思わず触れそうになった
 
 気になると、そう思った。
 落ち着かない、浮き足立つ、胸の奥がざわめく。すべてバーナビーにとっては懐かしいというより、不必要なものに近かった。そういう感情に覚えがないわけではない。だが、いままでは迷うことなくいらないものという箱のなかに押し込むことができたのだ。それが、今回ばかりはどうしてだかうまくいかない。押し込めて、溢れ出して、封じ込めて、また箱の限界を越えていく。その繰り返し。あの男のせいだ。バーナビーはまた、自分の臓腑の奥から溢れた説明のつかぬ物をため息として吐き出した。

 T字に設置されたデスク。バーナビーの右隣。彼のパートナーでもある鏑木・T・虎徹。目下最大級にバーナビーを悩ませる男だ。だが、とうの虎徹はそんな事実を知る由もなく、午後の気怠げな睡魔に忠実にかみ殺すことなく欠伸をしただけだった。そんな彼を二人の目の前のデスクに座っている妙齢の女性社員が睨みつけた。鋭い視線に気づいた虎徹は誤魔化すように咳払いをしたが、さらに不機嫌そうな咳払いが返ってきただけだった。
 普段からあまりほめられたものではない勤務態度。厳重注意を受けることのないぎりぎり瀬戸際を低空飛行する。隣でみているバーナビーが、この人は本当に他の会社で働いてこれたのだろうかと不安になることがあるくらいだ。
 まただと、バーナビーは思った。
 また虎徹のことを考えていると。いまは勤務中。目の前にあるデスクワークをこなしていかなければならない。だが、どうしても思考が隣の男に引きつけられる。そこまで自分は意志が弱くなかったはずだと自己弁護しようとして、あまりに安っぽい言い訳のようで敗北宣言に一歩近づいただけだった。

 キーに指を置いて、いまなすべきことを頭の中で復唱する。ヒーローといえどもサラリーマン。そして、正社員。ヒーローという椅子に腰掛けて縦の物を横にもしない社内生活を送れるわけがなかった。だから、バーナビーにもしっかりと仕事が割り振られている。あまり作業効率のよくないパートナーにいらつきを覚えながら、一番優先するべき仕事に頭をシフトしていくと、虎徹のうめき声がバーナビーの鼓膜を揺らした。小さなその声は、仕事に向かおうとしたバーナビーの頭の中を一瞬で塗り替えていく。とっさに隣を見ると、虎徹が右の肩を抑えて耐えるようにデスクを睨みつけていた。たったそれだけのことでバーナビーの思考は虎徹に支配される。
 虎徹が浮かべた苦痛の表情はすぐに消えて、いつも通りの緊張感のない面持ちになった。バーナビーは開きかけた口を閉じて、耐えるように唇をかむ。口を開いたとしても、いったいなにを言えばいいのか彼にはわからなかった。大丈夫ですかと、言うことしかできないのはわかっていた。
 もう彼の胸の中にある箱はキャパシティーオーバーの警告音を上げている。無理だ無理だと限界を訴えているのに、そんなことを知らないとばかりにバーナビーの無意識は、隣に座っている男を受け入れようとしていた。バーナビーにとってそれがなにを意味しているのか、そして自分がどうしたいと思っているのか、もうよく分からなかった。ただ、虎徹という男のことが彼の中を侵食していくことだけが覆しようもない事実だった。
 聞いてもいないのに、悪いちょっと便所いってくると行き先を告げた虎徹は、無意識になのか右肩を左手でかばうようにして立ち上がった。バーナビーを映すヘーゼルの瞳には苦痛の色はない。なのにバーナビーは不安で仕方がなかった。自分をかばったこの男は、いまこのときも酷い苦痛に耐えているんじゃないだろうかと。本当は診察についていきたいと申し出たこともあったが、虎徹はそれを断って大丈夫だと小さく笑っただけだった。 ぼうっとして返事のないバーナビーをいぶかしんだ虎徹は、おーいと無駄に大きい声で呼びかけながら、彼の新緑の瞳の前で左右に手を振って反応があるかどうかを確かめる。バーナビーはそれにため息を返すと、トイレぐらい勝手に行ってくださいと小さく呟いた。じゃあ言ってくると虎徹は左手を上げてそのまま部署を出て行ってしまった。その背中に向けて伸ばしかけたバーナビーの手は、行き場もなく空をなでた。バーナビー自身にも、何故、手を伸ばしたのかは、万人が納得するような説明をすることはできない。
 トイレなどではなくて、医務室に行くんだろうとバーナビーは思った。虎徹は口にしなかったが、食事のときに錠剤を飲んでいることもあったので、鎮痛剤をもらいに行くのかもしれない。大丈夫だと笑うのに、なかなか引かない痛みと完治しない怪我。心配で仕方がない。どうして自分自身をかばったのか分からない。処理しきれない感情だけが、難解な命題のようにつみあがっていく。でも、どうしようもないくらいに、虎徹の隣にいることが心地よかった。
 バーナビーにとっていままで出会ったことのない人間だった。どうしていいかわからなくなる。伸ばしかけた手も、呼びそうになった名前も、心配でしょうがないことも、溢れそうになる気持ちも、全部が全部。
 まだ名も形も分からぬそれを、なんとすればいいのか、バーナビーは思わず虎徹に触れそうになった右手を握り締めた。誤魔化しようがないくらいに、たった一人の男のことを思いながら、ままならぬ自分自身が苦々しくて仕方なかった。
 
