前後不覚だったのかといえばそうでもない。

酒にはたしなむほうだったし、いまでもアントニオと飲みにくりだしたりもしている。

だが、若いころよりはアルコールのめぐりも限界の訪れも早くなったように思う。これが老化の始まりなんだろうか。

とりあえず、そのようなあれもあり、こう、すごくあれだった。

つまりだ、はじけてたというか、テンションが高かったっていうか、なんだ、すこーしばかり記憶に曖昧な部分があった。
 きっかけは些細なことだったように思う。

むしろ、きっかけなんてなかった。だから、無理矢理作ったに等しかった。

あまりにもバニーがバニーでバニーだったから、なかなか距離を埋められないでいた。埋められないどころか溝は深まるばかりだった。

その証拠として、勤務時間内外を問わずに、俺を酷く冷たい目で見てくることがあった。

たとえば、出動した先で器物損壊をしてしまったときだとか、ちょっとあいつの考える効率的な作戦の足を引っ張ってしまったときだとか。

だから、そろそろ歩み寄ってみるべきではないかなあと思ったんだよ。年上の俺の方から。まあ、折れてやるかという思いで。
 バニーはどう考えているかは知らないが、曲がりなりにもコンビで売り出しているわけだし、氷河期のように冷め切った関係というのも寂しいものだ。

というより、バディとして成り立っていない。まあ、こんなことを主張したらあの南極だか北極だかのように冷め切ったさげずみの色が混じった緑の瞳に、

無言の圧力をかけられるんだろうけれど。
 ヒーローの心プロデューサー知らず。されど、プロデューサーの存在なしでは成り立たないヒーロー(正社員)。

いくら人気取りの思惑からはじまったとはいえ、うまくやっていきたいと思う気持ちは嘘じゃない。

そういう後押しもあってかなり強引に、そして予想よりも少し早く氷河期のような視線に晒されながら、あいつを飲みに連れ出すことに成功したのだ。
 最初からアントニオやネイサンを伴うのも気を遣ってやりにくいかと思って二人連れ立ってきたのに、それが間違いの始まりだった。
 無言、そして無言。クール、そしてクール。

問いかけさえすればそれに対応した言葉が返ってくるから、そこまで嫌われてるわけでもないのかなと、かなり低いレベルで安心してしまうような、

そんなつらくも苦しい時間だった。自分の決定的な敗因をあげ連ねながら開催される脳内反省会と途切れ途切れの会話。

それらを両立している間にアルコールの摂取はすすみ、あっこれやばいかもと感じたときには思考自体がふわふわとした頼りないものだった。

これはそろそろ止めておくべきかと自分で自分にストップをかける。
バニーはどうなんだとカウンター席の隣を確認するとつまみに手を伸ばすことなく、俺と同じように杯だけを重ねていた。

その迷いのなさにこいつはいける口なのかと判断したのが、もういくつ目なのかも分からないような俺の愛すべき敗因だった。

いける口も何も、ただただ目の前にあるアルコールを摂取していただけだったのだ。
ためしにバニーに呼びかけてみると、普段は見せないような緩慢な動きで俺の方を見てぼうっとして、

バニーじゃありませんと夢か現かも分からない返事が返ってきただけだった。常日頃の刺々しい口調でもなく、射るような視線でもない。

どちらかといえば眠そうなとかとろんとした、と表現したほうがよさそうな状態だった。
 俺が前後不覚だったかといえばそういうわけでもない。むしろ、ちょっと気分がいいかなと、まだあと二軒くらいはいけそうな状態だった。

