鏑木虎徹と、口の中で転がすように音もなく呟いた。

 声にならないそれでは、なれない日本語の発音を正確に音にできているかは分からなかった。

そして、言葉にするのはまだ怖かった。最後の砦を守るような、白々しい抵抗。ゆるやかに支配されていくような感覚。

脳裏を焼くのは、たった一人の男だ。

  いままで考えたこともなかった。覆しようもないくらいに自分の中に根付いていた薄暗い復讐という名の情動を、当然のように受け入れて、

何も言わないで僕の 隣に立っていてくれる人がいるなんて。当たり前のように、僕のことを対等に扱ってくれている人がいるなんて。

いままでただのお節介だと突っぱねてきたもの が、もしかしたら僕に与えられたもっと違う形のものだったのかもしれないと、

自分の足元から見えない衝動が忍び寄ってくるように作り変えられていく。

 こわいと、そう思った。

 与えられたことのないものに、どこか浮き足立っている自分が。

まるでそうあることが当たり前であるとでもいうかのように、受け入れようとしている自分が。

いまこのときも変わることなく、あの人が僕の隣にいてくれるんじゃないかという、僕の思い描く空想が。

「なんで、」

  こんなふうになりたいわけじゃなかったのに。

僕は、唯一つもう会えない大切な人を思って、従順なる殉教者のようにこの生を歩んでいければよかったのに。

僕の人生にはそれ以上も以下もなかったのに。なのに、こんなにも簡単に、僕は僕には必要のないものに手を伸ばそうとしている。

だから、怖かった。

自分を支え ていた根幹が、彼によってかえられてしまいそうで。

 無意識につめていた呼気を吐き出して、乾いた唇を舐める。でも、それ以上に喉が渇いて仕方が なかった。

少しでもその渇きを癒すために、唾液を嚥下する。意味のない抵抗みたいなそれに、なんの効果もないことはわかっていた。

駄々をこねる子供みたい にじたばたしている僕をあざ笑うかのように、照明が落とされた部屋の中にコール音が響き渡った。

 誰に責められたわけでもないのに、びくりと肩が揺れる。

 音の発信源は自分の右手首。僅かに発光している通信機だった。

緊急呼び出しではない。通常の通信だとは分かったが、すぐにでる気にはなれなかった。

 通信機に伸ばした指先が躊躇うように空をなぞる。なんとなく、この通信の相手が分かるからだろうか。

二度三度とコールがなっても、彼のお節介な性格みたいに何度も何度もなり続ける。はあとため息をついて、降参の合図のように通信機に触れた。

 画面に表示されたのは僕の予想を裏切らない人物で、どんな表情をすればいいのかわからなくなる。

部屋の照明を落としていたのがせめてもの救いだ。彼がこちらを視認する前に小さく瞬きをして、浮き足立った自分を追い払う。

いつものバーナビーを演じるために。

「もしもーし、バニー! なんか画面が薄暗いんだけど!」

「うるさいですよおじさん。そんなに大きな声出さなくたって聞こえています」

「いや、部屋んなか暗いからなんかあったかと思って」

「ちょっと、照明を落としていただけです」

 こちらからはよく見える彼の表情は、一瞬で眉をひそめたものになり次の瞬間には、そんなんじゃ目悪くなるぞと見当違いな心配をしてくれた。

「視力なんてもう手遅れですよ。それよりも何か御用ですか?」

  ワイルドタイガーと銘打たれた通信相手。もちろん、おじさんのことだ。

まわりの風景から考えるに、自宅にいるのだろう。ヒーローアカデミーでルナティック と生身のまま戦うことになって怪我をした彼は、救急車で運ばれたのだ。

しかし、この顔を見ていると十分に元気なようだ。

右頬にはられたガーゼと首から肩のあたりにかけて僅かに覗く白い包帯が痛々しかったが、おじさんの表情自体には苦痛を感じさせるものはない。

「いや、俺が救急車で運ばれたり警察きたりでバタバタしちまっただろ。バニーのほうは大丈夫だったのかと思って」

 この男は馬鹿なんじゃないかと思った。間違いなく。たぶん、絶対に。自分のほうに向けられた心配に、かっと気持ちが高ぶるのを感じた。

「大丈夫じゃないのはあなたの方じゃないですか!」

  言葉にしてからしまったと思った。自分でも想像していなかったような怒声に近いもの。

おじさんのほうも驚いたように鳶色の目をまるくして、体を震わせた。 その拍子に肩が揺れ分かりやすく顔がゆがむ。

次の瞬間には具合の悪いところを見られたとでも言いたげな色を帯びた。僕への不実か何かとでも言いたげにさ迷う視線。

だがそれも一瞬のこと、何もなかったかのように緊張感のない笑顔を作って、僕のことをバニーと呼ぶ。

「おい、急に大声出すなよ。近所迷惑だぞ」

「あなたの家ほど狭くないので安心してください」

「あ、お前俺の部屋見たこともないのに勝手に判断するなよ。日本人の家は兎小屋とかいう先入観を木っ端微塵にする、とても素敵な部屋だからな!」 

「分かりやすく、話を逸らさないでください」

