんだからいやになる。
 今日の待ち合わせだって八十パーセントくらいはあきらめている。あとの二十パーセントは温情みたいなやさしさだ。
 冷たい風が頬をなぜる。太陽はまだ真上にあるっていうのに、最近めっきり寒くなってきてしまった。

お父さんが来たときに分かりやすいようにとカフェのテラス席をえらんだ自分を責める。
大通りに面したテーブルなので、街行く人たちの姿がよく見えるけれど、週末効果で家族連ればかりが目に付くだけで、

わたしのさえないお父さんの姿はなかった。
 ずいぶんと氷の解けてしまったオレンジジュースをストローでかき混ぜながら、漏れそうになったため息をごまかす。

百パーセント果汁のジュースのはずなのに、ガラスの向こうのオレンジは、水で薄められた水彩絵の具みたいに頼りない色合いをしていた。

氷が解けていくたびに、わたしの期待も氷解していく。二十パーセントの温情は、そろそろ十五パーセントあたりを記録しそうだ。

一緒に注文したお昼ごはんをかねたホットケーキも、見た目がきれいなだけでぜんぜん美味しくは感じられない。

水なのかオレンジなのか分からないような液体で喉を潤して、テーブルの上においてある携帯電話をたぐりよせる。

バイブにしてあるから、メールや電話がこればすぐに気づくことができるけれど、いちおうということもあるので新着メール問い合わせをしてみる。

期待させるような問い合わせ中ですという画面のあとに、新着メールはありませんと、機械的なメッセージが表示されただけだった。
 最後にメールをもらったのは一時間前。少し待ち合わせに遅れるという内容だった。

最後に送ったメールは五十分前。先に、近くにあるカフェに入って待っているというものだった。

それからの五十分と五十秒、待てど暮らせど連絡はない。メールの問い合わせも何度したかもわからない。

いつもは頼んでもいないのに電話をしてくるのに、どうしてこういうときに限って連絡がないのだろうか。

だいたい、少し遅れるっていうのが一時間というあたりでおかしいことに気づいてほしい。
 通信手段としてまったく意味をなさない携帯電話を閉じて、テーブルの上に投げ出す。

思ったよりも、大きな音を立ててしまい、周りにいたお客さんがわたしのほうをうかがうのがわかった。

子供一人でこの場所に居座っているだけでも悪目立ちするのに、こんなふうにジロジロとお客さんに見られるなんて、何もかもがお父さんのせいだ。

いらだち混じりで美味しくもないジュースの成れの果てを喉に勢いよく流し込んで、行儀が悪いのを自覚しながらストローのさきっぽをかみつぶす。
 もう、いいだろうか。
十五パーセントをきったわたしの期待ゲージは、もはや五パーセント付近を低空飛行している。

べつに、お父さんが来なくたって一人で時間をつぶすことくらいできるんだから、困ることもない。

最後に一度だけ、無常に時を刻んでいる携帯電話のサブディスプレイを睨みつけて、連絡きていないことを確認する。
 ほらやっぱり、お父さんはうそつきだ。
だけれども、それでも、うそつきでもいいから、来て欲しかったかもしれないなあなんて考えながら、

携帯電話と隣のイスに置いていた鞄を引き寄せて立ち上がる。

どちらも、お父さんが果たせなかった約束の代わりに、ごきげん取りとしてわたしにプレゼントしてくれたものだ。

こんなものじゃなくて、今日、たった十分でも、三十分でもいいから顔を見せてくれるほうが、たぶんわたしは嬉しかったんだと思う。

お父さんにはそれが分からないのかもしれないけれど。
不毛なわがままを振り払うようにイスを引いて立ち上がると、遠くで名前を呼ばれたような気がした。

しかも、よく聞きなれた声で。とっさに携帯電話を確認するが、新着メールを知らせるマークはでていない。

だけど、わたしの目の前には見慣れた帽子とベストを着込んだ男の姿があった。

その人は必死になってこちらに手を振りながら、わたしの名前を大声で呼んでいる。

あまりにも大きな声だから、そばに座っているお客さんたちが、何事かとあたりを見回していた。

勢いよく立ち上がったはずのわたしは、その勢いを殺しきれずに間抜けにも突っ立ったまま、人通りの多いカフェテラスで名前を大声で連呼されるという、

前代未聞の恥をかかされたわけだ。
こんなことをするのは間違いなくお父さんだ。お父さん以外にはいない。
自分の羞恥を誤魔化すように素早くイスに座りなおして、目の前に食べ残したままになっていたホットケーキを睨みつける。