だがしかし、俺の連れことバニーちゃんが前後不覚かそれに近いものだった。

妙な緊張感をはらんだ空気をぶち壊して、お開きにしましょうと切り出したのはバニーだったが、あまりのふらふらとした足取りに放置するわけにもいかず、

せめてタクシーまではと付き添ったのに、タクシーに押し込んだら押し込んだでそのまま眠ってしまったのだ。

あのバニーちゃんが。名前を呼べど肩を揺らせど反応はなく、首にかけてるネックレスはもしかして迷子札なんじゃないかと、

自分でも馬鹿らしいとしか思えないような希望をいだいてチェックしてみたが、住所の記載はなかった。

そうこうしているうちにタクシーの運転手があまり機嫌もよろしくなさそうに、お客さんまだですかーなんて急かしてくるもんだから、

気づけば俺までタクシーに乗り込んで、タクシーから降りたあとの苦労話は割愛して現在に至るわけだ。
 現在地は俺の家で、さらに詳しく言うのなら俺のベッドの上。

さらにさらに詳しく言うのなら、シングルのベッドの上には俺ともう一人、がたいのいい男が転がっている。

さらにさらにさらに詳しく言うのなら、その男というのはバニーちゃんだった。

なんとかここまではこいつを引きずってこれたのだが、程よくアルコールが入った俺も、バニーをベッドに寝かしつけたあたりで記憶が途切れている。

つまりは、うん。結果として残されたのが、この限りなく添い寝に近い状態だ。
 ベッド脇に手を伸ばして、こちらを見下ろしている写真たてを伏せる。特別な意味はないが、あまり人に見せびらかすものでもないだろう。

相手がバニーだと思えば、それはなおさらだった。
体を起き上がらせた衝撃でベッドが揺れたのか、隣から小さくうめくような声が聞こえた。

掠れたそれは、まがうことなきバニーのものだ。

俯きで俺の方に顔を向けて寝ていたバニーは、ひどく緩やかな動きで瞼を開けると、まだ起ききってない新緑の瞳を呆然とさせて視線をさ迷わせた。

徐々に視点があってきたのか辺りを見回して戸惑いの声を上げる。その視界に俺を映した瞬間に、兎も吃驚の勢いで体を起き上がらせた。

スプリングがあげる軋みと、バニーがあげたおじさんという驚きの声が重なる。

だが、確証がもてなかったのか、バニーはぐいっとこちらに顔を近づけてきてから、やっぱりおじさんだと呟いた。

俺としては、驚愕どころかもういろんなものを超越したあとなので、冷静に朝の挨拶を返しただけだった。
「おはようさん」
「え? おはよう?」
 慌てたように視線をめぐらせたバニーは、窓の外の日差しに眩しそうに瞬きをした。とっさにサイドテーブルにある時計で時間を確認する。

出勤時間にはまだ余裕があるから大丈夫だ。バニーのほうも時計を確認したのか安心したようにほっと息を漏らした。

安堵のあとに現在位置の確認にはいったらしい。俺が目の前にいることには何も感じていないんだろうか。
「どうしてこんなところに」
 僕の家じゃありませんと呟いたバニーに、まだこいつは寝ぼけてるんだろうかと思った。

アルコールが抜け切っていないのかもしれない。いつもならもっと鋭いつっこみというか言葉選びをしそうなのに。
「昨日飲んでたのは覚えてるだろ」
「まあ」
「おまえあのまま寝ちまったんだよ。バニーちゃんの家なんてしらねえし、しょうがないから俺の家に連れてきたんだ」
「じゃあここは、」
 バニーが一瞬止めたセリフを受け継いで俺の部屋だよと正解を告げた。

おじさんの家と呟いたバニーは少しずつ覚醒してきたのか、狭いベッドで眠っていたせいで妙に近かった距離を是正するために、後ずさっていく。

そこに僅かの嫌悪を見たような気がして、言い訳するように言葉を続けた。下心があったわけじゃないんだから、それくらい許されるはずだ。
「さすがに外に放置なんてできないだろ」
 むしろそのほうが良かったと呟いたバニーに、そこまで俺が嫌かと頭を抱えたくなった。

距離を縮めることができたかと思えば、分かりやすく拒否する。そのくせ完全なる拒絶はしない。

思春期の子供の相手ってこんな感じなんだろうか。もしも楓がこんな風になったら俺は泣く。確実に泣く。咽び泣く。
「顔晒して売り出し中のヒーローを飲み屋街の路上に放置していったら、今週あたりのゴシップ誌が面白いことになっちまうだろ」
 ため息とともに吐き出した言葉に、言うほどに華奢ではない肩が揺れた。