 
 
どうしても言えない 
 
 バーナビー・ブルックスJr.は自分の手のひらから零れ落ちてしまったものをいつくしむように、神聖視していた。
 たとえば家族。たとえば、そこから生まれる絆と愛情。そしてそれは、なにものにも犯されてはならぬものだという前提を作り出していた。もう手にはいらないものだからだろうか。隣の芝生は青く、咲く花が赤いのと同じように、手を伸ばしても届かない場所にあるからこその羨望と、信仰にも似た憧憬だった。その特別という思いが、バーナビーを苛んだ。
 虎徹が指輪をしているのは知っていた。だが、結婚している、娘がいるという言葉を彼の口から聞いたときに、バーナビーはどうしてだが泣きたくなった。その涙が悲しみから来るものなのか、それ以外から来るものなのかは、彼自身にも分からなかった。頭脳が理解することを拒絶しても、消化不良を起こしたままのその想いは、確実にバーナビーの心の中に居座りながら、正答の見つからない苦しみを量産し続けている。一つだけバーナビーにも分かったことは、自分と同じように大切な人を失いながらも、家族の絆を愛し続ける虎徹に踏み込んではいけないということだけだった。自分のせいで一歩間違えれば取り返しのつかないような傷を負わせていたかもしれないということが、実際に起こった後だったのだから、その事実だけはバーナビーの心に重くのしかかっていた。
 見慣れた自分の部屋。唯一落ち着ける場所だったはずのそこは、いまのバーナビーにとって落ち着かない場所の一つになっていた。
 バーナビーは逃げるように駆け込んだキッチンで、一度も使ったことのないような来客用の食器類を用意しながら、背後のドアの向こう、リビングへと意識を向けていた。僅かに漏れ聞こえる声は虎徹とドラゴンキッドことホァン・パオリンのもの。なにを話しているのかまではバーナビーの耳に届くことはなかったが、断片的な会話と声の調子から考えるに、二人は人の家に世話になっているという雰囲気を感じさせないくらいに寛ぎきっているようだった。バーナビーは手にしたままのマグカップを仕舞い込んで、胸のうちに渦巻く消化不良を起こした想いをため息に混ぜ込んで吐き出した。そんなことで楽になるわけではないと分かってはいたが、ため息をつかずにはいられなかった。来客用のマグカップが一人分足りないことも、扉の向こうに彼自身を揺さぶり陥落させようとする虎徹がいることにも。

 人数分のコーヒーを用意することを諦めたバーナビーは、その代わりに冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを三本取り出した。
 バーナビーの瞳よりも濃い色をした瓶の中で、炭酸の気泡が浮かんでは消えていく。この泡のように、説明のつかない苦しみが消えてくれればいいのにと考えて、あまりのくだらなさにその気持ちを打ち消した。