半月型になったホットケーキに添えてあるシロップは、私と同じ名前をしているなと、半分現実逃避みたいにして連呼される名前を聞いていた。
「楓! 遅くなってすまなかった!」
はあはあと息を切らしてわたしの顔をのぞきこんで必死になって謝ってきたお父さんは、わたしとの約束をやぶるうそつきなお父さんと同じ顔と声で

ごめんごめんと繰り返す。こういうときは、女のわたしのほうが大人になってあげなければいけないんだ。

中途半端ににぎりしめていた鞄を元の場所に戻して、深呼吸を一つ。

なんていってやろうかと思って顔を上げると、久しぶりに会ったのに、電話で見慣れたお父さんの顔がそこにある。
「遅い! ちょっと遅れるだけって言ったじゃない!」
 わざとらしくつくったような声になっただろうかと思ったけれど、お父さんはわたしが本当に怒っていると思ったみたいで、

まん前のイスに座ると本当にごめんなと手を合わせて、もう聞き飽きてきた謝罪の言葉をくりかえした。いつものパターンで考えると、

仕事がとかちょっととか用事が入ってとか、言い訳を聞かせてくれそうなのに、ただただあやまっているところを見ると、寝坊でもしたのだろうか。
このまま責め続けても意味もないので、まあいいけどとわたしが許しの合図を出すと、お父さんは一安心したように肩を撫で下ろして、

わたしたちのテーブルを気にし続けていたウェイトレスさんを呼んだ。メイドさんみたいなかわいい制服の女の人をうれしそうにながめたお父さんは、

だらしのない顔でメニューを受け取るとろくに目も通さないでブラックとアイスカフェラテを一つずつ注文した。

楓はどうだと水を向けられたので、空になってしまったグラスの代わりにオレンジジュースとだけ言った。
「なんで二つも注文したの?」
 伝票を片手に店内のほうへと戻っていったウェイトレスさんの背中を目で追いながら聞くと、お父さんはなんだか言いにくそうに視線をさ迷わせて、

ポケットから取り出した携帯電話を確認した。そのあとに、少し前のわたしと同じように大通りのほうに顔を向けた。
「もうすぐ来るはずなんだけど」
「おばあちゃん?」
「違う。楓に合わせたい人がいるんだ。おっかしいなあ。すぐ来るって言ってたんだけど」
 さかんにきょろきょろしながら誰かを探しているお父さんの口からでた紹介したい人という言葉に、もしかしてと体が緊張する。

もしかして、新しいお母さんだなんていわれたら。いや、お父さんにそんな素振りは見られないと思う。 

だけど、電話してきても、いつもわたしの話しか聞いてこないし、だとしてもお父さんがそんなにもてるとは思えないし、いやでも。

小さく頭を振って、脳内を占拠した考えを打ち払い、食べかけのホットケーキにフォークを突き刺した。
「お、きた!」
 中腰で立ちあがったお父さんが、入り口のほうに向かって手を振る。

自然と力がはいる体を落ち着かせて、覚悟をきめて顔を上げると、そこにいたのはまったく知らない人だった。

すらりとした長身で、男の人にしては長めの金髪を後ろで一括りにしている。色のはいった眼鏡をしているせいで目の色はみえないけれど、

色の白い肌と、整った顔立ちをしていることが分かった。

その人は、お父さんのオーバーリアクションに少し顔をゆがめると、軽く左手を上げてこちらに向かってきた。
「そんなに大きく手を振らなくても分かりますよ」
「けっこう人いたから見えないかと思ってな」
 わたしたちのテーブルの前に立ったその人は、ここ座ってもいいかなとお父さんの隣の席を指していった。

外見と同じように、落ち着いた声で、わたしははいと返事をすることしかできない。でも、頭の片隅で、聞いたことある声だなと思った。

なのに、わたしの知る身近な男の人たちを思い浮かべてみても、こんなにも格好いい人は思い浮かばない。

いったい誰なんだろうと盗み見るように相手の様子をうかがっていると、レンズの向こう側の目と視線がぶつかって笑われてしまう。恥ずかしい。
「お待たせいたしました」
 注文を取りにきたウェイトレスさんと同じ人が、銀のトレイを片手にわたしたちの飲み物をテーブルにおいていった。

ありがとうございますと小さくお礼を言うと、微笑み返してくれる。

お父さんはウェイトレスさんの背中が遠のくのを確認すると、小さく咳払いをしてわたしのほうを見た。

しかし、その表情はなんというかあまり嬉しそうなものではなくて、隣にいる男の人を意識してなにやら言いにくそうに言葉を濁している。
「鏑木さん」
 わたしのことなのかなと思ったけど、男の人の声に、お父さんの動きが止まる。