乱れた金髪は、完全に昇りきった朝の日差しを受けてキラキラ光っている。

この容姿に飛びついている女性ファンも多いというのに、自分からイメージを破壊することもないだろう。

俺が路上で酔いつぶれているのとこいつが泥酔の上に倒れているのでは天と地の差があるのだ。

しかも、俺が飲みに誘ってバニーを放置のしたうえに帰っていったとロイズさんにばれてしまえば、俺の落ち度ばかり責められそうでいまから胃が痛くなる。
「あなたにしては珍しく配慮してくださったんですね」
 これはバニーなりの感謝の言葉なんだろうか。新人類の言葉はなかなかに理解しにくい。

もう少し素直にありがとうといってみろとお説教したくなるのを我慢して、ベッドから立ち上がった。

急に立ち上がった俺に首をかしげたバニーにいつまでもゆっくりしてるわけにいかないだろと時計を指し示してやると、慌てたように声を上げた。
「会社、行かないと!」
「あー、まだそこまで慌てなくても大丈夫だ。間に合う間に合う」
 普段家をでる時間に比べればまだ余裕があった。この時間ならば幾分かゆっくり支度をしても平気だと、

家から会社までの通勤時間をバニーに告げる。だが、そろそろ準備をはじめなければならないのは確かなので、

せめて着替えだけでもとつけっぱなしにしていたネクタイを外して適当にベッドの上に放り出した。
「アルコールくさい」
 俺に対する文句かと声の発生源に視線をやると、自分の服の匂いをかいでいたバニーちゃんがいた。

潔癖症っぽいから、やっぱりそういうところは気にするんだろうか。

昨日は風呂に入る余裕もなかったし、本当に帰ってきてそのままベッドに倒れこんでしまったのだ。

いやそうに顔をゆがめているところを見ると、帰って着替えたいぐらいは考えていそうだ。
「着替えは貸せないけど、風呂はいる余裕ぐらいはあるだろ。廊下でて突き当たりに風呂場あるからいってこい。ついでにこれ眼鏡な」
 昨日外してそのままサイドテーブルに置きっぱなしにしていた眼鏡を差し出すと、ぽかんと顔を上げたバニーと目があった。

これぐらいの気の抜けた顔をしているとかわいいところもあるなあと思えるんだが、普段が普段なので逆に苦笑いがもれる。

受け取った眼鏡をかけたバニーはもう一度部屋の中を確認して、すみませんと小さく吐き出した。
「あんまりゆっくりしてる余裕はないかもしれないけど、ないよりはましだろ。タオルとかは脱衣所にあるやつ勝手に使ってくれ。朝飯はどうするんだ?」
「結構です。お言葉に甘えてお風呂お借りします」
 小さく首を横に振って立ち上がったバニーはぼんやりしていたときの幼さをかなぐり捨てるように颯爽と部屋を出て行く。

案内するほど広い家でもないので、その背中が消えるのを見送ってから、変な姿勢で眠っていたせいで妙な痛みを訴える体をいさめるように大きく伸びをした。
「まあ、トーストくらい食べるよな。ニンジンサラダのほうがいいのか?」
 冷蔵庫の中の食材を思い浮かべながらキッチンに向かおうとしたところで、新しい歯ブラシのある場所を教えるのを忘れていたことに気づいた。

そして、バニーがアルコールくさいなら俺も同じなんじゃないかということにも。

咄嗟にクローゼットの奥にしまいこんである消臭剤の存在が脳裏を掠めたが、さすがに自分に使うのはつらい。いろんな意味で。
 まだ遅刻するような時間じゃないとは分かっていても、バニーが風呂から出てくるのを待ってシャワーを使っていたらいい時間になるだろう。