 いままで私生活にまで足を踏み込んできた人間など数えるくらいにしかいなかった。そして、バーナビーのほの暗い悲願を知る人間も。その両方を兼ね備えた鏑木・T・虎徹は、彼自身も知らぬ間に、バーナビーの内側の奥深く、言うのならば酷く傷つきやすくまた癒えることのない傷を負った場所に踏み込もうとしていたのだ。そんなことをバーナビーが望んだことはなかった。前だけを向き、ただひたすらに走り続けてきたバーナビーにとって、必要なのは共犯者ではなく、復讐するべき、そして誰にもぶつけようのなかった憎しみを向けるべき相手だった。その根底がいまたった一人の男の手によって覆されようとしている。その事実が、バーナビーにとっては酷く残酷なように思えた。安易に受け入れることはまた、裏切られるかもしれないという危険もはらんでいる。しかし、すでに受け入れる受け入れないという選択が目の前にあること自体が、敗北を認めるようなことなのだ。その選択肢を考えた瞬間に、バーナビーの心はいともたやすく虎徹のほうへと傾いてしまっていた。
 終わりのない思考回路を切り替えるように、バーナビーは自分の右肩に触れた。そこには何もない。せめて痛みさえあったのならば、もっとちがった結論を導き出すことができたのかもしれないのに。虎徹は、バーナビーの受けるべき痛みさえもを奪い取って、当たり前であるかのように笑うのだ。隣に立って、笑うのだ。
 あなたのことを信じてしまいたい。薄っぺらな恋愛小説の一節のような言葉。バーナビーの帰るべき場所には必要のなかった言葉。間違っても声に出して音にすることはできない言葉。どうしたって言えるわけがなかった。強くありたいと願う自分のためにも、そしてたくさんのいとおしいものをもつ虎徹のためにも、言ってしまえるわけがなかった。ならば、伝えることのできない言葉にいったい何の意味があるのだろうか。バーナビーにはそれを理解することができなかった。
 
 
 
 
食べてしまいたい
 
 鏑木楓が母をなくしたのは四歳のときだった。
 そして、鏑木・T・虎徹が最愛の女性を失ったのは五年前のことだった。
 虎徹はいまでもあの日の青空を忘れたことはない。生きてきた中で、三本指に入るくらいの抜けるような青空だった。それが苦々しく、また無性に悲しくもあった。そのときまだ四歳だった幼い楓は、目の前の出来事を理解できず、悲しむ大人たちに囲まれながら、ただ無邪気にどうしたのどうしたのと首をかしげていた。死という概念を理解できない子供の無垢さが、余計に虎徹の悲しみをあおった。どう説明すればいいのか、虎徹は自分のなかの悲しみを封じ込めながら、ただ淡々と目の前の事実を処理していくしかなかった。浮遊感とベールの向こうを見るような現実感のなさ。自分の愛する女が、どうして呼吸をしないでベッドの上で眠っているのか虎徹には理解できなかった。いや、理解はできた。それが人の死であるということは理解できた、なのに、自分の愛する妻が死んだと、もうこの世にはいないのだと、ヒーローである自分を愛し、いつも隣で微笑んで応援してくれた彼女がもういないのだという現実を受け入れることが、実感を得ることができなかった。だっておかしいではないか。昨日までは息をして虎徹の名を呼んで、一昨日には今年は開けなかった楓の誕生日を来年こそは盛大に祝うと約束し、そして息絶える一時間前には、いつまでもあなたの一番のファンよと虎徹に微笑んだのだ。それがもう、血の通わぬ、亡骸でしかないというのなら、こんなにおかしい話はない。死がいつでも自分のそばにあることは知っていた、それがまさか彼女を飲み込むことになるとは笑えない冗談だ。