一瞬の静寂のあとに、お父さんがこの世のものではないものを見るかのような目で、男の人を見た。

その反応が気に入らなかったのか、なんですかと男の人は首をかしげる。お父さんはただ小さく、鏑木さんってと呟いた。
 この声、やっぱり聞いたことがある。

どこでだろうと頭を悩ませながら金の髪と白い肌、グレーのハイネックにブラウンの革のジャケットを視線で辿る。

失礼かなと思いながら、もう一度その顔を見たとき、レンズの向こうの瞳が、緑色であることに気づいた。

そのとき彼が誰なのか、わたしの頭の中で結論が出た。そして、頭の中が真っ白になってしまう。

驚きのあまり、とっさに席を立ちそうになってしまった。
「バ、バッ!」
 漏れてしまった大声に、慌てて口を手のひらで押さえる。目の前のお父さんはさらにいやそうな顔をして、小さく頷いた。

それがなにを意味するかは、すぐに理解できた。でも、どうしてなんでと頭の中はぐちゃぐちゃなままだ。

一番納得いかないのは、お父さんがバーナビーさんを連れてきてくれたことだ。
「あ、の。バーナビーさんですか?」
「そうだよ。お久しぶりって言ったほうがいいのかな?」
「はい! お久しぶりです! 先日は、たすけてくれてありがとうございました!」
「いや。きみに怪我がなかったのならそれが一番嬉しいことだよ」
 にっこりと笑ってくれたバーナビーさんは、テレビで見るよりもずっとかっこよくてきれいで、顔が赤くなるような気がした。

怪我はありませんという意味をこめてこくこくと頷いていると、お父さんがわざとらしく咳払いをして割り込んでくる。
「楓、パパのこと忘れてないか?」
「一時間も遅刻してきたお父さんのこと忘れるわけないでしょ」
「楓が、ずっとお礼を言いたいっていってたから、パパがんばってバニ、じゃなくてバーナビーを連れてきたんだよ……」
「ええ。鏑木さんから、娘さんの話を聞いて、僕も元気かどうか気になったから、無理して今日連れてきてもらったんだ。

きみのお父さんが、遅れちゃったのはそのせいなんだよ。僕も謝るから許してくれるかい?」
 バーナビーさんは小さく首をかしげて、わたしを見た。そんなふうにされたら、わたしははいと頷くしかない。

でもそれ以上に、お父さんがバーナビーさんと知り合いだということが信じられなくて、じっとお父さんのほうを見つめてしまう。

それをなにと勘違いしたのか、どうしたんだ楓とにやけた顔でわたしを見た。
「今回は特別許してあげるんだから」
「楓は優しいなあ」
 今回だけなんてうそばっかりだ。実はいつだって最後はお父さんのことを許しているのに、それに気づいていないんだろうか。

バーナビーさんはお父さんに向かって、あまりだらしない顔はしないでくださいといっただけだった。本当にそのとおりだ。
「バーナビーさんとお父さんは、お友達なんですか?」
 目の前のオレンジジュースを引き寄せながら聞くと、お父さんの動きが止まった。なにかやましいことがあるんだろうか。

それに引き換えバーナビーさんは、いつも通りのさわやかな笑顔で、少しだけ考えるような素振りを見せた。
「鏑木さんとは、」
「あー、楓」
「お父さんは黙ってて」
 バーナビーさんの言葉をさえぎるように身を乗り出したお父さんを止めると、ひどく情けない声で名前を呼ばれた。

そんなことではわたしは動じない。防衛線を作るようにカトラリーケースをお父さんの前にどんと置いた。

ちょっと力を入れすぎたせいで、中に入っていた食器がこすれる音がした。不服そうなお父さんはほうっておいて、バーナビーさんの次の言葉を待つ。

拗ねてしまったお父さんは、カトラリーケースの中から意味もなくスプーンを取り出して柄の部分をこすり出した。

前時代的にスプーン曲げにでも挑戦するつもりなんだろうか。
「きみのお父さんとは仕事で知り合ってね。そのときにお世話になったんだ」
 よどみなくしゃべり続けるバーナビーさんの隣でお父さんはギクシャクとスプーンと格闘していた。