かといって、酒臭さを漂わせて出勤していくというのはどうなんだ。

自分のデスクの前に座っている妙齢のちょっと口うるさい女性のことを思い浮かべると、朝一番から賠償金の話を吹っかけられそうで憂鬱になる。

遅刻は許されない。しかし、酒臭いのも、たぶん。じゃあどうしろとと二律背反のような自分の状態に、苦し紛れの名案が浮かぶ。

一般のフラットを考えれば十分に広い浴室だ。二人で入るというのも不可能ではない。不可能ではないが、違う意味で不可能だ。
 とりあえず、平日に飲みにいった自分を恨むしかない。
「絶対無理だよな。ありえない。だけど、男同士だしそんなに気にしなくないか?」
 自分の脳内に浮かんだアイディアを否定してみたり肯定してみたりしながら風呂場へと向かう。

脳内を占める解決策の後ろめたさのせいなのか、脱衣所へと繋がるドアを前に妙な緊張感が体を支配していた。

おかしい、このドアの向こうにいるのはただの男だ。どうしてこんなに緊張しなければいけないんだ。言うまでもなく、性的興奮ではない。
 心の中で気合を入れて脱衣所のドアをノックするが返事はない。

仕方なしにドアを開けて中を確認すると、カゴのなかに几帳面にたたまれた服が入っているのが見えた。

いちいち細かいあいつらしい。半透明の摺りガラスの向こうからはシャワー音が聞こえてくる。

肌色の背中と金色の頭部がぼんやりと浮かんでいた。
愛すべき相棒のために洗面台の下の戸棚を開けて新しい歯ブラシを取り出す。色がピンクしかなかったが、それくらい許して欲しい。

ついでに下着類が突っ込んである引きだしの中からバスタオルを取り出して、服の上に重ねて置いておいた。
一呼吸だけおいて浴室へと繋がる摺りガラスをノックすると、肌色が動くのが分かった。ちょうど頭を洗っていたところなのか、ぶるぶると頭を振っている。
「あー、バニー。聞こえてるかー」
「はい、なんですか? あなた覗きの趣味でもあるんですか?」
 シャワーのおかげで完璧に眠気も覚めたのか、バニーの嫌味は今日も絶好調だ。まあ、覗きと似たようなことを提案しにきたわけではあるが。
「馬鹿いうな。新しい歯ブラシとバスタオルを脱衣カゴの中に入れといたから使ってくれ。あと、浴槽にお湯って入ってるか?」
「ちょっとまってください」
 ごそごそと動くような音と、ぴしゃりと水が跳ねる音がした。

夜にあわせて予約を入れておいたので、追い炊きを入れ忘れてなければせめてぬるいと体感できるくらいの温度にはなっているはずだ。
「すごくぬるいですけど」
「あー、いいのいいの。ところで話は変わるんだけど、バニーちゃんは湯船につかったりしないよね」
 なんていいだそうかと考えながら思考を遊ばせて、あまり音を立てないように注意しながらベストのボタンを外す。

脱衣カゴはあいていないので、仕方なしに床に直接置く。
「シャワーだけで結構です」
「じゃあ、いいよね」
「なにがです?」
「俺が入っても」
「えっ?」
 一瞬の沈黙のあとにバニーがこちらを振り向いたのが分かった。無言の空間の中にシャワーが床を叩く音だけが響く。

俺といえば、順調に服を抜いていっているのでいつの間にやら残すは下着だけだ。
 風呂に入る前に忘れてはいけないと洗面台のところにコップにたてておいてある歯ブラシと歯磨き粉を手に取った。
「時間もないし。男同士だし平気だろ」
 返事がないのをいいことにドアに手をかけると、中から慌てたような声が聞こえてきた。同時にがしゃんとシャワーヘッドが床に落ちる音も。

そこまで慌てなくてもいいのにと思うのに、バニーとしては重大なことらしい。
「いま、はいってくるんですか? あなたはばかなんですか? もうでるから待っててください!」
 矢継ぎ早に飛び出した台詞の中、すごく失礼なものがあったような気がしないでもないが、ここでは気にしないことにしておく。