 おとうさんと、周りの雰囲気に飲まれたように、楓が小さな声で虎徹のことを呼んだ。おとうさんという呼び名に、何もかもを投げ出すような思考ばかりを続けていた虎徹はわずかに自分を取り戻す。真ん丸く見開かれた楓の瞳の中に悲しみの色はない。ただ自分のおかれた状況の不可解さと、大人たちの物々しい雰囲気にそわそわと落ち着きなく視線をさ迷わせているだけだった。虎徹は自分の母が楓の肩越しにこちらを見ていることに気づいていた。だが、力なく左右に首を振ることしかできない。
 ねえ、おとうさん。何も知らない、幼い楓の声が虎徹を揺さぶる。つとめていつも通りに、なんだい楓と笑って見せることしかできなかった。その父の笑顔に楓はほんの少しだけ肩の力を抜いて、いつもよりも小さく力のない声で言った。あのね、おかあさんはどうしたの? なんではこのなかでねてるの? あんなところにいたら苦しいよ。また、おいしゃさんにみてもらわないといけないよね。楓の口から零れ落ちた言葉のすべてが、虎徹の胸を深く抉る。言えるわけがなかった。幼い我が子にもう母は死んでしまったと、俺の最愛の人は死んでしまったのだと言えるわけがなかった。死というものを言葉にするのは簡単だった。ただ一言、声帯を使って音にしてしまえばいい。でも、言いたくはなかった。楓にそれを伝えてしまえば覆しようのない現実になってしまうようで。もしかしたら、夜に眠り朝に目を覚ましたとしたら、彼女が隣で微笑んでいてくれかもしれないという儚い夢を見ることさえも許されないようで。目の前にある実感のない現実を自らの手で掴み寄せてしまうようで。
 おとうさんと、真ん丸い瞳をさらに丸くした楓が、虎徹のことを覗き込んだ。まだリアリティを伴わない漫然とした悲しみは、いずれ虎徹になによりも深い哀惜を招くのだろう。しかしそれは、虎徹だけのものではなかった。目の前で何も知らぬ純粋さで虎徹の庇護を求める楓もまた、深く苦しい悲嘆を抱えることとなるのだ。まだ幼く傷つきやすい心は、いかようにしてその嘆きを受け止めるのだろうかと思うと、虎徹にはどんな慰めの言葉も偽者のように思えて仕方なかった。
 瞬きのたびに揺れるチョコレート色の瞳。いつもはもういない彼女が結い上げていた髪は、震える手で虎徹が束ねてやった。慣れないせいで不恰好なそれは、これからの二人の生活を暗示しているように思えた。楓と、虎徹が震える声で呼ぶ。そこにある悲しみを知らない楓は、なあにと首を傾げてまたたいた。虎徹はしゃがんで楓の瞳と視線を合わせると、もう一度だけ愛すべき娘の名前を呼んで、その体を抱きしめた。急に父に抱き寄せられたことに驚きの声を上げた楓は、どうしたのと不思議そうに笑う。少しだけ外にでようかと虎徹は楓の体を抱き上げて、沈痛な面持ちをした母に視線をやった。安寿は行ってなさいと掠れた声で呟いただけだった。

