音のない室内で、二人分の呼吸音だけが重なっていた。それを快か不快かであらわせば、間違いなく前者といえただろう。

世の中や人間関係が、0と1しか存在しないように、竹を割ったような分かりやすさの上に成り立っているわけではないことは理解していた。

じゃあこれは、これはいったいどんな感情なのかと問われて、胸を張って理想的な答えを提示することはできなさそうだった。
欺瞞だとか、ずるいだとかいわれても仕方がないと思う。

だが、俺は、流されるままにすべてを受け入れて、求められるままにすべてを与えるには、少々現実を知りすぎていた。
 ギシリとベッドのスプリングが揺れる。

定員は一名までのシングルベッドに大の大人二人が寝転がっているわけだから、スプリングが苦しそうな悲鳴をあげるのも無理はない。

窓際の壁にもたれかかってだらしなく座り込んでいる俺に、さらにバニーが寄りかかるようにしてベッドに寝転がっていた。

いつも着込んでいる赤と白のライダースーツは、しわになってしまうからといって来客用のクローゼットの中へと収納されてしまっている。

二人でいるときにはなんだかんだと口げんかしたり、くだらない維持の張り合いみたいな会話のキャッチボールというか剛速球を投げあうことが多いのに、

こうやって俺の部屋に来て、バニーが言うところの無意味な時間を過ごしているときには無言であることが多かった。

見慣れた自分の部屋の中に混じる異物。赤、白、金、緑。客観的に見れば、随分と目を引く映える色合いをした青年だ。
邪魔なブーツはベッドの足元に転がっている。

ごてごてとした白いベルトは寝転がっているこの状態では窮屈そうにも思えたが、本人にとっては苦痛でないらしく特に気にした様子はない。

黒のシャツから覗く胸元や腕は、シャープな体格をしている割によく鍛えていることがわかる肉付きをしていた。

逞しいというよりは伸びやかなと表現したほうが似合いそうなそれは、ヒーロースーツに身を包んでいるときの、彼の動きにそっくりだった。
首元を飾っているペンダントトップが揺れて、金属がこすれる音がする。どこかぼんやりとした湖水のような瞳が俺を映した。

眼鏡を外しているせいか、焦点を合わせるように目を細める。
「なんですか?」
 僅かにかすれた声。だか、普段の突っかかるような調子ではない。

だからといって、営業用の外向きの顔みたいに愛想の大安売りといったふうでもなかった。
「なんでもない」
「わりには、気にしてたみたいなので」
 いままでの沈黙を破ったバニーは、だらんと寝転がっていた体勢を起き上がらせて、俺に並ぶように隣に座り込んだ。

だがやはり、距離は近い。こんなふうにじゃれあっているところを他のヒーローたちに見られたら、なんだかとても変な方向に盛り上がってくれそうだ。
 つめられた距離は離れることなく、さらに近づいていく。バニーは聞いてもいないのに、眼鏡がなくて見にくいんですと、

誰にささげるのかも分からない言い訳を吐き出した。眼鏡がないなら仕方ないなと受け入れてしまう俺も、たぶんバニーと同じように逃げ道を探している。

そんな俺を後押しするように、仕方ないですよねというバニーの呟きが鼓膜を揺らした。
 毎日俺が一人でくぐる家の扉。誰かを招くことはほとんどなかった。なのに、こうして隣にバニーがいる。

どうしてこうなったのかなんてよく分からなかった。

でも、まるでなにかの儀式か秘め事かのように、俺の家の扉をくぐって外にでてしまえば、いつもの俺たちでしかなくなっていた。
「なあ」
 ベッドの上に投げ出していた手のひらでシーツをもてあそびながら、すぐ傍にある緑色の瞳を見返す。

そこに映る俺は、いったいどんな顔をしているのか。うまく想像することはできなかった。

応えるようになんですかと問うたバニーは、シーツの上をさ迷っていた俺の左手を手繰り寄せて握り締めた。
「ねむくないか」
 なんとなく呼びかけただけだった。だから特別用事があったわけではなかった。

そんな俺の気持ちなんてお見通しなんだろうなあと思いながら、くだらない言い訳みたいにバニーに問う。

だがバニーは詰まらなさそうにため息を一つだけ吐いて、そうでもないですねといっただけだった。
 口よりも饒舌な手のひらは、感覚を確かめるように左手を握り締める。手首にまかれた数珠がすれるような音を立てた。

お互いの通信機は枕元に置いてある。バニーの眼鏡もそこに鎮座していた。
「そんな顔しなくたって。わがままなんて、言いませんよ」
 なにがとは、聞けなかった。俺はいったい、どんな顔をしているんだとも。

でも、握り締められた左手が、何よりもバニーが言いたいことを代弁してくれているような気がした。拘束が弱まり、バニーの指先が俺の指を辿っていく。

親指、人差し指、中指と順番に辿っていくそれが、薬指にさしかかろうとしたときに、硬くなりそうになった体を誤魔化すように小さく瞬きをした。

凪いだバニーの緑の目は、ただなんでもないことのように彼自身の指先を追い。

白く労働を知らなさそうにも見えるそれは、俺の薬指にはめられた銀環までもを撫ぜていく。
 わがままなんていいませんよと、なんでもないことのように呟かれた言葉が、俺の胸を揺さぶった。