本当に急ぎ出したかのようガタガタと物音が激しくなったので、いったいこの摺りガラスの向こうで何が起こっているんだと純粋に興味がわいてきた。

年頃の娘でもあるまいし、なにをそこまでと頭を傾げたくなる。
「いいだろー。時間ねぇし。もう服脱いじゃったし」
「ば、いいっていってないじゃないですか。何勝手に脱いでるんです!」
「俺は、服脱ぐのにもお前の許可が必要なのか。自分の平たい胸を見てからいえ。隠すほどのもんでもないだろ」
「デリカシーなさすぎですよおじさん! あなたといっしょにバスルームにはいったら、いろんなものが減りそうで嫌です」
「減ったら減ったで面白いから、あとから報告しろよ」
 ちょっと強引かとも思ったけど、トレーニングのあとにシャワーブースではち会うこともあったし、男の裸に特別な思い入れがあるわけでもないので、

深く考えることもなくドアを開いた。その途端に水蒸気を多分に含んだ空気が俺の肌をべったりと撫ぜる。

湯気の向こうには驚きの表情をしたバニーがいた。俺と目が合った瞬間に、驚愕は嫌なんですと声を大にしたようなものになった。
「そこまで嫌そうな顔しなくても良いだろ」
「入ってくるなっていったのに、勝手に入ってきたのはおじさんのほうじゃないですか。だいたい、なんでそんなもの持ってるんですか」
 眼鏡をかけていないだけで、随分と印象が変わる。翡翠色の瞳は焦点を合わせるように細められて、まるで睨みつけられているようだ。

どうせファッションで眼鏡をかけているんだろうと思っていたんだが、寝起きのときのいまのことを思うと

純粋に視力強制のために眼鏡をかけているんだろうと推測できた。
「歯ブラシだから、歯を磨くために決まってるだろ。使ったことないのか?」
「それくらい知っています。そのうち名誉毀損で訴えますよ」
 訴える代わりにこちらにシャワーヘッドを向けてお湯をかけてくるバニーの手からシャワーを奪い取って、軽く体を洗い流す。

昨日の夜から誰も使用していない湯船はきれいなままだった。そのままぬるいのを覚悟して湯船につかると、思ったよりも温かくて気持ちがいい。

追い炊き機能はすばらしき文明の利器だ。
シャワーだけで済ましてしまうことも多かったが、やっぱり湯船につかるのが一番リラックスできる。

自然とでたため息に、俺とは真逆の感情を乗せているであろうバニーのため息が重なった。
 シャワーをもと位置に戻したバニーはわざとらしく重々しいため息をもう一度ついて、勢いよく流れ出るお湯で真っ白な泡を流していく。

お湯で温められたバニーの肌は淡く赤色に染まっていて。このままじゃ世にも珍しい赤兎だなと思った。

眼鏡をかけてもふもふとした赤い毛皮をもっている兎なんて、すごく愉快じゃないか。すると、俺の思考がバニーに伝わってしまったのか、

もう一度顔面に向かってシャワーをお見舞いされて、むせてしまう。お湯がへんなところに入ったのか、鼻の奥がつんと痛む。
「なにするんだよ!」
 とっさに大声を上げたまではよかったが、大きく開けた口に生ぬるいお湯が入ってきてしまい、さらにむせた。

それをみたバニーは申し訳なさそうな顔をするでも、こちらを心配するわけでもなく、酷く不快ですという気持ちを隠さないしかめっ面で俺を睨みつけてきた。
「ジロジロ見ないでください」
「見てねぇよ! その自意識過剰どうにかしろ!」
 シャワーから逃げるように湯船の中を移動すると、そのまま追いかけて顔面を狙ってくる。

濡れた金髪はバニーが動くたびに角度を変えて僅かな光を見せた。いくらブロンドといえども、男が相手じゃそのありがたみも薄れてしまう。
「見てたじゃないですか! そんなに凝視されたら気づきます!」
「あー、もう知らねぇよ。壁のほう向いてるから、安心しろ。かわいいバニーちゃん!」
 向けられたままのシャワーヘッドから逃れるように背を向けて、持ってきていた歯ブラシをくわえて歯磨きに専念することにする。