そんなお父さんの方を向いて、そうですよね鏑木さんと問いかけたときに、お父さんの手の中にあったスプーンが折れた。

とてもあっけない音を立てて。見事真っ二つに。いや、スプーンがひとりでに折れるなんていうことは聞いたことがないので、お父さんが折ったのだ。

わたしが驚きの声を上げると、お父さんもびっくりしたように自分の手のひらに乗っかっているスプーンだったものに目を落としていた。
「な、なにしてるのお父さん!」
「い、いや、バニーが鏑木さんとかいうから手が滑っちまって!」
「落ち着いてください鏑木さん。素がでてますよ」
「だから、それをやめろって言ってんだよ」
「お父さんバーナビーさんになんていうこと言うの!」
「違うんだ楓。とりあえず、これは適当に誤魔化しとけば平気だから」
 慌てたように周りを見渡したお父さんは、お店の人にまだ気づかれていないのをいいことにカトラリーケースの中にスプーンの残骸をしまいこんで、

そのままナプキンをかぶせてしまう。少しいびつな形をしているけれど、たしかに下に折れたスプーンがかくれているとは思わないだろう。
「で、おまえはちょっとこっち来い!」
「痛いです鏑木さん」
「だからそれを、もういいから早く来い! ちょっとまっててね楓」
 お父さんはバーナビーさんの腕を引っ張ると、そのまま店内のほうへといってしまった。

止めるタイミングもなく遠のいていく背中にわたしはぼう然としてしまう。声までは聞こえてこないけれど、何かを話しているような素振りは見えるから、

二人が知り合いというのもうそではないんだろう。取り残されたわたしは、どうすることもできずにストローに口を付けて喉をうるおした。
 どうせすぐには戻ってこないだろうとあたりを付けて、テーブルの上の携帯電話を確認する。

メールチェックをかねて携帯電話を開くとディスプレイの上部に表示されるニュースに速報が入っていた。

爆発事故という単語が目を引いてクリックして詳しいことを読み進めていくと、思ったよりも近くで大きな事故があったことがわかった。

救出活動がまだ続いているとあるので、もしかしたらヒーローの人たちも活躍することになるのかもしれない。

じゃあ、バーナビーさんはと、二人が消えていったほうを確認すると、バーナビーさんよりも何故だかお父さんが慌てたようにこちらに戻ってきた。

バーナビーさんも早足でこちらに向かってくる。
 あたふたとあせりをあらわにしたお父さんは、もう席にも着かずに伝票だけ確認して財布を取り出した。

そのせわしなさにどうしたのと問いかけると、こちらも見ないで悪いパパ行かなきゃいけないんだと言った。
「ごめんね。急な仕事が入っちゃって」
 お父さんの隣に並んだバーナビーさんも申し訳なさそうに謝ってくれる。

たぶん、事故のほうに行かなければならないんだろうと分かったので、謝ってもらう必要なんてないと、気にしないでくださいということしかできない。
「パパも、バニーのこと送ってかなきゃいけないんだ悪いな楓」
「えっ? バニー?」
 さっきもでたバニーという言葉が誰を指しているのか分からずに首をかしげると、お父さんは慌てたように咳き込んで、バ、バーナビーだと、訂正した。

隣にいたバーナビーさんは、額に手を当てながら重々しいため息をついただけだった。

お父さんはバーナビーさんの態度に不服そうに唇を曲げると、そんなのいいから早く行くぞと急かすように言った。
「楓、また電話するからな。お金はここにおいて置くから、支払いは頼む」
「うん。分かった」
 お父さんの言葉に頷くと、お父さんも頷き返してくれて、そのまま出口のほうへと行ってしまう。

だが、バーナビーさんはお父さんを追わずに、わたしのことを見つめていた。

急がなきゃいけないんじゃないんだろうかと不思議に思うと、バーナビーさんが来ないことを不審に思ったお父さんがはやくしろと声をかけてきた。

バーナビーさんは、トランスポートを回してもらってるのでまだ少し時間があるみたいです、先に言っててくださいと返す。

いったいなにの話だったのかはよく分からなかったけれど、いちおう納得したように頷いたお父さんはすぐ来いよという言葉を残してそのまま行ってしまった。
バーナビーさんはお父さんの背中が離れるのを待っているようだった。

だけど、それも一瞬のことで、すぐにテレビで見るみたいな優しい笑顔でわたしの名前を呼んでくれた。
「お父さんが忙しいのは本当のことだから、あまり責めないであげてほしい。今日も、これから急な仕事が入ってしまったのはうそじゃないんだ」
 そのあと、バーナビーさんは少しだけ口ごもって、きみのお父さんは素敵な人だねと小さく呟いた。