求めないといいながら、他人に無関心だったバニーがここまで俺に入れ込むのはどうしてなんだろうか。

もうすでに、俺の隣にいることが、彼の精一杯のシグナルなのかもしれない。

だのに俺は、まるで貞淑を演じるような、子供の意地を張るような、そんなバニーの主張にどこかで安堵していた。
 父親としての鏑木虎徹は楓のために、夫としての鏑木虎徹は彼女のために、ヒーローとしての鏑木虎徹は市民のために、

そしていまここにいる鏑木虎徹は誰のためにいる。目の前の男のために答えられるのならば、それが一番理想的なのかもしれない。

だが俺は、自分に最終通告を突きつけるように潔くはなれなかったし、このモラトリアムみたいな関係から抜け出すこともできなかった。

ずるいと、自分でも思う。なのに隣にいるバニーは俺を責めるように非難の言葉を浴びせることはなかった。

そして、無理強いをするように求めることも。
 名づけることもままならないこの感情がなんなのか、何が起因しておこっているものなのか、俺はその問いから逃げ回るだけで、

答えを差し出すことができない。ずるいといわれても仕方がない。酷いやつだといわれても仕方がない。

自分の自己満足を満たしているだけなんじゃないかと言われても、仕方がないのかもしれない。

だが、強がりだけが先に立つように、自分だけを追い込んで過去ばかりを追いかけるバニーの苦痛を少しでも和らげてやることができたのならばと、

彼が聞いたら理解できないという表情のあとにとても嫌そうに顔をゆがめそうなことを繰り返し思った。

その思いだけは嘘ではなかった。嘘でないからこそ、どうしても線引きがうまくいかない。真に願うからこそ、うかつな行動が取れない。

俺は、どこまでこの青年のなかに介入するべきなのかと、どこまで責任をもてるのかと。
「バニー」
 気を抜いているせいか、幾分か幼く見えるその表情に、やっぱりねむいといいかけていた口を閉じた。

そして、乾いた唇を湿らせてから、もう一度バニーと、できるだけ優しくなるように彼の名前を呼ぶ。
「なんですか。しつこいですよ」
「わがままくら、いいえばいいのに」
 空白、沈黙、瞬き。

目を丸くしたバニーは、僅かな逡巡の後に、口角をあげて小さく笑った。それはどこかあきらめにも似た笑みで。

どうせなら、いつもみたいにしたたかに笑ってくれているほうがいいくらいだった。
「そういうの、得意じゃないんです」
 そういうのって、いったいと思った。でも、ただ握られるだけの手のひらが、呼ばれるだけの名前が、重なるだけの体温が、

彼なりの不器用な信号のようにも感じられて、何もあたえることのできないずるい自分を殴ってやりたくなった。
 どうせぼんやりとした世界しか映していないであろう瞳。

まるでいつもの決まりごとのように、このベッドにあがれば眼鏡を外すバニー。それは何よりも確実に、自分を自衛するための手段だったのではないか。

輪郭のぼやけた世界を見ながら、バニーは俺になにを求めていたんだろうか。

こいつの助けになりたいと思っているのは、覆しようもない真実だった。でも、安っぽい同情や形だけの愛情なんてものを与えたいわけでもなかった。

求めてくれたのなら、俺はそれに応えることができたのかもしれないのにと、ずるい大人の考えが顔を覗かせる。

それを押さえつけるように、握られていた左手をそのまま引き寄せて、バニーと俺の間の距離を埋める。

バニーの方もあまり体に力を入れていなかったようで、いとも簡単に俺の方へと倒れこんできてしまった。
 滲んだ世界しか映さないなかで、せめて輪郭だけでもぼやけることのないようにと、鼻と鼻が触れ合いそうなくらい近くで緑の瞳を覗き込む。

照明の光を受けて僅かに光を宿したそれは、驚きに揺れながら、でも俺のことを凝視していた。なんですかと、かすれた声が問う。

なんなのかなんて、俺にもわからなかった。分かってしまったのならもっと簡単だったのに。答えなんてものは、結局自分で見つけ出すしかない。
 でもただ、わがままさえ言うことができないこの子供がいとおしくてしょうがなかった。
「バニー。やっぱりねむいんだ」
 だから、おやすみのキスだとまるで安っぽい小説か何かのように囁いて、男にしては滑らかな肌に唇を落とした。

額と目元に、かすめるように二回。そして、噛み締められた唇を、繋がれていない右手でなぞった。おじさんと、触れていた唇が音を刻んだ。

僕もねむいみたいです、と。それがまるで、目に見えないものをねだるような色を持っているように感じられたのは、俺の自分勝手な解釈なのだろうか。

ぼやけた俺しか映さないバニーの瞳が小さく瞬いて、そしてもう一度、ねむいんですと、掠れた声がそっと耳を打った。
 それ以上の言葉はない。手の届く範囲にあるものを欲することさえ苦手な子供は、俺に決定打を求めない。

結局、逃げ道ばかりが積み重なって、それを越えた先にいったい何があるというのだろうか。








11・5・30