年甲斐もなく騒ぎすぎたせいか、かすかに胃から胸にかけての辺りから気持ち悪さがせりあがってくる。たぶん、もしかしなくても二日酔いだ。

俺が吐き気を堪えて歯磨きをしている隣で、バニーは不満そうにバニーじゃなくてバーナビーですと言っている。

躍起になって否定するから、こっちも面白がって反応をうかがってしまうんだということにどうして気づかないのか。そろそろ、あきらめるべきだ。
 あんまり真面目に対応するのも面倒なので、歯を磨きながら適当に返事をしていると、バニーの方も阿呆らしくなってきたのか、

いつのまにか俺が歯を磨く音と水音だけになってしまった。

背を向けたまま歯磨きをしていると、逆に隣にいるバニーが何をしているか気になってくるのだが、

振り向いてしまえばまたシャワーを顔面にかけられそうであまり歓迎できることではない。

だから、まったく気になりませんという素振りをしながら、ただただ歯を磨くことに集中する。
 もうそろそろいいかなと歯ブラシを握っていた手を止めると、背中のほうからシャワーコックをひねる音がした。

浴室の中を支配していた流水音が止む。

歯ブラシをくわえたまま浴槽に設置された蛇口のコックをひねって、水がぬるま湯くらいの温度になるのを待つ。

もうそろそろいいだろうかと両手で湯をすくったときに、こっちを見るなと厳命していたバニーちゃんが小さく俺のことを呼んだ。
「ふぁに」
 歯ブラシをくわえているせいで非常に間抜けな声がでてしまった。

だが、バニーのほうはそんなことを気にしていないのか、振り向いたときにはこれ以上ないんじゃないかというくらいに目を細めてこちらを見ていた。

一瞬睨みつけられているのかと思ったが、俺というよりも俺の背中の方を凝視しているので、眼鏡がなくてよく見えないのかと納得する。
「ごみ、ついてません?」
「はあ?」
 言われた意味が分からずにぽかんと口を開けてしまう。危うく口元から泡がたれてくるところだった。

ちょっと待ってとバニーを手で制して、出しっぱなしにしていたお湯で口を漱ぐ。口内にためたお湯を吐き出そうとする前に、

こんどはバニーがちょっと待ってくださいと慌てたように俺を止めて、ざっと安全地帯へと退避するように身を退かせた。

まあ、仕方ないよなと思いながら口をゆすいで、歯ブラシももとあった場所へと返す。
「ごみがどうしたって」
 退避していた場所からバスチェアに戻ったバニーに問いかけると、背中と囁く声が聞こえた。

何かついてるだろうかと、自分で確認してみたが特に変なものがついているような感覚も触感もない。

だが、バニーが何かついてますよというのだから、たしかに正体不明のなにかとやらがそこにあるのだろう。

あれは嘘をついているような顔ではない。
「わかんねー。とってくれ」
「後ろ、向いてください」
 拒絶されるかと思ったのに、バニーは素直に俺の背中に腕を伸ばした。あまり傷のなさそうな白い指先が俺の肩甲骨辺りを辿り、さ迷う。

いつの間にか無駄に開いていた距離は縮まっていた。

それに対して普段なら過剰に不愉快そうな色を見せるのに、いまはただ躊躇うことなく俺の肌をなぞっていく。

こんなに普通に接することができるのなら、いつものあの態度はなんなんだ。
「あれ? ごみかとおもったんですけど」
 一点に触れたまま不思議そうに首をかしげているバニーにもしかしてと思った。

白い指先が触れている先には異物がついているような感覚はない。むしろそのあたりにはごみじゃなくて、もっと違うものが刻まれている覚えがあった。
「おいバニー、よく見てみろ」
 俺の言葉に目を細めたバニーは、それがごみなんかじゃないことに気づいたらしく、あっという気の抜けた声を上げた。