「そんなわけじゃねえよ」

 逃げるように逸らされた視線は、僕の言葉を肯定しているようなものじゃないか。そんな子供みたいな態度をとらなくなっていいのに。

  この通信画面に映ってない怪我の部分はどうなっている。本当は痛くてしょうがないんじゃないのか。

僕は残務処理があって診察についていくことができなかっ たから、ワイルドタイガーが病院に運ばれてそのまま帰宅したなんていう、

形式上の情報しか知ることしかできなかった。頼んでもいないのに、僕を守って傷つい たそれは、どれほどに彼を蝕んでいる。

僕に与えられたその事実に、ざわざわと触れられない胸の奥が毛羽立っていく。

こぼれそうになった彼の名前をこらえるように唇に歯をたて、手元にあった安っぽいたすきの残骸を握り締めた。

「おいバニー、いきてるかー。お前のほうがなんかつらそうな顔してねえか?」

  あのとき僕の手のひらを掴んだ指先が、ぐいっとこちらを指差したのが分かった。触れられもしないのに通信機に指を這わせているんだろう。

その指に触れるよ うに僕も手を伸ばしたら、彼の体温を感じることができるんだろうかと頭に浮かんだ安っぽい感傷みたいな考えを打ち消して、

僕は大丈夫ですよと堪えるように 吐き出した。

「あなたの方こそ平気なんですか」

「あー、まあ丈夫な体万歳ってところだな。少し痛むくらいで特に怪我はない」

「嘘ばっかり。包帯巻いてましたよね」

 こんどこそ、躊躇うことなく通信機の画面に触れた。彼の首元辺り、触れられはしない部分をなぞるように。僕のせいでついた傷を確かめるように。

おじさんはあーだとかうーだとか口ごもって、たいした怪我じゃねえからともらした。

「打撲と火傷だ。なんてことないさ」

  彼に触れられない指先は擬似映像だけを空しく辿っていく。どうして、ここまでしてくれるのかと聞いてしまいたかった。

僕が望んだわけでも、泣き叫んで助けを求めたわけでもないのに。

むしろ、この説明のつかない苦しみを知ることなく、これ以上甘い餌ばかりを与えないで、殉教者のままでいさせてくれればよかっ たのに。

「怒ったのか」

 ご機嫌を伺うように向けられた視線に、自分の考えていることがあまりにもこの場にはそぐわないものであるということが浮き彫りにされた気がした。

この画面の向こうにいる男は、僕がこうやって気をそぞろにして思い悩んでいるなんて夢にも思っていないのだろう。

ただ単 純に、僕のことを心配してコールしてきたのだろうから。消化不良ばかりの気持ちにふたをするように臓腑の奥に嚥下して、ずれた眼鏡をかけなおす。

クリアに なった視界は、先ほどよりも鮮明になった世界を映す。どうせなら、僕の気持ちもあの人の思いも分かりやすく映像化してくれればよかったのに。

「助けてもらって怒るほど、礼儀知らずではありません。ただ、もう少しだけ、」

 自分が言おうとした言葉に、自分が一番吃驚した。だめだと思ったのに、とまらなかった。

「もう少しだけ、自分のことも大切にしてください。ああいうのは、嫌ですから」

 おじさんは何度か目を瞬かせたあとに、ただやさしく笑っただけだった。ひどく、やさしい、笑顔だった。

「おまえにそれを言われるとはなあ。そのうちそっくりそのまま同じ言葉を返すことになりそうだけど、今回は素直に受け取っとくことにするかな」

「なんですか、それ」

「なんでもねえよ。じゃあ、もう遅いし寝るわ。また明日」

「あの」

  通信を切る直前、滑り込むように呼び止めてしまう。おじさんも不思議そうに首をかしげてこちらを見ていた。

言いたいことはたくさんあった。あなたが無事で よかったとか。また明日って、言えることに僅かな喜びを見いだしていたとか。

どういうつもりで僕を信じようとしてくれているのかとか。自分でも消化しきれ ないくらいにたくさんあったとか。

なのに、搾り出せたのは精一杯たった一言。

「ありがとう、ございました」

 えっと声を漏らしたおじさんに、どうしてだか僕が恥ずかしくなってしまう。

助けてもらってお礼を言うのは人間として最低限の礼儀じゃないか。なんでそんなに驚かれなければいけないんだ。

まだ意表をつかれたような顔をしている彼を蹴りつけてやりたくなった。

「ああ。おやすみ、バニー」

  囁くように落とされた低い声。いとしいものに囁くように優しいそれは、穏やかな表情と一緒にやさしくない回線切断音の向こうに消えた。

手の中にある信頼と いう単語。僕に与えられた形のないあたたかさ。いままで一度も揺らいだことのなかった僕を形づくる足場がグラグラと揺れ動く。

ただ、たった一人の男のせいで。

「かぶらぎこてつ」

 直接呼んだことはない名前。

僕のことをバニーと呼ぶ彼の名前。

今度は確かに音になったそれは、しんとした部屋の中にこだまして跡形もなく消えていった。

まだ、僕は、残響をも飲み込むように臓腑の奥に嚥下した感情たちに、名前などつけたくない。




11・05・22