 抜けるような青は、茜色を追いかけていつの間にか深い藍色へと姿をかえていた。いつもと変わりないシュテルンビルトの街並みは、虎徹にとってもう昨日までとは一線を画すものとなっていた。目の前には掃いて捨てるほど灯りがともっているのに、もうどの灯りのもとにも彼女の姿はないのだ。虎徹は自分の腕の中にある、唯一無二の体温を抱きしめてその名を呼んだ。藍の空の下に輝く無数の灯火。そこに彼女の姿がないというのなら、その上には、遠く手の届かぬ空の向こうには、彼女がいてくれるのだろうか。確かめたこともない。真実かも分からない。たが、無力な虎徹には、まだ小さい楓に、御伽噺ようにしてしか死という形のないものを語り聞かせることができなかった。それ以外の方法を知らなかった。安っぽい嘘だと知りながら、それがせめて優しい嘘であればいいと願わずにはいられなかった。
 ママはね、待ちに待ったその単語に楓は耳ざとく虎徹の顔を見る。まっすぐと向けられるその視線。期待に満ちたそれを自分自身が打ち砕くのかと思うと、無意識に息をつめてしまう。ママはと呟く声が揺れる。掠れる。虎徹はよどんだ体内の呼気を大きく吐き出して、冷えた空気を吸い込んだ。瞼を閉じてゆっくりと三つ数える。胸の中でママはと復唱しながら、もう大丈夫だと瞼の向こうの世界を見た。
 ママは、もう帰ってこないんだ。一息で言い切る。虎徹の言葉に、楓は首をひねる。帰ってこないのと、幼い声音が揺れる。そうなんだよ。なんで、おかあさんびょうきだからおいしゃさんにみてもらわなきゃならないんだよ? 病気でね、少し疲れちゃったんだよ。だから、ママはパパや楓よりも先に一休みしてるんだ。どこで? あそこでだよ。
 あそこってと問いかける楓を抱き直した虎徹は、できるだけ明るく、そして一等美しく輝く星を指差した。その指先を楓のチョコレート色の瞳が追う。藍よりも濃くなった紺の夜空に浮かぶ星々。その中でもひときわ強い光を放つ星。間違っても手の届かぬそれは、虎徹にとってたしかにもういない彼女のような存在だった。
 おかあさん、もうかえってこないの。あしたにはかえってくるの。帰ってこないよ。あしたのつぎのひは。帰ってこないよ。じゃあ、あしたのあしたのあしたは。帰ってこないよ。楓の声量がどんどんと小さくか細くなっていく。震えるそれは、泣き出す直前のようで、虎徹が押さえ込んでいた感情が胃の奥からあふれ出しそうになった。鼻の奥がツンとする。それを誤魔化すように深呼吸をした。自分がこの子を支えていかなければならないのだという決意をこめて。
 かえでがわるいこだからなの。いいこになったら、いいこになったら、おかあさんかえってきてくれるの。おとうさんと、問いかける楓の声は振るえ、いつもはくるくると色を変える瞳は涙に濡れていた。虎徹は自らの涙を堪えるように、愛する人との間に残せた形あるものを強く抱きしめた。違うんだと、血を吐くような思いで搾り出す。違うんだ、楓。お前が悪い子だからじゃないんだ。
 誰が悪いわけでもない。虎徹が悪いわけでも楓が悪いわけでもない。ただ、もうどうしようもない現実が虎徹たちの目の前にあるだけだった。
 あそこで見守っていてくれるんだ。楓に言い聞かせるように、そして自分自身に深く刻み込むように言葉にする。その重々しさに、楓は事の重大さを知ったのか、悲しそうに笑うだけの父を見た。
 名も知らぬ星を指す虎徹の指先は、堰を切ったように溢れ出した楓の涙と泣き声に連動するように震え、力なく落ちていった。
 