自分の背中に腕を回すと、俺が予想したとおりの場所にバニーの指先があった。ごみに見えるというのは失礼な話だ。

ごみどころかそれとは正反対に、男の勲章といってもおかしくない。
「どう見てもこれはごみじゃねぇだろ」
 肩甲骨のした辺り。バニーの指が触れるのは、斜めにはしる、もう痛みはない引き攣れたような傷跡だ。

なんの事件のときについたのかは覚えていない。

ただ、犯人を確保する直前に能力を使い切るというミスをして、痛い思いをしたことだけは印象に残っていた。
「ごみじゃないならなんですか」
 バニーのテノールが浴室の中に響いた。肌を撫ぜるのは濡れた吐息。

そのくすぐったさに体を揺らすと、すぐ後ろにあったバニーの頭に肩が触れた。

痛いですという苦情が聞こえたような気がしないでもないが、聞こえなかったことにしておく。

この傷がごみに見えるなんて大分視力が悪いんだなとどうでもいいことを思った。
「次からは風呂にはいるときも眼鏡をかけることをすすめておく」
「なに言ってるんですか。曇って余計見えませんよ」
「この傷がごみに見えるくらいなら、レンズが曇ってて見えてなくても一緒だろ」
「な、仕方ないじゃないですか!」
「仕方ないって……。でも、随分と懐かしい傷跡だよ。ごみと間違えられたのは初めてだけどな」
 肩をすくめてバニーを見やると、恨めしそうな視線がこちらを睨みつけてきた。

見間違えくらい誰にでもありますという不満そうな口ぶりから、馬鹿にされたと感じたのかもしれない。俺としてはそんなつもりはなかったのだが。

背中にはわされた指先は、憎しみを持ってなのかなんなのか、もう完全に塞がってしまった傷口をえぐるようにぐっと爪を立てている。

爪先が僅かに肉に食い込むだけで、特別な痛みはない。
 最後に一度ぐっと押し込むように傷跡を辿って、バニーの濡れた指先が離れていく。

もしかしたら、バニーの爪痕が残っているのかもしれないが、振り向いてみてもそれを確認することはできない。

ただ、不機嫌そうに眉根を寄せたバニーと視線がぶつかっただけだ。
「なんだよ何か言いたげだな」
「どうせくだらないミスで怪我したんでしょう。男の勲章とか恥ずかしいこと思わないでください。ただの間抜けな失敗の証ですから」
「原因はなんだって、傷を受けて痛みに耐えたなら勲章なんだよ」
「図星なんですね。失敗だって」
「そうとはいってない。ヒーローやってればいろいろあるの!」
 声を荒げた俺を鼻で笑うと、バニーはいつの間にか手にしていたシャワーをこちらに向けて一気にシャワーコックを全開までひねった。

もちろん、そうするとシャワーヘッドから勢いよくお湯が出てくるわけで。それは自然の法則で俺の顔面に直撃するわけで。

バニーの行動を予想できなかった俺は、シャワーヘッドを前にして激しく咳き込むことしかできなかった。
「こっち見ないでくださいって言ったじゃないですか。そろそろ、時間も押してきたんで僕は先に上がらせていただきますね。どうぞおじさんはごゆっくり」
 理不尽だ。近づいてきたのはそっちの癖に。しかも、それが原因というよりも、自分の見間違いを指摘されたのが恥ずかしかっただけなんだろうに。

何も悪くない俺は、いやむしろ傷跡をごみと勘違いされて、勲章を侮辱された俺は、一方的な被害者でむせ損じゃないか。

だが、すべての抗議が収まらない咳に追いやられて喉の奥に消えた。バニーはそんな俺を尻目にさっさと浴室から出て行ってしまった。
 本当に、かわいくない後輩だ。
 
「食事するなら歯磨きいらないんじゃないですか」
リビングに戻ると、まるでこの部屋の住人であると主張するかのように堂々とソファに腰掛けていたバニーがつまらなさそうに言った。