テレビで見る自信に満ち溢れてはきはきとしゃべる姿とは少し違うものなのに、わたしはそれがいやじゃなかった。

恥ずかしそうなとも困ったようなとも取れる表情から、おせじじゃないんだということが知れたから。
「わたしのために、こうしてバーナビーさんのことを連れてくれたり、休みなく働いてくれたり、

頼んでもいないのに電話ばっかりかけてきてくれたり、わたしもそう思います」
 本当は、分かっていた。
うそつきなんかじゃなくて、お父さんだってわたしに会いたいと思っていてくれること。

わたしのためにうそつきになってくれていること。わたしのために、一生懸命になって働いてくれていること。

全部、分かっていた。だから、こうやってわたしにとっての大切な人を、わたしがあこがれる人にみとめてもらうのはうれしくてしかたがない。
バーナビーさんもわたしの言葉に小さくうなずいて同意してくれた。
「あの、お仕事なんですよね。わたし、バーナビーさんのこともすごくだいすきなのでがんばってください!」
 せめてこの感謝の気持ちが伝わるようにと必死の告白をはき出すと、バーナビーさんは緑色の目を丸くした。

だがそれはすぐにとけるような穏やかな色になって、ありがとうとわたしの頭をなぜてくれる。
「バタバタしちゃって申し訳ないけど、またあえるのを楽しみにしてるよ」
「はい!」
 じゃあと、バーナビーさんは去り際までさわやかに行ってしまう。

その背中が見えなくなってしまうと、さっきまで三人でテーブルを囲んでいたのがうそみたいに思えた。

自分しか残されていないテーブルに座っているのは少しだけ寂しく感じたけれど、わたしはまだ寂しさを上回るような喜びの余韻に浸っていたくて、

イスに座ったまま大通りを眺めた。
 わたしのお父さんは、うそつきだ。

でも、わたしのためにうそをついてくれる、あいすべきうそつきだ。
 
 
 
 おじさんは僕の腕を取ったまま男子トイレに入ると、すぐにバニーとドスの利いた声で一度も許可したことのない愛称を呼んだ、

それについてはもう抵抗をしても意味ないだろうと諦めの境地に至っていたので、仕方なくなんですかと答える。
「おまえ、鏑木さんだけはやめろ。見ろ、鳥肌たった」
「はあ? 言ってるんです。娘の前でおじさんだけはやめてくれって言ったのはあなたじゃないですか」
「いや、それはそうなんだけど、想像以上に来るものがあった。嬉しくない意味で。どうせなら先輩とかにしてくれ」
 袖を捲り上げたおじさんは、見たくもないのに、ほら鳥肌と僕のほうに腕を向けてくる。

鳥肌が本当なんだかは知らないけど、先輩の必死のお願いとやらを実行してあげたのに失礼な話もあったものだ。

だが、おじさんは僕の気持ちの機微を理解できるようなデリケートな機関を積んではいないのか、

予想以上の衝撃にスプーン折っちまったよとわけのわからないことを言っている。

いまこのとき、僕はこのおじさんを殴ってもいいんじゃないだろうか。
「先輩だったら、なにの先輩か説明しなきゃいけないじゃありませんか。あなただって、さっきバニーって呼んでましたよね。

あとあんまり名前連呼しないでください。いちおうこっちだって気を遣ってお忍びで来たんですよ」
 休日出勤で呼び出されて、そのあとにここまでほぼ無理矢理引きずってこられたのだ。むしろこの場所にいるだけでも感謝してほしいくらいだ。

せっかく娘にあえるからと頼み込まれたので、こちらはあまり目立たないようにと服装から髪型まで変えてきたというのに。
「それは感謝してる。でも、そっちこそいつもバニーじゃありません、バーナビーですとか言ってるだろ」
「そのものまねは似ていないうえに不快なのでやめてください」
 あまりのこの会話の不毛さに、嫌味の一つでも言ってやろうと思ったのだが、それを止めるように僕とおじさんの通信機が、

出動要請を知らせるコール音をたてる。
「俺、楓と会えたの何ヶ月かぶりなんだけど」
「僕だって、本当は終日オフのはずでした」
 僕たちの疲れをともなった声を無視して、コール音は早くしろと追い立てるように鳴り響く。

諦めが色濃くでたため息をついたのはどちらが先だったのかは分からないが、ほとんど同時に通信機に手を触れた。

ヒーローに休暇はないというおじさんのことばだけは、たしかに真実だった。







11・06・09