 あの日、壊れたように涙を流した鏑木楓は、母が星になったわけでも、空で見守っていてくれるわけでもないことを、成長する中で知っていった。五年という長くも短い時間の中で、順を追って幼かった心を徐々に成長させながら、死というものと向き合っていった。ならば、ならば、二十年の歳月を復讐という陰惨とも思えるようなものに費やしたバーナビー・ブルックスJr.は、いかようにして両親の死に向き合ったのだろうかと、虎徹は思った。こんなにも広い部屋に一人で暮らしながら、いったいどんなことを思い生きてきたのだろうかとも。
 虎徹が楓とともに乗り越えた苦しみを、バーナビーは一人で受け止め、また、まだ理解し得なかったであろう死という出来事を、幼い眼に焼き付けるように、もっとも残忍な方法で見せ付けられたのだ。バーナビーが二十年の間に手に入れたのは、あたたかい家族の写真と思い出ではない。自分の両親を奪った事件と、ウロボロスという名の組織の情報とスクラップたちだ。
 黒いソファに腰掛けていた虎徹は無意識のうちに手の中にあるグラスを握り締めていた。注がれたアルコールは波紋を描きながら揺れる。胸からせりあがるものを飲み込むように、ぬるくなったそれを流し込んだ。
 虎徹にとって楓との五年は、埋めることのできない欠落を掲げてなお、何物にも代えがたいいとおしい時間だった。だとするならば、同じような、いやそれ以上の欠落を抱えながら、ただただ復讐だけを願ったバーナビーは、どれほどの虚をいだいて生きてきたのだろうか。誰よりも気丈に振舞おうとする青年は、それとは反対に何よりも鬱屈としたものを抱えているのではないだろうか。
 虎徹の思考をさえぎるように、リビングのドアが開いた。切れてしまったアルコールを取りに行っていたバーナビーが戻ってきたのだ。ドアの向こうから現れたバーナビーは、いつもと変わらぬ調子でこれくらいしかありませんでしたけどと、いくつかのボトルを虎徹に見せた。眼鏡の向こうの新緑の瞳は、摂取したアルコールに比例するようにとろんとしていた。足取りもいつもよりは心もとない。遠目にも、バーナビーの腕の中にあるボトルが、虎徹が好んで飲んでいるものよりも数段いい品なのだということが知れた。
 虎徹の隣に陣取ったバーナビーは迷うことなくボトルを開けて、当に空になってしまったグラスを満たす。いりますかと問われた虎徹は、まだ大丈夫だと首を横に振った。まだ残るアルコールを流し込みながら、少し乱れたバーナビーの金糸を追う。グラスの中身を一気にあおったバーナビーは、はっと息を吐いてから酔いで濡れた瞳で虎徹のことを見上げた。あなたがはじめてかもしれないと、バーナビーの唇が紡いだ言葉の意味が良く分からなくて虎徹は首をかしげた。その反応にバーナビーは笑みを深くして、初めてなんです、こうやって両親のことを話したり、復讐したいと思っていたことは吐き出したりしたのはあなたが初めてなんですと、どこかぼんやりとした調子で言った。だがそれは、どこか恍惚としたような、共犯者を得た喜びを隠し切れないような、上ずった声だった。そうか、と返すことしかできない虎徹は、自分のボキャブラリーの少なさを悔いた。バーナビーの二十年の苦しみを前にすれば、どんな慰めも同情も薄っぺらで安っぽいものでしかない。バニーと、声にしかけた自分を戒めるように強く唇を噛み締め、自分の足元に座り込んでいるバーナビーのつむじを見つめる。バーナビーは金糸を揺らして虎徹を振り返った。腰を起こして、ソファの端に膝を乗せるようにして虎徹との距離をつめる。アルコールでほてった指先は、壊れ物に触れるような慎重さで、虎徹の右肩から胸にかけてまかれた真っ白な包帯へと触れた。いままで手を伸ばしてきたことはあったのに、こうして触れることはなかった。なのに、バーナビーは躊躇うことなく触れる。そのことに、虎徹は僅かな驚きを覚えた。
 何事かとバーナビーの指先を視線で追うと、大丈夫ですかという弱々しい声が落ちた。大丈夫に決まってるだろ、体だけは丈夫だからといつものとおり返すと、それでも不安なんですと言い募る。顔を上げたバーナビーは、今にも泣きそうに思えた。それが虎徹の中であの日の楓の表情と重なる。おかあさんと消え入りそうな声を上げながら涙を流した楓と。
 あなたまでどうにかなってしまったら俺は。バーナビーは縋るように虎徹を見つめながら、誰に聞かせるでもなく呟いて、アルコールに濡れた息を吐いた。あの普段のおきれいな仮面を剥ぎ取れば、歳相応というよりもどこか幼げなバーナビーが顔を覗かせる。なんて不安定なんだろうかと、虎徹は思う。他人に思われることを知らない。優しさを与えられることになれていない。好意には何らかの見返りを求められるんじゃないかと裏をかく。そのすべてが、二十年前に失ってしまった虚のもとにあるのだろうかと、虎徹は目の前にある男の体を抱きしめてやりたくなった。足りないものをすべて与えてやりたいと思った。バーナビーの中に、人生のすべてをかけなければならぬほどの、暴虐な衝動が巣食っているのだとしたら、それを上回る情愛を与えてやることができたならばと。酷く自分勝手な考えだということは虎徹にも分かっていた。そんなことをバーナビーが望んでいないであろうということも。だが、目の前にこんなにも深く苦しみ絶望している人間がいるならば、虎徹は手を伸ばさずにはいられない性分だった。それが、バーナビーであるのならなおさらに。そして、彼の苦悩の片鱗を覗いてしまったのならば何よりも深くそう思った。まだ出会ったばかりの青年に入れ込みすぎだということは虎徹も理解していた。だが、この愛情によく似た衝動がどこから沸いてくるのかなんて説明することはできなかった。
 理論などという格式ばったものなどどうでもよくて、ただただ自分も知る喪失の苦しみと、それ以上のものを抱える男の傍にいてやれるならと、そしてまた、バーナビーがここまで踏み込ませたのがはじめてだとするのなら、あいつのなかにある苦悩のすべてを食らいつくしてやりたいと願って、虎徹は震えるバーナビーの肩に手を伸ばした。






3つの恋のお題ったーさまより(虎兎で診断)
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11・06・05