まだ乾ききっていない髪は、普段ほどはカールしていなくて僅かに印象が変わる。
「あ、そうか。忘れてた。でも、間に合いそうにないし、外で食べるか。ちょうどニンジンも切らしてるんでな」
「あなた、ふざけてるんですか」
 バニーの隣、人一人分のスペースだけ開けて座ると、いつも通りと表現すると悲しくなるような、とても冷めた目で見つめられた。

バニーとニンジンをかけてみただけなのに、どうしてこんなにも険のある態度をとられなければならないのだろうか。
「子供じゃねえんだからそんなにカリカリするなよ。二日酔いか?」
「違います。ついでに言うなら、子供なのはあなたのほうです! とりあえず朝食は結構ですから」
「なんだー朝食べないと元気でないぞ」
「おじさんは少し元気がないくらいが丁度いいですよ」
「どういう意味だ」
「言葉のままです」
 急に立ち上がったバニーに、ついに怒りが臨界点まで突破したかとひやひやしたが、そういうわけではないらしい。

もしかしてと、トイレならあっちにあるからと扉の向こうを指差すと、失笑を隠さずに今日は自主休業でもされるんですかと言った。

心の中では敬意なんてまったく持っていないであろうに、中途半端に敬語を使ってくるところが絵に描いたような生意気な後輩で、

鬱屈としたものを感じてしまう。
「まさか、本日も社会の歯車として労働させていただきますよ」
「じゃあ、早くしてください。あなたがいないと、ここがどこなのかも分からないんですから」
俺の返事を待たずにずんずんとすすんでいくバニーの背中を追いかけて、玄関へと向かっていく。

あまりの迷いのなさに、これじゃあどちらが家主なのか分からない。見慣れた自分の家に、バニーがいるというのも不思議な感じがする。
実は、ちょっと遅刻しそうな時間なのだが、それをここで言うとまたどうでもいい言い合いになりそうなので、

もう少し会社に近づいたあたりで自然と切り出せる方法を考えることにしよう。

そう気合を入れたところで、玄関の扉を目の前にして、鍵やハンチング帽を寝室に忘れてきたことを思い出した。

酔いに任せて眠ったので、全部寝室においてきてしまったのだ。

鍵を持っていないわけにもいかないので、もうこのまま出勤する気満々のバニー背中を呼び止める。
「なんですか」
「わりぃ。寝室に忘れ物してきた。少し待っててくれ」
「はぁ。早くとってきてください」
 せかされて急いで玄関に背向けてリビングへと戻ろうとすると、バニーが躊躇いがちに、おじさんとあまり呼ばれても嬉しくない名で俺のことを呼んだ。
「どうした」
 振り向くと、親の敵か何かのように地面を睨みつけていた緑の目が逡巡するように俺を映した。

また何かバニーの不興を買うようなことをしたのかと思ったが、視線をさ迷わせているところをみると違うようだ。
「言い忘れてましたけど」
「なんだ。忘れ物か」
「違いますよ」
 特別ずれているわけでもないのに眼鏡をかけなおしたバニーは、うろうろと落ち着きのなかった目線を俺に定めると、

あのだとかそのだとか言いにくそうにしている。いったいどんな重大発表があるのか。
「あの、ありがとう、ございました。迷惑をおかけしたみたいですから」
 まだかまだかと身構えていたが、バニーの口からでた言葉に、一瞬動きが止まってしまう。

呆然とした俺を映していた緑の瞳は、一気に言葉を紡ぐとそのまますぐに視線を逸らしてしまった。

そのあとには、早く忘れ物を取ってきてくださいという憎まれ口も忘れない。
ああと、かすれるような声を返すことしかできなかったが、バニーはただ早くしてくださいといっただけだった。

素直じゃない。金糸の合間から覗く耳がかすかに赤く染まっているように見えるのは、俺の思い違いだろうか。

分かったと返事をしてそのまま寝室へと向かった。
いちおう前言撤回しておく。素直じゃないが、少しはかわいいところもあるんじゃねえの。

 

 

11・06・03